祝福倍増の法則

2017年9月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

<要約>

主を信頼し忠実に前に進む:

さて、5タラントいただいた人は、特別に多くの才能、能力、そして、富みと財をいただいてあらゆる領域で富んでいる人です。かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。富が大きいとそこには争いが生まれるのです。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。お金も賜物なのに持っていることで自分が偉くなったように思ってしまうことです。そして、罪の罠に陥るのです。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利したのです。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。次に、2タラントを預けられたしもべです。彼は、5タラントもらった人と比べると自分の分は少ないと感じたかもしれません。でも、自分にふさわしく与えられたのです。5タラントもらった人をねたんだりうらやんだりすることもなく、それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。彼も、5タラント預かった人と全く同じ言葉をもって祝福された人です。つまり、この主人は、お金の額を問題にしてはいませんでした。任されたものをどう扱ったかを通して、彼らの信仰と忠実さ、そしてそれに伴う勇気をご覧になったのです。また、彼らが、感謝して賜物を活用していこうとする前向きの姿勢です。それは主人への信頼と愛と言えるものです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。

恐れから神に心を閉ざす人間

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。彼は、1タラント預かって出ていき、地を掘ってその主人の金を隠したと書いています。なぜ、そうしたかが書かれています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」というのです。この人には、主人に対する信頼がありません。この人の問題点は何でしょうか。まず、主人に対する認識が180度間違えています。この主人は、イエス様、真の神を指していますから、愛と哀れみの方です。この人は、神の前で心を閉ざしていた人です。石の心です。神の愛が注がれているのに、心を開いて受け取ろうとしないので、ますます固くなるのです。彼は、規則に縛られて、そこから逸脱することを恐れて何もしない人です。それは、律法学者、パリサイ人たちを示していたとも考えられます。彼らは、謙遜で低い心から神のみ心を求めていたのではありません。十戒を中心とした律法に、自分たちの都合の良い解釈を与えて、自分はこれもあれも守っているから神の前に正しい人間であると主張しました。そして、人民の優位に立とうとしました。つまり律法を、自己主張するための道具としたのです。この1タラント預かった男は、神がいのちと祝福を用意しているのに、恐れと不満から心を閉ざして神を信じない人の姿です。その人は、役に立たぬしもべとして、外の暗やみに追い出されたのです。そして、神からの審判を受けるのです。

神は失われた人の回復のためにイエスを送られた

神は、人とすべての被造物のために自然界を秩序あるものに作られました。ですから、宇宙は曲げられない法則に沿って運航しています。自然界も秩序と法則によって動いていますので、人は種をまき収穫を得る時期を見極めています。つまり、自然界の秩序に則って人間は安全に豊かに暮らすことができるのです。それと同様に、神は、神と人、人と人、人と他の被造物との関係についても、ルールを定めました。人と他の被造物との関係については、神は人にすべてを管理させました。最初の人アダムには神の掟が書き記された曇りなき良心がありました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。

この5タラント、2タラントを預かった人に起こったこと。主人のことばに積極的に従った二人にもたらされた倍々の祝福は、天のみ国の法則によることです。しかし、アダムは神の戒めを破って罪を犯したのです。その時以来、神が定めた戒めを破ったため祝福の法則から逸脱して死と呪いに向かうことになったのです。1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。アダムが罪を犯して、恐ろしくなり、神から身を隠したように、この人は神を恐れて、穴に埋めたのです。最初の人アダムは恐れを感じたところから罪をおかしたと思います。それは、ただ、神を信頼して生きること、神に自分が裸のまま心をオープンにして生き続けることへの不安と恐れです。彼は、神に代わってすべてのことに対して自己決定権を所有して他者をコントロールすることに強い誘惑を覚えたのです。かくして、人は神との関係を失ったことにより死と滅びに向かっているのです。神は私たちの幸福を願っておられます。律法である十戒は祝福の道を歩むようにと神が堕落した人間の良心に代わってお与えくださった幸せのルールです。それでも、律法の要求は、罪にたいする裁きと死です。神は、一人の人が滅びることも望まず、一人一人のいのちを惜しまれています。そこで、ひとり子であるイエス様をお与えくださいました。律法の正当な要求を主イエスが十字架の苦しみと死によって満たしてくださったのです。イエス様の十字架の死はあなたのためでもあります。そのことを信じるときあなたのすべての罪は十字架にくぎ付けにされます。そして、罪赦されて呪いの滅びから解放され、永遠のいのちを得るのです。また、あなたは、祝福をお与えくださる神に心を開くことです。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、あなたの人生は再び祝福倍増の路線に戻され、感謝と喜びにあふれる人生に入るのです。

 

