死といのちの試練

2017年11月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

<要約>

試練の意義:

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、試練を喜びなさいというのです。キリストの栄光が表われるとき、喜び踊るものとされるからです。キリストの苦しみにあずかれることなので、喜びなさいとあります。苦しみを通って喜びがあるということです。聖書は、「苦しみを通してあたえられる喜び」について多く語られています。次に、試練に耐えるものには、いのちの冠が与えられるとあります。試練によって鍛錬された信仰は、終末あるいは再臨の時には称賛と光栄と栄誉となるのです。聖書は試練を嫌なこと、マイナスなことと教えていません。試練は、むしろあなたの信仰を強め、鍛錬するものであります。試練に耐えてきた人には、信仰がゆるぎないものとなるのです。すなわち、「試練は信仰を育てる」。金が精錬されて、混じりけのない純金になるように「あなたも試練によって、純真で素直な信仰の持ち主」となるのです。信仰がなければ神に喜ばれないとあるように、神はあなたの素直な純真な信仰を求めています。試練は信仰を造るのです。パウロはローマにいるクリスチャンたちに、自分は艱難や試練も喜んでいると伝えました。それは艱難や試練があなたの人格を練り、最終的に朽ちない希望をあたえられるというのです。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。決して揺るがないものはありません。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。しかし、神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

ひとり子をささげる父の涙:

神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言って声をかけています。イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神は、アブラハムを信頼していました。そして、これから課す試練がアブラハムにとってどんなに苦しい、つらい試練であるか、知っていました。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。「アブラハムならきっと、この試練に耐える信仰を持っている」と思っておられたでしょう。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神のひとり子イエスを、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけさせることです。アブラハムへの「あなたの子、あなたの愛するひとり子」の言葉に、神は「わたしの子、わたしの愛するひとり子イエス」への御思いを重ねておられたのでしょう。そこに、父の苦しみ、そして、父の涙を見ます。アブラハムに重ねられた神の苦しみと涙です。イサクをささげたアブラハムは、イエス様をささげた父なる神の型です。父なる神の動機は何でしょうか。それはあなたへの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いて、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

死を通していのちに至る:

神は、人類を罪と死と悪魔から救うために無実の御子キリストに、十字架で人の罪を背負わせてなだめの供え物として死に渡されました。ですから、神が成してくださったその救いは完全です。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされるのです。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、堕落前のアダムのように、死がなくなり、そのまま永遠に生きるものとされたらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は支配ではなく、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。私たちはこの肉体にいる間は様々な重荷で苦しみ悶えています。「天からの住まい」は復活のからだです。この地上の幕屋が壊れて、すなわち死を迎えて、復活のからだによみがえるとき、死がいのちに飲まれるのです。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなります。死を通過して永遠のいのちに入るのです。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、それが発覚して絞首刑に処せられました。ヒットラーが自害する約2週間前のことでした。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。わたしたちには、この地上で苦しみがあり、悲しみがあり、嘆き、そして死があります。だから、イエス様も、「こころみに合わせないで悪からお救いください」と主の祈りで祈るようにわたしたちに教えています。神は信者をいつも守ってくださいます。また、神は、哀れみと慰めのお方です。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。なぜなら、神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。そればかりでなく、すべての苦しみと死を通って蘇られた方、主キリストはどんなことがあっても失望に終わらない希望をお与えくださいます。

信仰と行い

2017年11月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙4:18~25、エペソ人への手紙2:8~10
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

<要約>

信仰による義:

アブラハムは「からだは死んだも同然」で、「サラの胎も死んでいた」にもかかわらず、その信仰は弱まりませんでした。「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」アブラハムはイサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたとき、「イサクの復活」を信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたと書いています。それが、信仰義認です。行いではありません。信じる者は、神の前で義と認められるのです。すなわち、神の前で、罪なしと判定されます。アブラハムが死人を生かす神を信じて義とされたように、私たちもイエス様を死者の中からよみがえらせた方を信じることで義と認められるのです。義は、人として正しいことではなく、神の目から見て正しいという意味です。人が見て正しい人は、いくらでも周りにいます。しかし、神の目から見て正しい人は誰もいないと聖書は言います。すなわち、罪のない人は一人もいない、というのが聖書の主張です。でも、罪のない神のひとり子であるイエス・キリストが全人類の罪を一手に背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、信じる者は価なしに義、罪無しと認められるのです。アブラハムは、やがて来られる救い主キリストをはるかに仰いでいたのです。そうしてアブラハムは、後に次ぐ人々が、キリストの贖いと復活を信じる信仰により救われることの先駆けとなったのです。私たち信者は、律法である十戒を守ることによっては救われず、信仰によって救われました。また、人は律法の行いによってはひとりも義と認められない、とあります。律法の中心は十戒です。ですから、十戒を行おうとすると、できないことが分かって反って、自分の罪を指摘されます。では、人間が守ることができない十戒は努力目標なのでしょうか。「どうせ十戒は守れないから、罪を犯してもいいのだ、イエス様が赦してくださるから努力目標として日々精進すればよい」、のでしょうか。これは否です。十戒は努力目標ではありません。守れないあるいは守らない者は罪に定められます。神の怒りがその上にあります。しかし、幸いなことに、イエス様の十字架の贖いを信じて神の義をいただいたものは、神の怒りから救われています。すなわち、自分を救おうとすることから自由になっています。もともと、救いは私たちの内側にはなく、救いは外にあるといいました。神がすべて用意してくださった救いの道です。では、律法である十戒はどういう意味になるのでしょうか。クリスチャンには要らなくなるのでしょうか。そうではありません。自分を救うことから自由になったクリスチャンにとって、十戒は愛する神の御心なので、ますます、慕わしいものとなります。私の足の灯、私の道の光、さらに道しるべともなります。私たちが道に迷ったときに、行先を示すガイドラインともなるのです。

良い行いに召される:

救いは「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。行いによるのであれば、できる人とできない人、行える人と行えない人がでるでしょう。そうすると、できる人、行える人は自分を誇ってできない人を見下すようになります。救いが、全く行いによるのでなく、自分たちから出たものでなければ、だれも誇ることはできないということです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。神の作品という意味は、キリストによって再創造された、新しく造られたということです。古い自分が改善されてよくなったのではありません。古い自分が死んで新しく生まれ変わったのです。次に、「私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをも予め備えてくださったのです」と書いています。私たちが、神の作品とされた理由がここにあります。良い行いに歩むためです。そして、そのよい行いも予め備えられているというのです。ここで間違えていただきたくないのは、良い人と良い行いの関係です。良い行いが良い人を造るという考えがあります。それは間違いです。良い人が良い行いをするのです。良い実は良い木からとれるのと同じです。キリスト・イエスにあって義とされた新しい人は神の作品ですので、神の召しに従って、良い行いをするのです。信じて救われ、洗礼を受けた人は、すでに傷のない神の子どもです。なぜなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられているからです。もう救われるために努力する必要のない人たちだからです。世の光として輝くことのみです。クリスチャンも悩みは当然あります。しかし、よく考えてください。救われているのです。すなわち、サタンの支配下ではなく、キリストの支配下に移されています。そして、罪赦されて永遠のいのちを与えられています。クリスチャンは、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。クリスチャンは世の光です。また、マタイの福音書では、「地の塩」であるとも言われています。その自覚に立っていただきたいと思います。ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。隣人によりよく仕えるために自分を磨かなければなりません。自分に愛を課していくのです。怠慢はいけません。次に、「良い行いをも予め備えてくださった」というのは、神は私たちが隣人愛の実践をする場所を備えてくださっているということです。私たちはそれぞれ、複数の身分と立場を与えられています。ある方は母であったり、同時に職業婦人であったり、妻であったり、教会では役員であったりです。それは神がその人をそれぞれのところへ召していてくださるということです。私たちが召されている場所は、大きく分けると主に三つあります。教会、家庭、職場です。神が召してくださる領域に、重い軽いはありません。どの領域にも等しく召されているのです。ですから、職場を重んじて家庭をないがしろにしてはいけません。また、教会を重んじて職場をないがしろにしてはいけません。同様に教会を重んじて家庭をないがしろにすることもいけません。それぞれ逆も同じです。それぞれにクリスチャンとしてベストを尽くすことです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前で義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。それが、クリスチャンライフです。

人間中心VS神中心の人生

2017年11月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記19章1~29節
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」
19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

<要約>

三通りの生き方:

最初に、「アブラハムの生き方」は、信仰の父と言われるように、信仰者の良いモデルです。アブラハムは失敗もしましたが、神を信じ崇め、信仰に堅くたった人です。アブラハムの生き方は、神を人生の中心に置く生き方です。どんなに望みが見えなくなっても信じ続ける生き方です。神の全能を疑わない生き方です。神の約束を疑わない生き方です。アブラハムは何を見て喜んでいたのでしょうか。そうです、天の故郷を見ていたのです。ここに、信仰者として生きる者が見定めるゴールが見えます。次に、ロトの生き方を見てみましょう。彼の心にはむなしさがあったと考えます。魂に空洞があったのです。世の罪に流されてここまで来てしまったのです。門のところに座って、夕陽を見ながら、取り返しのつかない過去を回想していたと想像します。アブラハムと別れて目で見て良い場所選んで生活してきました。しかしそこには幸福はなく、心満たされることがなかったのです。かえって心を痛めることを多く見てきました。しかし、ロトは、自ら真剣に神様を求め、神様に近づこうとしたことは一度もなかったのです。ロトは、そこで、二人の旅人を見つけ、何かを直感したのでしょうか。「彼らを見るなり、立ち上がって、彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」とあります。そして、彼らにロトの家で食事をして泊まるように誘いました。ロトはそれまで得た資産を手にしてソドムの街に住むようになったのです。しかし、ロトはソドムの住人の無節操な好色な振る舞いに悩まされていました。しかし、そこでの生活には経済的な面など外面的な豊かさもあって、ロトはそこで安逸をむさぼっていたのです。ロトは神様を頭では知っていました。しかし、彼はアブラハムの様に神様と出会っていなかったのです。ロトの一家はソドムとの罪の関係を深めて、滅びの道を歩んでいたと言えるでしょう。心が神から離れると、罪の世界に引き寄せられて、世の中の不道徳や悪の流れに流されてどこまでもいくのです。ロトは、神より地上の生活を優先し、自分の考えを中心して生きる生き方の例です。もう一つの生き方の例は、ソドムとゴモラの人々です。ソドムは性的倒錯、罪に汚れた町でした。ソドムの住人はよこしまで、主に対して非常な罪人であった、と書かれています。ソドムは不道徳で悪が満っていた町でありました。しかし、そこでの人々の意識としては、悪に慣れて、悪を悪とも思わない、それが日常となっていました。しかし、彼らには真の神を礼拝し崇める生活はありませんでした。すなわち、神から離れた人間は、人間中心の日常生活を送っているということです。現代社会人の生き方の原動力となっているのは、人間中心主義です。ヒューマニズムです。これははっきり言って悪魔の考えです。人間を中心に持ってきて神を蚊帳の外に置こうとする意図がこのことばにあるからです。聖書によると、福音を拒み続けるならば、現代社会の人々はソドムやゴモラの人々より裁きの日には罰が重いといえます。現代社会を考えると、神から離れた人類の歩みの姿が見えてきます。人間は罪の性質を変えることができないのです。世界中に憎しみが増強しています。人類は教育によっても、憎しみの連鎖を断ち切ることはできません。ソドムとゴモラは特別な街ではなく、創り主から離れた人間の姿を表しているのです。

神の愛と怒り:

聖書を読むと、神の二つのお姿に出会います。一つは、愛とあわれみの神です。神は、哀れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みと真に富んでおられる。また、罪びとをすぐに滅ぼそうとしないで、忍耐と寛容をもって悔い改めるのを待っておられるということです。

それでは、もう一つの神のお姿は、怒りの神です。この二つのお姿はどちらも神の真実なお姿です。神は聖いお方です。聖なるお方です。神の聖さからくるのが神の正義です。それは、どんな小さな罪をも赦すことができません。必ず裁きます。すなわち、裁きの神は焼き尽くす火です。もう一つは、神は愛とあわれみの神です。人を愛し亡んでしまうのを惜しんで、どんな罪をも赦す神です。

