安息日の主

2018年02月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書12章1~14節
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

<要約>

神のお心を失った人間:

民の指導者であった律法学者やパリサイ人は、安息日にイエス様の弟子たちが麦の穂を積んで食べていたのを、安息日には仕事をしてはいけないので律法違反だと訴えました。当時、律法の専門家は律法をより詳しく解釈して、生活に当てはめることを人々に勧めていました。十戒の第三戒は、「安息日を聖なる日として、どんな仕事もしてはならない」とあります。「どんな仕事もしてはならない」というのはどういうことかをより詳細に解釈して、様々な決まりをつくったのです。それらの多くは、規則のための規則です。意味のない規則です。もう一つの訴えは、片手のなえた人の癒しです。安息日に病気の人を治すのは、律法違反だという考えから出たことです。安息日は人のためにあるのに、逆に安息日が人を苦しめたらどうでしょうか。人が安息日の奴隷、あるいは人が規則の奴隷になってしまいます。当時の宗教指導者たちは、自分は律法を守っているから正しい人間であると主張し、他人を裁くのです。それを律法主義と言います。神は奴隷状態で休みのない生活を送っていた民に、休息と自由を与えるために安息日を定めました。律法学者やパリサイ人を含む宗教指導者人たちは、その神のお心を失いました。代わり規則に規則を作り、民の自由を奪ったのです。さて、私たちは、神のお心を覚えて主の日を過ごしているでしょうか。休息と自由を得ているでしょうか。主日は、神が私たちに仕えてくださる日です。神が私たちのためにその時を定め、休息を与え、聖なるものに触れさせ、みことばを与え、罪を赦してくださる日です。また、同時に、私たちクリスチャンは、王である祭司ですので、日曜日に、祭司の務めとして伝道したり、愛の奉仕をしたりするのも良いことです。以前、あるクリスチャンが、日曜日が一番疲れる、と言っていました。それは神のお心ではありません。日曜日は、魂の安息、自由と喜びの日です。私たちは神のお心を失わないようにしたいものです。

神のお心を取り戻したキリスト:

安息日は、神が人間のために設けてくださった日です。今日の箇所を見ると、逆に安息日が、人間を苦しめているということがわかります。そこで、イエス様はかれらに神が大切にされていることは何かをお示しになったのです。イエス様はホセヤ書のみことばを引用して、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』と言われました。ここでイエス様はご自身があわれみの神であることを示されました。一匹の羊を持っている人が、その羊が穴に落ちたら、安息日でも引き上げてあげるでしょう。しかし、羊よりはるかに価値のある人間にはあわれみのない対応をするというのは、何かおかしくないか、よく考えてみなさい、と問われているのです。そして、男の手をいやしてあげました。イエス様は、愛とあわれみが優先することを示されました。安息日に病人を癒してあげてもいいのだよ、それが安息日の規則を破っていることにはならないのだよ、と教えられたのです。イエス様のお心は、「わたしにはあなたは高価で貴いのだよ。あなたの代わりに裁かれ死に定められてもかまわないと思うほどにあなたを愛しているよ。」というものです。それは敵をも愛する愛です。その憐れみと愛の大きさをイエス様は十字架で示されたのです。これまで、旧約の民は神殿、つまり宮に折々に行き、神の臨在に触れ、また、動物や穀物の犠牲の贖いにより罪の赦しを、祭司を通して受けていました。イエス様は、「ここに宮よりも大きなものがいる」とご自分を指して言われました。これからは、私たちはイエス様のところへ行き、イエス様を信じて、罪の赦しを受け、神との正しい関係に入るのです。神はあなたを哀れみ、罪と死の束縛から解き放ち、救うために御子イエス・キリストを送られました。キリストは安息日の主としてご自身を提供されました。キリストを通して信じる者は永遠の安息に入れるのです。

御心を選び自由にされる:

イエス様を心にお迎えして、神のお心を知った者は、心に自由があります。神は私たちを幸せにするために律法を与え、安息日を定められました。神は私たちに十戒を守って幸せになりなさい、と命じています。特に第三戒の「安息日を聖なる日として守る」については、イスラエルの民は歴史を通しても守ってきたことです。彼らは真の神を礼拝することにより、自分たちが神の民であることの自覚を持ち続けました。神様のみ心は、「安息日を聖としなさい」です。すなわち、全世界を創り私たちをおつくりになった神を礼拝しなさいということです。聖書には、「安息日には、仕事をしてはいけない」と書いています。すなわち、「仕事に支配されてはいけない」ということです。優先順位をつけて、生活を律しなさいというのです。「時間に振り回されるのではなく、時間を支配しなさい」ということです。安息日を守り、あなたの神を礼拝しなさいという神の強い意志を見ます。私たちクリスチャンも毎週教会の礼拝に来ます。主日を守るという自己選択によって、あなたは自由であることを証明しているのです。神様の真意は、私たちが主日を守ることにより、時間にコントロールされるのではなく、私たち自身が時間に対する決定権を握っていることをわからせることです。礼拝は神様が準備して私たちを招いてくださっているのです。礼拝では、神様はあなたにみ言葉を与え、イエスご自身を与えてくださいます。時間からの解放と自由、それはとりもなおさず、やがて来る死からも自由にされることで永遠のいのちといえるでしょう。

召しに応えて

2018年02月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章1~11節
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

<要約>

現代人に届く神の国の福音:

イエス様は群衆に押し迫られて、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に立っておられました。それから、シモン・ペテロの船に乗り、岸から少し離れてから、船にお座りになりました。そして、岸に向かって群衆にお話をなさいました。イエス様が語られたのは「神の国の福音」です。イエス様は、旧約聖書に預言されたメシヤがご自分であることを伝えたことでしょう。そして、神のあわれみと恵みにより、人々を罪と死と悪魔から解放するためにこられたことを伝えたでしょう。現代人に当てはめて言うならば、悩みと苦しみにある人や心傷つき悲しみにある人、そして将来に不安のある人、そのような人々は安心しなさい。イエス・キリストがあなたに平安と慰めと癒しをもたらしてくださったから。また、真のいのちを失って、むなしい日々を過ごしている人や、人生の終わりの向こうにある永遠をあきらめている人、イエス様はそういう人を高価で貴いとみておられます。そして、喜びと感謝、驚きと感動の人生を約束してくださいます。なぜなら、イエス・キリストは永遠のいのちだからです。彼を持つものは祝福の尽きることないいのちの泉を持つからです。また反対に、自らの罪の裁きを恐れている人、その人たちは罪赦されているのです。なぜなら、イエス様があなたの罪を背負って十字架に身代わりとなって死んでくださったからです。あなたはキリストを信じて罪赦されます。イエス・キリストは、罪の赦しを信じなさい、そして、永遠のいのちを得なさいと勧めているのです。

