私は教会の何?

2022年5月22日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
【新改訳2017】
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>

教会はキリストのからだ:

教会はキリストのからだであり、信者はそれぞれがその部分であり器官です。聖霊は信者に賜物、すなわち才能や役割をお与えになります。その賜物によって、信者が教会の中で様々な働きを担うのです。そして、教会は活動し成長していくのです。それらの能力や働きには違いがありますが、優劣がないのです。神はそれぞれに違った才能やたまもの与えてくださっています。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会も、同様に多様な人々で構成されていてキリストによって一つにされた統一体です。ここで、クリスチャンの方々には、知っていただきたいと思います。聖霊はあなたに何らかの賜物をお与えになっているということです。だから、自分は何の働きもないと言わないでください。むしろ、キリストのからだのために自分にできることはないだろうか、と自分に問うていただきたいと思います。人のからだにはもう一つ注目すべきことがあります。身体のそれぞれの器官は互いに助け合い、調和しています。私たちクリスチャンは教会のために遣わされており、教会は世の人々のために遣わされていると言えます。そして、キリストは教会の頭です。キリストの思いを思いとしていくところです。

教会はキリストの花嫁:

聖書は、「教会そして、クリスチャンである私たちは、キリストの妻あるいは花嫁」であるとも言っております。キリストが教会のためにご自身を捧げられたというのは何でしょうか。それは、人間のために天のみ位を捨てて、聖なる神としての身分を捨て、最も卑しい人間となり、来てくださったのです。そして、人類のすべての罪を負われて十字架で極悪の罪人として裁きを受けて死んでくださったことです。そして、それとは反対に、罪により滅びに向かっていく人間を清く、傷のないものとして、栄光の神の子としての身分をお与えくださったのです。これを喜びの交換と言います。ジョイフル・エックスチェンジ。私たちの罪から来る苦しみをイエス様はすべて飲み干してくださいました。その代わりに、御国の世継ぎとしての神の子の身分を与えられました。クリスチャンの皆さんは、神の子です。ボロボロの罪の奴隷であった私たちは、光り輝く王冠ときらびやかな意匠がこらされた王服を着て、清められて神の前に立っているのです。