悪魔の試みへの勝利

2023年2月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

<要約>

罪と死と悪魔からあなたを救うキリスト:

人は神のようになりたい、権力を持ち、自分の思うように周りの人を動かしたいという罪の性質を持っています。それは、最初の人アダムから受け継いでいる罪の性質です。アダムは悪魔の誘惑に負けて、罪を犯し、堕落し悪魔の支配下に入ってしまいました。人は、自らの罪によって神と断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。キリストは処女マリヤより生まれました。神が人となって世に来てくださったのです。無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人の罪の代価を払ってくださったのです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。キリストがあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったので、死は何の力も及ぼしません。死の代わりに永遠のいのちが与えられます。つまり、イエス様はあなたを罪と死と悪魔から完全に救ってくださったのです。

試練の後にはキリストの勝利と平安が来る:

神はイエス様が悪魔の試みに会うことを許されました。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。そのことは信仰者としてよいことです。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。神は信仰者のその姿勢を喜ばれます。その時、信仰の勝利を経験します。私と家内は2012年7月から、こんにちわアパートを建て、そこで高齢者の介護事業を始めました。しかし、事業は試練の連続でした。事業を始めて5か月目、12月29日の夜、凍結により、スプリンクラーが破裂して、アパートは水浸しになりました。入居者を他の施設にお願いして、運んだり、内部の修復工事を依頼したり、めちゃくちゃでした。その後、運営面で失敗し、経営が困難となりました。そして、2014年1月末で閉じる決断をしました。そして、最終的には、他の事業所に引き継いでもらうことができました。私たちは、苦しいことがあるたびに、みことばを開き、祈りました。試練が来ても、信仰を持ち続ければ、試練の後にはキリストの勝利と平安が来るのです。

キリストのみ

2023年1月29日(日)ハレルヤチャペル滝沢礼拝説教 銭谷幸器師

<聖書>ローマ人への手紙5章18節
【新改訳2017】
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

<要約>

ルーテル同胞神学校=プロテスタントの元祖であるルター派神学校

プロテスタント教会とカソリック教会との違いは何でしょう?

プロテスタント教会は、「救いの確信」を全員が持てる教会である。

救いの確信ありますか?――自分は半分くらいしか救われていないのではないか、と思っている人はいますか?

救いの確信が持てなくなる理由;信仰と愛を混同しているから

神への信仰、隣人への愛、この二つを区別して持っていることが大切

ローマ5:18 「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」

アダムとエバが神に背いて自分の思い通りに世界をつくろうとした。その罪によって、すべての人が罪に定められた。が、後半、キリストが人間の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったがゆえにすべての人は罪赦され義と認められる。

神が人の罪を背負うために人間として生まれなければならなかった。すべてキリストの行為によって成し遂げられたことである。

救いのために必要なこと;すべてをイエス様が成し遂げてくださったので、私たちは空っぽの手で救いを受け取ればよい。

中世のカソリック教会では、人が救われるためには行為が要求された。

イエスを信じれば、洗礼前の罪はすべて赦されるが、洗礼後の罪は自分で償わなければならないと教えていた。 悔悛と言う制度;司祭に罪を告白すると償いの行為を要求された。すなわち死ぬ前までに償いを終えなければ、煉獄へ落されて、浄化されるために何万年もそこで過ごさなければならないというのである。しかし、聖人たちは自分の罪の償いを終えて、さらに善行を余らして、それはカソリック教会に蓄積されている。すなわち、信徒は聖人がストックした償いを譲ってもらうことで煉獄から出れる、と言うのである。お金を払って、それを得る仕組み。免罪符。私たちが立っているところは、聖書のみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神にのみ栄光であれ。

天の御国は近づいた

2023年1月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書3章1~17節

【新改訳2017】
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

悔い改めて神と向き合う:

罪の根源は、神を無視し、信ぜず、そればかりでなく、神の存在さえ認めないこと。あるいは、あなたの中から神を追い出して生活していることです。神がおられるなんて、考えたこともない、心に浮かんだこともない、これこそが、本来あるべき神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えすることです。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為です。心が正されると、行いも正されます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、悔い改めて、イエス・キリストを信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

