悪霊に取りつかれたゲラサ人

2026年5月3日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
悪魔の支配下にある人間社会:

悪魔は人殺しで、真理がない、偽り者ということです。すべての悪の策略はサタンと呼ばれる悪魔から出ています。人間を陥れて、殺すこと、ゲヘナ、すなわち地獄へ落とすことに一生懸命です。悪魔が最も力を入れているのは、人間を神から引き離すことです。現代の人間社会もサタンの支配下にあります。サタンは人類を操り人形のようにして、悪いとわかっているけど、いけないと思うのだけれども、行わざるおえなくしているのです。人類の歴史を見ても、争いと殺戮の歴史と言えます。皆、戦争はいけない、早く終わらせたいと思っているのでしょうが、なかなかストップできません。それは人間がサタンに支配されている証拠といえます。この男は、裸で墓場に住んでいました。墓場は死の世界です。いのちのない世界です。彼はそこを愛してそこに住んでいました。サタンの支配下にある人間は、神と断絶して真のいのちを失っています。多くの人々は真のいのちを持っていません。ですから、このままでは、滅びへと向かっていくのです。多くの人々は、将来に希望が持てないために、他の人と関係を持つことを嫌い、惰性の毎日を送っています。これは、無目的な刹那的な人生ということができるのではないでしょうか。そのように、神から離れてサタンの下に置かれた人間は、孤独であり、真の自由がなく、生きる意味を失っています。

神の支配下に移してくださるキリスト:

神は、私たちを暗闇の圧政から救い出し、すなわち、サタンの支配下から救いだして、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。イエス様を信じる者は、神により、イエス様の支配に移されています。また、同時に罪の赦しを得て救われたのです。イエス様は信じる者と共にいてくださいます。イエス様は信じる者のシェルターになってくださっています。サタンの攻撃も及ばないのです。今日のお話で、イエス様に対する応答は二通りありました。イエス様に離れて欲しいという反応と、イエス様の弟子としてお供したいという反応です。すなわち、イエス様を拒むか、信じて従うかです。神は、聖書を通して、福音に対する応答を求めています。あなたは、近づいてくださるイエス様を拒絶するのか、また、イエス様を信じ従うのか、今日も応答を求めておられるのです。心の中で「はい」といって、喜んで信じて従う者となっていただきたいと思います。

<聖書>ルカの福音書8章26~39節
【新改訳2017】
8:26 こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」
8:29 それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。
8:30 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。
8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。
8:32 ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。
8:34 飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。
8:35 人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。
8:36 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。
8:37 ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、
8:38 悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。

人生の嵐に翻弄されるとき

2026年4月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
嵐の中でも共におられるイエス:

嵐にもてあそばれている船の中の弟子たちと舟底に寝ておられるイエス様、それは、この世の中を航行するクリスチャンライフ、あるいは教会であると思います。人生を航海に例えることが良くあります。平穏な波風もなく順調に目的地に進んでいくときもありますが、風や嵐にもまれて、今にも難破しそうになるような旅路もあるでしょう。長い人生を歩んできた方々にとって、過去を振り返ると様々なことが起こり、その都度、ここの弟子たちのように「イエス様、私は溺れて死んでしまいそうです。」と叫んできたのではないでしょうか。その時に、すぐに神は立ち上がってくださり、波風を鎮めて助けてくださった。しかし、神の沈黙という言葉があるように、黙って眠っておられるように感じたかもしれません。そして、難破しそうになりながらも、「信じて進んできた」のかもしれません。苦しい状況がずっと続いている、いつになったらこの状況から脱出できるのだろうかと悩んでおられる方もいるでしょう。しかし、舟底にはイエス様が確実におられるのです。インマヌエルの主、ともにいてくださる主、それは何にもまして確かなことなのです。「主がともにいてくだされば、どんなことがあっても大丈夫である」という信仰をクリスチャンは持つべきなのです。また、持つことができるのです。イエス様は私たちの重荷を担ってくださるお方です。また、私たちの罪を十字架の上で取り除いてくださいました。決して動くことのない、約束とは何でしょうか。それは、罪の赦しと永遠のいのちです。今の困難もやがては、希望と喜びに代えてくださるという約束です。十字架にかかり三日目に復活して復活のいのちを信じる者にお与えくださいます。これが、永遠のいのち、イエス様の救いです。

信仰によって一歩踏み出す:

「あなた方の信仰はどこにあるのですか」これは私たち一人ひとりに対する問と言えます。信仰は目に見えないことです。信じて一歩踏み出す時に、目に見えるのです。信仰が目に見える形で現れるのは、信じて一歩踏み出す時です。私は、渓流釣りに時々行きました。川で魚のいるポイントに行くために川を渡ることがあります。岸に立った時には、向こうの岸まで川の底が全部見えるということはありません。しかし、手前にある一歩先の石が見えるのです。そして、その石に片足をのせて進むと次の石が見えます。そうやって、一歩一歩進んでいくとやがて川を全部渡り切るのです。信仰は目に見えない心の中のことですが、信仰により一歩踏み出すと目に見える形になるのです。私は、皆さんにそのような信仰のチャレンジをしていただきたいと願います。聖書には、信じて応答した記事にあふれています。イスラエルの民は約束の地に入るとき、ヨルダン川に一歩足を踏み入れたら川は左右に分かれてその乾いたところを渡ることができました。同じように、信じて一歩を踏み出して神がその信仰に答えてくださるという経験をしてきた方々も多いと思います。それを通して、生きて働かれているキリストを見るのです。イエス・キリストを信じて、一歩踏み出していただきたいと思います。イエス・キリストをあなたが持つならば、これから遭遇する人生のあらゆる嵐にもキリストの平安があなたを守り、神の約束された祝福の人生の船路、航路に導いてくださることを約束します。

<聖書>ルカの福音書8章22~25節
【新改訳2017】
8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

べテスダの池で伏せる男

2026年4月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
失われた人生からの救い:

彼は肉体ばかりでなく、心も病んでいました。水が動く肝心な時に誰も助けてくれない。孤独を味わい、また、同情されることもなく、傷ついていました。38年間も何の変化もないむなしく過ぎ去る人生です。誰も自分を池に入れてくれる人はいない。互いに弱い者同士助け合うのではなく、自分さえよければよいという独りよがりの人生。責任転嫁と弁解の人生。人任せで無気力な人生。これは、失われた人生と言えます。そして、「キリストは失われたものを探して救うために来られた」のです。イエス様は、彼を無気力から呼び覚まし、本来のあるべき人生にもどそうと声をかけられたのです。最初、かれは的外れな返答をしてしまいましたが、すぐに、思い起こしたのです。自分は神に病気を治していただくためにベテスダへ来たことを。イエス様は、「よくなりたいか」と言って、彼の心に、信仰の火を灯したのです。彼は忘れ失いかけていた願いを思い起こしました。「主よ。私の願いは立って歩くことです。あなたは全能の神、癒す神です。そのことを信じます。」その信仰を見て、イエス様は命じられました。「起きて床を取り上げて歩きなさい。」するとすぐに、彼の病は治り床を取り上げて歩き出したのです。もう罪を犯してはならない、そうでないともっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。すなわち、罪の赦しと病の癒しが宣言されているのです。神は失われた人を救うためにいのちの代価を払ってくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。罪によって失われていのちを神のひとり子のいのちに代えて買い戻してくださったのです。

人の幸せのために働く神:

律法では安息日に仕事をしてはいけない。とありますので、ユダヤ人たちは、その男が床を取り上げたことは違反であるというのです。イエス様が律法を犯して、安息日に病をいやしたことを違反行為として、イエス様を迫害し始めたのです。確かに、モーセの十戒の第三戒には、安息日を聖としなさいと書いています。すなわち、安息日は仕事を休み、神を礼拝しなさいというのです。しかし、イエス様は、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために作られたのではありません」と言われました。神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒は、第三戒の「安息日を聖としなさい」と同じように、全人類に与えられたものです。それは、人のために神がお与えになったルールです。人が、幸せな人生を送ることができるために神がお与えになった決まりです。十戒は「幸せのルール」といえます。人をおつくりになった神が人のためにお与えになったルールですから、そのルールに沿って生きれば必ず幸せになるのです。それが律法です。神は安息日にも休むことなく、今日に至るまで人のために働き続けておられるのです。神は、人が真の自由を得て幸せに生きることができるようにと安息日を定め、十戒を与えられました。人はそれを履き違えて、律法を、心を縛り自由を奪うために用いてしまったのです。これがこの男に対するユダヤ人の対応でした。神はあなたに自由と幸せな人生を与えようとされています。その自由は、死からさえもあなたを自由にします。そして、信じる者に将来と希望を与えてくださるのです。それが神の約束です。救い主イエス・キリストを信じて、神との親しい関係にお入りになり、神の子供としてその祝福を受け継ぐ決断をしてみませんか。それは神のいのちにつながる永遠に続く素晴らしい祝福と恵みです。

