キリストの弟子となる

2018年01月 28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

世の罪を取り除く救い主:

バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様を紹介しています。これはイエス様の働きそのものです。「神の子羊」というと、ユダヤ人が誰でも連想するのは、「過ぎ越しの子羊」です。かつて神は全エジプトを裁かれました。死の天使を派遣して、すべての家にいる人間から動物に至る最初の子ども、初子のいのちをとられました。しかし、鴨居に子羊の血がついているイスラエルの家は、その血を見て、死の天使はその家を過ぎ越したのです。そのように、罪の裁きが全エジプトに及んだのですが、子羊の血によって民への裁きが回避されたのです。過ぎ越しの子羊は型でした。それはイエス様の十字架によって成就しました。イエス様は神が用意してくださったすべての人の罪を贖うための子羊となりました。十字架で流された血が信じる者の罪を取り除き、神の裁きは過ぎ越していくのです。人の罪の問題は、神との隔ての壁となって、すべての人に及んでいます。十字架によってあなたのすべての罪が赦されていると確信しているならば、神を思うと心が温かくなり、喜びがわいてきます。もしあなたが、神を思う時喜びと感謝が来ないのなら、あなたは悔い改めてもう一度すべての罪が赦されていることを確認しましょう。

イエスは教えではなくいのちを与える:

ヨハネの弟子の二人が、ついていきました。イエス様はついてくる彼らに振り向いて、「あなたは何を求めているのですか?」と問いました。イエス様は、「誰を」と言わずに、「何を」と言って問いかけています。彼らは、イエス様に自分たちの必要を満たし、自分たちの夢をかなえてくれる何かを期待していました。そのような彼らの心を見透かしたイエス様は、この質問によってもう一度彼らの思いを正そうとなさいました。キリスト教は、キリストの教えを学び、キリストを模範として生きることではありません。イエス様そのものが、罪を赦す救いであり、いのちです。イエス・キリストは救いの本質です。キリストがあなたのうちに住まわれてキリストのいのちがあなたを生かすのです。もし、私たちが神から問題解決や自分の利となることばかりを求めて、キリストと人格的な交わりを持たなければ、神を利用していることにならないでしょうか。私たちは自分の利益を追及しているだけで、神を求めていない、と言うことがあるのではないかと問うのです。そこには、神との人格的な交わりはありません。神はあなたと人格的な交わりを求めておられます。愛と信頼の交わりです。彼らは、バプテスマのヨハネが証言しているとおり、この方こそ聖書が約束していたメシヤ、救い主であることを確信しました。イエス様の救いは個人個人に及ぶものです。イエス様は目には見えませんが、生きて働かれて、私たち一人一人の心の扉をたたいておられます。そして、あなたが内側から開くなら、イエス様はあなたに入ってこられます。そして、あなたを祝福しあなたとともにあゆみあなたにいのちをあたえられるのです。これは、イエス様の教えがあなたを変えるのではありません。イエス様そのものがあなたを救い、命を与えるのです。

天国と地上を結ぶ祝福のはしご:

イエス様は、創世記のヤコブの見た夢「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」の言葉を引用しております。イエス様は天と地をわたすはしごとなられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。はしごは地から上に向けて建てられるのが普通です。しかし、「ヤコブのはしご」は天から降りているものでした。ここにおいても、人の子と言われたイエス様がはしごとなって天から地に降りてこられました。ですから、キリストは、天国と地上を結ぶ祝福のはしごです。それは、やがてイエス様が受難の十字架の死とその後に来る復活によって、神と人類の和解を達成して、天国を地上にもたらしたことを意味します。イエス様は神の子羊として、人類の罪の贖いをなしてくださいました。そしてまた、天のはしごとなり、天国を地上にもたらしたのです。地上にもたらされた天国は、どこにあるのでしょうか。それは、信者の交わりである教会にあると言えます。また信じる者のうちにあるともいえます。すなわち、クリスチャンであるあなた自身が天国を持っているということです。すなわち、あなたは救いと祝福の伝達者です。