砕かれた心に神を迎える:

お話が終わって、イエス様は、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい」と言われました。かれは、漁師としての経験から「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」とイエス様に返答しました。人間は自分のわずかな経験に頼り、イエス様の言葉をそのまま受け入れません。私たちも自分の経験や常識といわれるものによって第一歩を踏み出せないでいることはないでしょうか。み言葉はわかっている、しかし、そんなことは信じられないといってないでしょうか。しかし、幸いなことに、ペテロは「お言葉ですから」と言って、深みに漕ぎ出し、網を下ろしました。ペテロは主のお言葉に従って大いなる祝福を得ました。二艘の船がいっぱいになって沈みそうになったのです。人間の経験や常識では推し量ることができない神のわざが起こったのです。ペテロはイエス様が神であることを確信しました。それは、同時に彼の誇り、プライドが砕かれた瞬間でした。ペテロは言いました。「主よ。わたしのようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」そして、主の足元にひれ伏しました。神の聖さに触れて、自分の罪が鏡のように映しだされるのです。聖霊が心に触れるとその聖さのために自分の汚れに気付くのです。ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。圧倒的な神の力を経験したのです。今まで、しがみついてきた自分自身、そこによりどころを失ったのです。ここで初めて、彼は、自分の心の王座から降りました。そして、イエス様に座っていただいたのです。これが、神との関係が正される瞬間です。人は自分の無力に気付き、神などいらないと言っていた自我が砕かれます。すなわち、心の王座を占めていた自我が砕かれて、代わって、キリストの霊があなたの生かすのです。

神が召してくださる祝福:

ペテロは、これまで経験したことのないような大漁の奇跡を見て、驚き、そして恐れ、イエス様の前にひれ伏しました。「これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。この一連のペテロのイエス様との体験は、ペテロが人間をとる漁師となるためのイエス様による実物教育でした。ペテロが人間をとる漁師としての働きをなしたのが、使徒の働きの記事にあります。ペテロが受けたのは伝道師への召命と言えます。「船を陸につけると、何もかも捨ててイエスに従った」のです。「これからあなたは、人間を取りようになる」というのは、伝道者、牧師など献身者として、召されるときに与えられるみことばです。「何もかも捨てて、イエスに従った」というのは、生活において、イエス様を第一優先とするということです。しかし、神の召しは伝道者、牧師、宣教師になるためだけではありません。神の召しはすべてのクリスチャンに及んでいます。イエス様を信じるときに、だれもが、イエス様に召されるのです。イエス様は、クリスチャンになろうとするすべての人に当てて、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」というのです。これは、イエス様に従いなさい、ということです。優先順位をイエス様にするということです。イエス様は、「悔い改めて神を信じなさい。そして、新しく生まれなさい」といいます。生まれるためには一旦死ななければなりません。それは、イエス様が十字架で死んで復活されたように、私たちも、古い自分に死んで新しい人によみがえることを意味しています。悔い改めて神を信じ、新しく生まれたひとには、神の子とされる特権が与えられます。天国の相続人になります。天国の祝宴に招かれています。そこで、永遠の安息と尽きることのない喜びに満たされて過ごすのです。それはこの上もない祝福です。

最初の奇跡

2018年02月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

自由と喜びの時代の到来:

バプテスマのヨハネは律法を守るものにふさわしい禁欲的な生活をしていました。イエス・キリストの到来により、律法を守らなければ裁かれるという禁欲の時代は終わりました。そして、結婚式の祝宴に象徴される喜びと楽しみそして希望の時代が来たのです。自分の内面の罪に責められて、神の裁きに悩む律法の束縛の時代は終わって、罪の赦しと律法からの解放を喜ぶ時代が来たのです。私たちは、ああしていけないこうしてはいけないという生き方から、ああすることもこうすることもできるという生き方になっているのです。失敗を恐れて退くのではなく、失敗を益に代えてくださるイエス様にゆだねて前に進むのです。それが、クリスチャンライフです。

人の思いを超えた神のご計画:

さて、婚宴の席でぶどう酒がなくなってしまいました。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」とイエス様に訴えました。彼女は、イエス様が特別な人であること、神の子であること認めていました。イスラエルを救うために来られたことを信じていました。そのイエス様が、ヨハネからバプテスマを受け、そして、弟子たちをも得て、ガリラヤに帰ってきたのです。マリヤはイエス様が民の救いのために立ち上がる時が来たのだ、とみていたと考えます。

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。この後7章で、同様に「わたしの時はまだ来ていません」と、イエス様はご自分の兄弟たちにも言いました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。この時点では、母マリヤも弟子たちもイエス様に別の期待を持っていたでしょう。イスラエルの民の願いは、ローマの圧政から、自分たちを解放するダビデの再来である王を願っていました。しかし、イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。バプテスマのヨハネが言ったように「世の罪を取り除く、神の子羊」となることです。人を滅びから救い出すためです。神と人間の和解となるために来られた。神との関係回復です。それにより人は人として回復するのです。現代社会に生きる人々は、神を無視して、神から遠く離れています。それが罪の元となっています。万物は神によって造られ、神によって存続し、神の栄光のために存在しています。ですから、歴史も世界も神中心に動いています。神から離れた人間は、世界は人間中心に動いていると思っています。否、自分中心に動いていると思っています。それは神のおつくりになった秩序に反した歩みです。だから、人間は目的を失っています。あなたが、自分中心から神中心で、神の栄光のために生きるなら、自由と喜び、感謝と賛美の人生を送ることができるのです。マリヤは、イエス様から拒絶の言葉をもらいました。しかし、マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。それで、手伝いの人たちに「あの方が言われることは何でもしてあげてください」といったのです。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。神は愛ですから、あなたの願いを必ずお聞きになるのです。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。神のなさることは最善であるということです。

恵みによって変えてくださる神:

無味な水を豊かで味わいの深い良質のぶどう酒に変えてくださったように、イエス様に来るものを、イエス様は、役に立たないしもべから高価で貴いものへとつくり変えてくださるのです。宴会の世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだ」と言いました。これは、最初はぶどう酒のおいしさがわかっても、飲んでいるうちに味覚はマヒしてきます。だから、後から質の落ちたぶどう酒をだしてもわからないというのです。そして、普通はそうするというのです。これが世の常だというのです。人間は、相手によって対応を変えます。身分の高い人やお金持ちにはそれなりの対応、貧しい人には質の低い対応をします。しかし、神の御子は人間のようではなく、だれにでも一貫して、最初から最後まで最も良いものをお与えくださるのです。キリストの福音は、だれにでも、どんなに罪深くても、重罪を犯した死刑囚に対しても最高のプレゼントとして提供されています。そして、私たちがどのような状況にあっても、病気であと一日しか命がないとしても、イエス様の救いの福音は届いています。信じれば救われます。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができるのです。これが福音です。福音は、私たちを罪の奴隷状態から解放し、自由の身とするのです。イエス様は、あなたの人生を味わい深い良質なぶどう酒にたとえられるような豊かな人生にしてくださるのです。もし、信じるなら、あなたはキリストに結び合わされて、天に国籍を持つ、神の子どもとされるのです。

キリストの弟子となる

2018年01月 28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

世の罪を取り除く救い主:

バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様を紹介しています。これはイエス様の働きそのものです。「神の子羊」というと、ユダヤ人が誰でも連想するのは、「過ぎ越しの子羊」です。かつて神は全エジプトを裁かれました。死の天使を派遣して、すべての家にいる人間から動物に至る最初の子ども、初子のいのちをとられました。しかし、鴨居に子羊の血がついているイスラエルの家は、その血を見て、死の天使はその家を過ぎ越したのです。そのように、罪の裁きが全エジプトに及んだのですが、子羊の血によって民への裁きが回避されたのです。過ぎ越しの子羊は型でした。それはイエス様の十字架によって成就しました。イエス様は神が用意してくださったすべての人の罪を贖うための子羊となりました。十字架で流された血が信じる者の罪を取り除き、神の裁きは過ぎ越していくのです。人の罪の問題は、神との隔ての壁となって、すべての人に及んでいます。十字架によってあなたのすべての罪が赦されていると確信しているならば、神を思うと心が温かくなり、喜びがわいてきます。もしあなたが、神を思う時喜びと感謝が来ないのなら、あなたは悔い改めてもう一度すべての罪が赦されていることを確認しましょう。

イエスは教えではなくいのちを与える:

ヨハネの弟子の二人が、ついていきました。イエス様はついてくる彼らに振り向いて、「あなたは何を求めているのですか?」と問いました。イエス様は、「誰を」と言わずに、「何を」と言って問いかけています。彼らは、イエス様に自分たちの必要を満たし、自分たちの夢をかなえてくれる何かを期待していました。そのような彼らの心を見透かしたイエス様は、この質問によってもう一度彼らの思いを正そうとなさいました。キリスト教は、キリストの教えを学び、キリストを模範として生きることではありません。イエス様そのものが、罪を赦す救いであり、いのちです。イエス・キリストは救いの本質です。キリストがあなたのうちに住まわれてキリストのいのちがあなたを生かすのです。もし、私たちが神から問題解決や自分の利となることばかりを求めて、キリストと人格的な交わりを持たなければ、神を利用していることにならないでしょうか。私たちは自分の利益を追及しているだけで、神を求めていない、と言うことがあるのではないかと問うのです。そこには、神との人格的な交わりはありません。神はあなたと人格的な交わりを求めておられます。愛と信頼の交わりです。彼らは、バプテスマのヨハネが証言しているとおり、この方こそ聖書が約束していたメシヤ、救い主であることを確信しました。イエス様の救いは個人個人に及ぶものです。イエス様は目には見えませんが、生きて働かれて、私たち一人一人の心の扉をたたいておられます。そして、あなたが内側から開くなら、イエス様はあなたに入ってこられます。そして、あなたを祝福しあなたとともにあゆみあなたにいのちをあたえられるのです。これは、イエス様の教えがあなたを変えるのではありません。イエス様そのものがあなたを救い、命を与えるのです。

天国と地上を結ぶ祝福のはしご:

イエス様は、創世記のヤコブの見た夢「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」の言葉を引用しております。イエス様は天と地をわたすはしごとなられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。はしごは地から上に向けて建てられるのが普通です。しかし、「ヤコブのはしご」は天から降りているものでした。ここにおいても、人の子と言われたイエス様がはしごとなって天から地に降りてこられました。ですから、キリストは、天国と地上を結ぶ祝福のはしごです。それは、やがてイエス様が受難の十字架の死とその後に来る復活によって、神と人類の和解を達成して、天国を地上にもたらしたことを意味します。イエス様は神の子羊として、人類の罪の贖いをなしてくださいました。そしてまた、天のはしごとなり、天国を地上にもたらしたのです。地上にもたらされた天国は、どこにあるのでしょうか。それは、信者の交わりである教会にあると言えます。また信じる者のうちにあるともいえます。すなわち、クリスチャンであるあなた自身が天国を持っているということです。すなわち、あなたは救いと祝福の伝達者です。

荒野に試み

2018年01月 21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~11節
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

<要約>

苦難を神からの鍛錬ととらえる:

神は悪魔の試みを許されて、御霊がイエス様を荒野に導きました。イエス様は、そこで苦しみに会われたのです。人が苦しみにあった時、その苦難を神からのものとして用いるなら、それは、神の鍛錬あるいは訓練となります。「耐え抜いて良しとされた人には、いのちの冠を受ける」とあります。代表的には、アブラハムです。かれは、100歳まで世継ぎを与えられず苦しみました。しかし、彼はそれにより忍耐を身に着けました。また、ひとり子、イサクをモリヤの山でささげるように命じられた時、苦しんだでしょう。しかし、復活の希望が与えられて従いました。逆に、人の苦難が悪魔に利用されると、信仰を捨てさせて、破壊や滅亡へと向かわせるのです。これが、悪魔の誘惑ないし試みと言えます。悪魔は、人の罪の性質に働きかけて、不平、不満、つぶやき、非難、恨み、復讐心、疑い恐れ、などを引き出し、ついには不信仰に貶め、教会から離れ、神から離れさせるのです。代表的人物は、イエス様の弟子のユダでしょう。最後は自害してしましました。私たちが、苦しみや困難にあった時、それをどのようにとらえるかが分かれ目となります。それを神が許された試練として用いれば、神の栄光のみわざを見るものとなります。神をどこまでも信頼して、神の最善がなることを信じていくことです。私たちがイエス様に祈るとき勝利があります。なぜなら、イエス様は今日の聖書箇所で証明なされたように悪魔に対して勝利されたからです。イエス様があなたに代わって戦ってくださいます。私たちは苦難を神が許されてお与えくださっていると考えることが大切です。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。その時、信仰の勝利を経験します。依然困難は目の前に立ちはだかっていても、神がご介入して、イエス様がその荷を共に負ってくださっていることを体験し心に平安が来ます。