<聖書>ヨハネの福音書5章1~18節
【新改訳2017】
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

十字架上でのイエスのことば

2026年3月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
十字架で完成した救いの道:

イエス様は、十字架の上でいくつかのことばを残されました。最後のことばは「完了した」です。完了したと言って息を引き取られたのです。「完了した」は、「成し遂げられた」という意味です。これは「イエス様の生涯はこの十字架にかかるためにあった」ということの証言です。キリストの十字架の意味がそこにあります。何が完了したのでしょうか?何が成し遂げられたのでしょうか?それは、すべての人を覆っている罪と死と悪魔からの救出です。

その前に、罪について知らなければなりません。聖書に、すべての人は罪を犯したから神の栄光を受けることができない。そして、罪の報酬は死です、と書いています。聖書によると、あなたも私も例外なく生まれながらの罪人です。このままでは罪によって罰せられて滅んでしまう存在です。イエス様は、すべての人をそこから救って下さったのです。すなわち救いの道を完成してくださったのです。全人類の罪を背負って身代わりとなって罰を受けてくださった。人間を罪と死の原理から解放しました。あるいは罪と死と滅びの縄目を解き、人類に救いの道を開いてくださったのです。そして、地上では神の祝福の生涯を送るためです。

救いを受け復活の希望に生きる:

イエス様の十字架はあなたを赦すためでした。イエス様の十字架は、無実の神がすべての人の罪を負い、罪の罰をあなたに代わって受けたのです。その身代わりの死によって、すべての人の罪を赦し、罪と死から救ってくださったのです。そして、信者には決してしぼむことのない希望があります。それは、復活です。聖書に繰り返し書いています。失望に終わらない希望です。復活のいのちを与えられて、永遠の安息、祝福に入るのです。イエス様が救いの道を完全に備えてくださいました。それを無代価で差し出してくださっているのです。よく道を歩いていると、ティッシュを配っている人が、私の目の前にそれを差し出されたら反射的に受け取ります。救いの福音もそれと同じでただ受け取ればいいのです。受け取ればあなたのものとなる、それが信仰です。何もかもわかってから救われるのではありません。ただ、単純に、神が提供する救いを空の手で受け取ればいいのです。こちらで差し出すものは何もいりません。受け取ればよいのです。どんな時も、差し出されたものを受け取らなければそれはその人のものとなりません。神の提供する救いを受け取らなければあなたのものとなりません。ぜひ、受け取って、あなたのものとしてください。そして、罪の赦しと復活のいのちを自分のものとしてください。

<聖書>ヨハネによる福音書19章17~30節
【新改訳2017】
19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

赦すため、主の十字架

2026年3月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
誰がイエスを十字架につけたの?:

創世記にバベルの塔の事件があります。人類が一つになって天に届く高い塔を建てて神を超えようともくろんだのです。ここにも、神に挑戦する人間の姿が見えます。人間の罪です。神より自分を上において神を超えていくことを願っている。神が人間の上に君臨することを許せない人類の姿です。かくして、神中心であった世界は、神を無視して人間中心主義によって歩んできました。人間本位の世界は、神を認めず、神を信ぜず、神から遠く離れています。私たち人間と創りいのちを与え、それを保っておられる神をないがしろにしているのです。それが、現代における人間の姿です。最初の愛は失われ、それに代わって、争いと分断の歴史を刻んできたのです。皆さんお一人お一人にお訊ねしますが、イエスキリストを十字架につけたのはあなたですか?とんでもない。2000年前の出来事にどうして自分に責任があるというのか。もしあなたが、自分とは関係の無いことであると考えているなら、聖書にあるとおり、神の力を体験することはできないし、イエス様の十字架はあなたとなんの関係もありません。

全能の力であなたを愛し赦す神:

人々は、神の子なら十字架から降りてこいと言いました。神は全能です。イエス様は、その全能の力で、十字架を耐え忍んだのです。そればかりでなく、迫害する者たちを赦しました。イエス様は十字架の上で何と言われましたか?「父よ。この人たちを赦してください、彼らは自分が何をしているのかわからないからです。」全能の力を使って十字架から降りることをしませんでした。むしろ、イエス様を侮辱しあざける人々を愛し赦すためにその力を用いたのです。イエス様は弟子からも裏切られて、人々からあざけられてののしられて悲しみの極みにいました。イエス様は、人間を愛し、赦すためにどうしてもこの十字架が必要であるとわかっていました。ですから、神の子は侮辱しあざける者たち、そして敵対する人類のすべての罪を代りに受けました。神からの呪いである十字架刑を受けたのです。神は、御子イエス・キリストの十字架と復活によって大いなる祝福と恵みを与えてくださいます。十字架のことばとは、イエス・キリストの十字架がもたらしたことです。それは罪の赦しと永遠のいのちです。神の怒りが取り除かれて、神の愛と祝福が注がれるというのです。

<聖書>マタイによる福音書27章27~44節
【新改訳2017】
27:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
27:29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
27:30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

受難と復活の予告

2026年3月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
自分の思いからみことばに耳を閉ざす人間:

弟子たちには、イエス様が十字架で殺されるということが受け入れることができませんでした。彼らにとっては、イエス様が、自分はエルサレムで殺されるのだというお話は絶望に近い内容であったのではないでしょうか。ここでの弟子たちの気持ちは理解できます。しかし、人間の思い込みと固定観念によって、神のみこころがわからなくなるのです。自分の思いを後において、素直になって、イエス様に、あるいは聖霊に心を開くことが大切です。聖霊の御声は、ささやき声のように小さくて、わからないことがあります。それは、自分の思い込みが強いために聖霊の御声を消してしまうからです。私たちも、心の耳をふさいでいることはないでしょうか。また、世のことで心がいっぱいで、神の小さな声に耳を傾けることができないことはないでしょうか。ですから、毎日、聖霊様に心を開き素直になって、みことばから聞きましょう。聖書は心の食物です。身体は食物を食べなければその命を失うのと同じで、聖書のことばを食物として聞かなければ、霊のいのちを失います。毎日少しでも良いので、聖書を読みましょう。聖書愛読こよみ2026も是非、利用してください。

受難と復活により全世界に届く祝福:

キリストの受難は、キリストが復活したことにより勝利にのまれました。これは、イエス・キリストにある者には、信仰からくる苦しみは勝利につながることを示唆しています。そして、私たちの肉体の死も勝利であります。黙示録には、「書き記せ。今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」を書いています。復活は個人の救いの完成といえます。ですから、イエス様を信じている私たち信者は、復活と永遠のいのちに希望を置いて今を前向きに生きるのです。聖書の預言は確実に成就しています。ついこの100年は激動の時代でした。そして、聖書の預言が大進展する時代に入っています。イエス・キリストの十字架と復活がもたらした罪の赦しと永遠のいのちの福音は、全世界に届けられようとしています。再臨に至る前には「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。」と書いています。神のご計画は急速に成就しつつあります。私たちはこれまで人生において、神の御業と計画の中に置かれておりました。それは、隣人の救いのために、そして、神の祝福の伝達者として立てられているということです。私たちはこのところに遣わされていることを信じます。私たちは滝沢にある小さな教会の一員ですけれども、神のご計画とみわざに参加するように召されているのではないでしょうか。それは、まず、私たちは身近な人々に福音を届けるのです。そして、日々、みことばに耳を傾け、みこころを伺い、自分の置かれたところで、賜物を用いて、最善を尽くすのです。それが、神を愛し、隣人を愛する実践です。

<聖書>ルカによる福音書18章31~34節
【新改訳2017】

18:31 さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

キリストの謙遜と苦難

2026年2月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
自己中心と虚栄で一つになれない人間:

ピリピ教会にはパウロの働きを支え応援するという熱心さがある反面、ピリピ教会には、どうも信徒同士の対立があったようです。なぜ人間は自己中心と虚栄で一つになれないのでしょうかそれは私たちが持っている生まれながらの罪の性質のためですそれは最初の人アダムの罪から来ていますある時悪魔人を誘惑しました人は高慢になり、神の上に自分を置こうとしたのですそして神の戒めを破り罪を犯しましたそれが原罪です。それ以来人は自分中心となり、世界は、人間中心に動いてきました。神を無視し神を認めず、神の戒めを破ってしまいました。善悪の知識の木の実を食べたために、人間が善悪決めていくことになったのですしかし人間は有限であり無限で全知全能ののように正しい裁きはできません。神の椅子に座り世界を裁くことはとてもできないのですそのことに気付いた人間「自分が裸であるのを恐れて、身を隠しました」。それは、恐れと羞恥心です。また、恥をかきたくないので、自分にそれほどの力がないのにうわべをよく見せようとします。それが虚栄心です。「イエス様ならどうなさるだろうか」という問いを自分自身に投げかけて行動するのです。

