哀歌、神に見捨てられた悲しみ

2021年3月14日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>哀歌3章1~26節
3:1 私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者。
3:2 主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ、
3:3 御手をもって一日中、繰り返し私を攻められた。
3:4 主は、私の肉と皮をすり減らし、私の骨を砕き、
3:5 私に対して陣を敷き、苦味と苦難で私を取り巻き、
3:6 私を暗い所に住まわせられた。はるか昔に死んだ者のように。
3:7 主は私を囲いに入れて出られなくし、私の青銅の足かせを重くされた。
3:8 私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、
3:9 私の道を切り石で囲み、私の通り道をねじ曲げられた。
3:10 主は、私には待ち伏せる熊、隠れたところにいる獅子。
3:11 主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。
3:12 弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、
3:13 矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた。
3:14 私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。
3:15 主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、
3:16 私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。
3:17 私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。
3:18 私は言った。「私の誉れと、【主】から受けた望みは消え失せた」と。
3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
3:20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
3:21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
3:22 【主】の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
3:24 【主】こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
3:25 【主】はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
3:26 【主】の救いを静まって待ち望むのは良い。

<要約>

罪により神に見捨てられた悲しみ

エレミヤそしてイスラエルの民の悲しみと嘆きは罪から来るものでした。神は何度も預言者を送り、真の神に立ち返るように、悔い改めて神を信じるように迫ったのですが、彼らは悔い改めることなく、偶像の神に身をやつし、神から離れていったのです。ついに神は、ご自分の民を見捨て、敵の手に渡されました。エレミヤは民の代表として、罪の結果である悲惨な状況を神に訴えます。聖書によると人間の罪の深さははかりしれないと言えます。罪の深みからイスラエルの民を救い出すために、神は見捨てる、契約を破棄するという行動に出られました。すなわち、私たち人間は、捨てられないと悔い改めない、捨てられないと神に立ち返ることができない。そのような者たちであります。すべての人は、自らの罪のために滅び失せても仕方がない存在です。しかし、神の哀れみは尽きることがありません。

主が代わりに見捨てられ悲しみを喜びに

エレミヤは、ここで、イスラエルに神のみ手が伸ばされていることに気づきます。そして、その悲しみを通して悔い改めに導かれ、主に立ち返ります。そしてそれが、やがて喜びと平安と希望へつながるのです。「神のみこころに添った悲しみは後悔のない救いに至る悔い改めを生じます」とみことばにありますように、イスラエルの民が経験したこの悲しみは、救いのために必要な試練であったということができます。神から捨てられる経験をしなければ、神に立ち返ることができなかったのです。イエス様も父なる神から見捨てられました。それは、十字架上でのことです。イエス様は十字架上で見捨てられた経験をしました。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、と叫ばれました。それは、神から見捨てられ、引き離された悲しみの叫びでした。罪に閉じ込められた人々を救うための悲しみの叫びです。イスラエルの民は自らの罪のために 見捨てられました。しかし、イエス様は、私たちすべての人の罪のために身代わりとなって、見捨てられ、裁かれたのです。ゆえに、私たちの苦しみ悲しみは喜びに変えられるのです。