福音はあなたを救う神の約束

2023年10月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ書3章15~29節
【新改訳2017】
3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。
3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

<要約>

信仰によって受け取る約束:

ルターは懺悔告白して、自らの罪を洗い流そうと努力しました。しかし、そのことで罪が赦されているという確信が得られませんでした。すべの人は生まれながらに罪人であることに気づいたのです。そして、自分で罪を取り除くことはできない、神がお与えくださる救いに目が向けられました。それは、神の約束、福音です。福音は信じるあなたを神の義で覆い隠します。あるいは、あなたに義という着物を着せます。それを義の衣と言います。それを着せられると、あなたは、どこから見ても正しい、罪がないということになります。罪が義に覆われてしまうからです。そして、あなたには、永遠のいのちが与えられ、神の子とされ、御国の世継とされ永遠の祝福に生きるのです。それが福音の働きです。罪がないとされる、すなわちあなたの罪がすべて赦されていることです。それを自分のものとするためには、思いを変えて、つまり悔い改めて、信じることが必要です。福音はイエス様の十字架と復活に現わされた罪の赦しと永遠のいのちです。あなたがどうであろうと、どんなに罪深い者であっても、悔い改めて、ただ信じて受け取る赦しといのちです。何の功績も働きも要りません。無条件で与えられる救いです。是非、あなたに差し出されたこの救いと祝福をただ信じて受け取っていただきたいと思います。

信仰によって働く神の力:

ヴィテンブルク大学の一室で、聖書に真剣に向き合ったルターは、そこで、福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験するのでした。キリストの十字架の贖いを信じる信仰によりすべての罪は赦され、義の衣を着て神の前に出ることができるのです。行いは要らない無条件で天国に招かれるのです。ただ信仰によるのです。そして、その信仰による罪の赦しを得て、人は、今度は、福音の力によって、神を愛し、人を愛する人生へと向かうのです。そして、律法の中心である十戒は幸せな人生へのガイドラインとなるのです。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人をすくう神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。そこから、救い出されて、赦しと永遠のいのちをいただくことができ、神が準備してくださる決してしぼまない希望の人生、幸いな人生へと導かれますよう祈ります。

勝利の秘訣

2023年10月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記17章8~11、24~27、46~51節
【新改訳2017】
17:8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。
17:9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」
17:10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」
17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。
17:25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」
17:27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。
17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」

17:46 今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
17:47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。
17:50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。
17:51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。

<要約>

立ちはだかる目に見えない敵:

世界には目に見える敵ばかりでなく、それ以上に恐ろしい目に見えない敵があることを知らなければなりません。目に見えない敵は、三つあります。一つは、エペソ書にある、空中の権威を持つ支配者、闇の世の支配者である悪魔、サタンです。悪魔は初めから人殺しで真理に立っていません。神に敵対しているわけですから、信者にも敵対しています。目に見えない敵の二番目は、私たち誰でもが持っている罪の性質です。私たちの内側には、神に喜ばれない罪の思いがあります。してはならないことを欲します。そして、したくないことをしてしまいます。目に見えない敵の三番目は、この世です。この世の本質は不遜です。この世は神を認めていません。目に見えない敵と題してお話ししています。目に見えない敵と言っても、それは目に見える形で表れています。すなわち、目に見える困難、苦難、誘惑の背後に目に見えない敵がいるのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と。

神の戦いと勝利の約束:

サウルとイスラエルは意気消沈してしまいましたが、ダビデは、自分には勝ち得る戦いだと考えました。私たちも知らなければなりません。試練は困難ですが、どの試練も勝ち得る戦いであるということです。どんな試練にも必ず勝つことができるのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。それは、イエス様があなたと共に戦ってくださるからです。人生には戦いがある、しかし、主イエスは世に勝っています。また、神は、「あなたはわたしのもの」と言われて、どんなわざわいもあなたに及ばない、と言われます。イエス様の十字架は一見敗北に見えます。しかし、それが勝利だったのです。悪魔は、主イエスの弟子のユダを用いて主イエスを捕えて、ローマ帝国に渡し、十字架刑につかせたのです。救い主を世から消し去るということでは悪魔は勝ったように見えます。しかし、神は逆転勝利に導いたのです。このことにより、すべての人の罪を取り除くための贖いのわざが成就しました。そして、三日目により、悪魔と、罪と死から、そして、神の怒りからどんな人でも信じる者は救われるのです。勝利の約束は、十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちです。