天に宝を積むとは

2017年9月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカ福音書12章13~21節、マタイ福音書6章19~20節
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

<要約>

賜物の管理者としての人生:

イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされました。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、人格に満足を与えることはできません。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富まない人生とは、神を認めない人生であるといえます。ですから、自分にあるものを自分で得たものと思うのです。神に栄光と誉を帰そうとしない人です。神のことより自分を優先する人です。結局、寿命が来て、自分のために蓄えたものを自分のために使うこともできなくなったのです。このたとえの金持ちが愚か者と言われた理由は、神のものを自分のものと思っていたことです。私たちにあるすべてのものは、神のものです。造り主のものです。それを自分のものと思っているところに誤りがあります。次に、私たちは何のためにそれらを所有しているのでしょうか。それは、管理するためです。創世記には、地上のあらゆる生き物を支配させるために人を造られたとあります。また、私たちの与えられた賜物を神の良い管理者として、互いのために用いなさいとあります。いのちは神のものであり、神の主権の中にあります。そして、それが私たち一人一人に与えられているのは、様々に与えられたものを管理するためです。金銭を含めて、家も土地も家族も健康もすべてが神から委託されて管理するためであります。

神の前に富む人生

それに対して、神の前に富む人は、マタイ25章のたとえにあるように、神から預けられた二タラント、五タラントの財産を用いて、それぞれを倍にしたしもべのようです。賜物を豊かに活用した人です。それは天に財を蓄える人です。そして、主人からこう言われた人です。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』そして、そのような人は、(マタ5:29)『さらに与えられて豊かになる』ひとです。具体的には、自分に与えられたところで最善を尽くす人です。神を信じ、礼拝し、賛美して、祈る人です。神の喜ばれることを優先して、家族友人を大切にして、人に親切にする人です。神のわざに励む人です。その人は、キリストと知らずに隣人をもてなす人です。また、賜物と言われる能力や才能も人それぞれです。マタイの福音書25章のタラントのたとえでは、一タラント、二タラント、五タラントをそれぞれのしもべに主人は与えて旅に出かけたとあります。前にも話しましたが、一タラントは6000万円です。神が私たち一人の信者にお任せになっている賜物は決して小さなものではありません。預かった一タラントを土に埋めて、自分には神に用いていただく賜物はない、といった態度をとったしもべを神は怒られました。

私たちクリスチャンは、それぞれが与えられた賜物を思いと力を尽くして十分に用いていただく必要があります。神は、それを三十倍、六十倍、百倍に祝福してくださる神なのです。そこに「持っているものはますます与えられ、持たないものは持っているものまで取られる」という霊的な原則が働くのです。また、財やいのちは私たちにテストとして与えられています。いのちをどのように使うかが試されています。すなわちこの地上に生きている間にそのいのちを神の栄光のために、永遠の御国のために使うか、あるいは反対に、自分の満足、自分の欲のために使うかを神は見ておられます。今ひとたび、私たちは神から委託されたものを用いて主の栄光のために用いたいと思います。それは、別のことばでいえば、天に宝を積むということです。イエス様は地上の宝とはどんなものであるかを示しています。それは、「虫とさびで傷物となり、また、盗人に盗まれていく」ものであるといわれました。すなわち、どんなに蓄えても人の心を満たすものではなく、価値も変わるし一時的なもので、この世を去るときには全部残していかなければならないものだというのです。ですから、永遠に価値の変わらない、持つ人の心を豊かにして、この世を去るときも持っていけるような宝を積みなさいと言っているのです。

神は永遠のいのちを無償でくださる

人類は、高慢になって神に届こうとバベルの塔を建てました。そこで、神は人のことばを混乱させて、言葉が通じないようにして、その町から人々は散らされました。人類はその事件以来、自分の力で文明文化を築き上げてきました。以来、人は神から離れて、神を認めず、神を意識せず、神なき世界を築いてきたのです。そして、文化や経済が人を豊かにし、人類を平和にし、個人のたましいに平安を与えると錯覚してきました。しかし、人は依然、罪に縛られて自由を得ることができずにいます。人類は平和共存を願いつつも自らの罪の力により争いから解放されることなく現代に至っています。この愚かな金持ちは、神を認めない人間の姿です。その様な自らを救うことのできない人類、そしてあなたを神は哀れんでおられます。神はあなたを、罪と死と悪魔から救い出すために御子イエス・キリストをくださいました。そして十字架という代価を払って贖いだしてくださったのです。あなたはそれを無償で受け取ればよいのです。いのちの主権は神にあります。神は呪いの神ではなく、祝福の神です。是非、神が無償で提供してくださるこのイエス・キリストという宝を思いを変えて受け取って永遠のいのちを自分のものとしてください。

 