天の御国を持ってきたイエス様:

神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されました。イエス様がヨハネからバプテスマを受けて、いよいよイエス様がすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。しかしその時、イエス様は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意したのではないでしょうか。イエス様は十字架で人の罪の贖いをすることにより、神と人との正しい関係を取り戻してくださいました。それは、イエス様が天の御国を私たちのところに持ってこられたと言えます。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。キリストを信じる者は、神の国に属するのです。キリストがあなたの人生の主となり、あなたにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。

天のお父さんとイエス様

2023年1月8日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
【新改訳2017】
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

崇高と栄光の神があなたのお父さんとなる:

ここでイエス様は「自分は必ず自分の父の家にいる」と、お応えになりました。神を父と呼んだのです。神を自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。私たちの先祖の神、私たちの父たちの神と呼びましたが、神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。そして、私たちクリスチャンも「天のお父様」とも親しく呼びかけます。しかし、私たちは、生まれながら罪によって、神に近づくこともみ前に立つこともできないのです。まして、「お父さん」と呼ぶことなど絶対にできません。そのように深い断絶があるにもかかわらず、神は近づこうとしてくださっています。そして、イエス様を通して、私たちは神と父子の関係に入れてくださったのです。どのようにしてでしょうか。神の御子イエスが、神と私たち人間を隔てている罪の仕切りを取り除いてくださったのです。それは、人の罪の裁きを身代わりとなって受けてくださったことによります。そのように、イエス・キリストが十字架であなたの罪を取り除いてくださったと信じるなら、神はあなたのお父さんなのです。

神を父としイエスを模範として歩む:

イエス様が、私たちに望んでおられることは、自分の力を尽くして、神と人を愛しなさいと言うことです。イエス様は、あなたと私のために十字架でご自身のいのちを捨て、私たちの罪の代価を身代わりとなって支払ってくださいました。そのことにより、神を父と呼ぶことができ、逆から言えば、神の子どもとされたのです。そして、天のあらゆる恵みと祝福をお与えくださったのです。こんなに大きな恵みと賜物を頂いたものとして、完全に父なる神にお従いになったイエス様を模範として生きるのです。イエス様の弟子になるということは苦しみを背負うことのように聞こえます。しかし、歴史を通して数えきれない人々が、キリストの弟子となり、信仰の故の苦しみを負ってもイエス様の後を歩き続けたのです。私たちクリスチャンもその弟子のひとりです。神の求めていることは、感謝と喜びの応答です。苦労は多いとしても、こんなに祝福された人生を与えてくださっている、また、どんな時もともにいてくださると約束しておられるインマヌエルの主です。主に感謝して喜んで、奉仕や礼拝出席、献金、隣人愛の実践に励むのです。そのことを主は大変お喜びになるのです。

キリストにある喜び

2023年1月1日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~18節

【新改訳2017】
ピリ
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

<要約>

何物も消すことのできない喜び:

キリストにある喜びは死を超えている、自分の命にも勝る喜びである、と言うことです。 この後、パウロは、ネロの迫害によってローマで 斬首刑にされ命を失いました。死を目前にしても、キリストにある喜びで満たされていたと言えます。イエス様は、全知全能、全世界をお作りになり万物の最初であり終わりであるお方です。それでは、そのようなお方が、なぜへりくだり、ちっぽけな人間としてユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのでしょうか?そして、何も悪いことをせず 罪の一つもない清い神が、当時でも極悪人しか適用されなかった最も残虐な処刑を受けたのでしょうか。イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神に従い通しました。そして、死んで墓に葬られました。イエス様は十字架ですべての人の罪を背負って、罪の裁きを受けてくださいました。あなたの罪に対する神の怒りの杯を飲み干してくださったのです。その動機は、愛です。そのイエス様の功績のゆえに、神はイエス様を復活させられたのです。死と隣り合わせの人生でも、イエス・キリストの十字架と復活の福音は信じる人々に、永遠のいのち、復活のいのち、それによるしぼむことのない希望を与え続けたと言えます。そして、それを思うときに、死によっても奪い去ることのできない喜びを味わうものとされたのです。聖霊はあなたの空っぽの部屋に入りあなたを祝福したいと願っておられます。キリストを信じ、キリストが与える喜びを受けてもらいたいと思います。永続する、色あせない、しぼむことのない喜びがあります。