罪ののろいからの解放

2023年10月15日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記2:22~26、3:8~14
新改訳2017
2:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。
2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。
2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。
2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、【主】に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。
2:26 一方、少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。

3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
3:11 【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

<要約>

神はみことばを通して語られる:

聖書が完成する前の時代は、神のことばは、預言者を通して、与えられました。そして、それらが記録されて、聖書としてまとめられたのです。聖書は66の書物としてまとめられています。時代も立場も違う約30人の人々によって書かれたものです。聖霊が人々に神のことばを授けて語らしめたのです。ですから、真の著者は聖霊です。よって、聖書は神のことばと言えます。サムエルは神の箱が安置されている主の宮で寝ていました。早朝でまだ薄暗い時に、サムエルに主が直接お語りになったのです。聖書が完成している現代では、神は聖書のみことばを用いてお語りになります。聖書を読んで、思いめぐらすときに神はお語りくださいます。神との対話は、話しては聞く、聞いては話す、というものです。ですから、祈りは対話です。毎日のことですが、神は豊かに語ってくださるのです。それは小さな声かもしれませんが、祈りの中で、示してくださいます。そして、状況を開いてくださいます。私たちは信じて一歩前に進んでいくのです。共にいて声をかけてくださるイエス様と歩む幸いを覚えたいと思います。

罪ののろいと救い主キリスト:

あなたへの神の切なる思いは、あなたを呪うことではなく祝福することです。その根拠は十字架です。神はその独りの御子のいのちをも惜しまず、あなたを救いあなたを祝福しようとしておられます。律法は、神の民としてあるべき姿への要求です。しかし、一方、そのような律法の要求に到達しようとしてもできない人間の姿があります。そこで、人間は律法の要求に対峙した時に、どのような心の態度になるかを神は見ておられます。エリの息子たちのように神のことばを無視して、高慢にも自分たちの欲望を果たそうとするのか、あるいは、心打ち砕かれて、心低くして、神の前でへりくだり、悔い改めるか、それを神は見ておられるのです。神は、砕かれた心をもって主の前でへりくだっている人の罪を豊かに赦し、そのような人を喜ばれます。旧約時代の人間の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されていたのです。イエス様は私たちすべての人の罪ののろいをご自身が代わりとなって受けてくださいました。そのことにより、信じる者には、罪ののろいは過ぎ去って、神の愛と祝福のみが注がれています。クリスチャンライフは、神との生きた交わりと約束された祝福の人生を歩むことです。


福音は神の力

2023年10月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章8~17節
【新改訳2017】
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

信じる者に働く神の力:

神の力の力は、ドミナス、ダイナマイトと同じ語源で、その力は敵の要塞をも爆破する力です。最強の力と言えます。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。パウロは行いによって、神の前で正しい者とされようと一生懸命に神の命令である十戒を守ろうと頑張りました。しかし、それは、無駄であることがわかったのです。反って、自分の足りなさや罪深さを示されたのです。そしてついに、神が与えてくださる義は、神ご自身が無償でくださるものであることに気づいたのです。神の義は信仰によって受け取るものであることがわかったのです。「福音は信じる者に働く神の力」であると言いました。福音は、罪と死と滅びからの救いです。さらに、誰でも、それに代えて、永遠のいのちと決して消えない希望が与えられるのです。ですから、福音はすべての人に提供された救いで、何にも勝る神の力なのです。それを自分のものとするためには、信仰が必要です。すなわち、神の力、福音を私のものと信じることです。