イエス様の受けた試みの意味:

イエス様の試練の意味は、イエス様ご自身が神であることを証明するためのものです。悪魔の試みは三つありました。一つ目は、空腹を覚えられたイエス様に「石をパンに代えて食べなさい」というものでした。悪魔は最初の二つの誘惑では、「あなたが神の子なら」という言葉で迫りました。『メシヤで神の権力を持っているなら、飢える必要はないでしょう。空腹なら奇跡を起こしてパンを得なさい』と誘惑します。しかし、この空腹は神が御霊により荒野へ導かれたとあるように神がご計画のうちに定めたことなのです。悪魔はイエス様が神に従わないようにさせようとしました。それに対して、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という、申命記のみことばを引用して反撃しました。二つ目は、悪魔はイエス様を、神殿の頂に立たせて、飛び降りてみなさい、神が「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』といいました。これは神を試みるという罪に当たります。信頼を裏切る行為です。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはいけない」を引用して反撃しました。三つめは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」いよいよ悪魔は本音を出しました。イエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と」を引用して反撃しました。イエス様が用いた三つの言葉は、みなモーセが言った言葉の引用でした。この申命記6から8章は、イスラエルの民が出エジプトして、荒野で様々な試みを受けた経験が書かれています。それは、民が約束の地に入ろうとする前に、荒野での40年の歴史を思い出させて、モーセが民を諭した記録です。イエス様の荒野での40日は、モーセ率いるイスラエルの民の荒野での40年間を思い出させます。現在、神の民であるクリスチャンがやがて入ろうとしている約束の地、それは天のみ国といえます。イスラエルの民は荒野の40年間で神を信頼しとおすことができずに様々な失敗をしました。民のつもり積もった不信の罪をよいことに、悪魔は神と民の関係を引き裂いたのです。このようにして、イスラエルの民を悪魔はうまく陥れたと言えます。イエス様は、かつてイスラエルの民が悪魔に負けたことにリベンジなさったのです。そればかりでなく、この悪魔への勝利は、アダムの罪以来悪魔の支配下にあった全人類を解放したのです。悪魔は人の罪によって人を縛り、自分の支配下に置いています。人は自分の力では、悪魔の支配から抜け出ることはできません。解放者が必要です。それがイエス・キリストです。

救いは十字架の死以外にない:

神と悪魔とイエス様と人間の四者の関係構図を思い浮かべてみましょう。神と人は、罪によって断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。人であり神である無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人に罪の赦しを宣言なさっています。そのことを信じて罪の赦しを受け取る人は、罪赦されて、亡ぶことなく永遠のいのちにあずかれるのです。キリストにより罪を取り除かれた人間は、神との和解を得たのです。神と人との関係を断絶させている罪によって、悪魔にとらわれている人間を贖い、買い戻してくださったのです。和解を得させてくださるのは、キリストの十字架の死以外にないのです。また、イエス様が全人類の代表として、悪魔と戦ったと言えます。最終的には、十字架で悪魔からかかとを噛みつかれましたが、そのかかとで悪魔の頭を踏み潰したのです。ですから、私たち人間は悪魔からキリストの支配に移されたのです。神の国の一員とされたのです。それは、私たち人間の努力や力で得た者ではなく、すべて神が用意してくださった救いです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。

イエスのバプテスマ

2018年01月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明音声プレーヤー00:0000:00ボリューム調節には上下矢印キーを使ってください。

<聖書>マタイの福音書3章1~6,13~17節
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神との正しい関係に生きるとは:

「荒野で叫ぶ者の声」としてバプテスマのヨハネは聖書に紹介されています。彼は荒野で、悔い改めを説いていました。そして、当時、大勢の人々がユダヤ全土からヨルダン川の彼のところに来て、悔い改めのバプテスマを受けていました。悔い改めというのは、神との正しい関係を取り戻すことです。イスラエル中が、罪を悔い改めて救い主イエスを迎えようと準備を整えていたともいえます。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に罪を犯すものだと。聖書は、すべての人は罪を犯したから、神の栄誉を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪であり、様々な罪の根元です。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そして、一度も罪を犯したことがありません。ですから、悔い改める必要はないはずです。しかし、主イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とお答えになりました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義人は信仰によって生きるの「義」です。すなわち、「神との関係で正しい」ということを表しています。悔い改めのバプテスマを受けることは、道徳的に、あるいは法的に正しい行いというのではなく、神との関係において正しいことだからです。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げるという心の姿勢から出てきます。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為だからです。まだ、神との正しい関係に入っていない人は信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。同様に私たちもいつも悔い改めて神との関係を正して生きることです。そして、イエス様のようにみことばと神の立てた秩序に従順であることです。みことばに従うこと、神に遣わされたところで最善を尽くすこと、教会とその秩序に従うことです。それが、神との正しい関係に生きることです。

キリストの任命の背後にある神の愛:

天が開けて聖霊が鳩のように下ってきました。これは、主イエスがメシヤとして任命されたことを意味します。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。30歳になるまで、イエス様は父なる神との親しい交わりの中にありました。これまでの期間をかけて、イエス・キリストの使命を確認し、心と体と思いを人類救済の大事業に向けて整えてきたと言えます。いよいよその時が来たのです。それでも、イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられたでしょう。また、イエス様は神に愛されて喜ばれている子です。それゆえこの大きな使命を与えられ、神の御心を成し遂げるのです。このあと約3年後に十字架が待っていました。父なる神の絶大なる信任を受けていました。しかし、愛と喜びの子どもとされていたイエス様の人としての苦しみはどんなだったでしょうか。また、父なる神の苦しみはどんなであったでしょうか。十字架以外の他の選択肢はなかったのでしょうか。神は人の救いのためにそれが最善の道であることをご存じで用意されたのです。その動機は、神の愛です。一言神の愛です。神は惜しんで世の人々を愛されたのです。御子と神ご自身の苦しみをも凌駕してしまうほどに、神の愛は大きなものであるということです。私たちはもっとそのことに感動して、感謝と喜びで満たされてもいいのではないでしょうか。