謙遜により苦難を通られた救い主:

主イエス・キリストは王の王、主の主として、私たちを古い主人である悪魔の支配から解放してご自分の支配に移してくださいました。主イエス・キリストは、なぜ真の人間となったのでしょうか。それは、私たち人間を救うためです。主イエス様は貧しく生まれたのです。全ての人よりも低いものとなり、全ての人に仕え、全ての人にご自分のいのちを与えるためだったのです。++主イエス様はローマ総督のポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けました。イエス様は、私たち罪人の身代わりに神に呪われたものとなったのです。イエス様の死によって、信じる者の一切の罪は赦されるのです。過去現在未来にわたる罪は赦されます。そのように十字架の贖いにより、罪人に定められていた罰は終わり、神の怒りはなだめられ、罪と死と悪魔の力は砕かれたのです。謙遜により苦難を通られたイエス様は、私たちが受けるべき滅びに代えて、いのちを与えてくださいました。私たちは、神が主イエス様を通して行われた救いをただ空の両手を差し出して受け取るだけでいいのです。

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

病気と死はいのちの入り口となる

2026年2月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
病気や死は終わりではない:

多くの人は、病気にかかって入院したり、寝込んだりします。病気の期間の長短にかかわらず、それぞれが、病苦を味わい、心の葛藤を覚えながら脱出の道を模索して、悩み苦しむのです。病気と死はもともと、人の罪の結果です。アダムの罪以来、罪はすべての人を支配しています。アダムの罪以来、病が人に入り、人は死ぬものとなりました。私たちは誰一人、病気を経験しない人はいません。それゆえ、人の身体のいのちは死で終わります。しかし、霊のいのちは死んでもなくなりません。まぜなら、人は特別な存在として、神の愛の対象として、神に似せてつくられたからです。他の動物とは違って、私たち人間には霊があります。アダムの罪以来、すべての人は真の神がわからず、神から遠く離れています。神との関係が途切れてしまっているのです。その関係を回復させてくださったのが、イエス様です。永遠のいのちは、復活の希望です。神のプレゼントです。神は、すべての人の罪と死に代えて、永遠のいのちを提供してくださっています。罪のない神の子イエス・キリストが十字架ですべての人の罪を背負い代わりに死んでくださった。そして、3日目に復活されたことです。その復活はすべての人に提供されています。自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも永遠のいのちをいただくことができるのです。それが、神が用意してくださり、提供しておられる福音です。プレゼントです。

光があるうちに光を信じる:

イエス様は、時が来たことを示すために、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。イエス様は、そこで、祭司長や律法学者たちにとらえられて、十字架にかけられて、殺されるのを知っていました。しかし、イエス様は言われました。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」と。イエス様はご自身を「世の光」と言われました。わたしが世にいる間は、と言って、やがて、イエス様がこの世から取り去られる時が来ることを。そして、だれも働くことのできない夜が来るので、光を見ることができなくなる。その前に、光であるイエス様を信じなさい。と言われたのです。また、光であるイエス様を心に持たなければ、闇の中を歩くことになる、霊的な暗黒があることを示されたのです。そういう状態の人は自分がどこへ行くのかもわかりません。そして、永遠の滅びに至るのです。イエス様を信じるのには、期限があるのです。私たちの身体のいのちがあるうちにイエス様を救い主と信じなければなりません。人のいのちは神の主権の中にあります。誰も、自分のいのちはいつまで続くかはわからないのです。光があるうちに光を信じたいと思います。

<聖書>ヨハネによる福音書11章1~17節
【新改訳2017】
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

天国に入る唯一の道

2026年2月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
人の普遍的な問い:

