イエスのまなざしがあなたを変える

2025年6月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書5章1~11節
【新改訳2017】
5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

<要約>
砕かれた心に神を迎える:

「暗やみと死の地と死の影に座っていた人々」、これらのことばは、希望もなく苦しみに耐えてじっと座っている人々を思い浮かべます。現代についても同様に病や苦しみはあります。衣食住は良いとしても将来に希望を持つことが難しくなってきています。これから、日本は人口減に入り、多死の時代を迎えます。そのような状況で希望が見えてきません。その暗黒にたたずむ人間に、光が上ったのです。それはまさしく、イエス・キリストです。人々は押し迫るようにイエス様のところに来ました。病の癒しを願い、悪霊からの解放を願い、そして、神のことばを聞きに集まったのです。暗やみが光に代わり、死がいのちに代わる、絶望が希望に代わる、悲しみは喜びに代わることです。絶望的なマイナスが、希望に輝くプラスに代わった、と言うことです。ペテロは主のお言葉に従って大いなる祝福を得ました。人は、神の前で降参しなければ、神を認めることができないのです。人は自分の無力に気付き、神などいらないと言っていた自我が砕かれます。すなわち、心の王座を占めていた自我が砕かれて、代わって、キリストの霊があなたを生かすのです。

神が召してくださる祝福:

ペテロは、これまで経験したことのないような大漁の奇跡を見て、驚き、そして恐れ、イエス様の前にひれ伏しました。イエス様は「怖がらなくてもよい」と言われました。そして、「これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」といいました。そして、悔い改めて神を信じ、新しく生まれた人には、神の子とされる特権が与えられます。天国の相続人になります。天国の祝宴に招かれています。そこで、永遠の安息と尽きることのない喜びに満たされて過ごすのです。それはこの上もない祝福です。人生は出会いで決まるといった人がいます。もし、あなたが、あなたを取り巻く様々な状況や人間関係で、意気消沈しているならば、イエス様は愛と信頼のまなざしであなたを見ておられます。イエス様は、無条件にあなたを愛してあなたを信頼のまなざしで見ておられます。イエス様の「わたしに来なさい」という招きにこたえて、イエス様を信じましょう。

雄々しくあれ強くあれ

2025年6月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨシュア記1章1~11、16~18節
【新改訳2017】
1:1 【主】のしもべモーセの死後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
1:3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
1:5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともにおられるのだから。」
1:10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」

1:16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。
1:17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」

<要約>
悔い改めるのを待っておられる神:

聖書に照らすと、人間の罪による腐敗は悪臭を放つほど甚だしいと言えます。私たち人間は普段罪がわからず、自分が罪人であると気付くこともありません。一般には、やってはいけないことをすることを罪と言います。泥棒、殺人、姦淫などです。しかし、罪は行いばかりでなく、思いとことばの領域のことも含んでいます。人を憎らしいと思ったら殺人罪、妻以外の女性に情欲を抱いたなら姦淫罪です。やってはいけないことをするのが罪と言いましたが、やらなくてはいけないことをしないのも罪です。困っている人を見ても助けないのも聖書では殺人罪です。心の領域まで見通すと、神の目には私たちはどんなに積み深いかがわかります。神は義なる方ですから、どんな小さな罪をも見逃すことはできません。必ず裁かなければなりません。しかし、神は待っておられます。何を、でしょうか。そうです、悔い改めです。思いを変えて神を見上げることです。こころを低くして救いを求める信仰です。

呪いを祝福に変える神:

神は、信仰を問うています。信じて生きるか、信じないで滅びるかということです。神を信じるものに、無条件に与えられるのが罪の赦しです。父なる神は裁きを与える代わりに赦すために、罪のないご自身のひとり子を与えてくださいました。神は正しい方ですので、罪に対しては必ずさばきを下します。しかし、人が裁かれ滅ぶのを惜しまれて、身代わりにご自身の子を十字架で裁いたのです。人は誰もが、死を恐れています。霊魂は無に帰するのではなく、神の前に立たされて、生きていた時の様々な罪に対して裁かれるのです。その得体のしれない裁きを恐れるので、死を恐れるのです。死はさばきであり呪いと言えます。決して渇くことのない、永遠のいのちへの水は、みことばと礼拝の中でいつも頂くことができます。それはイエス様を信じることです。今朝も、自分の罪を告白して、もう一度信仰に立つことです。これは何と大きな励ましのことばでしょうか。勝利に勝利を約束しています。決してあなたを見捨てず、あなたとともにいよう。心を強くして、勇敢であれ、勝利はあなたのものだ、と。信仰によって受け止めましょう。祝福の原則に立って、日々、熱心にみことばを聴き、礼拝に出席し説教を聞き、神を求めましょう。神の命令を守ることです。必ず祝福されます。