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十字架の最後のことば

2023年3月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書19章17~30節
【新改訳2017】
19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

<要約>

キリストが十字架で死んだ意味:

イエス様は、十字架の上でいくつかのことばを残されました。最後のことばは「完了した」です。これは「イエス様の生涯はこの十字架にかかるためにあった」ということの証言です。イエス様は、全人類の罪を背負ってくださった。人間を罪と死と滅びの原理から解放しました。人類に救いの道を切り開いてくださったのです。そして、神は、最後まで従い通し死んで葬られたキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。復活したキリストは振り返ってそこにやり遂げた喜びと満足を見たのです。実に、キリストの十字架の意味はそこにあったのです。イエス様は十字架で人の罪を取り除くために人となって、私たちのところに来てくださったのです。

キリストの十字架がもたらしたこと:

キリストの十字架は何をもたらしたのでしょうか。第一に救いです。ある高松市の女性のことを紹介します。一人息子が自殺しました。その後を追うために、高松のホテルで服薬自殺しようと宿泊するのでした。しかし、備え付けのギデオン聖書を開いて読んでいるうちに、自分のうちにも光が見えてきたのです。彼女はクリスチャンとなりました。第二に聖霊です。聖霊は三位一体の神です。聖霊にはご人格があります。ご意思を持っておられますので神の御心を推し進めようとなさっております。神は全地をごらんになり御心と一致しているものをお用いになります。第三は癒しです。約15年前、月が丘教会のある姉妹のことを思い出します。肺の病気で酸素を吸っても息苦しい状況にありました。いつも癒しのために祈っていましたが、私たちが願ったかたちではなかったですが、最終的にはこの肉体を脱ぎ捨てて苦しみから解放され、今は死も苦しみも悲しみもない天国におります。ここに完全な癒しがあるといえるのではないでしょうか。第四に永遠のいのちです。地上の命が終わった後、天国ですごすいのちです。第五は祝福です。最大は、キリストが共にいてくださると言う祝福です。私たちの生活領域には三つあります。家庭、教会、職場あるいは学校です。共にいてくださるキリストが与えてくださる能力を用いて最善を尽くすことです。神がキリストを通してお与えくださる祝福は、天の窓を開いて秤をよくして私達のポケットにゆすりいれてくださる祝福、余りある祝福です。そのようなものを体験していきたいものです。

ポンテオ・ピラトの裁判

2023年3月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書27章11~26節
【新改訳2017】
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

<要約>

空の手でイエスを救い主として受け止める:

キリストを前にしたピラトは、その受け答えからして、謙遜な求道者でありました。キリストが神の子であり、救い主であり、真理であることを直観的に察していました。ピラトは、イエス様が死刑に値するようなことは何もしていない事を知っていました。ピラトは真理を求めていました。イエス様を神の国の王、救い主と信じたいという思いが彼の心にありました。この裁判の後、十字架、死、復活、聖霊降臨、エルサレム教会の誕生など、一連の事件の成り行きを見て、ピラトは福音の真理を理解したと想像します。彼は、キリストを十字架に引き渡したことを後悔し、自責の念を持ったことでしょう。しかし、「私の愚かな取り返しのつかない誤った決断を神は赦してくださった。そして、その悪い仕打ちを逆に用いて、全人類の救いの道を開いてくださったのだ」という信仰に至ったのです。彼は、罪を悔い改めて、空の手でイエス様の救いを受け止めたのです。あなたは、イエス様をどのように受け止めておりますか。どうすればよいのでしょうか。私たちに必要なことは何でしょうか?何も持たない空の手です。それを神に差し出して、神の下さる救いをただ受け取ればよいのです。信仰は、神がイエス様を通してくださるもの、それは、信じて受け取る祝福と救いなのです。 

イエス様を十字架につけたのは誰?:

