赦すためです主の十字架

2020年2月23日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書27章27~44節
27:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
27:29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
27:30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

<要約>

私がイエスを十字架につけたのです:

  • 多くの人々は神が近くに居られるのに偏見で見ることができない
  • 神に頼るのは弱い人間と決めつけるのは、自分は神以上だと思っている人
  • 多くの人々が「神がいるなら世界を救え。そうしたら信じてやる」という。
  • 「イエスの十字架が私の罪のため」と分かることが信仰の第一歩

皆さんにお訊ねします。イエス・キリストを十字架につけたのはあなたですか?とんでもない。2000年前の出来事にどうして現代の私に責任があるというのか。もしあなたが、自分とは関係の無いことであると考えているなら、聖書にあるとおり、神の力を体験することはできません。信じて救われてください。

全能の力であなたを愛し赦す神:

  • イエスは人の罪の呪いを身代わりになって十字架で負われた
  • 神の義は人の罪を正しく裁くvs神の愛は人の罪を無代価で赦す
  • 神は御子の十字架で、二つの相矛盾する御思いに筋を通した

「十字架のことばは、救いを受ける私たちには、神の力です。」十字架のことば、それは罪の赦しです。素直に十字架の赦しを受けるならば、神の怒りが取り除かれて、その人は救われて永遠のいのちに生きます。しかし、十字架を無視する人は裁かれて永遠の滅びに向かいます。イエス・キリストの十字架は今日みことばを聞くあなたのためです。そのことを信じて罪赦されて永遠のいのちに生きることができますように祈ります。

ゲッセマネ、イエスの悲しみと勝利

2020年2月16日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈るとき悲しみは半減し喜びは二倍となる:

  • イエスは、苦しみも悲しみも分かち合える友を求めておられる。
  • イエスは、あなたに切なる祈りを要請しておられる。
  • 教会の交わりは、「喜ぶ者と喜び、悲しむ者と悲しむ」のである

私たちが一緒に礼拝し、一緒に祈ることの大きな意義がそこにあります。イエス様と共に歩み、ともに苦しみ、ともに喜ぶことを私たちは続けなければなりません。教会はイエス様を中心とした兄弟姉妹の交わりです。私たちは試練にあっても祈り支え合うのです。さらに、クリスチャンは教会から出て、隣人に対しても、一緒にイエス様に祈ることを広げていくことが大切です。共に喜ぶとき、喜びは倍になり、共に悲しむとき、悲しみは半分になる、それは、万有引力の法則の様に確かな霊的法則です。

イエスはあなたを救うために十字架に向かって立ち上がられた:

  • 生まれながらの人は自らの罪により滅びへと向かっている
  • イエスは滅びへと向かっている人々を惜しまれ、悲しまれている
  • 創り主がおられることは偏見のない目で自然界を見れば明らかである
  • イエスは、死の向こうに復活と永遠のいのちの希望を示された

イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえり、40日間弟子たちに現れて、オリーブ山で弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。そして再び来られると約束しました。イエス様は死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われましょう。

洗足、十字架、極みの愛

2020年2月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネ13章1~14節
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

洗足により極みまで愛してくださる神:

  • 神が無になり仕える者となってあなたに行動を起こしておられる
  • 神は神に敵する者をも極みまで愛される
  • 神に汚れた足を差し出し洗っていただく謙虚さと勇気を神は喜ばれる
  • あなたのいのちが救われるためにイエス様は十字架であなたの身代わりとなった
  • あなたがイエス様に心を開いて罪をきよめていただくときイエス様の弟子となる

皆さんは、イエス様があなたをその極みまで愛しておられるということばを信じていますか。今も生きておられここにおられるイエス様が、「わたしはあなたを完全に、極みまで、この上もなく愛しているのだよ」と宣言しておられます。それは無条件の愛です。イエス様はユダも愛していました。罪人を愛されているということがわかります。しかし、ユダはその愛を受け止めないで、悔い改めることなく裏切り、ついには自殺してしまいました。私たちはユダにならないでイエス様のこの愛を素直に受け止めましょう。

互いに赦し合い互いに仕えあう:

  • イエス様は模範を示し、お互いに赦し合い仕え合いなさいと言われた
  • 無条件の罪の赦しはこの世にはない、神の国の出張所である教会にはある

私たちは兄弟姉妹の罪を赦すのです。それが、互いに足を洗うことの意味です。クリスチャンは日ごとに主に足を洗っていただく者であり、同時に兄弟姉妹の足を洗う者たちです。キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに仕えあうことによってその愛を全うしなさいというのです。

病気も死も神の栄光

2020年2月2日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネの福音書11章1~17節
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

<要約>

神のいのちに生きる者は病気も死で終わらない:

  • 私たちは人との交わりの中で、生きる喜びや生きる力が与えられる。
  • 人との交わりの中でいのちは育つ
  • 人は神との交わりの中で永遠に続く喜びと希望に生きる
  • 神のプレゼントは、病気と死に代えて、復活による永遠のいのち

病気と死はもともと、人の罪の結果です。アダムの罪以来、罪はすべての人を支配しています。アダムの罪以来、病が人に入り、人は死ぬものとなりました。しかし、神のプレゼントは、すべての人の罪と死に代えて、永遠のいのちを備えてくださった事です。すなわち、復活の希望です。イエス・キリストが十字架ですべての人の罪を背負い代わりに死んでくださった。そして、3日目に復活されたことによります。その復活にすべての人は与れるのです。自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも永遠のいのちをいただくことができるのです。

聖霊とみことばの光の中を歩く:

  • 人は「聖霊とみことば」の光の中を歩くときつまずく事は無い。

イエス様は「誰も働くことができない夜が来ます」と言っています。また、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と言われています。すなわち、聖霊とみことばが届いているこの地上の生涯の中に、神の命令に耳を傾けなさい、というのです。光を信じなさい、すなわち、イエス様を信じなさいというのです。