赦すため主の十字架:

では、愛し赦す神、怒り赦さない神の相矛盾している二つのお姿にどのように神は筋を通されたのでしょうか?それが十字架です。罪のない神が人となって、人の罪の身代わりとなって神の怒りをひとえに受けてくださったのです。信じる者は神の怒りを免れて、救われて神の愛の中に生きることができるのです。聖書は救いの書です。同時に聖書は警告の書です。ロトの娘たちの婿はソドムの裁きと救いの警告を聞いて、彼らは「冗談のように思われた」と書いています。そこに悲惨があります。警告を無視しました。恐ろしい落とし穴に落ちたのです。また、聖書は救いの書です。ここに救いの道があらわされています。家族、友人、知人に警告と救いを知っている私たち信者はもっと伝えるべきではないでしょうか。ロトは優柔不断で世に流されていく人間でした。しかし神はアブラハムのとりなしの祈りにこたえて、神様は彼を滅びの中から救い出してくださいました。同様に、わたしたちも、周りのこのままでは滅んでしまう方々に、福音を伝え、とりなしていきたいと思います。

アブラハムのとりなし

2017年10月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記18章16~33節
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

<要約>

祝福を届ける器となるには:

アブラハム契約には三つの内容があります。一つ目は、アブラハムと子孫の祝福です。彼の子孫を増やし大いなる国民とすることです。二つ目は、アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪うというものです。三つめは、地上のすべての民族はアブラハムによって祝福されるというものです。このアブラハム契約はキリストによって成就し、現代もクリスチャンによって全世界で更新されています。一つ目の約束はどう成就したでしょう。アブラハムの信仰による子孫であるクリスチャンは全世界に無数に広がって、御国の大いなる国民となっています。二つ目の「アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪う」というのはどうでしょうか。イエス・キリストを信じ愛するものを神は祝福し永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを呪うものには死と滅びが定められるということです。三つめは、アブラハムを通して、全国民を祝福するということです。今日の箇所は、その契約の実現のためにアブラハムが用いられたところです。アブラハムは滅びようとしているソドムとゴモラの町の人々のためにとりなしの祈りをしました。アブラハムは神の声を聴いて神に応答しています。心にある思いを神に申し上げています。祈りの奉仕は祝福の奉仕と言えます。ソドムの人々の救いのために、また、甥のロトの救いのためにとりなしています。アブラハム契約の三つ目は、クリスチャンは祝福の基となるというのです。さらに言えば、「クリスチャンは祝福を届ける器」といえます。クリスチャンの皆さんがいるところで、あなたの家族知人友人に祝福が届いていくというのです。神はあなたのいるところであなたの周りの人々を祝福しておられるのです。どのようにあなたは周りの人々に神の祝福を届けているのでしょうか。第一に祈りによってです。第二に、あなたの良い行いによってです。キリストがあなたを赦してくださったようにあなたも隣人を赦します。赦しは祝福です。第三に、あなたが周囲の人々に祝福を届けるのは、あなたの聖霊の実によってです。聖霊によってあなたのうちに形づくられたキリストがあなたを通して人々に表われていくことです。第四に、神の祝福を届ける器となるためには、イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受けることです。クリスチャンはイエス様の十字架の血潮にて罪赦された人です。私たちは悔い改めて罪赦された時、大胆に神の前に出ることができます。そして、神の祝福を届ける器とされるのです。

祈りは神を動かし世界を変える:

それでは、アブラハムのとりなしの祈りを見てみましょう。アブラハムはこの祈りで神の御心を探っています。私たちも日々、神の御心を求めています。祈りはキャッチボールです。思いを申し上げて、御声に霊の耳を傾けます。みことばを思いめぐらします。また、祈りつつ聖書を紐解きます。神は聖書の言葉を用いてあなたに語ります。また、この祈りによってアブラハムは神のあわれみを引き出しています。クリスチャンは祈りによって、神のあわれみを引き出すのです。神は裁きを遅らせています。罪人が悔い改めるのを、忍耐を持って待っておられるからです。結局、ソドムには10人も正しい人はいなかったのです。ついには燃える硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、アブラハムの祈りによってロトと家族が救われました。このようにとりなしの祈りは神を動かすのです。神は、私たちのとりなしの祈りを求めておられます。神は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われました。そして、神はご自身のみ思いを話して、アブラハムがとりなしの祈りをするように仕向けたのです。同様に神はクリスチャンのとりなしの祈りを求めています。神はクリスチャンの祈りを聞いてみ心を表わそうとしておられます。神は哀れみの神です。人を愛しあわれみ、何とか救いたいのです。罪を赦し永遠のいのちを与えたいのです。その為に祈るクリスチャンを求めています。また、救われていない家族友人知人のために祈るあなたを求めています。

主イエスは罪を担いとりなしてくださる:

私たちが神の前に出てとりなすことができる根拠は何でしょうか。人間は、自らの罪により神の前に出ることはできません。旧約の民は、神を見たら死ぬと信じていました。預言者や祭司だけが、神と語らうことができました。しかし、一般の人々はその罪ゆえに神に近づくことができなかったのです。今は、イエス様が十字架により神と和解させてくださったので、信じる者は誰でも大胆に神と語らうことができます。すなわち、現代ではクリスチャンは万民祭司として、神に人々の罪をとりなすことができるのです。さらに、罪のないイエス様が、人の罪をあたかも自分の罪のようにして、代わりに担ってくださいました。そして、十字架で自ら苦しんでくださり、死んで三日目に復活し天に昇り、神の右の座についておられます。イエス様は昼夜問わず、私たちのためにとりなしていてくださるとあります。ですから、あなたは自分の罪や弱さを大胆にキリストに持っていくことです。

神は私たち信者の祈りによって動かされ、みわざをなしてくださいます。そして、信者はキリストの救いと祝福を届ける器として召されているのです。

アブラハム契約

2017年10月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記17章1~6節、18章1~15節
17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

<要約>

神の約束を受け取るためには:

アブラハムに神が現れて、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」です。それは、アブラハムと子孫を祝福すると言うのです。それに対して、アブラハムの方は神に信仰をもって従っていくのです。そこに契約が成り立ちます。その契約が、イサク、ヤコブへとそして聖書の登場人物へと次々に更新させられていくのです。ついには、イエス・キリストによって契約が完成しました。一方的なアブラハムへの約束はキリストによって完成しました。そして、これまでの一民族への約束が、今度はイエス・キリストによって全世界の人々への約束に広がり、そしてあなたにも及んでいるのです。私たちがアブラハムへの約束を受け取るには、どうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。神の前で全き者となるのです。それは、神との関係を正す生き方と言えます。神を恐れ、愛し、信頼することです。神を恐れているなら、私たちは襟を正して、神の前を歩むのです。神の前で真実を尽くします。同時に隣人に対しても真実を尽くすのです。罪を離れて、悪から遠ざかろうとするでしょう。また、神を愛しているのならば、神の喜ばれることを考えて行動します。愛する人のことを考えるのは喜びであり楽しいことでしょう。私たちは、いつも愛する人を心の中において、愛する人が喜ぶことを考えるものです。同様にあるいはそれ以上に神を愛しているなら、常に神を思い、神を喜ばせることを考え実行します。また、もし神を信頼しているのなら、目の前の出来事に振り回されることなく嘆いたり怪しんだりしないのです。神が万事を益と変えてくださることを信じ信頼するのです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に代えることです。

人を罪の呪いから救うために:

神は不妊の女性であるサラの胎を開かれました。そして90歳にしてイサクを出産したのです。これは、不可能を可能にする神の御技です。神は約束を果たされました。そして、アブラハムも神のご命令通りその子をイサクと名付け8日目に割礼を施しました。イサクは、アブラハム契約の実現の初穂となりました。アブラハムを通してすべての民族が祝福されるという約束が、彼の子孫を通して実現していくのです。イサクは不妊のサラから生まれたことでキリストのひな型です。イエス・キリストは生まれるはずのない処女マリアから生まれたからです。イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。当時の非常な長寿の時代でも90歳の出産は奇跡と言えます。でもこれは、ありうる奇跡です。とにかく、イサクは男と女から生まれた私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったので、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったことです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。なぜ、このようなことが起こらなければならなかったのでしょうか。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきています。生まれながらの罪人です。すべての人の持って生まれた罪の性質により、一人も神の前で、罪なしと判定されることはないというのが聖書の言うところです。ローマ書3章を見ます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このように、人間から生まれたすべての人は罪を持っているのです。それゆえに、そのままでは呪いの下にあり、神からの栄誉は受けられないのです。しかし、神様は罪の呪いの下にある人間をあわれんで救おうとなさいました。罪の呪いの下にある人間を救うためには、罪のない者が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。それが、イエス・キリストが受けた十字架です。生涯一度も罪を犯したことがない人、それが救い主イエス・キリストです。キリストの無罪性はどこから来ているのでしょうか。それは、マリアが聖霊なる神によって身ごもったことから来ています。イエス・キリストは人間としてお生まれになりましたが、同時に罪のない神としてお生まれになったのです。人を罪の呪いから救うために、無実の神が人となって代わりに呪われてくださった。そして、わたしやあなたのために呪いを祝福に、滅びを救いに代えてくださったのです。

救いと祝福を届けるために:

アブラハムの多くの国民の父という身分は、実は、イエス様が創り主である神を天の父と呼んだのと関係あります。イエス様以来、私たちも神を父と呼びます。神は、すべての人の父です。ですから、アブラハムは父なる神の型、タイプと言えます。名前、あるいは呼び名は、その人の働きや使命を表しています。では、クリスチャンの身分と使命は何でしょうか?Ⅰペテロ2章を見てみましょう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ここに私たちクリスチャンの身分と使命が書いています。「選ばれた種族」、「王である祭司」について、祭司は神と人の間に立って人の罪を神にとりなす人です。クリスチャンは、隣人のことを神にとりなす役目を持っています。王は権威と権力の象徴です。ですから、クリスチャンはみことばの権威に立って、隣人のために神にとりなす人々です。そして、その役目は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と書いています。すなわち宣教です。神がキリストによって完成してくださったこの「救いと祝福」をまだ、それを知らずに滅びに向かっている人々に宣べ伝えることが私たちの使命です。あなたの周囲の人々は依然やみの中にいるのです。どんなに世の中で豊かに有意義に楽しく暮らしている人々も依然やみの中にいることを知ってください。なぜなら、彼らは自らの罪によって呪いの下にあり神の栄誉を受けるには程遠い存在だからです。私たちは神の愛をいただかなければいけません。そして、その愛に押し出されて、キリストの救いと祝福を宣べ伝えていくのです。

試練を通して成長する

2017年10月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

試練と成長の正の連鎖:

エジプトで、妻サライを自分の妹と偽ってパロをだましたという失敗をしましたが、悔い改めて主に立ち返ったのです。自分の罪を覚えさせられたと同時に、自分の知恵や力で事を勧めようとする生き方が砕かれたのです。アブラハムは苦しみに会いましたがさらに謙遜を学んだのです。試練や苦しみは、マイナスではありません。それを通して、謙遜にされます。そして、神のあわれみと忍耐そして愛を知るのです。一難去ってまた一難という状況が発生しました。今度は持ち物が多くなって、アブラハムと甥のロトとの間に摩擦が生じたのです。彼らのいる土地は一緒に住むには十分ではなかったのです。アブラハムがロトに言ったことは、信仰に立った懸命な申し出でした。年長者として当然あるはずの選択権をロトに譲って尋ねました。ソドムとゴモラの地は滅ぼされる以前であったので、主の園のように、また、以前、滞在していたエジプトの地のように肥沃で潤っていたのが目に映ったのです。ヨルダン川の水により緑豊かな牧草地が広がっていたと想像します。ロトは、アブラハムの提案を聞いて、見た目によい方を選んで東の方へ移動しました。ロトと別れて後、アブラハムに主のことばがありました。神は、アブラハムにもう一度、子孫を地のチリのように増やし、その土地を永久に子孫に与えるといわれました。神は、祝福の約束を折々にアブラハムに語りました。折々に、神は約束をアブラハムに思い起こさせて、そして、彼は主を礼拝したのです。ここに、クリスチャンライフのヒントがあります。私たちがみことばを聞いて従う、すると神はみ心を示される、そして、神を礼拝する、信仰によって約束を受け止める、ということです。そこに、クリスチャンライフの成長のサイクルがあります。試練が起こるとみこころを求めて祈ります。すなわち礼拝します。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練に会うとこのサイクルを繰り返すのです。アブラハムは、成長の正の連鎖、成長のサイクルにあって信仰の成長を遂げました。アブラハムの最大の試練と勝利は、なんといっても、イサクをモリヤの山で主にささげたことでしょう。ここで、アブラハムは何を得たのでしょうか。アブラハムは、神からイサクをささげるように言われました。それはイサクを殺して全焼のいけにえとすることでした。イサクは死んでしまう。しかし、神はイサクを通して子孫を増やすといわれた、その矛盾に苦しんだと思います。そこで、アブラハムは、イサクが生き返ることを信じたのです。アブラハムが信仰によって、成長して、ついには復活の信仰を得たということです。私たちはみことばにより、復活を信じています。これは、アブラハムに与えられた信仰は御子キリストによって成就しました。そして、今後、すべての信じる者に成就するのです。

