ぶどう園の例え

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

人の正義と神の正義の違い:

最初にブドウ園に来た人たちは、主人に不満をもらしたと、書いています。人の正義は、状況によって変わるものといえるでしょう。裁判用語で、情状酌量という言葉があります。情状酌量を広辞苑で調べると、「刑事裁判において、同情すべき犯罪の情状を汲み取って、裁判官の裁量により、刑を減刑すること」と書いてありました。すなわち、人間の正義は、相対的であり、事情によって変わってくるということです。それに対して神の正義は絶対です。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の汚れも受け入れることができないのです。4節で、「相当の賃金を払うから」といっています。この「相当」は、英語ではjust rightのjustです。ふさわしい報酬、ちょうどで正しい賃金、とでも言います。この相当の賃金の「相当」はギリシャ語、原語ではディカイオスで、神の義の「義」という言葉と同義語です。ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく「義」という賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。

ありえない神の愛:

最初の人アダムの罪以来、その子孫であるすべての人は、アダムの罪の性質を受け継いでいます。そしてその罪により、罪と死と滅びに定められています。人の内側から出てくるものが人を汚すのです。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。すべての人は、神から遠く離れているというのです。ですから、真の神を知らないのです。また、知ろうともしないのです。神は人の心をご覧になっております。神の義は徹底的に人を裁くのです。しかし、それに反して、神の愛は徹底的に人を罪の裁きから救うことです。そこで、その二つの矛盾する思いに筋を通したのが、御子キリストの十字架です。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが「神の与える義です」。それは私たち人間には理解できない「ありえない神の愛」なのです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。行いや私たちの人間的な努力ではありません。