あなたの罪を赦すために来られた神

2022年1月30日主日説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

<要約>

罪と病いと死の原理:

イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「友よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されました。当時の社会は、因果応報が一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病いは全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病いと死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。聖書は、人の罪は心から出ているといいます。もし、あなたが、罪のリストの一つにでも該当したらあなたにはイエス様の十字架の赦しが必要です。そのままでは神の怒りの下にあるからです。

罪を赦すための主の十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。それは、実は、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。イエス・キリストの罪の赦しによって、それを受け取るものは、罪の束縛から解放されて自由にされます。死からも自由にされます。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。

百人隊長の信仰から学ぶ

2022年1月23日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書7章1~10節
【新改訳2017】
7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。

<要約>

「みことばをください」とへりくだる信仰:

百人隊長は、結局のところ、イエス様を直接見ることなく、イエス様を信じました。現代の私たちクリスチャンも、イエス様をこの目で見ることなく信じています。そのように 彼は、その後、見ないで信じるすべての信者の初穂と言えるかもしれません。百人隊長は、自分のしもべの癒しのために、イエス様のおことばをいただきたいと言いました。かれは、イエス様の言葉を握って、信仰の通りになりました。神の言葉を全身全霊をもって信頼したのです。神のことばは力があり、無から有を作り出すのです。聖霊が、預言者や使徒や福音書記者らに働いて、聖書が書かれました。聖書全体は、誤りのない神のことばです。聖書は、イエス・キリストによる全人類の救いが書かれています。試練や困難に直面する私たちの人生ですが、この百人隊長のように、私たちにとって大切な神への日々の訴え、祈りがあります。それこそが、「みことばをください」ということではないでしょうか。みことばを求めへりくだる者に、神は近づいてくださいます。神のことばは生きています。日々、体験して歩んでいただきたいと願います。

神のみことばの権威と力を信じる信仰:

イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言って、百人隊長の信仰を褒めました。イエス様は、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」とおっしゃいました。隊長の権威に裏付けられた命令には兵士はその通り従うことを例に挙げて、権威に裏付けられた言葉には力があることを百人隊長は述べました。まして、病を癒し、人のいのちを保っておられる全能の神の権威による神の言葉があれば、しもべはいやされると信じたのです。神のみことばの権威は絶対です。イエス様のことばは、決して消えさらないとおっしゃいます。ですから、私たちは、百人隊長のように神のみことばの権威と力を信じ切って行きましょう。そして、百人隊長のように、神のみことばを常に待ち望むものでありたいと思います。死にかけていたしもべは百人隊長の信仰のとおりにいやされました。もし、あなたが信仰に生きるなら、後に、自分の人生を振り返るときにあなたの人生は信仰のとおりになっていることに気づくのです。

勝利の希望

2022年1月16日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ書8章18~25節
【新改訳2017】
8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

<要約>

今の苦難は後の栄光にのまれる:

私たちの周りの見える世界、万物は本来の姿から大きく逸脱して空虚でむなしい状態にさせられて、滅ぶべきものとなって、今にいたるまで、うめき、苦しみを味わっています。最初の人アダムは、神の前で堕落し罪を犯し、呪われた者となりました。その結果、人に死が入りました。そして、すべての被造物も呪われました。やがて現在の世界は滅びるでしょう。罪によって人類も自然界も滅びに定められたのです。ところが、神は罪のない神の独り子キリストを送ってくださいました。神は彼に、あなたや私、そして人類の全ての罪の呪いを背負わせました。そして、身代わりとして十字架で裁いたのです。キリストは、罪の報酬である死を身代わりとなって味わい、死んでくださったのです。そして、三日後に復活し、キリストを信じる者に罪の赦しと復活のいのちをお与えくださるのです。イエス・キリストを信じるものは、死んでも生きるとある通り、復活のいのち、永遠のいのちが与えられます。ゆえに今の苦難は取るに足らないというのです。今の様々な苦難は驚くべき神の栄光の光の中に吞み込まれて跡形もなくなります。

忍耐して祈り、勝利を得る:

私たちが、イエス・キリスト信じて洗礼を受けたときに与えられた聖霊が保証してくださいます。やがて、完全にされて、完成の時を迎えることを。しかし、この地上にある間は、うめいており、生みの苦しみがあると言っています。そして、聖霊は信じるあなたの内に住んでくださり、うめきをもってあなたを神にとりなしておられます。自然界も含めて、被造物全体も、あなたが、やがて、この地上のいのちを終え、復活のいのちによみがえるのを待ち望んでいます。今目に見ることはできませんが 神が約束してくださった確かな希望です。まだ、その希望を受け取っていない方は、是非、その希望を自分のものにしてください。私たちの希望は、復活のいのち、永遠のいのち、それを今見ることができません。地上のさまざまなことがらに動揺することなく、神のみことばにしっかりたち、信仰の確信に忍耐し留まることです。そして御霊によって祈り、待ち望むのです。それが勝利の道です。

地の塩、世の光

2022年1月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5:13~16
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

<要約>

塩気を保つ生活とは

塩気を失った塩とは、みことばを失ったクリスチャン、みことばに立たないクリスチャンといえます。聖書のみことばに立たなければ、クリスチャンが世の人々と同化して、世の人々の中に埋没してしまいます。皆さんは、もし、一か月、説教も聞かない、聖書を読まないということであれば、危機的な状態であると思います。一年、教会を離れて、聖書から離れるならば、世の中に埋没してしまい、クリスチャンとしてのアイデンティティーを失ってしまうでしょう。塩気を失ったクリスチャンは、役に立たず、外に捨てられて人々に踏みつけられるとあります。みことばから離れて信仰を棄てた者には、神の厳しさがその上に臨むのです。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。

世の光として輝くために

イエス様は、地の塩、世の光となりなさいといっているのではなく、もうすでにあなた方は、地の塩、世の光であると断言しておられます。私たちはイエス様を信じたから地の塩、世の光なのです。聖書に、私たちは、以前は罪の中に死んでいたものであると書かれています。御怒りを受けるべき子らでした。神がわからない、神を知ることができないという私たちの心の状態。それは、心の目をふさいでいるものがあるからです。それは、すべての人の心に巣食う癌、罪です。罪によって、心の目がふさがれて、神を認めることができないのです。イエス・キリストの十字架により、たましいの癌である罪を取り除かれて、私たちは光の子、世の光とされたのです。世の光として輝くために、私たちは、信仰に励むことです。すなわち、神との関係に生きることです。自分を神に明け渡すことです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。