死といのちの試練

2017年11月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

<要約>

試練の意義:

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、試練を喜びなさいというのです。キリストの栄光が表われるとき、喜び踊るものとされるからです。キリストの苦しみにあずかれることなので、喜びなさいとあります。苦しみを通って喜びがあるということです。聖書は、「苦しみを通してあたえられる喜び」について多く語られています。次に、試練に耐えるものには、いのちの冠が与えられるとあります。試練によって鍛錬された信仰は、終末あるいは再臨の時には称賛と光栄と栄誉となるのです。聖書は試練を嫌なこと、マイナスなことと教えていません。試練は、むしろあなたの信仰を強め、鍛錬するものであります。試練に耐えてきた人には、信仰がゆるぎないものとなるのです。すなわち、「試練は信仰を育てる」。金が精錬されて、混じりけのない純金になるように「あなたも試練によって、純真で素直な信仰の持ち主」となるのです。信仰がなければ神に喜ばれないとあるように、神はあなたの素直な純真な信仰を求めています。試練は信仰を造るのです。パウロはローマにいるクリスチャンたちに、自分は艱難や試練も喜んでいると伝えました。それは艱難や試練があなたの人格を練り、最終的に朽ちない希望をあたえられるというのです。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。決して揺るがないものはありません。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。しかし、神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

ひとり子をささげる父の涙:

神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言って声をかけています。イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神は、アブラハムを信頼していました。そして、これから課す試練がアブラハムにとってどんなに苦しい、つらい試練であるか、知っていました。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。「アブラハムならきっと、この試練に耐える信仰を持っている」と思っておられたでしょう。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神のひとり子イエスを、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけさせることです。アブラハムへの「あなたの子、あなたの愛するひとり子」の言葉に、神は「わたしの子、わたしの愛するひとり子イエス」への御思いを重ねておられたのでしょう。そこに、父の苦しみ、そして、父の涙を見ます。アブラハムに重ねられた神の苦しみと涙です。イサクをささげたアブラハムは、イエス様をささげた父なる神の型です。父なる神の動機は何でしょうか。それはあなたへの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いて、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

死を通していのちに至る:

神は、人類を罪と死と悪魔から救うために無実の御子キリストに、十字架で人の罪を背負わせてなだめの供え物として死に渡されました。ですから、神が成してくださったその救いは完全です。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされるのです。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、堕落前のアダムのように、死がなくなり、そのまま永遠に生きるものとされたらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は支配ではなく、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。私たちはこの肉体にいる間は様々な重荷で苦しみ悶えています。「天からの住まい」は復活のからだです。この地上の幕屋が壊れて、すなわち死を迎えて、復活のからだによみがえるとき、死がいのちに飲まれるのです。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなります。死を通過して永遠のいのちに入るのです。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、それが発覚して絞首刑に処せられました。ヒットラーが自害する約2週間前のことでした。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。わたしたちには、この地上で苦しみがあり、悲しみがあり、嘆き、そして死があります。だから、イエス様も、「こころみに合わせないで悪からお救いください」と主の祈りで祈るようにわたしたちに教えています。神は信者をいつも守ってくださいます。また、神は、哀れみと慰めのお方です。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。なぜなら、神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。そればかりでなく、すべての苦しみと死を通って蘇られた方、主キリストはどんなことがあっても失望に終わらない希望をお与えくださいます。