神の賜物と福音

2026年10月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>テモテへの手紙第二1章1~13節
【新改訳2017】
1:1 神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3 私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4 私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。
1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。
1:6 そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
1:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、
1:10 今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。
1:11 この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。
1:12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。

<要約>
死を滅ぼすいのちの福音:

死を滅ぼすいのちの福音と題してお話しています。なんといっても人間にとって最後の敵は死です。医学の発展で今までは死に至る病も治癒するようになりました。しかし、病は治ってもやがて誰にでも死が来ます。しかし、イエス様の福音は、この肉体が滅んでも、霊は永遠の祝福といのちに生きるという完全な救いです。パウロが「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」と書いています。それは、キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んであなたの罪を贖いました。それゆえ、罪の報酬である死を滅ぼしたということです。そして、代わりに永遠のいのちをお与えになったということです。すなわち、誰でもイエス・キリストが私のために十字架で死んで私の罪を取り除いてくださった事を信じるなら、その人の罪は赦されています。死と滅びの代わりに、永遠のいのちと永遠の祝福に生きることができるのです。キリストの福音は、罪と死と滅びからの救いです。キリスト中心の人生は、キリストの福音に生きる人生です。それは、永遠に続く祝福の人生です。

偽りのない信仰と愛

「偽りのない信仰と愛」と題して、お話しています。信仰から出てくるものは隣人への愛です。パウロは使徒として、宣教者、教師の召しと賜物を豊かに用いました。テモテは、教会の長老として牧会者として賜物を豊かに用いた人です。私たちも教会においてはキリストの身体の一部としてともに仕えあい、キリストの身体を建てあげます。しかし、世にあっては、神の召しを受けて、職場や家庭や学校に遣わされています。賜物と使命はそれぞれに違います。しかし、神の命令は同じです。「思いを尽くし力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神を愛しなさい。そして、自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」です。それが、偽りのない信仰と愛です。

キリストに希望を置く人生

2026年9月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>テトスへの手紙2章11~15節
【新改訳2017】
2:11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
2:12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

<要約>
不敬虔とこの世の欲:

イエス様にお会いする前までの私たちの人生は、不敬虔とこの世の欲と生まれながら持つ罪の力に縛られていました。この世は不敬虔であると言えます。神を敬わず、神を認めない社会です。世は、神なんかいない、あるいは神なんか信頼するに足りないというメッセージを一人一人に送っています。そして、サタンがこの世の君として、君臨しています。世の支配者です。それが、人間社会を悪い方へ引っ張っています。また、「不敬虔とこの世と欲」の欲は、私たちすべての人が持っている罪の性質です。それは、ねたみ、不満、憤り、怒り、そしり、など、私たち人間の内側には悪い思いです。そのため、私たちは平和を求め、いたわりや愛を求めていますが、反対に、怒りには怒り、復讐には復習と悪の連鎖に陥ってしまいます。そのような不敬虔とこの世の欲を捨てるということはどういうことでしょうか。第一に、この世の価値観に捕らわれてはいけないということです。また、第二に、この世と調子を合わせてはいけないということです。今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するためには、どうすればよいのでしょうか。それは、キリストの再臨を待ち望むことです。*Ⅰヨハネ2:16 ロマ12:2

再臨のキリストを待ち望む:

私たちが再臨を待ち望む理由はどこにあるのでしょうか。信者はキリストにより、不法から贖いだされています。つまり、罪から贖いだされている、と言うこと。もう少し詳しく言うと、キリストの十字架により罪の代価が支払われたということです。罪の刑罰はキリストが代わって受けて下さったので、無罪とされたことです。さらに罪の束縛から解放され自由になったということです。このように、キリストはご自身を私たちのために捧げられたのです。そして、私たちは神に選ばれて、良いわざに熱心なものとされました。再臨を待ち望むことは、祝福に満ちた希望です。それは、私たちが現在、困難や苦難の中にいて希望が見えないようでもやがて、この生涯の終わりには、祝福に満ちた希望があるということです。人生の最後のときは、すべてのマイナスはプラスに変えられるということです。やがて、信じて贖われた者たちは約束された御国に入り、永遠のいのちを神と共に送るのです。それは、決してしぼまない希望と言えます。キリストを待ち望む人生は、祝福に満ちた希望の人生です。*ロマ8:18  Ⅱテモテ4:7.8