不信仰と堕落の負の連鎖:

アブラハムはロトに土地選びの優先権を与えました。それに対して、父なき後、これまで面倒を見てもらったアブラハムに感謝を表すことなく、また、神に祈ることもなく、ロトは躊躇なく目を挙げて、ヨルダンの低地全体を見渡したのです。目に見えないことより目に映る有利な物に心を置いているロトの姿が見られます。彼の心の中心にあったのは、神の栄光ではなく、自分の欲得でした。神を喜ばせることより、自分の利を求めて歩む人でした。ロトは邪悪な都市ソドムにいつの間にか住むようになったのです。邪悪な人々の住むところへとひきつけられていったのです。それは、神から離れた歩みです。ソドムはこの後、火と硫黄によって滅ぼされました。ロトとロトの家族はアブラハムの祈りによって、町が滅ぼされる寸前に救出されたのです。結果的に、ロトはすべての財産を失い、二人の娘だけを連れて山に逃れたのです。そして、ロトは、モアブ人とアモン人の先祖となるのです。双方ともイスラエルの敵となるのです。ロトは不信仰と堕落の負の連鎖に陥ったのです。聖霊に従うことなく自分の古い罪の性質に従う人です。アブラハムの下で神の約束を受けることもできたのに、世に埋没して、しまいには信仰を失ったのです。

天の都、キリストの支配に生きる:

アブラハムは、もう一度、神の約束をいただき、約束の地を縦と横に歩き回り神が与えてくださる相続の地を確認しました。そしてヘブロンに天幕を移して、そこに主のために祭壇を築きました。今後、アブラハムはこのヘブロンを拠点として、活動することになるのです。このヘブロンはやがてダビデがイスラエル王朝を確立した場所になります。すなわち、アブラハムへの約束の成就と言えます。しかし、まだ、カナンの地ではアブラハムは寄留者でした。これは何を意味しているのでしょうか。へブル11:9,10 にヒントがあります。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない」、それは神の民の姿です。そこでは寄留者でありました。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」とイエス様が言われました。クリスチャンは「世にあっては旅人であり寄留者」と書いてある通りです。アブラハムは「かたい基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。その都を設計し建設されたのは神である。」とある通り、彼はやがて来る神の国を意識していたと思われます。クリスチャンは、この世の中に生きていますが、神が設計して、キリストが十字架と復活で打ち立てられたキリストの支配する天の都に属しています。そして、信じる者はやがて時至って、黙示録にあるように天のエルサレムと言われる御国へと招かれているのです。これは何と驚くべきことでしょうか。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、実は、私たち信者の歩みを予め示しているのです。

アブラハムの失敗

2017年10月 8日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章10節~13章2節
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

<要約>

アブラハムを失敗へと招いたこと:

アブラハムは、妻サライが非常に美しいので、エジプト人はサライを自分のものとしようとして、夫のアブラハムを殺害するのではないかと恐れました。そこで、サライには、アブラハムの妹であると言ってくれと頼みました。そうすれば、自分のいのちは守られて、かえって妹のゆえに自分は利益を受けるだろうと考えました。アブラハムはその嘘のためにパロから多くの財をもらうことになったのです。アブラハムが妻サライを妹と嘘をついて、失敗へ招いた原因は、恐れと富みの誘惑です。悪魔は彼を恐れと富の誘惑で失脚させようとしたのです。アブラハムほどの人が、なぜ、失敗したのでしょうか。それは、まず、神に祈らなかった、神に伺わなかったからと言えます。クリスチャンはどんなときにも祈るべきです。そして、み心を求めて聖書を紐解くのです。聖霊は聖書の言葉を用いて、信じる者に語ってくださいます。クリスチャンには三つの敵があります。一つは、サタンと言われる悪魔です。あなたを神から引き離そうと知恵を働かせています。二つ目は、この世です。世は、神への尊敬を持ちません。世の本質は不遜です。三つめは、あなたや私の内側にある罪の性質です。神の利益より自分の利益を大切にします。神に栄光を帰すのではなく、自分に栄光を与えようとします。私たちは常にこの三つの敵を意識しながら信仰の戦いをしていかなければなりません。

人の失敗と神の約束:

サラを召し入れたパロとその家族は主によって、ひどい災害に痛めつけられました。それは別訳では疫病です。その罪を離れて、パロは神の裁きを免れました。神がアブラハムの嘘がもたらした悲惨で恐ろしい結果をあわれみによって免れさせてくださったのです。アブラハムは、このままでは神の祝福を完全に失います。当然、アブラハムとサラの夫婦関係も破壊されるでしょう。そして、アブラハムは自分の妻を娼婦にまで落として、自分の利をむさぼるような人間にまで落とされてしまうのです。聖書は人間をありのままに描いています。神はアブラハムを選び、彼に祝福の約束を与えられました。また、神はアブラハムの名を「多くの国民の父」とまで高めてくださいました。その様な人間がこれほどまでの失敗を犯してしまうのです。アブラハムの失敗にかかわらず、神はご自身の約束を守られました。彼の失敗を逆に用いて、もう一度アブラハムをカナンの地に戻されたのです。神はご自身の計画を着実に推進される方であることがわかります。神は哀れみの神です。それでも、神は正しい方ですから、不正を見逃すことができません。ですから罪のもたらす裁きである呪いと死はあるのです。しかし、神は罪のために滅んでいく人を惜しまれて、罪のない神のひとり子に人の罪を負わせて代わりに御子を十字架で裁き、信じる者の罪を赦し、呪いを祝福に、死を永遠のいのちに代えてくださったのです。アブラハムは信仰によって義とされたとあります。義というのは罪がない状態です。アブラハムは失敗し罪を犯しましたが、義とされた、罪を認めないとされたのです。それは、神を信じる信仰によったのです。私たちも信仰によって、義とされています。失敗や罪があっても悔い改めて赦されるのです。