瞬きの詩人といわれた水野源蔵さんのことを思い出します。障害者である彼のコミュニケーション手段は唯一、瞬きです。彼の母親が、あいうえおの50音表を使って、目的の文字を瞬きで知らせます。そのようにしてたくさんの詩を作り残っています。その彼が、あるとき、一枚の版画を目にしました。それは、ピラトの裁判で法廷に立たされたイエスと、ピラトの前に、『十字架に付けろ。十字架に付けろ。』と叫ぶ群衆を描いていました。それを見て、源蔵さんは『十字架に付けろと叫ぶ群集の中に、自分がいる。』と言って、涙したということです。イエス・キリストを十字架につけたのは、自分であるという、その告白を水野源蔵さんは神の前にしたのです。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。


ゲッセマネでの祈り

2023年3月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
【新改訳2017】
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈り悲しみは半減し喜びは二倍となる

イエス様は、弟子たちを苦しみも悲しみも分かち合える友であると思っておられました。イエス様はご自分が試練にあったときに彼らが一緒についてきてくれたことを喜んでいました。イエス様は、弟子たちに祈りを要請しましたが、弟子たちは眠ってしまい、イエス様の求めに応えることができませんでした。私たちはそういうように弱い者たちです。弱く迷いやすく失敗しやすいからこそ、イエス様は共に祈るように勧めています。イエス様はクリスチャンである皆さんを友とみなしてくださっています。ですから、皆さんと重荷を分かち合い祈ってほしいと願っておられるのです。私たちも様々な苦難にある時、信仰の友が祈り、苦しみを共有してくれるのは大きな慰めであり励ましであります。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」と、みことばが語っているとおりです。

あなたを救うために立ち上がられた主

イエス様はこのゲッセマネの園で苦しみ悶えて祈られました。イエス様がこれからすすんで味わおうとなさったことは、人間が自らの罪によって滅んでしまう、その滅びの恐ろしさです。神なしで滅ぶ人間の苦しみ悲しみです。イエス様は滅びゆくすべての人の苦しみ悲しみを味わわれたのです。イエス様は、父なる神から完全に切り離されて見捨てられた苦しみを十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。聖書に書いています。すべての人は、罪を犯したので神の栄光を受けられない。また、罪の報酬は死です、と。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると述べています。しかし、一人の人も滅びることを臨まない神は、罪のない神のひとり子イエス・キリストを全人類の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。イエス・キリストを信じるだけで、滅びないで永遠のいのちが与えられるのです。イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し勇気をもって目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえりました。イエス様は、死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われて戴きたいと思います。

あなたの足を洗われる主

2023年2月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書13章1~14節
【新改訳2017】
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

とことん愛し赦す神:

私たちは、汚れた足をイエスに差し出してはじめて清めていただけるのです。あなたの罪の身代わりとなって、神の独り子イエス様が十字架で裁かれ、死んでくださったのです。そのことを信じ受け止める者は救われます。罪と死と滅びから救われます。上着を脱ぐというのは「十字架で命を捨てる」ことを意味して、上着を着るというのは「いのちを再び得る」すなわち復活を意味しています。イエス様は、洗足にかかわる上着を脱ぐ、と、上着を着るという行為を通して十字架の死と復活を暗示されたとも解釈できます。洗足も十字架も、神の私たちへの愛の行為です。徹底的な愛、究極の愛、捧げ尽くす愛です。あなたに何の条件も求めない無条件の愛です。イエス様に足を差し出し洗っていただくというのは、悔い改めと言えます。日毎に私たちは罪を告白して、悔い改めて清めていただくのです。神は、キリストのゆえに、あなたをとことん愛し、あなたの罪を赦し続けてくださいます。私たちはへりくだり素直になって、罪を赦していただくと同時に、空の手を差し出して、救いを受け取ればよいのです。救いは、死後、自らの罪により滅びないで、キリストの復活のいのちを頂き、朽ちないいのちの希望に生きることです。

互いに赦しあい仕えあう:

イエス様は弟子たちの足を洗ってから、彼らに「互いに足を洗い合わなければなりません」と言われました。イエス様はご自身を無にして仕えるものとなられました。イエス様は、最も貧しく弱い存在として、この地上に来られました。そして謙遜の限りを尽くして、私たち罪人に仕えられたのです。これから弟子たちに福音宣教に遣わそうとしておられました。つまり、弟子として訓練し、その訓練を結ぶときが来ていたわけです。人間社会では、必ずと言っていいくらい誰がトップになるか、争いが起こります。しかし、イエス様が、昇天した後、弟子たちには誰がトップになるかという争いは全くありませんでした。使徒の働きの中で、彼らは、お互いに赦し合い、仕えあい、励まし合っていたことが分かります。同様に、キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに赦しあい、仕えあうことによってその愛を全うするのです。

神が言われる幸いとは

2023年2月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

苦難の中で神から幸いを受ける:

聖書は、困難、苦難と言うマイナスと思えることが、やがてプラスになる。最後には希望につながると言っています。心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。常に神におすがりしている状態です。心の内で、常に叫びを持っている人のことです。そのようにへりくだって絶えず神を求めている人は天国の所有者になるのです。また、一切の悲しみが慰められるというのです。この世で慰めを得なくても、やがて慰められる時が必ず来ると言うのです。ルターは、神からの祝福は、それは祝福とはとても思えないかたちで来る、と言っています。祝福は苦難や悲しみと言うベールに包まれて届けられるとも言えます。それは、何よりも神ご自身が人の罪の身代わりとなって苦難を味わい、十字架で死んで復活することを通して救いを届けてくださったことによります。それは何にも勝る祝福と言えます。死は何の力もなく、永遠のいのちが与えられます。すなわち、主ご自身が、祝福を苦難と悲しみと言うベールに包んで私たちに届けてくださいました。私たちは苦難の中にも神から幸い、祝福を受けているのです。

神からの幸いを隣人に届ける:

神があわれみ深いように、神から幸いを受けた人々は、隣人に対してあわれみ深くあるべきです。心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは、他の人の背後におられるキリストを見ています。私たちは、隣人を、神が命を捨てるほどに愛した大切な存在としてとらえるべきです。そうすると、この世の中で、どうでもいい人は、ひとりもいないことに気づきます。今日まで、世界中で、歴史を通して多くの人々が迫害を経験しました。そのようなときには喜び踊りなさいと、イエス様は勧めています。信仰者に与えられる幸いは、この世の与える幸いと違います。この世にあっては、うれしいことも悲しいことも、喜ばしいことも苦しいこともあります。しかし、信仰者は、常に上を向いて歩むことができます。それは、決して消し去ることができない希望、しぼむことがない希望があり、最後のゴールである天の御国の所有者とされているからです。そして、先に救われたクリスチャンは、あなたの隣人にこの神の幸いを届けていく責務が与えられていることを忘れてはいけません。

悪魔の試みへの勝利

2023年2月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

<要約>

罪と死と悪魔からあなたを救うキリスト:

人は神のようになりたい、権力を持ち、自分の思うように周りの人を動かしたいという罪の性質を持っています。それは、最初の人アダムから受け継いでいる罪の性質です。アダムは悪魔の誘惑に負けて、罪を犯し、堕落し悪魔の支配下に入ってしまいました。人は、自らの罪によって神と断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。キリストは処女マリヤより生まれました。神が人となって世に来てくださったのです。無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人の罪の代価を払ってくださったのです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。キリストがあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったので、死は何の力も及ぼしません。死の代わりに永遠のいのちが与えられます。つまり、イエス様はあなたを罪と死と悪魔から完全に救ってくださったのです。

試練の後にはキリストの勝利と平安が来る:

神はイエス様が悪魔の試みに会うことを許されました。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。そのことは信仰者としてよいことです。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。神は信仰者のその姿勢を喜ばれます。その時、信仰の勝利を経験します。私と家内は2012年7月から、こんにちわアパートを建て、そこで高齢者の介護事業を始めました。しかし、事業は試練の連続でした。事業を始めて5か月目、12月29日の夜、凍結により、スプリンクラーが破裂して、アパートは水浸しになりました。入居者を他の施設にお願いして、運んだり、内部の修復工事を依頼したり、めちゃくちゃでした。その後、運営面で失敗し、経営が困難となりました。そして、2014年1月末で閉じる決断をしました。そして、最終的には、他の事業所に引き継いでもらうことができました。私たちは、苦しいことがあるたびに、みことばを開き、祈りました。試練が来ても、信仰を持ち続ければ、試練の後にはキリストの勝利と平安が来るのです。

キリストのみ

2023年1月29日(日)ハレルヤチャペル滝沢礼拝説教 銭谷幸器師

<聖書>ローマ人への手紙5章18節
【新改訳2017】
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

<要約>

ルーテル同胞神学校=プロテスタントの元祖であるルター派神学校

プロテスタント教会とカソリック教会との違いは何でしょう?

プロテスタント教会は、「救いの確信」を全員が持てる教会である。

救いの確信ありますか?――自分は半分くらいしか救われていないのではないか、と思っている人はいますか?

救いの確信が持てなくなる理由;信仰と愛を混同しているから

神への信仰、隣人への愛、この二つを区別して持っていることが大切

ローマ5:18 「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」

アダムとエバが神に背いて自分の思い通りに世界をつくろうとした。その罪によって、すべての人が罪に定められた。が、後半、キリストが人間の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったがゆえにすべての人は罪赦され義と認められる。

神が人の罪を背負うために人間として生まれなければならなかった。すべてキリストの行為によって成し遂げられたことである。

救いのために必要なこと;すべてをイエス様が成し遂げてくださったので、私たちは空っぽの手で救いを受け取ればよい。

中世のカソリック教会では、人が救われるためには行為が要求された。

イエスを信じれば、洗礼前の罪はすべて赦されるが、洗礼後の罪は自分で償わなければならないと教えていた。 悔悛と言う制度;司祭に罪を告白すると償いの行為を要求された。すなわち死ぬ前までに償いを終えなければ、煉獄へ落されて、浄化されるために何万年もそこで過ごさなければならないというのである。しかし、聖人たちは自分の罪の償いを終えて、さらに善行を余らして、それはカソリック教会に蓄積されている。すなわち、信徒は聖人がストックした償いを譲ってもらうことで煉獄から出れる、と言うのである。お金を払って、それを得る仕組み。免罪符。私たちが立っているところは、聖書のみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神にのみ栄光であれ。

天の御国は近づいた

2023年1月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書3章1~17節

【新改訳2017】
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

悔い改めて神と向き合う:

罪の根源は、神を無視し、信ぜず、そればかりでなく、神の存在さえ認めないこと。あるいは、あなたの中から神を追い出して生活していることです。神がおられるなんて、考えたこともない、心に浮かんだこともない、これこそが、本来あるべき神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えすることです。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為です。心が正されると、行いも正されます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、悔い改めて、イエス・キリストを信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

天の御国を持ってきたイエス様:

神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されました。イエス様がヨハネからバプテスマを受けて、いよいよイエス様がすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。しかしその時、イエス様は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意したのではないでしょうか。イエス様は十字架で人の罪の贖いをすることにより、神と人との正しい関係を取り戻してくださいました。それは、イエス様が天の御国を私たちのところに持ってこられたと言えます。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。キリストを信じる者は、神の国に属するのです。キリストがあなたの人生の主となり、あなたにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。

天のお父さんとイエス様

2023年1月8日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
【新改訳2017】
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

崇高と栄光の神があなたのお父さんとなる:

ここでイエス様は「自分は必ず自分の父の家にいる」と、お応えになりました。神を父と呼んだのです。神を自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。私たちの先祖の神、私たちの父たちの神と呼びましたが、神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。そして、私たちクリスチャンも「天のお父様」とも親しく呼びかけます。しかし、私たちは、生まれながら罪によって、神に近づくこともみ前に立つこともできないのです。まして、「お父さん」と呼ぶことなど絶対にできません。そのように深い断絶があるにもかかわらず、神は近づこうとしてくださっています。そして、イエス様を通して、私たちは神と父子の関係に入れてくださったのです。どのようにしてでしょうか。神の御子イエスが、神と私たち人間を隔てている罪の仕切りを取り除いてくださったのです。それは、人の罪の裁きを身代わりとなって受けてくださったことによります。そのように、イエス・キリストが十字架であなたの罪を取り除いてくださったと信じるなら、神はあなたのお父さんなのです。