キリストの喜びで前向きに生きる:

イエス様は神であられるのに最大限にへりくだられました。もっとも貧しい姿で地上に くだられました。そして最も弱い立場の人間として生活なさいました。王であり支配者であるはずなのに、しもべとなりました。自らを低くして死にまでしたがいました。このように徹底的に謙遜になり、へりくだられました。そして最後まで従い通したイエス様を、神は高めて全てに勝る権威をお与えになりました。ここに霊的な法則があります。神はへりくだる者、神に従う者を高めてくださるということです。ですから、もしあなたが、キリストを信じ喜んでいるなら、あなたの前に立ちはだかるいろいろな困難や苦難も、それは喜びに変えられます。ですから、私たちは、キリストを喜び、前向きに生きるのです。

キリストは真の神であり救い主

2022年12月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>コロサイ人への手紙1章13~23節

【新改訳2017】
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

<要約>
神の敵として歩む人と和解の福音:

聖書は、依然として全世界の人々は暗闇の力、サタン、悪魔といわれる霊的存在の支配下にあると述べています。全人類がサタンの支配下に入った起源は、最初の人アダムです。アダムが神の仰せを無視して、サタンに従ったことです。プーチン大統領、金正恩や他のテロリストがサタンではありません。サタンが彼らを背後で操っているのです。サタンは身体を持たない霊的な存在です。残念ながら人類は争うことから解放されることがありません。国家レベルでも民族レベルでも家族レベル、個人レベルでも然りです。使徒であり聖徒であるパウロも、自分のしたいことが行えないで反って憎んでいる事を行ってしまうと告白しています。私たちはみな同じです。ここに、罪の力に縛られ悪魔の支配下にある人間の姿があります。毎週、「試みに合わせないで、悪よりお救いください」と祈る主の祈りで、信者は守られています。サタンは神と敵対関係にあるように人も神と敵対関係にあります。現に人は罪を犯しているので、裁きを受けることになっています。そこで、キリストは敵対関係にある者を和解させるために来られました。イエス様がすべての人の罪を背負って十字架の上で苦しんで、死んでくださいました。その死によって、私たちを神と和解させてくださいました。

聖なる傷のない者としてくださるキリスト:

キリストが私たちのすべての罪を背負って、十字架で死んでくださった事により、罪が取り除かれました。それにより神との和解がなされ、サタンの支配からキリストの支配下に移されたのです。キリストは神の本質そのものであるとはっきり語られています。万物はキリストによって創られて、キリストによって、今万物は保たれ成り立っており、最終的にはキリストが万物の存在の目的であるということです。だからこそ、キリストは万物を神と和解させることがお出来になるのです。現在一般の人々はキリストをなんといているでしょうか。聖書では、キリスト自身がわたしは、真理であり道でありいのちであるとおっしゃっております。キリストは自身を神であると語っています。私たちのいのちの起源であり、さらに万物の根源であると言っています。私たちにとってキリストはすべてのすべてであるといえるのです。そのお方が、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として信じる者を御前に立たせてくださるのです。

メシヤ来臨の預言

2022年12月4日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ミカ書5章1~9節
【新改訳2017】
5:1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。包囲網が私たちに対して設けられた。彼らは、イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ。
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
5:3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。
5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼う。そして彼らは安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。
5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。
5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。
5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。
5:9 あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。

<要約>

混迷と闇に光となって来られた救い主:

当時の状況を見ると、大国アッシリヤが目前に迫り、イスラエルの民にとって脅威が最高潮に達していた時であります。とても勝ち目がなく絶望と思われている時代に救い主の登場が預言されています。イエス様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマの圧政のもとに非情な困難の中にありました。このように、救い主は、混迷とやみが覆う時代に来られました。個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも、困難や試練で絶望することはあるかもしれません。しかし、その中でこそ、私たち人間は救い主をお迎えするにふさわしく整えられるのです。アッシリヤは、目の前に立ち尽くす困難、光の見えない闇と言うことができるかもしれません。また、病気や困難や死を象徴しているかもしれません。あるいは、不破や仲たがい、分裂、分派であるかもしれません。あるいは、自分の内側にある利己的な思い、支配欲なども敵と言えるでしょう。私たちはそれに立ち向かおうと戦います。しかし、その時にこそ、救い主があなたに近づいていることに気付くことです。救い主キリストはそれらから信じる者を救ってくださるのです。そして、真の平安をお与えくださいます。

勝利と祝福の伝達者;

ヤコブの残りの者は、最後まで真の神を信じる信仰に生きる人々を指します。最後まで忠実な信仰者は二つのものを持っています。一つは、周囲の人々を潤し、神の祝福を届ける働きです。その人たちは、多くの国民の中でも主から降りるつゆ、青草に注ぐ夕立の様です。潤いと生気を与える神の力です。それは、神の祝福の器であると言えます。周りの人々に祝福を届ける働きです。アブラハムの約束を受け継いだクリスチャンは祝福の伝達者と言えます。簡単に言えば、あなたによってあなたの周りの人々や家族も祝福されるということです。あなたの内におられる聖霊が働いてくださいます。もう一つは、圧倒的な勝利者です。ヤコブの残りの者は、信仰者は森の獣の中の獅子、百獣の王ライオンです。教会の勝利と言えます。なぜなら、御子を信じる者は、十字架のゆえにすべての罪が赦されています。そして代わりに死んで三日目に復活したキリストの勝利と祝福を受け継いでいるからです。与えられた賜物を豊かに用いて、神と人に仕えるのです。

神のみことばは永遠に立つ

11月27日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>イザヤ書40章1~11節

【新改訳2017】
40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」
40:6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
40:7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
40:10 見よ。【神】である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

<要約>

信じれば二倍の慰めと祝福がある;

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」まさしく、イエス・キリストのお姿です。神はイスラエルのために優しく語り掛けておられます。それは民の嘆きが大きかったからです。同様に、キリストを信じて苦難の中に置かされている人々も確実に慰められるのです。あるいは、キリストを信じてこれまで歩んできた人々、様々な悲しみを通って来られた人々を神は確実に慰め、平安と喜びで満たしてくださるのです。クリスチャンは、キリストの贖いより罪の報いである死と滅びが取り去られてゼロになっています。さらにクリスチャンは神の子とされています。つまり天国の相続者とされています。罪が赦され、死と滅びがなくなり、永遠の命が与えられるばかりでなく、天国の全ての富を与えられているのです。信じる者には罪に代えて二倍の慰めと祝福があります。神は、罪により炭より黒い私たちを真っ白にしてくださるばかりでなく、光り輝く黄金の栄光を与えてくださるということです。信仰によってあなたはそうなるのです。そうなっているのです。

王の王、主の主であり私の羊飼いイエス様

世の終わりの時に、世の終わりのラッパが鳴り渡るときに、皆さんは復活のからだでよみがえります。そして、真に救いが完成するのです。ですから、私たち信者は救いの完成を先取して生きています。やがて救われるのではなく、今救われています。そして、信仰により、そう確信しています。聖書は人間にとってなくてはならない重要なことが書かれています。その中でも、人はそのままでは、自らの罪のために滅んでしまうこと、神は人を愛し一人も滅びることを惜しまれて、救い主キリストを送ってくださった事、そして、すべての人の罪をキリストが背負って十字架で罪を贖ってくださった事、キリストを信じる者は誰一人として滅びることなく永遠のいのちをもつことです。私の羊飼いであり、すべての権威をお持ちの力ある神が私と共にいてくださることをもっと実感して、与えられた人生を喜びと感謝をもって、前向きに歩んでいきたいと思います。


祈りについての主の教え

2022年11月20日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書11章1~13節

【新改訳2017】
ルカ
11:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』
11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』
11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。
11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

<要約>

クリスチャンはなぜ祈るのか?