福音の力を体験して生きる:

もともと 人は神に似せて作られました。それは神と交わり、神に従うことによって、神の栄光を現す幸せな生活を送るためでした。ところが、人間は神に背を向け、良心の命令に従う能力を失ってしまいました。しかし、神は人を 罪の生活、罪の奴隷から救い出すためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。罪なき神が人のすべての罪の重荷を負い十字架で身代わりの死を遂げたのです。あなたが、神が提供する福音を空の両手を広げて、ただ信じ受け入れるだけで良いのです。福音の力を体験して生きるとき、今の試練や困難、苦難は後の栄光につながることが分かります。クリスチャンライフには困難や苦難はつきものです。しかし、そのことを通して、私たちは、神に近づきます。神の祝福は苦難と言うラップに包まれてやって来ることがあります。苦難の覆いの下に祝福が待っています。そしてそれは、決してしぼまない希望、復活のいのち、永遠のいのちの祝福につながっているからです。私たちも、イエス様の福音の力を日々体験してクリスチャンライフを感謝と喜びをもって生きていくのです。

パウロに見るイエスの愛ととりなし

2023年9月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピレモンへの手紙1~19節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
1:2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
1:5 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。
1:8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
1:9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
1:14 しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。
1:15 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。
1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。
1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。

<要約>

神から離れ役立たなくなった人間:

オネシモは、以前ピレモンにとって役に立たないものであった。それは、罪を犯し、ピレモンの元を離れていた状態を指します。オネシモはかつての私たちの姿を表しています。罪によって真の神から離れている人間の姿です。また、生まれながらの人間の姿でもあります。オネシモは、自由を得ようとして、反って不自由になりました。それどころか、見つけられたら殺されるという死の恐れを抱きながらの隠れた生活です。そこには何の平安も喜びもありません。ピレモンから逃げて遠ざかったオネシモは、神から離れて、神を否定して生きる人間の姿を現しています。神を心の中から追い出すのです。神なんかいないというのです。そのように多くの人は神を否定して自らを滅びの道を歩んでいます。当時のオネシモが死刑に定められているのと同じです。そのような神に敵対するような私たち人類に対して神は何をしてくださったのでしょうか。

愛と信頼のまなざしが人を変える:

オネシモは逃亡奴隷として、ローマ帝国の雑踏の中に身を隠していました。ローマでの逃亡生活に疲れ、心に平安はなく苦しんでいたと考えられます。道でパウロの同労者テキコに偶然にあったのかもしれません。それとも、囚人となっていたパウロの噂を聞いて彼自らがパウロを訪れたのかもしれません。パウロを通してイエス様が彼に働いてくださった。そのお心を表し、やさしい視線を向けてくださったのです。オネシモは癒され、そして十字架による罪の赦しを自分のものとしたのです。悔い改めてイエス・キリストを主と信じたのです。人はどのようにして変わるのでしょうか。それは、愛と赦しによるのです。あるいは愛と信頼によるといえます。愛と信頼のまなざしによって人は変えられるのです。そして、神と人に役立つものとなるのです。人との出会いの背後にはイエス様がおられます。私たちもかつては、真の神がおられるのに、神を離れて、神を認めず、自分中心で自分を神の上において歩んでいました。神の前に役に立たないものでした。しかし、一方的な神の恵みによって、主イエスに捕らえられて、今は神に役立つものと変えられました。遣わされたところで、隣人愛の実践と福音宣教に励もうではありませんか。

主の再臨を前にした生き方

2023年9月3日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅱテサロニケ2章1~17節
【新改訳2017】
2:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。
2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。
2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。
2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。
2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。
2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
2:9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、
2:10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
2:11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。
2:12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。
2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
2:14 そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。
2:15 ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。
2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、
2:17 あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。

<要約>

神から離れて混迷する人間社会:

聖書は、キリストの救いは、人間を罪による滅びから救うために神が備えてくださった唯一の方法である、と訴えています。この恵みの救いは、あなたが受け取っても受け取らなくても良い、あるいは信じても信じなくても良いというものではありません。現代、背教は進んでいると思います。たくさんの異端と言われる教えも出てきています。統一教会、エホバの証人、摂理、新天地など。新聞紙上でも取り上げられています。信仰も冷えていき、日本の教会は苦戦しています。信者の数もあまり増えていません。また、世界は混迷を深めています。国家は、専制主義の国々と民主主義の国々と分断しています。戦争と殺戮は繰り返されています。地球温暖化からか自然災害も増加しています。聖書には、「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。―――自分たちの集まりをやめたりせず―――その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」お互いに愛と善行に励みましょう。また、礼拝をないがしろにしないで、励まし合って主日礼拝を守りましょう。

永遠の慰めと素晴らしい希望を与えてくださる神:

聖霊はみことばと共に働いて、私たちのうちなる人をキリストに似たものに変えてくださるのです。キリストの似姿とはなんでしょう。それは、十字架上の主イエスの姿に凝集されています。父なる神への完全な従順。彼を十字架につけて嘲笑する人々に対して「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないからです。」と祈ったのです。ここに私たちが目標とする姿があるのです。人を赦すことによって平和をもたらす主イエスの姿を見るのです。また、「あなたがたを初穂として救いに選ばれた」と書いています。この「初穂」ということばは、新改訳聖書では「初めから」と書いています。教会に集いみことばを信じるあなたや私は、世界の創造の初めから救いに選ばれているということです。しかし、私たちは傷つき、また、気落ちし、落ち着きを失い、心を騒がす者たちです。神は永遠の慰めと素晴らしい希望を与えてくださると、約束してくださっております。常に父なる神を信じ、聖霊がいつも助けてくださる事を信じましょう。そこに必ず勝利があります。そして、神は永遠のいのちの祝福と死で終わることのないしぼむことのない希望を信じるものすべてに与えてくださるからです。

目が開かれ神の栄光を見る

2023年8月20日(日)礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書9章1~12、35~38節
【新改訳2017】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

<要約>

夜が来る前に神のわざを受けとる:

心の目の盲目というのは、罪が分からない、救いが分からない、真の神を認めることができない、真理が見えない、という状態を指しています。この盲目の人の肉体の目を開くという神のわざを通して、神は、私たちの心の目を開いてくださいます。具体的には、私たちが心の目を開いて、主イエス・キリストを信じることです。信じて救いを得ることです。救いとは、罪と死と悪魔からの救いです。それは一方的に提供される神のわざです。そして、神のわざがあなたや私に届けられるのに期限があるのです。誰も働くことができない夜が来る、それはこの身体のいのちが終わる時までです。すべての人は、死後神の前に立たされて、裁きを受けることになります。罪の報酬は死ですと書いてある通り、罪のしみが少しでもある人は、裁かれ永遠の滅びに落とされるのです。神は一人の御子を世に送り、罪のない神の御子にすべての人の罪をその方に背負わせて、あなたの罪の身代わりに御子を裁き死に至らせたのです。まだ信じていない方々は、今あなたに届けられているこの救いの福音を今受け取ることです。まだ、先があると思ってはいけません。

神を信じ従うとき主の栄光を見る:

この男は信仰で応答し、イエス様の言われた、そのおことばとおりに行動し、目が見えるようになり帰って行きました。みことばを信じるという事は人間的には愚かに見え、さらに、侮辱を受けるような体験であるかもしれません。しかし、神の業が現れる時なのです。彼は、当時のコミュニティから追放されたのです。そこでイエス様は彼を見つけ出して、イエス様の面前で信仰告白へと導きました。イエス様は、時には私たちには、心地よいことではなく試練と思われるようなことをなさり、それでも、従いますか、信じますか、と迫っておられます。ここでの大原則は、信じて従ったときに想像も絶する神の御業、神のご栄光を見ることができるということです。クリスチャンの皆さん、また、まだ信仰を持っておられない方々も気づいていただきたいと思います。今皆さんが抱えている、困難や苦難、あるいは労苦は神が、必要があってあなたに与えられているということです。信じて従う者には、やがて、神はその後に栄光を見せてくださいます。必要なのは信じて忍耐してキリストに従っていくことです。