真の隣人になるために

2017年9月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

<要約>

永遠のいのちは行いではなく恵みによって与えられる

この律法学者はイエス様に質問しました。「何をしたら」永遠のいのちを自分のものとできるのか?です。彼は、行いによって何らかの救いが得られると考えていました。恵みによって救われるという理解はなかったといえます。もし、人が行いによって救われるというのなら、どこまで行いを積み上げたらよいのか?どのくらい行いを積んだら救いに達するのか?その基準はどこにあるのでしょうか。これは、人生の命題ともいえる質問です。他の宗教では、救われるためには、行いが求められます。また、ある宗教では、祝福を得るためには 多額の献金が求められます。お分かりのようにそこは比較の世界です。いつまでたっても平安も確信もありません。不安になるとそれを行いや献金で解消しようとするからです。人間の教えを教えとするならば、そうなります。永遠のいのちは人間の行いによっては得られない、神が与えてくださる恵みです。この律法学者は、周りにいる取税人や遊女など、さらに異邦人、他の一般の人と自分を比較して考えていました。自分はこれらの人々のように罪人ではない、自分は正しく生きていると思っていたようです。自分はたぶん天国に行けると考えていたのです。その心を見抜いたイエス様は、逆に、律法には何と書いていますか?どうよみますか?と彼に質問しました。そうしたら、彼は、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」と答えました。彼が良い答えをしたので、イエス様は、その通りです、と褒めました。次に、これをどう読むかです。これは、実に、律法である十戒を包括する言葉です。これらは、行いを言っているのではなく、心の姿勢を言っています。そして、神に対する心の姿勢が、他のすべてを決定するのです。隣人への姿勢も変わるのです。律法をどう読むか?ということですが、それはまず、神を恐れ、愛し、信頼することをすべての行いに優先させるということです。神を愛するということが具体的に隣人を愛する行為にあらわされるからです。心にあることが行いとなって出てくるのです。隣人を憎んでいて、同時に神を愛しているということはあり得ないと言うのです。この律法の専門家は、守ることで永遠のいのちを得ることができる規則を知りたかったともいえます。しかし、聖書は規則を守ることによっては救いを得ることはできないと言っています。神は、心にある信仰を見ておられるのです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。この律法の専門家は、善行に励み、規則を守る生活をしてきたでしょう。しかし、そのことで他の人より優位に立って高慢になっていました。自分を正しい人間と主張していたのです。永遠のいのちを、行いによって求めたので、行いは自分をアピールするための道具となったのです。真の愛から出たものではなくなったのです。イエス様はそのことを教えたかったのです。永遠のいのち。それは、罪と死と悪魔からの救いともいえます。それは人間の努力や行いによって得ることはできません。神がキリストを通してあなたに受け取ってもらいたいと提供しておられます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。

あなたの隣人となったイエス様

ところが、かれには、すでに行いにおいて律法を実行していたと自負していたのでしょう。自分の正しさを示そうとして、イエス様に次の質問をしました。「わたしの隣人とはだれのことですか」と。そこで、イエス様は彼の「隣人とはだれですか」という質問には答えないで、「良きサマリヤ人のたとえ」をされたのです。彼に、聖書が言う本当の隣人とは何かということをわからせるためにこのお話をなされたのです。このたとえ話を通して、イエス様は、彼の「隣人とはだれですか」という問いのお応えになったのです。隣人は誰かではなく、憎むべき敵が隣人になった、という話ですから、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。一人のユダヤ人が旅をしていて、強盗に襲われ、半殺しに会いました。強盗に襲われたユダヤ人を最初に見たのは祭司でした、彼は宗教指導者ということもできます。次に見たのはレビびとです。これも同じく、この律法の専門家と同じように宗教とかかわっている人々です。彼らは、苦しんでいる人を見て、反対側の道を通って行ってしまいました。祭司は律法の規定により、死んだ人に触れてはいけないという決まりがあるので、死んでいたと思って近づかなかったかもしれません。また、面倒に巻き込まれたくないと思ったかもしれません。レビ人も同様な態度をとりました。三人目のサマリヤ人は、ユダヤ人とは昔からの宿敵でしたので、最も助けてくれそうにない人でした。しかし、そのサマリヤ人の男が彼を助け、介抱するのです。彼はその場で最善を尽くしました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とイエス様は、その律法の専門家に聞きます。かれは、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。この物語の「あるサマリヤ人」はイエス様であると多くの方々が考え、慰められてきたと思います。イエス様の心を心とすること。心から隣人を愛すること。愛は動詞であるといった人がありますが、行いがなければ愛は見えてきません。それらのことは皆正しいし、この個所から隣人愛の実践が生まれると思います。同時に、「自分と同じように隣人を愛しなさい」ということはどんなに困難なことでしょう。自分を振り返っても、愛の行為をしたつもりでも、感謝をされないと相手を悪く思ったり、避難したりもします。いつも応答を求めています。見返りを期待しないで愛することができない自分を見ます。結局、この律法の専門家と同じように、自分の正しさを周りの人々に誇示しようとしているのです。ましてや、敵と言われるような関係の悪い人に対しては、口もききたくないのが実情です。イエス様は、このサマリヤ人のように、傷ついている人を見て、かわいそうに思っておられます。そして、このサマリヤ人のように無償の愛をもって助けてくださいます。そればかりでなく、ご自身のいのちを捨ててまでもあなたを愛していることをお示しになりました。それが十字架です。私たちはそのイエス様にまごころから感謝をささげたいと思います。また、私たちは真心をおささげしたいと思います。そして、イエス様に献身し、どんなことがあっても従っていきたいと思います。