主イエスとともに来た神の国:

この後、イエス様は40日間の荒野での悪魔の誘惑に勝利されて、ガリラヤで宣教活動を始められました。イエス様は、イスラエルの民の救い主であるばかりでなく、万民の救い主であります。イザヤの預言は、罪と死と悪魔にとらえられていた人間に解放を告げるときが来たことを知らせています。イエス様は、その時から、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣言されました。それは、神の国がイエス様と一緒に降りてきてくださるということです。悔い改めれば誰でも神の国に入ることができます。イエス様はこの後、約3年間、ガリラヤ、ユダヤ地方を回り、宣教しました。そして、多くの奇跡をなし、悪魔にとらわれている人々を解放しました。また、病気の人をいやしました。また、神との関係を正すように当時の宗教指導者たちにも恐れることなく語りました。そして、ついに、宗教指導者たちの妬みにより十字架刑に処せられたのです。結果、イエス様が、一度死なれることにより、私たち人類の罪の贖いをなしてくださいました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人罪によって裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。同時にイエス様は、この地上に神の国をもたらしてくださいました。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。そして、キリストを信じる者は、神の国に属するのです。神の国とは、地上で神が信じる者の心と生活を支配されることです。そこは愛と赦しの世界です。救われた者たちはキリストとともに永遠に完全な幸いの中にいます。キリストが私の人生の主となり、わたしにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。そして、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。

イスラエルの選びと救い

2018年01月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙11章13~29節
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

<要約>

行いではなく信仰によって救われる:

聖書が示している罪は根元的で、根深く、人間性の腐敗と言えるものです。マルコの福音書には、具体的な罪が書かれています。悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみなどです。その腐敗である罪は心から発しているというのです。私たちは、行いにおいてはそのようなことをしないと言っても、心においては、犯してしまう無数の罪があります。そして、その罪に対して、私たちはどんなに良い行いを積んでも、それで神は罪を帳消しにしてはくださらないのです。それは、神は正義の神だからです。神は一点の汚れもシミもないきよい神です。まったく正しい神です。ですから、人のどんなに小さな罪も受け入れることはできません。さらに、罪からくる報酬は死と聖書に書いている通り、罪の結果は死です。ですから、人は生まれながら罪により、死に定められて、永遠の滅びへと向かっています。では、人はどこに救いがあるのでしょうか。そこで、神が人を救うために用意してくださったのが、キリストの十字架です。人を救うために神が人となって来てくださった。罪なきキリストがすべての人の罪をその身に受けて十字架で身代わりとなって死んでくださいました。十字架で死ぬことで私たちが払うべき罪の代価を支払ってくださいました。それを十字架の贖いと言います。その十字架の贖いを信じた者は、義と認められます。キリストの十字架のゆえにすべての罪は赦されます。罪の赦しをただ信じて受け取るだけでよいのです。良い行いもお金もいらない、ただ空の手で受け取ればよいのです。わたしたちは、キリストの十字架を信じるとき、罪の赦しによる永遠のいのちをいただきます。それは、神からの大いなる祝福と喜びです。キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。悪魔から救われてキリストの支配に移されます。つまり、神の民に移籍されるのです。それでは、信じれば救われると言って、行いはいらないのかという質問です。罪が赦され救われるためには行いはいりません。しかし、信じて罪赦された人は、赦された結果としてよい行いに励む人になります。救いの結果としての善行です。そこを間違えないようにしましょう。

神の約束と選びは変わらない:

神は罪によって滅びに向かっている人を救うために人類救済のご計画を遂行なさいました。ひとりの人を選び、その人の子孫である一民族を選び、その民族を通して他のすべての民族に救いと祝福を届けようとなさいました。そのひとりの人がアブラハムです。その人の子孫がユダヤ民族あるいはイスラエル民族です。アブラハムが選ばれたのは神の一方的な選びです。アブラハムは、行いではなく、信仰により救われました。彼の罪を贖うために、やがて子孫に現われるメシヤ、キリストをはるかに仰いで救われたのです。そのアブラハムへの選びはイスラエル民族に継承され、イスラエルは神の民となりました。彼らには律法が与えられました。聖なる国民として他の民族とは自らを区別するようにということです。また、王である祭司として、他の国々へ真の神の恵みを伝達していく働きを与えられました。約束の土地も与えられました。しかし、彼らは他の神々、すなわち偶像に心惹かれてしましました。十戒の第一戒の「わたし以外に神々を持ってはいけない」の戒めを破り、真の神でない偶像を拝むようになり、霊的姦淫を犯したのです。神はたびたび預言者を送り、イスラエルが悔い改めて神のもとに帰ってくるようにいつも手を差し伸べておられたにもかかわらず、立ち返らず神から離れてしまったのです。そして、自らの罪のために、非常に弱くなり大国に支配されて、痛めつけられたのです。さらに、彼らは、律法を信仰によって追い求めないで、行いによって追い求めました。ついには、神がお送りになった神のひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。彼らはメシヤを待ち望んでいたのですが、イエス・キリストをそれと認めることができずにつまずいてしまいました。キリストは彼らにとってつまずきの石となったのです。つまずいて彼らは倒れてしまったのです。そのために、この救いは異邦人へ届けられるようになりました。異邦人への使徒として立てられたパウロはアジア、ギリシャ、ローマへと異邦人の地へイエス・キリストの救いを届けたのです。それでは、神はイスラエルをお見捨てになったのでしょうか?イスラエルはキリストを十字架で殺し呪われたものとなってしまったのでしょうか?否です。イスラエルに与えられた神の約束は破棄され、クリスチャンたちに置き換わったという考えがあります。しかし、それは間違いです。パウロは異邦人への使徒としての召しを受けてその勤めに命を懸けていました。しかし、それはまた、異邦人が救われて神の民に加えられることにより、ユダヤ人がねたみを起こして、幾人かでも救いに入ることを願ってのことです。ここでのパウロの狙いは、福音が異邦人に届けられて、彼らが救われて祝福されるのを見たユダヤ人にねたみを起こさせることです。ユダヤ人たちにこう思わせたいのです。「どうして異邦人がこのような祝福を受けるのだろうか。どうして、この祝福が私たちを飛び越えて異邦人に行ってしまったのだろうか?」と。イスラエルが神に捨てられることで、福音が異邦人に伝えられました。そして、彼らが信じることで、神と世界との和解が実現しました。しかし、イスラエルが悔い改めて救われるなら、霊的に死んでいたイスラエルは、死者の中から生き返ることになります。イスラエルが捨てられたのは一時的なことであり、彼らはやがて悔い改めて救われるのです。福音が異邦人の間に広がり、異邦人世界に福音がいきわたったとき、その福音の波がイスラエルに戻ってくるのです。そしてついに、イスラエルに救いが届き民族的救いが成就するというのです。現在、異邦人世界にすさまじい勢いで福音は届いています。すべての国民に福音が証されて世の終わりが来ると書いています。神が言い送ったことは必ずなります。約束は必ず行われます。そのことを信じて待ち望む者でありましょう。

