タリタ クミ

2018年02月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マルコの福音書5章21~24、35~43節
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

<要約>

無力と失望の時こそ神のチャンス:

会堂管理者のヤイロはイエス様のうわさを聞いていたのでしょう。近くに来られたのを知って、自分の娘の病状が大変なので、イエス様にあって、癒していただくために来てくださるようにお願いしようと思ったのです。「私の小さなひとり娘が死にかけています。どうか、おいでください。娘の上に手を置いてやってください。娘が治って助かるようにしてください。」ヤイロは切実な思いでイエス様に会うのでした。信仰は難しいことではありません。キリストのもとへ来る。そして、願う、ことです。父親が愛する子どもの願いを聞いてかなえてあげたいと思うのと同様に、神はあなたの願いを聞きたいのです。イエス様は、その願いを聞いて、彼と一緒に出掛けられました。しかし、出かけようとすると群衆が押し迫ってきて、思うように足を進めることができなかったようです。私たちの周囲には妨げとなることもしばしば起こります。しかし、神の時を忍耐して待ちましょう。ヤイロは、「急いでいかないと手遅れになってしまう」と内心、不安と焦りで苛立っていたでしょう。その様なときに、「あなたのお嬢さんはなくなりました。なせ、この上先生を煩わすことがありましょう」という知らせを受けたのです。ヤイロは絶望感で、倒れそうになったでしょう。人間が無力になって、失望する時こそ神の好機が訪れるということです。ここで、イエス様はいのちの創り主で、生と死の主であることをお示しになられようとされていました。復活の奇跡は、イエス・キリストの復活の序曲のようであり、また、福音書の中心であります。そして、人間にとって絶対的な希望であります。イエス様は、その話をそばで聞いてすぐに会堂管理者ヤイロに言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」これは、神が働かれる一つの条件です。神を信頼するということです。私たちは神を信じてお頼りするしかないのです。神の全能の力を信じ、自分の無力を認めて、また、神は愛のお方であることを覚えて、すがるのです。神を愛し、信頼し、恐れるのです。

前向きに従う者の祝福:

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネ以外は誰をも同行させなかったとあります。イエス様はこの三人を特別に見ておられたようです。イエス様が高い山に上られて、御姿が変わられたときもこの三人を連れられました。また、十字架の前日、ゲッセマネで祈られたときもイエス様の近くにいるように命じられたのもこの三人です。如何してかということは書かれていません。この三人とも、人格者ではありませんでした。何が違っていたのでしょうか。おそらく、この三人は主のお言葉に前向きに良く応答したことでしょう。その反応の良さのために主の信頼を得たのです。ここに霊的な法則があります。「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」種まきのたとえにもみられるように、みことばを聞いて応答する人は、祝福倍増にあずかります。「人に量ってあげる量り」というのは、人に良く盛ってあげることです。人を良く評価して、気前良くしている人はそれが自分にも帰ってくるということです。豊かに与える人はますます豊かにされるのです。また、けちな人はますます貧しくなるという法則です。これは、人に対してばかりでなく神に対してもその通りです。神に明け渡して、神は良い方であると信頼してみことばに前向きに積極的に聞き従う人は、ますます、霊的にも世的にも祝福されるという法則です。逆に、みことばを信ぜず、神を信頼するより自分の経験にしがみついている人は、それ以上の霊的祝福を経験することなく、ますます、貧しくなるのです。ペテロとヤコブとヨハネは、その通り前向きに主のお言葉に従いイエス様から信頼を得ていたのです。前向きに従う者の祝福は、神に喜ばれ用いられるということです。この会堂管理者ヤイロも「ただ信じていなさい」というイエス様の言葉を受け止めました。そして、娘がよみがえるという最大の奇跡を見ることができました。そして、神の栄光を拝することができたのです。彼にあったのは前向きの信仰です。

復活のいのちに生きるとは:

「死んだように眠っていた」という言葉は時々耳にします。眠りは、必ず目覚めが来るので、外から見て死んでいるように見えても死んでいることとは全く違います。イエス様が、眠りという言葉を使ったのは、すべての人は肉体の死の後、世の終わりによみがえることを表しています。後に、キリストの十字架の贖いを信じて御国に招かれる人と信じないで罪により永遠の滅びに落とされる人があることを聖書が述べています。ですから、すべての人は世の終わりに目覚めるのです。そして、神の裁きに会うのです。この出来事で、死がすべての終わりであるとする私たちの固定観念を、今、取り去ろうとされているイエス様を見ることができます。この福音の最大の希望である復活は永遠に続く感謝と喜びと賛美です。家に着いて、イエス様は娘の手をとりいわれました。「タリタ、クミ(アラム語)」、これは特別な呪文のような言葉ではなく、アラム語です。訳すと「少女よ。起きなさい。」という日常的な言葉です。霊が戻って、死んだ娘は生き返り、起き上がったのです。そして、食事を取らせるようになさいました。アラム語で、「タリタ」は「少女よ」です。「クミ」は「起きなさい」です。当時のローマ社会では公用語はギリシャ語です。しかし、当時のユダヤ人の家では、アラム語が日常語であったようです。この少女にとって、「クミ」という言葉は、毎日聞く当たり前の言葉でした。内心「もう朝、良く寝た、お腹がすいた」と思ったかもしれません。もし、死という事実が無かったら、これは全く日常的なことです。主にある者たちは、イエス様にあっては死ぬということは次に「起きる」(復活)ということとつながっているのです。やがて、肉体のいのちが終わった時、この眠りにつきます。そして、「起きなさい」という主の声を聞いて朝を迎えるのです。イエス様が私たちの一人ひとりの手をとって、おきなさい、と声をかけてくださる、そのときがくるのです。そして、「さあ、天国の祝宴ですよ。来なさい。」と招きの声があるのです。イエス様が私たちの罪の報酬を十字架の上で代わりに払ってくださったので、私たちは信仰によって、永遠の命が与えられるのです。すなわち、復活のいのちをいただいています。イエス様の十字架の贖いを信じる者は皆この希望に生きるのです。

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