神を父としイエスを模範として歩む:

イエス様が、私たちに望んでおられることは、自分の力を尽くして、神と人を愛しなさいと言うことです。イエス様は、あなたと私のために十字架でご自身のいのちを捨て、私たちの罪の代価を身代わりとなって支払ってくださいました。そのことにより、神を父と呼ぶことができ、逆から言えば、神の子どもとされたのです。そして、天のあらゆる恵みと祝福をお与えくださったのです。こんなに大きな恵みと賜物を頂いたものとして、完全に父なる神にお従いになったイエス様を模範として生きるのです。イエス様の弟子になるということは苦しみを背負うことのように聞こえます。しかし、歴史を通して数えきれない人々が、キリストの弟子となり、信仰の故の苦しみを負ってもイエス様の後を歩き続けたのです。私たちクリスチャンもその弟子のひとりです。神の求めていることは、感謝と喜びの応答です。苦労は多いとしても、こんなに祝福された人生を与えてくださっている、また、どんな時もともにいてくださると約束しておられるインマヌエルの主です。主に感謝して喜んで、奉仕や礼拝出席、献金、隣人愛の実践に励むのです。そのことを主は大変お喜びになるのです。

キリストにある喜び

2023年1月1日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~18節

【新改訳2017】
ピリ
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

<要約>

何物も消すことのできない喜び:

キリストにある喜びは死を超えている、自分の命にも勝る喜びである、と言うことです。 この後、パウロは、ネロの迫害によってローマで 斬首刑にされ命を失いました。死を目前にしても、キリストにある喜びで満たされていたと言えます。イエス様は、全知全能、全世界をお作りになり万物の最初であり終わりであるお方です。それでは、そのようなお方が、なぜへりくだり、ちっぽけな人間としてユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのでしょうか?そして、何も悪いことをせず 罪の一つもない清い神が、当時でも極悪人しか適用されなかった最も残虐な処刑を受けたのでしょうか。イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神に従い通しました。そして、死んで墓に葬られました。イエス様は十字架ですべての人の罪を背負って、罪の裁きを受けてくださいました。あなたの罪に対する神の怒りの杯を飲み干してくださったのです。その動機は、愛です。そのイエス様の功績のゆえに、神はイエス様を復活させられたのです。死と隣り合わせの人生でも、イエス・キリストの十字架と復活の福音は信じる人々に、永遠のいのち、復活のいのち、それによるしぼむことのない希望を与え続けたと言えます。そして、それを思うときに、死によっても奪い去ることのできない喜びを味わうものとされたのです。聖霊はあなたの空っぽの部屋に入りあなたを祝福したいと願っておられます。キリストを信じ、キリストが与える喜びを受けてもらいたいと思います。永続する、色あせない、しぼむことのない喜びがあります。

キリストの喜びで前向きに生きる:

イエス様は神であられるのに最大限にへりくだられました。もっとも貧しい姿で地上に くだられました。そして最も弱い立場の人間として生活なさいました。王であり支配者であるはずなのに、しもべとなりました。自らを低くして死にまでしたがいました。このように徹底的に謙遜になり、へりくだられました。そして最後まで従い通したイエス様を、神は高めて全てに勝る権威をお与えになりました。ここに霊的な法則があります。神はへりくだる者、神に従う者を高めてくださるということです。ですから、もしあなたが、キリストを信じ喜んでいるなら、あなたの前に立ちはだかるいろいろな困難や苦難も、それは喜びに変えられます。ですから、私たちは、キリストを喜び、前向きに生きるのです。