恵みの接ぎ木に恐れと謙遜で留まる:

野生種のオリーブの枝は異邦人です。栽培種のオリーブはイスラエルです。栽培種の枝、イスラエルは不信仰によって折られて野生種の枝、異邦人が信仰によって接がれました。そして、オリーブの根から豊かな養分を受けているのなら、あなた方、枝である異邦人は自分を誇ってはいけない、根があなた方を支えているからです。高ぶらないで、謙遜でいなさい。恐れなさい。もともと、私たち異邦人は、受けるに値のない、優先権のない、資格のない者であったからです。ただ、神のあわれみと恵みによって救っていただき、神の民に加えられたのです。しかし、神に留まらない、信仰に留まらない、教会を離れ、聖書も読まない、祈らない、ということになれば、あなた方は切り落とされるとパウロは言います。逆に信仰に留まり続けるなら救いの完成を見るのです。神の選びも約束もキリストも、もとはと言えばイスラエルのものです。落としてしまったこの素晴らしい恵みを私たちは彼らにお返しするのです。私たち異邦人クリスチャンは神の一方的な恵みで接ぎ木された者たちです。神の民とされたのはイスラエルであり、今もそれは変わりありません。ですから、神を恐れつつ、謙遜になり、自分を誇ることを戒めましょう。また、イスラエルに対しては、彼らを軽蔑したり裁いたりしてはいけません。彼らを尊敬して、イスラエルが悔い改めて神に立ち返ることを祈り続けましょう。

シメオンの預言

2017年12月 31日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章21~38節
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
<要約>

救うために人となったイエス:

マリヤもヨセフもイエス様を特別な方法で生まれた特別な人として扱うことをせず、一般の貧しい家庭に生まれた長男として育てました。イエス様は神の御子で罪のないお方なのに、ユダヤ人の普通の長男として律法の定めに従いました。律法をお定めになった神が律法の下にあるものと自らなられたのです。イエス様は、私たちの代わりに、その律法の要求をすべて満たしてくださいました。その生涯において一度も罪を犯したことが無かったのです。あるお父さんが、朝、息子に自分は出かけて夕方に帰ってくるので、それまでに、薪を割っておくように、と命じて出かけていきました。腕が細く、力のない息子は「困ったな。まきを割るための斧を振り上げることもできない。どうしよう。」そうしているうちにお昼が過ぎ、日が傾いてきました。「もう時間がない。お父さんに叱られる。」そうしたら、お兄さんがやってきました。困っている弟を見て、その手から斧を取ってまきを割り始めました。そして、あっという間に薪を割って整えてくれたのです。お父さんは帰って来て、仕事が終わっているのを見て満足しました。同様に、イエス様は私たちが満たすことのできない律法の要求を私たちに代わって、また、人類の代表とし成し遂げてくださったのです。代わりに薪を割った兄ゆえに弟を叱ることがなかった父親のように、神はキリストのゆえに、信じるものを裁くことができないのです。罪に定める律法はその力を失ったとも言えます。そしてまた、イエス様は律法による罪の裁きをあなたの代わりに自ら進んで受けてくださいました。それが十字架刑です。イエス様の身代わりの十字架がなければ、誰一人、罪の裁きである永遠の滅びと死を免れることはできません。人を罪と死の滅びから救うために神が人となって来てくださった。それがイエス・キリストです。

心を刺し貫かれても救う神:

シメオンの預言の前半は、キリストの使命についての預言です。後半はキリストの生涯についての預言です。最初に、前半のキリストの使命についての預言を見ましょう。「御救いは、万民に備えられたもの」キリストはイスラエル民族ばかりでなくすべての人の救いであるということです。キリストは啓示の光、光栄というのです。救い主は暗闇の中に、光として来てくださいました。イエス様の使命は、罪にとらえられて死の陰に座っている人々に光となり、救いとなることです。次に、後半のキリストの使命についての預言です。シメオンは両親を祝福し、そして、マリヤへ言葉を向けます。彼は謎のような言葉を彼女に与えます。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」ローマ書には、イエス・キリストはつまずきの石となり、イスラエルの多くの人はつまずいて倒れるとあります。すなわち、民は主イエスを神の御子、救い主とは認めることができずに、反って、十字架にかけて殺してしまいました。主イエスを信じることができずに、倒れて砕かれてしまったということです。また、それとは逆に、キリストに信頼するものは失望させられないとあるように、立ち上がる人々も起こるのです。キリストが反対を受けるしるしとなることは、この後のローマ帝国による迫害の歴史においても起きました。しかし、そのような世の迫害にもかかわらず、立ち上がる人々は消えることがなかったのです。次に、「剣があなたの心さえも貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが表われるためです」についてみます。マリヤにとっては、剣で心臓を突き刺されるような思いであったでしょう。そこにキリストの受難の生涯があります。また、この「剣があなたの心さえも貫くでしょう」のことばには、もう一つの意味が隠されています。それは、イエス様は見せかけではない真の平和をもたらすために剣を持って来たとおっしゃられるからです。神から離れた人間が安住しているのは、実は偽の平和であることをイエス様は指摘しました。真の平和は神との和解からくると言えます。神との平和がなければ、個人的にも、民族的にも、国家的にも平和はありません。イエス様は、あなたが神と和解し、神との平和に生きるために来られました。「多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」多くの人々の思いが判別されることです。イエス様に対する態度によってその人の立場が明らかにされます。中立はないのです。キリストの十字架を見てどのように反応するかが求められています。神は、すべての人をイエス・キリストによって、二つに分けられるのです。歴史はイエス・キリストにより、紀元前と紀元後に分けられています。人間も分けられるのです。羊飼いが羊とヤギを分けるように、すべての国民を分けると書いています。「剣があなたの心を刺し貫く」というのは、やがて経験するマリヤの心の苦しみを言っています。かたや、イエス・キリストはやがて十字架上で文字通り兵士によって、槍で胸を刺し貫かれました。同時にこの「剣が心を刺し貫く」というのは、御子イエスに対する父なる神の御苦しみでもあります。人が、そしてあなたが、自らの罪のために滅んでしまうのを惜しまれて、御子を身代わりの死に追いやった父の痛みです。神は、ご自身のいのちをかけてあなたを救おうとされているのですから、あなたの応答を求めています。あなたが御救いをあなたのものにするのかしないのか、決断を求めています。

