ベン・オニからベニヤミンへ

2023年6月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記35章1~19節
【新改訳2017】
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。

<要約>

あなたに注がれる一方的な神の選びと祝福:

ヤコブは、品行方正で正しい人だから選ばれたのでしょうか。そうではありませんね。彼は、名前の通り、「押しのけるもの」として、エソウから長子の権利をだまし取り、エソウから恨みを買いました。また、ラバンのもとでは、ラバンからその財産を得るために上手に振る舞ったのです。そのことは、ラバンとラバンの息子達からは 恨みを買うほどでした。ヤコブは功利的な人物ということができるかもしれません。しかし、これらすべてのことにあっても神は一方的な憐れみと恵みによって、ヤコブを引き上げ、その名を神の王子と言う意味もあるイスラエルと命名されたのです。そこには私たちの如何にかかわらず、主は、「哀れものを憐れみ、祝福する者を祝福される」お方であることを見ることができます。神の選びについては、神の一方的な主権があります。皆さんは、この教会に集っています。ですから、皆さんは神に選ばれてここに集っておられるのです。そして、神はあなたを祝福しようと招いておられるのです。イエス様の十字架による罪の赦しは、すべての人に等しく注がれる神の恵みです。

マイナスをプラスに変えて前向きに生きる:

カナンの地ヘブロンへと向かう途中、ラケルが出産しいのち落としました。そして、ヤコブに12番目の男の子があたえられました。出産で「彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた」と書いています。ベン・オニと言うのは「苦しみの子」と言う意味です。しかし、ヤコブは、その子をベニヤミン「右手の子」と名付けたとあります。右手は、権威とか力を意味します。苦しみの子から右手の子に命名したのでした。ここに、ヤコブの前向きな人生観をうかがい知ることができます。キリストは、十字架を目指して、苦難の生涯でした。すなわち苦しみの子です。しかし、復活し天に挙げられて、神の右の座についておられます。右手の子です。キリストは、実に、罪に沈む私たちを、罪と死と悪魔から救うためにお生まれになり、十字架の上で苦しみを受けてくださいました。それは信じる者に死と滅びに代えて、永遠のいのちを与えるためでした。そして、今キリストはすべての権威と力をもって神の右についておられます。キリストは信じるあなたの困難や苦難をプラスに変えてくださるのです。


いと高き神の祭司メルキゼデク

2023年6月18日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記14章1~2,10~24節
【新改訳2017】
14:1 さて、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代のことである。
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った。


14:10 シディムの谷には瀝青の穴が多くあり、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ちた。そして、残りの王たちは山の方に逃げた。
14:11 四人の王たちは、ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行った。
14:12 また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 一人の逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムは、アモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
14:15 夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
14:16 そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。
14:17 アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。
14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。
14:23 糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。
14:24 ただ、若い者たちが食べた物と、私と一緒に行動した人たちの取り分は別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの取り分を取らせるように。」

<要約>

成功に続く祝福と誘惑:

二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。そして、神に献身するのです。アブラムはメルキゼデクを通して、十分に一を捧げました。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。ソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。よくやったじゃないか。もっと自慢してもいいよ。もっと評価されてもいいはずじゃないのか、と。その時、私たちは神に申し上げましょう。みことばにある通り、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。

贖いの代価となられた王・祭司キリスト:

メルキゼデクは、系図もなく出生もわからないサレムすなわち平和の王であり、いと高き神の祭司であったのです。メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストのひな形であります。キリストは、罪のない神が人となって来られた歴史上ただ一人の人物です。処女マリヤが聖霊によって身籠り生まれた神の独り子です。ですから、全く罪を犯したことがなく罪のない人でした。普通の男女間で生まれた人は、罪をもって生まれてきたので、他の人間の罪の身代わりとなることはできません。無罪のキリストのみが身代わりとなることができたのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」と書いている通りです。ですから、キリストはご自身をすべての人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを提供することができたのです。十字架で死にましたが、復活して今も生きておられます。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。クリスチャンは、周りの人々のために執り成し祈る人々です。わたしたちも家族友人知人が、真の神に立ち返れるようとりなし、祈りましょう。

キリストはすべてに勝る神

2023年6月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>へブル人への手紙1章1~14節
【新改訳2017】
1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
1:4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。
1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。
1:6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」
1:7 また、御使いについては、「神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる」と言われましたが、
1:8 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
1:9 あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」
1:10 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
1:11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。
1:12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」
1:13 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。
1:14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

<要約>

罪の世を相続する人間社会:

キリストはすべてのすべて、最初からおられて、天地万物の創造に関わっておられました。神はキリストを万物の相続者と定められました。そして、神は人を、世界を治める管理者とされました。しかし、最初の人アダムは神に反駁して、高慢になり、自分を神の上に置こうとしました。戒めを破り、罪を犯したのです。そのために、罪によって人間の人格はゆがみ、死ぬべきものとなりました。自然界も虚無に服させられました。罪を犯し、エデンの園から追い出されたアダムとエバは、悪魔の支配下で、罪の世を相続するものとされました。人間は住みやすい世界、平和な世界を求めています。しかし、その一方で、人間中心、自分中心のために争い、戦争でせっかく作り上げた住処を破壊して、がれきにしています。罪の性質により妬み、争い、貪欲、悪い考え、ののしり、高慢、愚かさなどが国家のレベルでも個人のレベルでも、人間を支配していると言えます。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできません。私たちはそのままでは、自分の罪のために永遠の滅びに向かわざるを得ないのです。

罪をきよめ御国を相続させてくださる神:

重い病気である癌があっても、自らの病に気づくことなく手遅れとなり死に至ることが多くあります。同じように、アダム以来、罪の病におかされた人類は、自らの罪に気づきません。そのため、真の医者であるキリストのもとへ行かず、罪と言う病のため、死と滅びに至ります。人間の罪を取り除くために神が卑しい人間の子どもとして生まれ、卑しめられ辱められ、十字架刑という最も残虐な方法で苦しみを受け、死にて葬られました。それは、ひとえに、私たち人間の罪の身代わりとなって裁かれ、私たちを救うためでした。そして、死人の内から復活し、天に昇られて神の右の座に着かれました。私たち人間は罪に縛られ、自らそこから抜け出ることもできず、自らの罪のために神の容赦ない裁きに定められています。その人間に対して神は歴史をかけて準備しキリストによって救いの道を完成されました。クリスチャン生活は「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」という単純な真実の上に立っています。神は私たちの罪を十字架の血潮で一方的に清めてくださいました。そして、御国を相続させてくださいます。私たちは、ただ神を信頼して御顔を仰ぐだけです。