ニコデモの心にあった問いは、「神の国に入るための資格はなにか」「あるいは永遠のいのちを持つためには人は何をしなければならないのか」というようなものであったと想像します。私たちも永遠の命はあるのだろうか?天国ってあるのだろうか?人生で一番大切なことはなんだろうか?というような質問を誰もが持ってるのではないでしょうか。ニコデモは、イエス様の「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」との言葉が理解できませんでした。老年になっていたニコデモは、新しく生まれるという言葉に引っかかったのでしょう。ニコデモは、神に選ばれたイスラエル人です。しかも、律法を守ることを指導し自らもそのことに努力してきたという自負もありました。でも、彼の心には、自分はこれでいいのだろうか。本当に救われているのだろうか?というぬぐえない疑問があったのです。イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。イエス様は、悔い改めて、イエス様に着くバプテスマを受けなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。私たちは、肉体をもって生まれたが、肉体のいのちには、真のいのちはないのです。御霊によって生まれなければ、真のいのちを持つことはできない、つまり、永遠のいのちを持つことはないということを言われたのです。私たちも永遠の命はあるのだろうか?天国ってあるのだろうか?人生で一番大切なことはなんだろうか?というような質問を誰もが持ってるのではないでしょうか。それに対して、天地をつくりあなたをおつくりになりいのちを与えておられる神は、永遠のいのち、天国への道を用意して招いてくださっているのです。

人は十字架を仰いで救われる:

ニコデモは、これまで、正しい行いが正しい人間をつくる、と考えていました。そのためにニコデモは善行を積んで救われようと努力してきました。貧しい人々に施しをしてきました。ニコデモはこれまでの自分の人生にプライドを持っていたでしょう。後ろ指さされるようなことは何もしていない、自分は正しい人生を歩んできたと自負していました。ですから、新しく生まれなおさなければ、今のままじゃ天国に行けない、と言われて動揺したのです。日本人も「自分は正しい人生を歩んできた」と自負している人は多いと思います。また、ニコデモと同様に、日本人の多くは、「天国に入るためには何をしたらよいのか」「あるいは死んだあと、本当に永遠のいのちはあるのか。」など。人生の問いを求めているのではないかと思います。洗礼によって、古いあなたは死に、聖霊により新しい人に復活するのです。そして、洗礼によって、聖霊があなたのうちに住まわれます。結果、罪から来る死と滅びから救われるのです。すべての人は、十字架を仰ぎ見れば救われます。何の努力もいらない、ただ自らの罪を知ってイエス様の十字架を信じることで救われるのです。これが福音です。

<聖書>ヨハネによる福音書3章1~16節
【新改訳2017】
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神に召され福音の伝達者となる

2026年1月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神の召しとは?:

福音は、神の怒りによる裁きからの救いです。福音は、御子キリストが十字架であなたや私のすべての罪を贖ってくださったことです。それは、罪の赦しです。そして、あなたを罪と死と悪魔のもとから救い出して、キリストの恵みの下に移してくださったことです。人間によらないことで、神が一方的にあなたや私に目を留めて、呼び出してくださったといえます。すなわち、私たちクリスチャンは召しだされたものたちです。パウロは、激しく神の教会を迫害して、それを滅ぼそうとしました。しかし、神はそのパウロを召し出して、聖別して、異邦人へ福音を届けるための器としたのです。すなわち、神の召しは、教会に敵対していたものにも及ぶことです。神の主権の中で導かれたことです。ですから、自分を誇ることは全くないのです。私たちクリスチャンは、救われて、罪赦されて、永遠のいのちをいただきました。そして、神の国の一員とされたのです。神の国の前味をいただく者です。召された者には、言葉で表せないような感謝と喜びが待っているのです。ですから、召された者たちは、現在の苦難や困難にあっても、前を向いて進んでいくのです。

神に召された者の使命:

復活のイエス様にお会いして、彼は地に倒れました。パウロはそれまでの人生を振り返って、「なぜ、教会を迫害して、イエス様を信じる者たちが殺されることに協力していた者に、声をかけて、召し出してくださったのだろうか?そのように敵である人間をもイエス様は愛してくださっている、と、実感しました。彼は、悔い改めて、イエス様の十字架による罪の赦しを信じました。すなわち福音を理解したのです。それは人間によるものではなく、明らかにイエス様の啓示によるものでした。イエス様はパウロに目を留めて、召し出して、福音を伝える者として、特に異邦人につたえる者として召し出したのです。私たちも、イエス様に召しだされた者たちです。一方的に注がれる神の愛、イエス様の十字架と復活によってもたらされた罪の赦しと永遠のいのちを無代価でいただきたものたちです。神に召された者の使命は何でしょうか。福音を伝える使命です。私たちも、教会へお連れしましょう。家族知人を教会へお連れして、イエス様に導いてもらうことです。

<聖書>ガラテヤ人への手紙1章11~17節
【新改訳2017】
1:11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
1:15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
1:16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
1:17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

岩手県滝沢市のプロテスタント教会