祝福された高齢者の生き方:

もう一人の老人が登場します。アンナという女性です。彼女は7年間の結婚生活の後、やもめになり、その後独身生活を守り、84歳になっていました。この世的には、幸せな人生とは言えませんが、心は満たされていました。それは、救い主を待ち望んでいたからです。宮を離れず昼も夜も断食をして祈っていたというのです。

ここにも祝福された高齢者の生き方があると思います。それは、キリストを待ち望むということと、教会を離れない、祈りの生活を守るということです。


クリスマスの出来事

2017年12月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章8~20節
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

<要約>

心低く求める人々に届く救い:

救い主がお生まれになったクリスマスは、大きな喜びこの上もない喜びと言うのです。羊飼いたちは、天使のことばに促されて、救い主を見に行きました。救い主のしるしは、「布にくるまって飼い葉桶で寝ている赤ちゃん」です。それは「宿屋には彼らがいる場所がなかった」からです。これは何を意味しているのでしょうか。世の中の人々は救い主を喜ばず、拒絶したのです。神は敵対し拒絶する人間のところに訪れてくださったのです。そこに神の愛があります。そこに神のあわれみがあります。人間は罪により神がわからず、何をしているのかもわからないからです。一方、当時、羊飼いたちは最も貧しい人々でした。彼らは、社会的にも信用がなかったと言われています。また、彼らは、野で羊と共に生活していたので、安息日を守ることもできないので、低く見られていた人々でした。エルサレム近辺で飼われていた羊は、神殿でささげる犠牲になる羊であったようです。それには、傷のない子羊を用意しなければなりませんでした。なぜなら、神に供える生贄は傷のない最上のものでなければならなかったからです。この時点では、イエス様が、やがて十字架で自分たちも含むすべての人々の罪の贖いの代価としてささげられる神の子羊となるとは誰も思ってなかったでしょう。でも、イエス様は、すべての人の罪を贖うシミも傷もない神の子羊となったのです。神はあらかじめそのことをお示しになったのです。彼らは、律法を守ることのできないので、誰に言われなくても自分たちは罪人であると自覚していました。そして、心低くへりくだった人々であったと思います。羊飼いたちは、主であり救い主であるお方が、王宮に誕生するのではなく、最も貧しい家畜小屋でお生まれになった。そして、そのことを世の中では取るに足りないと見下されていた自分たちに一番先に知らせてくださったのはなぜでしょうか?まず、彼らが待ち望んでいたからと言えます。また、心の中でどうにもならない自分たちの罪を神が贖ってくださることを待ち望んでいたといえます。神は、心低くへりくだった人のところへ来てくださいます。もし、あなたが、心低くなり自らの罪に気付くなら、もう神はあなたのところに来てくださっているのです。

喜びの知らせは罪の赦し:

救い主の到来が素晴らしい喜びだと書いています。それでは、救い主は罪から救う方だからです。イエス様がこの世に来てくださった目的は「世の罪を取り除く」ことです。すなわち、イエス様は人々の罪を取り除くために生まれてきたのです。贖いの代価としてご自身を差し出すために来られたのです。端的に言えば、十字架にかかってあなたの罪を赦すために来られたのです。キリスト教の救いというのは、罪の赦しです。すべての人は神の目から見て罪びとです。人はうわべを見ますが、神は心を見られるからです。心のうちに浮かぶ悪いものはすべて罪です。そして、罪からくる報酬は死です、と書いているように、その罪のために人は亡ぶべきものとなったと聖書は言います。人は神から遠く離れ、神を感じることも、神を意識することもなくなってしましました。人は神と共に生きることをやめ、罪の中に生きるようになってしまいました。敵意、争い、ねたみ、貪欲、情欲、などが人を縛っているのです。現代社会を見ても個人的にも、国家的にもその通りです。その罪を取り除くためにイエス様はお生まれになったのです。無罪のキリストが全人類の罪を代わりにその身に受けて十字架で死んでくださったのです。キリストの十字架を信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。イスラエルでは、モーセの時代から、民の罪を贖うために、贖いの動物、子羊などがささげられてきました。それは、個人的にも民が自らの罪を赦していただくために、神にささげる犠牲でした。その律法が定めるところの犠牲による贖いは、イエス・キリストの十字架によって完了しました。キリストが全人類の罪の贖いの完全な犠牲となってくださったからです。キリストの十字架はすべての罪から私たちを清めるのです。聖書が示す救いの神というのは、あなたの罪を完全に赦す神であると言えます。天使が素晴らしい喜びを羊飼いたちに知らせたすぐ後に、天では、ファンファーレが鳴り響き、天でも大きな喜びが起こったのです。それは、神の国が地上に降りてきたことを意味しています。救い主の到来は、同時に、神の国の到来です。神の支配が地に及んでいるのです。そして、今日、ここに神の国は来ているのです。そして、ここに集っている皆さんはそこに招かれています。キリストの十字架の贖いにより、だれでも無条件に罪の赦しを受けることができます。その救いを今、いただいてもらいたいと思います。

救い主と出会い喜びの人生へ:

羊飼いたちはベツレヘムに着き、家畜小屋を見て回って、ついに、マリヤとヨセフとイエス様を探し当てました。キリストとお会いしたのです。羊飼いたちは天使のお告げの通りをそこで皆に知らせました。それを聞いた人たちは皆驚いた、とあります。彼らは、神を崇め、賛美しながら帰っていきました。彼らは、救い主に会い、神の約束された救いを信じたのです。キリストを礼拝し、賛美しながら帰っていきました。彼らは自分たちが見聞きしたことを周りの人々に伝えました。救いの喜びを自分のものだけにすることができなかったのです。彼らが世界で最初にイエス様を伝えた人たち、伝道者となったといえるのではないでしょうか。救い主との出会いは、人を変えるのです。羊飼いたちは喜びで満たされたでしょう。救いの喜びで神を賛美しました。救い主が自分たちに与えられたことを喜びました。幼子が成長し、やがて世を救う働きをなさるのです。イエス様はこのような真の人であり、そして、イエス様は人のかたちをとられた真の神でした。人類の最後の敵である死を打ち破り、三日目に復活なさいました。目には見えませんが、今も私たちとともにおられて、罪を赦し永遠のいのちの約束をお与えくださるのです。クリスマスは救い主イエス・キリストとの出会いです。神の羊飼いへのメッセージは、「イエス様こそ、あなた方のための救い主だよ。この上もない喜びだよ。この方によって、あなた方の人生は変わるのだよ」これは同時に私たち一人ひとりへの神のメッセージです。