罪から救い、出エジプト:

旧約聖書の事件や記事の多くは、来るべきイエス・キリストを予表しています。例えば、ヨナ記の記事で、ヨナが大魚の腹の中で三日間いたのは、キリストがよみに三日間おられて復活したことを予表しています。イスラエルの民が航海を渡ったのは水のバプテスマを予表しています。アブラハムがモリヤの山で、イサクは死者の中から取り戻されました。これはキリストが死者の中から復活した型です。このように、旧約聖書はいたるところでやがて来られるキリストを予め示しています。また、旧約聖書の様々な事件や記事がその後のイスラエルの民の辿ろうとしている道を予表しています。今日のこの事件も今後のイスラエルの民が辿ろうとしている道を暗示しています。すなわち、この後、数百年後にイスラエルの民に起こる出エジプト事件です。孫のヤコブの時代に七年に及ぶ大飢饉が起こりました。その時、ヤコブとその家族は男だけで70人の大家族となっていました。ヤコブは彼らを連れてエジプトで寄留生活をすることになったのです。そして、それが民にとっては約400年にわたる奴隷生活の始まりとなったのです。時至って、ついに、モーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出して約束のカナンの地に向かうのでした。この歴史的事件は、出エジプトと呼ばれるものです。そして、この出エジプトは罪と死と悪魔の束縛により奴隷とされている人類、そしてあなたを神が救出することを示しています。そして、あなたを約束と祝福の地、あるいは天のみ国へ導くための神のわざを予め示しているのです。出エジプトは、あなたが神の救いにあずかることを意味しています。アブラハムは失敗し、つまずきましたが、神の哀れみにより、約束の地、カナンへ戻されました。アブラハムには信仰があったからです。これは、あなたの人生へのメッセージでもあります。あなたも様々な人生の失敗やつまずきも経験して今があると思います。そのたびに主はあなたに対する約束を果たされ、罪と死と悪魔からこの救いに戻してくださっているのです。そこで求められているのは信仰です。

アブラハムの旅たち

2017年10月 1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章27~12章9節
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

<要約>

信仰によって歩み出すとは:

「主はアブラムに仰せられた」と書いています。これはアブらハム契約と呼ばれているものです。彼は、不妊の女サライと、甥のロトとハランで得た家畜などの財産をもって、神の示す地へ、出発しました。へブル書には、「どこへ行くのか知らないで、出かけた」と書いています。「生まれ故郷、父の家を出て」と。これは、信仰による旅たちでした。郷里も親類縁者も捨てて、行先もわからないまま出ていくのはどんなにか勇気のいることでしょう。アブラハムの信仰者としての歩みは、この神の仰せに素直に従ったということから始まります。ここに信仰の父と呼ばれる人の歩みが書かれています。まず、彼は神の約束を握って、偶像と偽の神々が支配する世界から出て行きました。これは決別です。御声にしたがったのです。信仰にはこの決別が要求されます。サタンが支配するこの世から決別するのです。罪の世からの決別です。この世の悪い習慣からの決別ということもあります。特別に悪い習慣がなくても、目に見える世の価値、お金、地位、名誉などへの執着から決別して、目に見えない神を信じる、神に従う決心をすることです。聖書が言う神は、天地万物をおつくりになって、全世界を治めておられる一人の神です。人は、太陽や月などの被造物を神としたり人間や動物を神としたりしてしまいます。人間は自らで神を見出すことはできません。神の方でご自身を現わしてくださったのです。神が人となってご自身を現わしてくださったのです。それが、イエス・キリストです。偶像は、いわゆる像ばかりではありません。あなたが、寄りかかっているものです。それがないと生きていけない、倒れてしまうものです。偶像は、世界にあふれています。あなたの心をひきつけて、けっして、真の神に心を向けさせないように働くものです。サタンはこの偶像を足掛かりとしあなたを真の神から引き離そうとするのです。アブラハムへの神の約束は、神から一方的な恵みと祝福であったといえます。その恵みと祝福にアブラハムは「主がお告げになった通りに出かけた」という行動をもって、従ったのです。みことばに対する信仰の応答は、従うということです。信仰によって歩み出すとは、罪の世から決別して神の約束を握ってどこまでも神を信じて従っていくことです。また、信仰によって歩み出すとは、「どこへ行くのか知らないで出ていきました」とある通り、チャレンジの人生です。

アブラハムに学ぶクリスチャンライフ:

アブラハムは家族とともに、ハランを出発して、カナンの地に着きました。そして、最初の場所は、シェケムです。モレの樫の木のところまできました。そこにも、カナン人の偶像礼拝があったようです。そこに、アブラハムは、真の神のために祭壇を築きました。神はアブラハムに具体的な約束を与えました。アブラハムに今のパレスチナ地方を約束の地として子孫に与えるといわれたのです。この時点では、アブラハムには約束のみでした。親類はいない、土地もない、子どももいない、無いないずくめでしたが、アブラハムは信仰によって生きていました。信仰とは、約束を信じ続けることです。彼は、この時、75歳でしたが、神はアブラハムの子孫を海辺の砂、空の星ほどに増やすといわれたのです。しかし、約束の子どもであるイサクが与えられたのは、100歳の時でした。アブラハムは、約束が与えられていながら成就を見ることができずに、時には、へこたれて、神のみ思いをうかがうことなく、当時の習慣や人間の考えで動きました。そして、何度も失敗をしました。信仰の父であるアブラハムでさえ失敗しました。信仰者は天のみ国に入るまで、失敗し倒れることもあります。それが現状です。しかし、失敗し罪を犯して倒れても、また、主を仰ぎ立ち返るなら救われるのです。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるとあります。信仰には忍耐が必要ということです。しかし、それ以上に神は忍耐して神の民を赦してくださっているのです。アブラハムは「祭壇を築き」真の神を礼拝し、そして「天幕を張り」カナン人の中で寄留者の生活を始めました。この世にあって生活を始めたのです。これは、クリスチャンは世にあって世のものではない、この世にあっては寄留者であることを暗示しています。すなわち、この世にあっては旅人であり寄留者である、これが、天国を目指して旅しているのがクリスチャンライフです。カナン人たちは、アブラハムを神の司として認識していました。このことからアブラハムは彼らに宣教していたことがわかります。ここに、アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンの生き方が暗示されています。それは、礼拝、社会生活、宣教です。一つ一つ見て行きましょう。一番目に礼拝について、クリスチャンは礼拝の民と言われています。真の神を毎週礼拝します。それは、自分中心ではなく神中心にした生き方です。次に社会生活について、クリスチャンは神の民として社会生活を営みます。社会は隣人愛の実践の場ともいえます。最善を尽くすのです。三番目は、宣教です。クリスチャンには宣教の使命が与えられています。あなたの生きる姿勢を通して、あなたを透かして、人々は神を見るでしょう。

すべての国民を救う神の計画:

神は、アブラハムを大いなる国民としようと言われました。それはイスラエル国家です。そして、「アブラハムの名は大いなる名前となる」です。歴史を通してこれほど偉大な信仰者と呼ばれている人はいないと思います。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」これは、アブラハムに良いことを願い行動する人を神も良くしてくださる、また、アブラハムに悪をはかり敵対する者に神も敵対するというのです。もちろんこの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル民族に及んでいます。また、この約束は、アブラハムの信仰の子孫でもあるクリスチャンひとりひとりへの約束でもあります。「すべての民族はアブラハムによって祝福される。」アブラハムは全民族の祝福の基となるのです。ここにすべての民族を救うための神のご計画が隠されています。神はアブラハムという一人の人を選び、そこから一つの民族を選び、その民族を通して神の祝福と救いを全民族に広げていこうとされました。このことは不思議なかたちで成就しました。アブラハムの子孫のユダヤ人、すなわちイスラエル民族の中からイエス・キリストはお生まれになりました。そして、イエス・キリストにより全世界のすべての民族に祝福と救いがもたらされたのです。イエス・キリストの救いとは何でしょうか。聖書は、言います。「造り主である神から離れた人は生きていても死んでいる」と。つまり、このままでは滅んでしまい、永遠の死を迎えるからです。それは、神から離れた人は真のいのちを失っているからです。しかし、もしあなたが、イエス・キリストを信じて神に立ち返るのなら、生きるのです。罪と死と悪魔から解放されるのです。あなたにいのちを与え、あなたを造ってくださった神がいるのに、これまでその方を認めることなく過ごしてきたことを悔い改めて、あなたの罪をすべて十字架で赦してくださったキリストをあなたがお迎えするなら、あなたは生きるのです。

祝福倍増の法則

2017年9月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

<要約>

主を信頼し忠実に前に進む:

さて、5タラントいただいた人は、特別に多くの才能、能力、そして、富みと財をいただいてあらゆる領域で富んでいる人です。かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。富が大きいとそこには争いが生まれるのです。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。お金も賜物なのに持っていることで自分が偉くなったように思ってしまうことです。そして、罪の罠に陥るのです。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利したのです。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。次に、2タラントを預けられたしもべです。彼は、5タラントもらった人と比べると自分の分は少ないと感じたかもしれません。でも、自分にふさわしく与えられたのです。5タラントもらった人をねたんだりうらやんだりすることもなく、それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。彼も、5タラント預かった人と全く同じ言葉をもって祝福された人です。つまり、この主人は、お金の額を問題にしてはいませんでした。任されたものをどう扱ったかを通して、彼らの信仰と忠実さ、そしてそれに伴う勇気をご覧になったのです。また、彼らが、感謝して賜物を活用していこうとする前向きの姿勢です。それは主人への信頼と愛と言えるものです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。

恐れから神に心を閉ざす人間:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。彼は、1タラント預かって出ていき、地を掘ってその主人の金を隠したと書いています。なぜ、そうしたかが書かれています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」というのです。この人には、主人に対する信頼がありません。この人の問題点は何でしょうか。まず、主人に対する認識が180度間違えています。この主人は、イエス様、真の神を指していますから、愛と哀れみの方です。この人は、神の前で心を閉ざしていた人です。石の心です。神の愛が注がれているのに、心を開いて受け取ろうとしないので、ますます固くなるのです。彼は、規則に縛られて、そこから逸脱することを恐れて何もしない人です。それは、律法学者、パリサイ人たちを示していたとも考えられます。彼らは、謙遜で低い心から神のみ心を求めていたのではありません。十戒を中心とした律法に、自分たちの都合の良い解釈を与えて、自分はこれもあれも守っているから神の前に正しい人間であると主張しました。そして、人民の優位に立とうとしました。つまり律法を、自己主張するための道具としたのです。この1タラント預かった男は、神がいのちと祝福を用意しているのに、恐れと不満から心を閉ざして神を信じない人の姿です。その人は、役に立たぬしもべとして、外の暗やみに追い出されたのです。そして、神からの審判を受けるのです。

神は失われた人の回復のためにイエスを送られた:

神は、人とすべての被造物のために自然界を秩序あるものに作られました。ですから、宇宙は曲げられない法則に沿って運航しています。自然界も秩序と法則によって動いていますので、人は種をまき収穫を得る時期を見極めています。つまり、自然界の秩序に則って人間は安全に豊かに暮らすことができるのです。それと同様に、神は、神と人、人と人、人と他の被造物との関係についても、ルールを定めました。人と他の被造物との関係については、神は人にすべてを管理させました。最初の人アダムには神の掟が書き記された曇りなき良心がありました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。

