虹のもとにある約束

2017年6月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記8章20節~9章13節
8:20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
8:21 【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
9:2 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

<要約>

洗礼により新しい人に生きる:

ノアの家族と動物たちは箱舟から出てきました。そして、ノアは、祭壇を築き、そこで全焼のいけにえを捧げました。全焼のいけにえの意義は、献身です。ノアは万物をおつくりになりすべてを治めておられる神が、ノアとノアの家族を救い贖われたことに喜びと感謝の思いを込めて献身を現したのです。新約聖書へブル人への手紙に、ノアが信仰による義を相続するものとされたと書いています。ノアはその信仰によって称賛されました。ノアはまだ、救い主をその目で見てはいませんでした。しかし、まだ見ていない神の約束と警告に耳を傾け、信じて従ったのです。想像するに、ノアにとって箱舟の一年間は大変つらい期間であったと思います。なぜなら、神の怒りが人類に落ちたからです。自分たちだけが助かったといってほくそえんでいたのではありません。彼の親戚縁者も外にいたのです。また、友人知人もいたことでしょう。大雨が降って地に水があふれたとき、箱舟の扉を閉められたのは主です。ノアは自分が死ぬべきところから贖われていのちを得たことがわかったのです。ノアの箱舟は聖書によると洗礼の型です。バプテスマ、洗礼は古い自分に死んで新しい人に生きることです。ノアはこの箱舟の経験をとおして、新しい人として新たな出発をするのです。同様に、洗礼を受けた皆さんは、信仰により新しく生まれた人です。それは、一方的な神の恵みです。自分の功績ではありません。神が皆さんに差し出してくださった救いをノアのように信じて素直に受け取ったからです。まだ、洗礼の恵みをいただいていない方は、洗礼を受けて新しい人生を歩みだしていただきたいと思います。

血による贖いの約束:

神は箱舟から出たノアと息子たちを祝福しました。これは、人類の再出発でした。「生きているものは皆、あなた方の食物である」とある通り、肉食が承認されています。動物を殺す時に必ず出るのが、血です。肉は食べていいが、血のあるまま食べてはいけないと命じています。これは、のちにレビ記の律法に繰り返し言われていることです。レビ記には、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」血はいのちである、ということです。ここで神は、人の血を流すものは、血の代価を払わなければならないと言われます。すなわち、いのちには血で贖わなければならないということです。また、神はあなたがたのいのちを贖うために生き物の血をあなたがたに与えたというのです。それが、出エジプト後のイスラエルの歴史において、モーセに与えられた律法です。延々と続けられてきた儀式となるのです。すなわち、罪を犯した者は、傷のない羊などの動物を祭壇に携えて行きます。そこで、祭司は、その人の罪の贖いとして動物を殺し、血を注ぎださせます。そして、祭司は罪の赦しを宣言しました。これは、やがて神の小羊として十字架ですべての人の贖いを成し遂げたキリストの予型です。すなわち、祭壇で流された動物の血はやがて来られるキリストを指していたということです。へブル書に「血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはない」と書いてある通りです。これは、イエス・キリストの十字架の贖いです。私たちは、生まれながら罪深く、現に数多くの罪を犯してきました。心において、ことばにおいて、行いにおいて汚れたものです。それらの罪に対して、神は怒りを持っておられると聖書は述べています。そして、自らの罪によって滅ぶべき者たちであります。しかし、神はあなたを惜しんで、あなたを愛して、滅びから救うために、神の一人子のイエス・キリストの血を贖いの代価として差し出してくださったのです。へブル書にある通り、イエス・キリストが十字架で血を流してくださった故にあなたの罪は赦されたのです。今、キリストによる罪の赦しが提供されています。それに伴う、永遠のいのち、天にあるあらゆる祝福を受け継ぐ神の世継ぎとしての身分が提供されています。是非、心で受け取って、救いの約束をあなたのものとしてください。

主の恵みと哀れみ:

「神は決して人のゆえにこの地を呪うことはないといわれました。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と。そして、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」とあります。これは、堕落がもたらした人の現実と言えます。そしてその罪ゆえに、地上での生活は安楽とは言えないのです。労働があり、それにともなう報酬が与えられています。寒さや暑さ、夏と冬、昼と夜、には定められた地上での営みがあります。それは地上の人生を終えるまで、やむことはないというのです。もはや大洪水では滅ぼさない、その契約のしるしとして、雲の中に虹を立てるといわれました。虹を見て人は平和と安心を感じるものです。それは、この約束にあるからです。神は、人に平和の約束をなさいました。そして、繁栄の祝福を与えました。しかし、人間には地上では労苦があり、働いて食べ物を得なければならないのです。また、神は人の内側にあるものをよくご存じでした。人の思いは常に悪に走っていくのです。哀歌には以下のようにあります。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。」聖書の言う恵みは、「受けるにふさわしくないものに与えられる神のプレゼント」です。それは、自らの罪のために滅んでも仕方がない私たちに与えてくださったキリストによる罪の赦しです。ここには、十字架という神の一方的な行為があったのです。「主の哀れみは尽きないからだ。」の哀れみは、神の罪びとへの心です。神は人に、そしてあなたに尽きることのない哀れみの心を持っておられます。そして、思っているばかりでなく、あなたが滅びることなく永遠のいのちを持つために、身代わりに十字架にかかってくださったのです。繰り返しになりますが、あなたへの神の恵みは罪の赦しです。それを受けるには、信じることです。