ヨセフへの告知

2017年12月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章18節~25節
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

<要約>

主から来る試練と訓練:

ヨセフはマリヤから天使のみ告げについて、説明を受けましたが、ヨセフにはそれをそのまま受け入れるのは難しい事でした。マリヤが妊娠したという事実を認めることができずに、心の中では否定していたのです。マリヤはマリヤで、やがて、妊娠という身体に現れる変化にいずれ周囲の人々は気づきます。「神にとって、不可能なことは一つもありません。」と信じていました。神にすべてをゆだねていたとしても、やはり不安になるものです。マリヤはエリサベツに会って、天使のお告げの通りエリサベツがみごもっていたことを確認しました。また、エリサベツの預言も聞くことができました。マリヤはさらに確信へと導かれました。しかし、ここで皆さんに注目していただきたいことがあります。それは、マリヤは神を信じ切っていたとはいえ、彼女の信仰も励まされ、その都度、確信を新たにさせる必要があったということです。目に見えないことを信じ続けていくためには、励ましと確認が必要であるということです。そのためには、私たち信仰者は、信仰の友の励ましが必要であるし、みことばを常に聞いて強められなければなりません。ですから、私は皆さんに教会に来ることを続けるようにと勧めているわけです。マリヤはナザレに帰る時が来ました。三カ月ぶりでマリヤと再会して、ヨセフはそのマリヤの身体の変化に気付いたことでしょう。今まで、そんなはずはないと自分の心で否定していたことは事実だったのです。彼の心に、マリヤに対する疑いと怒りが生じてきました。ヨセフは彼女の妊娠、それが自分の子でないということはわかっていました。マリヤは、お腹の子は聖霊によるということを説明したでしょう。ヨセフはマリヤに対する不信と怒りに燃えたと思います。きっと、ヨセフは辛かったと思います。眠れない日々が続いたと思います。なぜ、神はもっと早く、ヨセフに現われて、マリヤの聖霊による受胎を説明しなかったのでしょうか?ここで神はヨセフを試練に合わせたのです。それは、彼にとって必要な大切な試練でした。そうです、ヨセフの決断を見て、神は彼に現れたのです。ヨセフは悩みぬいて、御心を求めて祈ったでしょう。そして、この決断を心に決めました。マリヤを内密にさらせようというのは、ヨセフは悩み抜いた末の決断だったでしょう。しかし、主は、そのタイミングで、ヨセフに夢の中でお語りになりました。なぜかというと、神は、ヨセフがその決断に至るのを待っておられたのです。ヨセフは、正しい人でした。すなわち、律法を厳守する人でしたが、同時にあわれみ深い人でした。神は、ヨセフにテストを課したのです。同様に、神はわざと私たちに悩みと苦しみを通らせることがあるということです。それはテストのためです。また、神がこの時まで、ヨセフに黙っておられたことのもう一つは、ヨセフに訓練を課すためでした。それは、ヨセフが今後、救い主とその母を守り、救い主を亡き者にしようとする様々な攻撃の矢面に立つことができるための訓練でした。悩みと苦しみは訓練であったと言えます。神は私たちを、悩みと苦しみ通らせることがあります。それは、試練と言えます。またそれは、訓練でもあるのです。試練は同時に訓練です。それを通った先には、いのちの冠、いのちの実を結ぶものとされるということです。ヨセフはこれを通して、神への信仰とマリヤへの信頼を堅固にさせられたでしょう。また、それにより、ヨセフは神から、救い主イエス・キリストの父親としての使命と資質を与えられたのです。神は悩みと苦しみを通させることにより、私たちに使命を与え、さらに、私たちを信仰と愛に生きるものと変えてくださるのです。

神のくださる身分と使命に生きる:

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いています。そうです。イエス・キリストこそご自身に来るものをその罪から完全にお救いになれるのです。現在、イエス・キリストにより、すべての人は救いと祝福を受けることができます。救いは、罪と死と悪魔からの救いです。すでにここにおられるすべての方々に無償で提供されています。この救いと祝福は、受け取るだけであなたのものになります。また同時に、キリストを受け取るあなたには、身分が与えられます。それは、神の子、御国の世継ぎです。ヨセフはダビデ王の子孫でした。しかし、この当時、ダビデ王の子孫と言っても落ちぶれていて、ヨセフには王家の地位も富みもありませんでした。ダビデの子孫と言っても世的にはとるに足らないものとされていました。ここに、世の与える身分と神のお与えになる身分は、全く違うということが示されています。イエス・キリストを信じた者は「神の子とされる特権を与えられた」とヨハネに書いています。今、あなたが自分自身はこの世では取るに足りない存在と思っておられるかもしれません。しかし、神はあなたを、ダビデの子、神の子、御国の世継ぎとして見ておられるということです。ヨセフはこの後、救い主神の子キリストの父親としての身分に生き、その役目を立派に果たしました。救い主の父親としての身分と使命に生きたのです。また、彼はマリヤと同様に謙遜と献身の生涯を送ったと思います。私たち信者も、神が下さった身分に生きるべきです。卑下することはありません。ヨセフやマリヤのように、私たちにも謙遜と献身の生涯があるのです。神から与えられた身分と使命に生きることです。

イエス様は光としてあなたのうちに住まわれる:

イエス様は30歳になられて、郷里のガリラヤ地方で宣教を始められました。その当時の社会状況について、マタイは「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と書いています。ここに人々の霊的状況があります。これは、現代社会に生きるすべての人の霊的状況であると言えます。なぜなら、いのちの基となる造り主から断絶しているからです。そこに神が光として来てくださったのです。イエス様は光としてこられています。「インマヌエル、神が共におられる」というのは、あなた自身がその光をもって生きることができるということです。それは決して消えない光です。また、その光はあなたのうちに住んであなたを明るくします。このクリスマスに是非、その光をご自分の内にいただいてください。