キリストによる創造と和解

2026年9月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>コロサイ人への手紙1章13~23節
【新改訳2017】
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

<要約>
暗闇の力から御子の支配への移動:

私たちはイエス・キリストを信じて、罪と死と悪魔から救われました。それは、神の一方的な御業で、私たちの功績や努力ではありません。そして、この救いとは悪魔の支配からキリストの支配への移動です。イエス様を信じておらず、いまだに悪魔の支配下にある人々は滅びへの道を歩んでいると言えます。しかし、イエス・キリストの十字架の死は、自分の罪のためであった、罪を贖うためであった、悔い改めてイエスを信じる者は罪赦されて、御子キリストのご支配に移されます。そして、キリストが復活したように復活のいのちをいただくのです。罪は赦しに、罪の呪いは祝福に、死は永遠のいのちに、変えられたのです。

和解と赦しの福音:

十字架は平和と和解の象徴です。二者の間に和解と平和をもたらすものは何でしょうか。それは、赦しと言えます。十字架は私たちすべての人の罪を赦すために罪のない神の子が身代わりとなって罪の罰を受けてくださったことによります。私たち人間はキリストの十字架によって、神と和解を得ています。つまり、罪に定められて裁かれることなく永遠のいのちを持つのです。すべての罪を赦していただき永遠のいのちを自分のものとするためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によっていただくことができます。悔い改めてイエス・キリストがあなたのためになしてくださった十字架の贖いを信じて洗礼を受けることです。神は天国への道、救いの道を無条件で用意してくださいました。何の行いも条件ではありません。救いを受け取るか受け取らないかは、あなたにかかっています。神は、信仰によって受け止めることを求めておられます。キリストを信じる者は、神との和解を得て、もはや罪に責められることはありません。キリストのうち傷によって癒されています。さらに、御前で聖なる者として立たせてくださるのです。今は和解の時です。イエス様を信じて神との和解を受けてください。

キリストの王国は永遠

2026年9月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神への恐れと愛:

ダビデは、神の箱を良かれと考えて、車に乗せ牛にひかせて運びました。しかし、それは神の定めて方法ではなかったのです。その不敬の罪により、ウザが死にました。ダビデは非常に神を恐れました。そして、今度は律法に定められた方法でレビ人が棒で担いでエルサレムに運びました。しかし、神の箱はテントの中に収められていました。ダビデは、自分は立派な王宮に住んでいるのに神の臨在はテントに納められている。ダビデは、神のために立派な神殿を建て喜んでいただきたいという思うようになりました。神への恐れと同時に神への愛を抱いていたのです。私たちも神を恐れなければなりません。神を侮ってはいけません。神の律法を守らなければなりません。十戒の一点一画も崩れることはないのです。行いの罪ばかりでなく、言葉と思いの罪も含まれます。人に対するねたみや悪意、貪欲やむさぼりの罪は大きのです。どんなに小さく見える罪に対しても、神は必ずさばきます。ですから、私たちは神を恐れ、罪から離れなければなりません。心を見張らなければなりません。悪い欲望が浮かんだときは、思いを変える、悔い改めて、神を見上げます。そして、イエス様の十字架と復活に表わされて、完全な罪の赦しをいただくのです。イエス様の赦しは完全で、神の恵みです。私たちを全き白きものとみなしてくださっています。赦された者として、今度は、ダビデのように神を愛します。神を愛しているなら、神の喜ばれることをします。神から託された使命に最善を尽くします。赦されているので、失敗を恐れずに前向きに人生を歩んでいくのです。

