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悲しみを喜びに代えてくださる神

2022年9月25日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>

悩み不安を通して神に近づく

エステルには、召されていないのに王の前に出るのはとても不安なことだったでしょう。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えないが、神は最善をなしてくださる。だから、エステルも死ななければならなくても自分に与えられた最善の決断をしたのです。私たちが、不安になるのは、実は、みこころです。なぜなら、その時に、神に叫び求めるからです。そうして、もう一度、神の約束を再確認して生きていくのです。これがクリスチャンライフです。そして、み言葉の約束を確認します。そして脱出の道が備えられます。復活の希望いただいて、永遠の御国を目指して進んでいくのです。このようにして、信仰者は神に近づき、神と親しくなります。

悩み苦しみを担い背負ってくださるキリスト

王は言います。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。国の半分でも、あなたにやれるのだが。」エステルは丁重に応えます。「今日に引き続き、もう一度明日の宴会においでください。」王は、エステルのなぞめいた応答に、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイが以前、王を危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったことにも気づいたのです。その日の夕に二晩目のエステルの宴会があり、そこではじめて、エステルは、民族の救いを願いハマンの策略を王に述べるのです。エステルの悩み苦しみは解かれました。もしあなたが信じて歩むなら、神は一人ひとり、クリスチャンの人生を責任もって導いてくださいます。あなたの一切の重荷を担い、時にはあなた自身を背負って進んでいかれます。その根拠は、イエス・キリストの十字架です。鞭うたれた後、十字架を背負い処刑場までビアドロローサ、悲しみの道を歩いて行かれたイエス様を思い浮かべましょう。それはイエス様は私たちの一切の苦しみを担って、共に苦しんでくださることの証です。イエス様はあなたの苦しみをご存知であなたを招いておられるのです。あなたの罪や重荷を担いますから、いらっしゃいと招いておられます。

出エジプトと十字架

2022年9月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト12章29~42節
【新改訳2017】
12:29 真夜中になったとき、【主】はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。
12:30 その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。
12:31 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って【主】に仕えよ。
12:32 おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」
12:33 エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。
12:34 それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。
12:35 イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。
12:36 【主】はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
12:37 イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。
12:38 さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。
12:39 彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。
12:40 イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。
12:41 四百三十年が終わった、ちょうどその日に、【主】の全軍団がエジプトの地を出た。
12:42 それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、【主】が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。

<要約>

神の裁きとキリストの十字架の救い:

ファラオをはじめとするエジプト人は、主こそ真の神と思っていたと考えます。でも、パロをはじめエジプト人は謙遜になって真の神にひれ伏そうとせず、依然、神を無視して、偶像を頼りとしていました。ここに人間の愚かさが見えます。神は全知全能ですべての創り主であるとは聞いているし、その通りだと思う。しかし、自分の神として信じることはできない。そのように言う人は大変多いのです。しかし、創り主なるまことの神は、聖書を通して、そして、人となった救い主キリストを通して、ご自身を表しています。しかし、ファラオとエジプトは神を無視し続けました。それ故、神はエジプト全土を裁かれました。聖書にはやがて、世の終りの時に裁きが行われる、すべての人は審判者である神の前に立たされます。神の正しい裁きがエジプトのすべての人々の家に下ったのと同じように世のすべての人に下るのです。神の裁きと十字架の救いは今もすべての人に及んでいます。神ご自身が、キリストの十字架によってあなたを裁かず、あなたを救うと約束しております。

真の自由をもたらす十字架:

出エジプトで、イスラエル人は奴隷の身分から自由の身分になりました。これはわたしたち人間が罪と死と悪魔から自由になることを表しています。それを得させるために、贖いの業がなされました。贖いというのは、代価を払って買い取る、あるいは、買い戻すという意味です。出エジプトの時、奴隷であったイスラエルの家々の長子のために傷のない一才の雄羊が犠牲になりました。傷のない、すなわち、罪のないキリストが、すべての人の罪を引き受けて身代わりとなって裁かれました。すなわち、キリストが十字架の死といういのちの代価を払って、すべての人のいのちを買い取ってくださったのです。誰でもイエス・キリストの十字架を信じれば、罪赦され、神の子とせられて、永遠のいのちが与えられます。現代の私たちの出エジプトは、キリストの十字架により罪と死と悪魔から救われることです。イエス様を信じている者は心の自由が与えられています。すなわち、あらゆる困難や苦しみ、迫害、死からさえも自由にされています。ですから、今度はその自由をもって、隣人のために自ら喜んで仕えることができるのです。

神はその独り子をお与えになったほどに

9月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書3章1~16節
【新改訳2017】
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<要約>

聖霊によって生まれるとは?:

「水と御霊」これは、洗礼によって、罪をきよめ、聖霊を頂くことです。洗礼は新しい人の誕生ということができます。聖霊は三位一体の神です。聖霊は霊なる神です。ですから目には見えませんが、生きて働いておられます。みことばを通してあなたに語り、罪を示し、キリストへと導きます。聖霊をいただくことにより、私たちは新しく永遠のいのちが与えられます。洗礼を受けて、聖霊を頂く前は、人は罪のために神から離れて真のいのちを失っています。罪とは何でしょうか。最大の罪はあなたをつくりあなたに命を与えておられる神を認めないことです。あるいは神を無視し、神が居ないかのごとく歩んでいることです。ちょうど、父親が目の前に居るのに「私には父はいない」と言っているようです。それは、神のいのちから遠く離れていのちを失っている状態です。聖書は、それを「死んでいる」と言っています。だから、人は、聖霊をいただいて神のいのちにつながらなければなりません。新しく生まれるとは、古い自分に死んで新しい自分に生まれかわることです。

人は十字架を仰いで救われる:

16節は、聖書の中の聖書と言われています。この聖句は聖書全体を一言で言っているといえます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」と書いています。神のお心はあなたへの愛です。「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神はあなたを罪の責めである死と滅びから解放し永遠のいのちを持つために、イエス・キリストを世に送られました。「そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された。」神は、全く罪のないご自身のひとり子イエスに、すべての人の罪を背負わせて、十字架にかからせました。その御子の苦難と死によって、私たちの罪を赦したのです。「御子を信じる。」神様があなたに求めておられることは、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。あなたを赦しあなたに真のいのちを与え、本来の関係を取り戻したいのです。神は、あなたを裁くためではなく、あなたを祝福するためにイエス・キリストを送ってくださり、十字架で罪の贖いをなしてくださいました。

王の祝宴に通される条件

8月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書22章1~14節

【新改訳2017】
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

<要約>

創造主、祝福の神を無視する人間

これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの創り主の神を見ることができなくなっています。そして、神の存在を心で否定しているのです。神はおられることは、「その被造物によって知られている」と書いています。神は確実におらます。ギリシャのアテネには、アクロポリスという丘にパルテノン神殿があります。大変大きな石の建造物です。どうやってそんなに大きな石を積み上げたのか、想像もできませんでした。でも、そこにあるということは数千年前に誰かが、造ったからです。同様に宇宙万物、そしてすべての地上にある生き物も自然にできたのではありません。神が意図をもって作られ、また、その創造の業は継続しているのです。この例話の招かれた人々は王様が眼中になかったのです。それはとても変な話です。同様に、創り主であり、全世界を保っておられる神を無視することもとんでもないことです。