 

赦し=人類の最大のテーマ

2017年9月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

罪人をあわれみ救う神

王はしもべと清算したいと思われました。一万タラントの借金がある男が呼ばれました。一万タラントという額は今の金額では、六千億円ということになります。彼は返済できなかったので、王は彼に、自分も妻子もすべての持ち物を全部売り払って返済するように命じました。「自分も妻子も売り払って」というのは厳しいことです。返せなければいのちをもって償うこと、それがルールです。罪の負債にはいのちを要求するのです。しかし、驚くべき大逆転が起こっています。その男がひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言ったので、王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。父なる神のみ思いは、尽きない憐れみと言えます。罪に苦しむ人間に対する神の御思いは、かわいそうに思うこと、哀れみです。そして、罪の束縛から解放するために神は、イエス・キリストをお送りになったということです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とある通りです。神は地上の人々の罪を清算しなければなりません。しかし、誰一人自分の力では償いきれないのです。清算できないのです。そこで、代わりにキリストが償ってくださったのです。父なる神はキリストの贖いのゆえに罪びとを赦すことができるのです。つまり、キリストが罪びとの身代わりとなってご自身のいのちで負債を払ってくださったのです。それが十字架です。

大きすぎて負いきれない罪

なぜ、イエス様は、一万タラントという金額を例話に使われたのでしょうか。読者に何を、イエス様は分からせようとしているのでしょうか。それは、私たち人間は、自分の罪の大きさがわかっていないということです。そして、この男は、自分は六千億円を免除されたのに、仲間に貸した百万円は赦さなかったというのです。これは、「自分の罪がどんなに赦されているかがわからないので人の罪を赦すことができない」人間の罪深さを示しています。また、イエス様が一人の男の負債を一万タラントで表した理由は、人間一人一人がおっている罪の負債は、その人が自分の力で償うことはとてもできないことを示しています。創世記で、弟アベルを殺したカインが言った言葉があります。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と。それは同様に、わしたちすべての人間の告白です。ですから、誰でもが、神の恵みが必要であります。神の恵みは、キリスト・イエスによる救いです。救いは、自分の内側には全くないのです。救いは外にあるのです。神が与えてくださるのです。それは受けるに値しない者への神の愛です。私たちは信じて、ただそれをいただくのみなのです。

赦すことによって赦される

自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。自分はそんなに罪があるとは思えない、みんなと大体仲良くやっている、うそをついたりごまかしたりしていない、税金も納めている、約束したことは守っている、テレビのニュースに出たあの人殺しの様な罪人ではない、今日一日罪らしい罪は何もなかった、と思うでしょうか。これは、イエス様から見て喜ばれる態度ではありません。ルカの福音書にある、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った取税人の祈りを神は喜ばれました。私たちの祈りはいつもこうあるべきです。私たちは、熱心に悔い改めることです。王から「悪い奴だ」と言われたその男は、しもべ仲間を牢獄に入れた結果、自分も牢獄に入れられたのです。赦さないならば、相手も自分も牢獄につながれます。自由を失うのです。赦すなら、相手も自分も解放されます。1945年フィリピンのキリノ大統領は、十万人の国民を虐殺した日本軍の戦犯137人(うち78人は死刑判決)全員に対して、国民感情を押し切って大統領権限で特赦を出しました。「赦さなければ、我々が前に進めない」「赦さなければ平和はない」と説いたのです。赦さなければ、いつまでも過去に縛られたままになります。謝罪されなくても赦す人は、自由になるのです。赦すことは自由を得ることです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言しました。赦しは宣言です。イエス様は、十字架の上で、自分を十字架につけののしる人々のために祈りました。「父よ。どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているかわからないからです。」赦すことは勝利です。そして、赦すことは愛することです。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることの気づき神に感謝するのです。