この5タラント、2タラントを預かった人に起こったこと。主人のことばに積極的に従った二人にもたらされた倍々の祝福は、天のみ国の法則によることです。しかし、アダムは神の戒めを破って罪を犯したのです。その時以来、神が定めた戒めを破ったため祝福の法則から逸脱して死と呪いに向かうことになったのです。1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。アダムが罪を犯して、恐ろしくなり、神から身を隠したように、この人は神を恐れて、穴に埋めたのです。最初の人アダムは恐れを感じたところから罪をおかしたと思います。それは、ただ、神を信頼して生きること、神に自分が裸のまま心をオープンにして生き続けることへの不安と恐れです。彼は、神に代わってすべてのことに対して自己決定権を所有して他者をコントロールすることに強い誘惑を覚えたのです。かくして、人は神との関係を失ったことにより死と滅びに向かっているのです。神は私たちの幸福を願っておられます。律法である十戒は祝福の道を歩むようにと神が堕落した人間の良心に代わってお与えくださった幸せのルールです。それでも、律法の要求は、罪にたいする裁きと死です。神は、一人の人が滅びることも望まず、一人一人のいのちを惜しまれています。そこで、ひとり子であるイエス様をお与えくださいました。律法の正当な要求を主イエスが十字架の苦しみと死によって満たしてくださったのです。イエス様の十字架の死はあなたのためでもあります。そのことを信じるときあなたのすべての罪は十字架にくぎ付けにされます。そして、罪赦されて呪いの滅びから解放され、永遠のいのちを得るのです。また、あなたは、祝福をお与えくださる神に心を開くことです。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、あなたの人生は再び祝福倍増の路線に戻され、感謝と喜びにあふれる人生に入るのです。

天に宝を積むとは

2017年9月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカ福音書12章13~21節、マタイ福音書6章19~20節
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

<要約>

賜物の管理者としての人生:

イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされました。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、人格に満足を与えることはできません。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富まない人生とは、神を認めない人生であるといえます。ですから、自分にあるものを自分で得たものと思うのです。神に栄光と誉を帰そうとしない人です。神のことより自分を優先する人です。結局、寿命が来て、自分のために蓄えたものを自分のために使うこともできなくなったのです。このたとえの金持ちが愚か者と言われた理由は、神のものを自分のものと思っていたことです。私たちにあるすべてのものは、神のものです。造り主のものです。それを自分のものと思っているところに誤りがあります。次に、私たちは何のためにそれらを所有しているのでしょうか。それは、管理するためです。創世記には、地上のあらゆる生き物を支配させるために人を造られたとあります。また、私たちの与えられた賜物を神の良い管理者として、互いのために用いなさいとあります。いのちは神のものであり、神の主権の中にあります。そして、それが私たち一人一人に与えられているのは、様々に与えられたものを管理するためです。金銭を含めて、家も土地も家族も健康もすべてが神から委託されて管理するためであります。

神の前に富む人生:

それに対して、神の前に富む人は、マタイ25章のたとえにあるように、神から預けられた二タラント、五タラントの財産を用いて、それぞれを倍にしたしもべのようです。賜物を豊かに活用した人です。それは天に財を蓄える人です。そして、主人からこう言われた人です。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』そして、そのような人は、(マタ5:29)『さらに与えられて豊かになる』ひとです。具体的には、自分に与えられたところで最善を尽くす人です。神を信じ、礼拝し、賛美して、祈る人です。神の喜ばれることを優先して、家族友人を大切にして、人に親切にする人です。神のわざに励む人です。その人は、キリストと知らずに隣人をもてなす人です。また、賜物と言われる能力や才能も人それぞれです。マタイの福音書25章のタラントのたとえでは、一タラント、二タラント、五タラントをそれぞれのしもべに主人は与えて旅に出かけたとあります。前にも話しましたが、一タラントは6000万円です。神が私たち一人の信者にお任せになっている賜物は決して小さなものではありません。預かった一タラントを土に埋めて、自分には神に用いていただく賜物はない、といった態度をとったしもべを神は怒られました。

私たちクリスチャンは、それぞれが与えられた賜物を思いと力を尽くして十分に用いていただく必要があります。神は、それを三十倍、六十倍、百倍に祝福してくださる神なのです。そこに「持っているものはますます与えられ、持たないものは持っているものまで取られる」という霊的な原則が働くのです。また、財やいのちは私たちにテストとして与えられています。いのちをどのように使うかが試されています。すなわちこの地上に生きている間にそのいのちを神の栄光のために、永遠の御国のために使うか、あるいは反対に、自分の満足、自分の欲のために使うかを神は見ておられます。今ひとたび、私たちは神から委託されたものを用いて主の栄光のために用いたいと思います。それは、別のことばでいえば、天に宝を積むということです。イエス様は地上の宝とはどんなものであるかを示しています。それは、「虫とさびで傷物となり、また、盗人に盗まれていく」ものであるといわれました。すなわち、どんなに蓄えても人の心を満たすものではなく、価値も変わるし一時的なもので、この世を去るときには全部残していかなければならないものだというのです。ですから、永遠に価値の変わらない、持つ人の心を豊かにして、この世を去るときも持っていけるような宝を積みなさいと言っているのです。

神は永遠のいのちを無償でくださる:

人類は、高慢になって神に届こうとバベルの塔を建てました。そこで、神は人のことばを混乱させて、言葉が通じないようにして、その町から人々は散らされました。人類はその事件以来、自分の力で文明文化を築き上げてきました。以来、人は神から離れて、神を認めず、神を意識せず、神なき世界を築いてきたのです。そして、文化や経済が人を豊かにし、人類を平和にし、個人のたましいに平安を与えると錯覚してきました。しかし、人は依然、罪に縛られて自由を得ることができずにいます。人類は平和共存を願いつつも自らの罪の力により争いから解放されることなく現代に至っています。この愚かな金持ちは、神を認めない人間の姿です。その様な自らを救うことのできない人類、そしてあなたを神は哀れんでおられます。神はあなたを、罪と死と悪魔から救い出すために御子イエス・キリストをくださいました。そして十字架という代価を払って贖いだしてくださったのです。あなたはそれを無償で受け取ればよいのです。いのちの主権は神にあります。神は呪いの神ではなく、祝福の神です。是非、神が無償で提供してくださるこのイエス・キリストという宝を思いを変えて受け取って永遠のいのちを自分のものとしてください。