偶像礼拝の罪

2023年8月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記32:1~14
【新改訳2017】
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」
32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
32:14 すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。

<要約>

見える神(偶像)を持ちたがる人間:

金の子牛は、民が持っていた金の耳輪を元にできました。霊的な意味を当てはめると、金の耳輪は欲望です。欲望が神となった。偶像は人間の欲望から生まれるのです。偶像の背後にあるのが悪魔、サタンです。人間が神を造るという大きな過ちでした。さらにそれに祭壇を築いていけにえを捧げるという礼拝行為をしたのです。これを、聖書は淫行と言っています。すなわち夫や妻を裏切って結婚外の人と関係を持つことと同じだと言っています。私たち人間は、罪と弱さのために、目に見える神を求めてしまいます。目に見える神は偽りです。それは、人が造った神です。偶像礼拝の罪は恐ろしい結果をもたらします。イスラエルは、モレクと言う偶像に自分の子どもを火に入れてささげることもしました。偶像礼拝は、偶像の背後にいるサタンを礼拝していると言えます。私たちは目に見えない神を信じています。モーセ率いるイスラエルの民がしたように、荒野で不信の罪犯すことが無いようにしようではありませんか。偶像礼拝者になってはいけません。あなたの欲望を神にしてはいけません。不品行を避け、聖い生き方を追い求めましょう。不平を言ってキリストを試みてはいけません。神を畏れ、愛し、信頼しましょう。

神を動かすとりなしの祈り:

神の怒りとさばきに対して、モーセはとりなしの祈りをします。神の怒りの右の手が挙げられました。イスラエルの民の上に落とされようとしていました。モーセはとりなしの祈りを始めます。これは人類史上で、イスラエルを救った最大のとりなしの祈りです。謙遜なモーセですが、かなりはっきりと叱責するがごとく神に訴えております。モーセはみことばと約束に立って大胆に祈りました。とりなしの祈りのポイントは、みことばと約束に立って祈るということです。神は、聖霊と主キリストを私たちクリスチャンのためのとりなし手としてくださり、まどろむことも眠ることもなく祈っていてくださいます。イエス様と聖霊様が、一緒になってあなたや私のために個人的にとりなしてくださっています。ですから、自分のことは心配しなさんな、というのです。私たちクリスチャンは、モーセがとりなしたように、このままでは罪のため滅んでしまう家族や知人のために真剣に祈らなければなりません。神の約束を握って、神に訴えるのです。

歴史を通して明かされた救い主

2023年7月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節
【新改訳2017】
28:16 私たちがローマに入ったとき、パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。
28:17 三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めた。そして、彼らが集まったとき、こう言った。「兄弟たち。私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、何一つ背くことはしていないにもかかわらず、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 彼らは私を取り調べましたが、私に死に値する罪が何もなかったので、釈放しようと思いました。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私は仕方なくカエサルに上訴しました。自分の同胞を訴えようとしたわけではありません。
28:20 そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」
28:21 すると、彼らはパウロに言った。「私たちは、あなたについて、ユダヤから何の通知も受け取っていません。また、ここに来た兄弟たちのだれかが、あなたについて何か悪いことを告げたり、話したりしたこともありません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」
28:23 そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
28:24 ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。
28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
28:26 『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
28:27 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」
28:29 【本節欠如】
28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

聞いても見ても悟らない人間社会:

聞いてもわからない、見ても見えない、心が鈍い、というのは内向きであって外で起きていることが心に入っていかない、結局、耳は聞こえず、目も見えていない状況です。当時のイスラエルの民はそのような状況になっていたのです。その姿勢は、現代社会に住む人々の内にも見られます。神から遠く離れているので、みことばを聞いても心に入らないのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。その延長線上にあるのが、自分を誇り他人を見下す生き方です。それが私たちの罪の姿です。それは現代の日本人にも見られることです。日本人は遵法精神に富んでいて、善い行いに励む人々です。 善い行いをたくさんする人は、行いのない人々に不満を持つようになります。「私はこんなにしているのにあの人たちは何もしない。ずるいのでは」と、心に思うからです。これが行いを誇る生き方です。これは信仰ではなく、律法主義の生き方です。行いは、信仰から出るべきです。謙遜と感謝から出てくるのです。

全世界へ広がるイスラエルの希望:

ユダヤ人は歴史を通して、「希望」を持ち続けようとしました。ユダヤ民族には選民思想というのがあります。彼らは、神に選ばれた民であり、神はユダヤ民族を祝福し救ってくださると信じています。それが、時至って、神がイスラエル、そしてすべての国民に救い主を送って下さいました。ベツレヘムの田舎に、最も弱い小さなものとして来られました。不潔な家畜小屋でお生まれになったのです。クリスマスです。「全世界に広がるイスラエルの希望」と題してお話ししています。それは、神が人となって来られたということです。ここに希望があります。救いがあります。私たちは誰も自分で自分を救うことはできません。なぜなら、私たち全ての人は自らの罪により死んでいるからです。私たちはそのままでは、罪により永遠の滅びに至らざるを得ないのですが、キリストは あなたを罪と死と悪魔から救うために世に来てくださいました。現在、キリストの救いは全世界に届けられようとしております。聖書の預言が成就するのです。ですから、私たちは今、希望の時代に生きています。

教会を産み育てる聖霊

2023年7月16日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~26節
【新改訳2017】
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。
11:20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
11:23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。
11:24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
11:26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

<要約>

人、状況を用いて宣教する聖霊:

エルサレム教会の執事をしていたステパノは、ユダヤ人たちから石打の刑に処せられ、殺されました。そして、他のエルサレム教会の信者たちにも迫害の手が迫っていました。信者にとっては苦境であり、マイナスの状況でした。しかし、その状況を聖霊は逆用して、福音を異邦人にも広げたのです。聖霊はこのように人を用いて働かれるのです。現状では、人は罪に捕らわれているために、自分が救われなければならない存在であることにも気づきません。罪の報酬は死です。そして、「人間には一度死ぬことと死後裁きを受けることが定まっている」と書いてある通り、罪の結果は死後のさばきと永遠の滅びです。イエス・キリストは自らの罪のために死と滅びに閉じ込められている人を救うために来られました。そして、すべての人の罪を背負って、身代わりとなって、十字架で自らの命を捨ててくださいました。それは、あなたが信じて神に立ち返り、真の命に生きるようになるためです。私たちが先に救われたのは、私たちの周りの家族、友人、知人にイエス・キリストの救いを届けるためです。

聖霊は教会を通して働かれる:

聖霊は教会を産み育て、教会でイエス・キリストの救い、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちを提供しています。バルナバは、生活習慣が違う、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げてうんぬんするのではなく、ポジティブなものの見方をしています。バルナバの視点は、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。違いがあっても、そこに神の恵みを見ています。これは、聖霊のみ思いです。私たちは、教会においてもその他の社会生活においても様々な問題に直面しながら生活しています。反対、つまずき、困難、苦難はつきものです。しかし、神の恵は変わらずに注がれています。聖霊は教会を通して、またその一員であるあなたを通して働いておられます。あなたは教会の身体の一部です。愛し合い、仕え合い、キリストの身体を立ち上げていくのです。まだ信じていない方は、是非キリストの罪の赦しといのちを自分のものとしてください。空の手を差し出して、キリストの赦しといのちを受け取ってください。身体の死の向こうにある復活のいのち、永遠のいのちをいただくことができるのです。