神の恵みは取り去られることはない:

聖書にある神の約束は、遠い昔の話ではありません。神の約束は変わりません。そして、必ず成就します。ダビデの時代から三千年が経ちましたが、ダビデへの約束は見事に成就しています。イエス・キリストは主の主、王の王です。天の御国の王です。私たちキリスト信者はキリストによって打ち立てられた王国の国民です。そしてその王国はとこしえの王国として、全世界に及んでいます。キリストの王国の民は、キリスト信者として全世界に及んでいます。神の恵み、それは、神の一方的に降り注がれる神の愛です。何も悪いことがない無実の神が、私たち全人類の罪を背負って十字架で身代わりとなって裁きを受けて下しました。それは想像も絶する苦難に続く死です。それは一方的な愛です。イエス様の方で私たちに近づいてくださり、ご自身のいのちを差し出してくださったのです。そして、すべての罪を赦してくださいました。私たちは、ただそれを空の手で受け取るだけでよいのです。罪が赦されると、罪の結果である呪いと死は、祝福と永遠のいのちに代わります。そればかりでなく、イエス様は3日目に復活しました。つまり、私たちも復活のいのちを与えられて、神の国に招かれているのです。この預言にあるように、ソロモンの時代になって、ソロモンは彼のところに来た多くの外国のお后を通して、偶像礼拝の罪に陥りました。その罪を悔い改めることがありませんでした。そのため、ソロモンの次の王レハベアムの時代に王国は北と南に分裂しました。その後、イスラエルは、周辺諸国の国々から懲らしめを受け続けることになりました。しかし、神はダビデに与えた約束を決して反故になさいませんでした。イエス・キリストによって、成就したのです。さらに、約束によると世の終わりに、イスラエル民族は、最後に悔い改めて救われるのです。私たちも、様々な失敗あるいは罪も犯します。しかし、神は、わたしたちへの恵みを取り去ることはないのです。

<聖書>サムエル記第二7章4~17節
【新改訳2017】
7:4 その夜のことである。次のような【主】のことばがナタンにあった。
7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。『【主】はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。
7:6 わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。
7:7 わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。』
7:8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。
7:9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。わたしは地の大いなる者たちの名に等しい、大いなる名をあなたに与えてきた。
7:10 わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。
7:11 それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。
7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
7:14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
7:15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
7:17 ナタンはこれらすべてのことばを、この幻のすべてを、そのままダビデに告げた。

イサクの嫁選び

2026年8月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
信仰者の決断:

人生の要所要所でクリスチャンは決断を求められます。アブラハムはイサクに真の神を知っている故郷の人々の中から嫁を迎えようとしました。アブラハムへの神の命令には、二つのことがあります。一つは、自分たちが住んでいるカナンの人ではなく、郷里の民からイサクの嫁をめとりなさいというのです。もう一つは、イサクを郷里に戻してはいけない、カナンの地で家庭を構えなければならないというものでした。それは、アブラハムへの神の約束はカナンの地だからです。そこを子孫に与えてくださったということです。神は約束を必ず果たす、私たち人間のときではなく神のときがあり、神が主権を握っておられます。私たちはそれを信じて信仰の決断をするのです。神はあなたを幸せにすると、そして喜びにあふれる人生を与えると約束しているのですから、疑ってはいけません。まだ、結果が見えなくても、み言葉を握って約束を信じ続けるのです。人間は未来を読むことができません。しかし、神は約束を守られます。私たち信者に必要なことは、決断し、信じて従っていくことです。

世に流される生き方からの解放:

サウル王はイスラエルの初代の王でした。神の油注ぎをいただき、つまり神から認証を受けました。てイスラエルのリーダー地なった人物です。アブラハムとは対照的にサウル王はアマレク人との戦いの前に全焼のいけにえを捧げる儀式を軽んじました。自分の職務を超えて祭司であるサムエルがやるべき祭儀をやってしまったのです。これは神の命令を守らない、そして、自分の分をわきまえない行動でした。また、彼は神の命令より欲望にとらえられて神の命令を破ってしまいました。私たちは世の罪に流されてはいけません。悪い欲望が私たちを世の流れに誘い込みます。この世の支配者は悪魔です。悪魔は神の言葉が耳に入らないようにあらゆる妨害をしています。そのように、私たちも、罪の世の様々な価値に振り回されたり、世の流れに乗ってしまったりします。また、自分の中にある罪の性質により、悪い欲望に支配されることもあります。しかし、そのような試みや試練の時も、イエス様は私たちに近づき、信仰が無くならないように祈っておられるのです。神はみことばから、永遠の希望を与えてくださっています。神の約束は必ず成就します。必要なのは、決断と勇気と行動です。*ローマ8:38.39

<聖書>創世記24章34~48節
【新改訳2017】
24:34 彼は言った。「私はアブラハムのしもべです。
24:35 【主】は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は主人に、羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。
24:36 私の主人の妻サラは、年をとってから主人に男の子を産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。
24:37 私の主人は、こう言って、私に誓わせました。『私が住んでいるこの地のカナン人の娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24:38 あなたは、私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子に妻を迎えなさい。』
24:39 そこで私は主人に申しました。『もしかしたら、その娘さんは私について来ないかもしれません。』
24:40 すると主人は答えました。『私は主の前に歩んできた。その【主】が御使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家から、私の息子に妻を迎えなさい。
24:41 次のようなときは、あなたは私との誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行ったときに、もし彼らがあなたに娘を与えないなら、そのとき、あなたは私との誓いから解かれる。』
24:42 今日、私は泉のそばに来て言いました。『私の主人アブラハムの神、【主】よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら──。
24:43 ご覧ください。私は泉のそばに立っています。若い娘が水を汲みに出て来たなら、私は「あなたの水がめから少し水を飲ませてください」と言います。
24:44 その人が私に、「どうぞ、お飲みください。あなたのらくだにも水を汲みましょう」と言ったなら、その娘さんこそ、【主】が私の主人の息子のために定められた方です。』
24:45 私が心の中で言い終わらないうちに、なんと、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来たのです。そして、泉に下りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください』と言うと、
24:46 急いで水がめを肩から降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。
24:47 私が尋ねて、『あなたは、どなたの娘さんですか』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です』と答えました。そこで私は、彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。
24:48 そして私はひざまずき、【主】を礼拝し、私の主人アブラハムの神、【主】をほめたたえました。主は、私の主人の親族の娘さんを主人の息子に迎えるために、私を確かな道に導いてくださったのです。

先だって渡られる神

2026年8月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神を恐れず罪に沈む人間:

モーセは、あなたの神、主を恐れなさい、と二回語っています。反対に、これから占領するところで、敵を恐れてはいけない、おののいてはいけないと語っています。人を恐れるより神を恐れなさい。それは、信仰の基本であります。しかし、私たち人間は、目に見える人間を恐れます。そして、目に見えない神は気にも留めません。神を心から締め出します。神を認めないということです。人間は、神が忍耐を持って悔い改めることを待っておられることに気付くことなく、神を侮り、「神の戒めを守らなくても何も起こらないではないか。」とうそぶいているのです。人間の一番の罪は何でしょうか。それは、神を恐れないこと、つまり神を認めないことです。十戒の第一番目の戒めは何でしょうか。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」です。それは、全世界、万物をお創りになり、今も維持されている真実の神を心に覚え、恐れなさいと言うことです。あなたにいのちを与え守っておられる神を認めないことが最大の罪です。その罪に対して、神は怒りをもっているのです。神は正義ですから、罪に対しては必ず裁き、裁きを曲げることはおできになりません。

救いに導き入れる神:

そのように、まことの神を認めず、迷い出ている私たちに対して、神はどのようでしょうか。罪人である私たちを決して見放したり、見捨てたりしないということです。むしろ、罪を赦し、救ってくださるという約束をお与えになったのです。その神の約束を信じる信仰により、神の前で正しいものと認めてくださいます。そればかりでなく、この人生の歩みの中で、様々な困難や苦難にあってもその都度状況からお救い下さいます。病気もあるでしょう、経済的な困難もあるかもしれません、仕事の行き詰まりもあるかもしれません。人間関係で、苦しむこともあるでしょう。家族の悩みもあるでしょう。その都度お救い下さっています。私たちも様々な状況からイエス様が救ってくださいました。それは、ヨシュアが民を導いて荒野の困難から救ったのとは違って、罪と死と悪魔からの救いでした。それは、十字架による罪の赦しと復活が与える永遠のいのちです。私たちはそのような完全な救いをいただいたものとして、前向きに進んでいくのです。失敗や罪もあるでしょう。しかし、その都度悔い改めて、救いの道を歩き続けるのです。

<聖書>申命記31章1~13節
【新改訳2017】
31:1 それからモーセは行って、次のことばをイスラエル全体に告げて、
31:2 彼らに向かって言った。「私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。【主】は私に『あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない』と言われた。
31:3 あなたの神、【主】ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。ヨシュアが、【主】が告げられたように、あなたに先立って渡るのだ。
31:4 【主】は、主が根絶やしにした、アモリ人の王シホンとオグおよび彼らの国に対して行ったように、彼らに対しても行われる。
31:5 【主】は彼らをあなたがたに渡される。あなたがたは、私が命じたすべての命令どおり、彼らに行わなければならない。
31:6 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
31:7 それからモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの目の前で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。【主】がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
31:8 【主】ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
31:9 モーセはこのみおしえを書き記し、【主】の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちにこれを与えた。
31:10 モーセは彼らに命じた。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、
31:11 イスラエル全体が、主が選ばれる場所に、あなたの神、【主】の前に出るためにやって来たとき、あなたはイスラエル全体の前で、彼らの耳にこのみおしえを読んで聞かせなければならない。
31:12 民を、男も女も子どもも集めなさい。あなたの町囲みの中にいる寄留者も。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うようにするためである。
31:13 これを知らない、彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたがヨルダン川を渡って所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、【主】を恐れることを学ばなければならない。」

モーセの決別説教

2026年8月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
祝福とのろいのメッセージ:

この祝福とのろいのメッセージは、現代の私たちに対するメッセージでもあります。神の恵みにとどまれば祝福される。しかし恵みから外れれば、あらゆる不条理と悲惨があると言うのです。祝福の反対はのろいですが、誤解していただきたくない事は、神は私たちに対して悪意を持って取り扱う事はなさりません。悪いことを企んだり悪いことをなさったりすることは決してありません。もし、この恵みにとどまる事をしなければ、あなたはここでいうのろいに置かれるのだと言っているのです。神に敵対する勢力が三つあります。一番目は、私たち人間の罪の性質です。二番目は世です。世の誘惑は、人が自分自身のために生きるように仕向けることです。この世の本質は、「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」であると言われています。三番目はサタン、悪魔です。かれは私たちと神との関係を破壊しようと誘惑するのです。このように私たちは自分の内面にある罪の誘惑とこの世の誘惑と悪魔の誘惑を常に受けているのです。恵みにとどまることは難しいことではありません。神の恵みは神の一方的な愛と哀れみです。私たちはへりくだり自分の罪を悔いて神を仰ぐことです。すなわち信じる信仰です。

罪を赦し引き上げてくださる神:

イエス様は十字架ですべての人の罪ののろいを受けて死んで、さらに復活してくださいました。そのことを受け止めて信じる者はすべての罪が赦されます。呪いが祝福に代えられたのです。私たちは日常の歩みの中でも人間関係で悩みます。心に悪い思いや人を責める思いがわいてきます。そして、それを言葉にしたり、行動で表したりします。悪い欲望でとんでもない行動に出たりします。それは、私たちの中に住む罪です。イエス様はそのようなどうしようもない私たちを、憐れんで近づいてくださいます。私たちは自分で自分を責めます。あれも足りなかった、これも足りなかったと自分を責めます。しかし、イエス様はすでにそのすべての責めを代わりに受けてくださいました。「あなたへの責めは私が受けた。代わりに私のすべての愛と平安と喜びをあなたにあげよう。何故なら、私はすでに世に勝ったのだから。あなたの苦しみ悩みはわたしがもらう、代わって、わたしの平安と喜びをうけなさい。」と。ですから、私たちは、罪赦されたものとして、失敗や責めを感じても、前向きに、生きるのです。

<聖書>申命記28章1~19節
【新改訳2017】
28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
28:2 あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
28:3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
28:4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
28:6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
28:7 【主】は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
28:8 【主】はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
28:9 あなたが、あなたの神、【主】の命令を守り主の道を歩むなら、【主】はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
28:10 地上のあらゆる民はあなたに【主】の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
28:11 【主】があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、【主】はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
28:12 【主】はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
28:13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、【主】の命令に聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
28:14 私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
28:18 あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
28:19 あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。

聖なる一本の杭

2026年7月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神のことばを恐れない人間;

イスラエルの罪と堕落に対して、イスラエルの神のみことばを恐れかしこむ者たちがエズラのところにやって来ました。当時のイスラエルの民は神のことばから遠く離れてしまっていました。みことばから離れると、神のみことばを恐れなくなります。心に神に対する恐れを持っているでしょうか。そして、もし、恐れがあれば、私たちは神のことばを守ろうとします。私たちは神の言葉を否定しないまでも、日常のことに追われて、みことばから離れてしまう、聖書を読まない生活に陥っていないでしょうか。つまり、神のことば、聖書に重きを置かない生活になってしまっていることはないでしょうか。そして、私たちは、黙っていれば、神のことばを失ってしまいます。絶えず、心に刻み込まなければなりません。イスラエルの民は、神に対する恐れを失い、神のことばを守らなかったのです。そのために、当然の結果として、罪の結実を刈り取らなければならなかったのです。この世は、神のことばを知りません。また、神のことば、十字架のことばを愚かなこととします。しかし、イエス・キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。私たちをキリストの十字架は罪と滅びから救ってくださるのです。

御前に立たせてくださる神:

そのように繰り返し犯した不信の罪により、滅ぼされても仕方がないイスラエルの民でした。しかし、神は、エズラを通してメシヤ預言を語られました。そして、神はペルシア王を通して民に恵みを施し、民を生かしてくださいました。私たち、すべての人は、そのままでは、自らの罪のために御前に立つことも許されない者たちです。にもかかわらず、キリストの十字架によって立たせてくださるというのです。歴史を支配しておられる神は、現代も、哀れみによりイスラエルの民を祖国に立たせていてくださっています。また、私たちをも忍耐をもって、今、立たせてくださっているのです。神は、どのようにして私たちを神の前で立たせてくださるのでしょうか。キリストは、私の罪の一切を取り除いてくださったのです。(エペソ5:27)「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」罪のない神のひとり子が私たちの代わりになって罪を飲んで十字架で刑罰を受けてくださったからです。

<聖書>エズラ記9章1~9,15節
【新改訳2017】
9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、
9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。
9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、【主】に向かって手を伸べ広げて、
9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。
9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。
9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、【主】はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。
9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。

9:15 イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

人のことばと神のことば

2026年7月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神のことばを無視する人間:

聖書によると、すべての人は、生まれながらに持つ罪に支配されています。そして、その罪により死と滅びに定められています。この世では、人は世の支配者である悪魔の配下にいると聖書は告げています。そのために、神は罪のない神のみ子イエス・キリストを世に送り、私たちを罪と死と悪魔のから救い解放してくださったのです。聖書は律法と福音からなっています。律法は神の戒めです。そして、多くの人は十戒を中心とした神の戒めから遠く離れて、耳を傾けることなく、神のことばを無視しています。その結果、人間社会には、争いと混乱が絶えることがありません。そして、すべての人は自らの罪のために死と滅びに定められています。そこからすべての人を救うために神は、罪のない神の子であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。それが、聖書のもう一つの要素である福音です。

