ステパノの殉教と聖霊

2021年6月27日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き6:14、15、7:45~8:1
6:14 『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
7:45 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。
7:47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』
7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。

<要約>
聖霊に逆らって生きる結末

聖霊に逆らって生きる結末は、 頑固になって神のみことばを聞こうとせず、まして受け入れることもない心の態度からきています。私たちは当時のユダヤ人を反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。聖霊はみことばを通して今も語っておられます。すべての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない、と。また、罪の報酬は死です、と書いています。どんな人も、神に対して、人に対して、犯したすべての罪は、やがて、神の前で清算しなければなりません。もし、その罪の債務証書が、キリストの十字架の贖いによって「支払済」となっていなければ、あなたは、その罪により、永遠の死におとされるのです。これは、とても言いにくいことですが、聖書が示す真理です。聖霊は聖書の言葉、みことばを通して、語りかけておられます。聖霊に心を開き、聖書の言葉に素直になって耳を傾けることが大切です。

聖霊に満たされて生きるために

聖霊に満たされる生き方とは何でしょう。ステパノは、じっと天を見つめて、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見ていました。ここから、まず、天を仰ぎ、キリストから目を離さない生き方であると言えます。また、迫害をも受け入れ、神を恐れ、愛し、信頼する生き方ということができるでしょう。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。洗礼を受けて心に聖霊を受けた人は新しいいのちに生きます。それは神のいのちですから、永遠のいのちです。神はキリストの十字架と復活によって、私たちを罪と死と滅びから救ってくださいました。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。

最善の人生はどこにあるか?

2021年6月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書11章2~11節
11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。

<要約>

人が人生に疑念を持つとき

ヨハネはイエス・キリストに会って、そのとき確信を持って言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と。その後、ヨハネはヘロデ・アンティパスの行状を批判し、ヘロデの恨みを買い投獄されたのです。しかし、獄中で彼は、イエス様がメシアであるということに関して疑問を抱いたようです。なぜならば、イエス様のお姿は彼の抱いていたメシア像とは違っていたからです。イエスさまは「世を裁く方、義の王」として来られるとヨハネは考えていたようです。しかし、現実には制裁や裁きと思われるようなことは何も起こっていなかったのです。ヨハネほどの人物が、確信を失ったのです。ある意味では、ヨハネはとんでもない疑念をいだいたと言えます。しかし、ヨハネはそれを自分のうちにしまいこんで、悩み苦しむばかりでなく、はっきりと、イエス様にその疑問をお尋ねになったのです。そうです。私たちは時として、信仰に躓き、疑問を持つことはあっても良いのです。でもその時に、イエス様の所にもう一度出て、自分の悩みや疑問をはっきりと申し上げることが大切であることを覚えたいと思います。

人間の考えに勝る神の最善

ヨハネの弟子たちに、イエス様は言われました。現実に起こっているキリストの御業に目をとめなさいと。イエス様は、なぜヨハネを救出しなかったのでしょうか。人間の考えに勝る神の御思いがあるのです。私たち信者は周りで起こる様々な事象について、明白な回答を得ることは難しいと言えるでしょう。すべてのことは、神の主権の下で起こっています。天変地異も災害も神のみ許しの下で起こっています。時に、神に対して文句を言いたいということもあるかもしれません。しかし、神の私たちにお示しになった神の愛は、歴史の中ではっきりと示されました。それは十字架です。神は、その独り子をお与えくださるほどに、あなたや私、そしてすべての人を愛してくださっているということです。それは、神がご自身のいのちを捨てて、あなたを滅びの呪いから救い出し、永遠の祝福に招いてくださっているのです。私たちには十字架で十分なのです。最善の、人生はどこにあるのか?それは、神のみ旨にあると思います。そのような神の愛を信じる時に、神に対する絶対的な信頼が生まれてきます。ヨハネはイエス様がメシヤであることを再確認し、牢獄にあっても最後は感謝と喜びで生き抜いたのです。

すべての権威を与えられたキリスト

2021年6月6日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>マタイによる福音書28章5~8,16~20節
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

<要約>

キリストの権威は罪を赦すために

人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについてもキリストが権威をもっています。一般に、人間が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それとは反対に 神のみ子イエス様は愛とあわれみに富んでおられるかたです。イエス様はあなたを生かし、あなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださいます。ではなぜイエス様は世の権威者と違ってイエス様を信じる者に自由と喜びを与えることができるのでしょうか。イエス様は、ご自身の権威、あるいは権力をこの世の人間のようにはお用いになりません。イエス様は、その権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」言い方を変えて、キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。

キリストの権威による宣教

心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいないのです。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、教会に連なります。さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。教会は全世界に広がっています。それがイエス様の宣教です。教会はキリストの権威が満ち溢れているといえます。キリストの権威による宣教は教会の技であると言うことができるでしょう。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。