主の祈りを通して、わたしたちは人生で必要なことは何かが分かります。私たちは祈るたびに、私の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。そして、神に求めることで、神への信頼を新たにさせられ、平安を得ます。そのようにして、私たち信者は祈りを通して神と親しくなり、アブラハムが神の友と呼ばれたように、私たちも神の友となるのです。つまり、主は、私たちが祈ることにより幸いになることを望んでいるからです。そして、イエス様は、祈りは聞かれると約束しています。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。祈りの言葉はエコーのように帰ってきて、「そうだその通りだ。主は確かに私の祈りを聞いてくださる」と信仰が生まれます。祈りによって、クリスチャンは明日を信じ、永遠を信じ、確かな希望を持つことができるのです。

天の父の最高のプレゼント聖霊: 私たちはさまざまのことを願うのですが、天の父は、それらにまさる最高のものをくださるというのです。それが、聖霊です。聖霊はわたしたちの人生を導き照らす光であります。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはない、とあります。すなわち、聖霊はあなたがキリストを信じて救われるように導きます。聖霊は三位一体の神ですから、信じる者に内住して罪を示し悔い改めに導きます。そして、わたしたちに語りかけ、諭し、主の道に立たせてくださいます。わたしたちがこころの王座に聖霊をお迎えして聖霊に聞き従うなら、人生は限りない、無限の祝福を、天の窓を開いて神はあふれるばかりの祝福を注いでくださいます。神はあなたのすべての求めや願いにこたえてくださいます。あなたのすべての必要を満たしてくださいます。聖霊はあなたが願った通りでなくてもあなたに最善のものを用意してくださるのです。聖霊を助け主として私たちに託してくださったこと最大の使命は福音を伝えるということです。しかし、これは重荷とはなりません。聖霊があなたを通して働かれるからです。

福音の再発見

10月30日宗教改革記念礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章1~7,16,17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

神の義というプレゼント:

当時、神の義、神の正しさは一点の罪も赦さない恐ろしいものと解釈されていました。人の罪に対して、容赦のない神の裁きがあります。これが神の持っている義です。ルターは詩篇71篇2節の「あなたの義によって私を救い、助け出してください。」を読んで、繰り返しこのみことばを黙想しているとき、彼の心に光が差し込んだのです。神の義、この「の」と言う助詞に別の働きを見たのです。「義の神」と言われる、神の属性を表す義ではなく、「神の下さる義」と読み替えることができたのです。それが、福音の再発見につながりました。神の義は神のプレゼント、賜物であることが分かったのです。神はどうしようもない罪人を値なしに義と認めてくださるのです。それは素晴らしい神のプレゼントで、福音の中心です。神が与える義は、キリストの十字架に表される神の愛と言えます。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターの95箇条の論題は、当時のカソリック教会へ、一修道士が起こした大批判とみなされました。ルターの意見に賛同する人々も多くいたようです。そのことによって、ルターは時の人となり、最終的に教皇から破門されました。さらに95か条の事件の4年後には、ドイツのヴォルムスで行われた国会にルターは呼ばれて、尋問されることになりました。ルターは答えた。「閣下と陛下の皆さん。私はありのままに答えましょう。私の良心は神のことばに捕えられています。私は聖書に反して何も言うことはできません。私は、法王と教会会議の権威を認めません。なぜなら、彼らは互いに矛盾しているからです。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら良心に背くことは正しくないし安全でもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン 私はここに立つ。私はこうするより他にない。」福音は、全ての人に救いをもたらす神の力です。ここでパウロが強調したいのは「信じる」という行為です。信じる全ての人には福音は神の力となるのです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。