参照:ヨハネ1:1 ローマ10:17

神のことばはあなたを救う:

もともと十戒を中心とした律法は、私たちに罪を教えています。すなわち律法は医療で言えば診断医ということができます。診断医は「あなたはこのままではいけない。このままでは死んでしまいますよ」というように病気を見つけて指摘します。そして、治療に結び付けます。律法は、私たちの罪を指摘し、私たちが罪過の中に死んでいるものであることを明らかにします。私たちはその罪に死んだものであることを気づかせます。治療は何でしょうか。罪と死と滅びに対する救いは何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様あなたの罪を背負って十字架で身代わりとなって死んで罪を取り除いてくださいました。その結果として人は生きるものとなったんです。イエス・キリストを信じると、罪から救われ、罪と死と悪魔から解放されます。そして、新しいいのちに生きる者となります。そして、罪の呪いである死をうちやぶり、呪いを福福に代えてくださいました。罪の呪いである死は、いのちに変えられたのです。そのことを受け取る私たちは、キリストの復活のいのちである永遠のいのちをいただいているのです。

参照:イザヤ43:4 Ⅰヨハネ4:9 マタイ11:28 ローマ3:20

<聖書>マタイによる福音書15章1~20節
【新改訳2017】
15:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」
15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」
15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」
15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

モーセの誕生とイエスの救い

2026年7月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
困難苦難から引き出される神

王女はその子をモーセと名付けた。彼女は、水の中から、私がこのこう引き出したからといった」とあります。赤ちゃんモーセは、エジプトのパロによって、死に定められていました。苦境や困難から引き出されたのです。イエス様も赤ちゃんの時、ヘロデからいのちを狙われましたが、父母マリヤとヨセフにより引き出され、エジプトに逃げて命を守られたのです。モーセはイエス様の型であると言えます。モーゼのような特別な人生を歩む人は少ないかもしれません。しかし、私たちは神に愛され神に目を留められて、これまで歩んできました。それぞれの人生において困難なことも多々あったけれど、たくさんの導きを得てきたのではないでしょうか。神の方で私たちに近づき、様々な困難苦難から導き出し、救い出し引き出してくださって、今があるのです。数えてみよ、主の恵みという賛美があります。私たちはもう一度自分のこれまでの歩みを振り返ってみましょう。あの時あのように神様が困難の中から引き出してくださった。そのことを振り返って、覚えることが大切だと思います。私たちが必死で、もがいてもイエス様は近づいて私と共にいて下さった。それが、神のあなたに対する約束です。

十字架の血によって救われる:

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。私たちは、生まれながらの罪びとです。自分で意識できなくても罪があるのです。神の前で言い訳できません。ローマ書にある通り、そのままでは死に至るしかないのです。それは永遠の滅びです。裁きです。しかし、神は、キリストの十字架を通して、プレゼントとして罪の赦しと永遠のいのちをくださいました。キリストは十字架で血を流してくださり、その血によって、すなわち、身代わりの死によって、私たちは、すべての罪を赦されているのです。よく、自分には救いは要らないという人がいます。でもよく考えてくだい。あなたをつくり、命を与えてくださる神がおられるのだとしたら。イエス様はあなたを救うために、あなたに永遠の命を与えるために来てくださったのです。あなたの罪を取り除いてくださいました。もう一度、神の思いを自分の思いとしてみことばに立ち返ってください。神は忍耐を持ってあなたの応答を待っておられます。

<聖書>出エジプト記2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。
2:2 彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。
2:3 しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。
2:5 すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。
2:6 それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
2:7 その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」
2:8 ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。

岩手県滝沢市のプロテスタント教会