あなたの罪を覆い栄光をお与えになる神

クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。この例話から大通りにいたすべての人が招かれたのです。神の救いに与る条件は、良い人間、悪い人間、その人の人格は関係ない。ただ、神が提供してくださった礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいのです。これは、イエス・キリストを救い主として信じることです。これが神の恵みです。キリストを信じて心の内にお迎えすることです。もう一つ、神の恵みということについて、大切なことがあります。神は、招きに応じてキリストを受け入れた者たちに栄誉を与えようとしておられます。ただそれだけで、と思いますか。そうです。それだけで神はあなたを誉めてくださり、神の子ども、天国の世継ぎとまでしてくださるのです。それが神の約束です。すべての人にイエス・キリストの救いが提供されています。しかし、洗礼を受けてキリストを着る、すなわち救われる人は少ないと言えます。神が一番求めておられるのはこの信仰による応答なのです。神はあなたの罪を覆い、栄光をお与えになる神です。

神との関係回復への道

2022年8月21日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書12章1~10節
【新改訳2017】
12:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。
12:2 おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。
12:3 ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。
12:4 わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。
12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。
12:8 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。
12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒?する者は赦されません。

<要約>

悪いパン種は生まれながらの罪の性質:

イエス様はまず弟子たちに話始められました。悪に傾きやすい私たち人間の罪の性質、弱さをご存知で、「パリサイ人のパン種」に注意しなさい、とおっしゃったのです。神を心の中心に据えて、神を畏れ、信じ、愛しなさいという命令に対しても、神よりも、人間中心、自分中心に傾き、少しずつずれていくのです。そして、当時のパリサイ人、律法学者たちのように聖霊に心を開くこともなく、悔い改めることをしなければ、ますます罪みがわからなくなり、神から離れてしまうのです。イエス様は、人の罪に対する罰を十字架でお引き受けなさったのです。そこに救いがあります。それが福音です。聖霊は人に罪を目覚めさせ、悔い改めて神を仰ぐことに導きます。悪いパン種、それはすべての人の内側の生まれながらの罪の性質と言うことができます。それにより神との関係が断絶状態にあるのです。現に生まれながらの人は、神を認めることもできないし、神を信じることもできません。それは、霊的内面には腐敗したパン種があるからです。もし、今日あなたの内に悪いパン種があることをお認めになるのなら、それを取り除いていただきましょう。

神を恐れ、信じ、愛し続ける祝福:

神を本当に恐れるならば罪から離れます。神を本当に信頼するならば目の前の状況が思わしくなく悪く見えても、つぶやくことをせず、全能の神を信じて忍耐します。神を本当に愛しているなら常に心の中心に神を置き、神の喜ばれることを行なうのです。神を畏れ、信じ、愛することを常に心の中心に置き、励むならばあなたは幸せになります。「主が共におられる」幸いな人生を歩むことができます。また、私たちクリスチャンは、何よりも神を恐れ、神を信頼し、神を愛していても、時々神より人を恐れてしまいます。神より自分の経験に信頼を置いたり、神を愛していると言いながら、自分中心の行動をしたりしてしまいます。神の律法であり命令を完全に守れないのです。そのことを聖霊によって示されたなら素直になって、悔い改めましょう。キリストの十字架のゆえに神はあなたを完全に赦してくださいます。あなたが神を畏れ、信頼し、愛し続ける時、神は、あなたに祝福と勝利の人生を約束してくださいます。

神と向き合いいのちに生きる

8月7日(日)主日礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

神と向き合わず永遠のいのちを失った人間:

永遠のいのちというのは、私たちの今のいのちが天国で永遠に続くというのではありません。いのちの質が全く違います。それは、神のいのちです。ですから、朽ちることもしぼむことのないいのちです。死も、苦しみも、悲しみも、悩みもない永遠の祝福の中で喜びと賛美に満ち溢れるいのちです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。隣人を愛する前に、第1番目に、あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。それは別の言い方だと、神としっかり向き合いなさいということです。神は人をご自身の形に似せてつくられました。最初の人間の心は神を理解し、神を知り、神のみ心を行うことができたのです。しかし、人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、自分を神の上に置きました。そして、神から遠く離れてしまい、いのちを失ったのです。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。本来あるべき関係から大きくずれているのです。それを罪といいます。永遠のいのちを失っているのです。

あなたと向き合って永遠のいのちをくださる神:

イエスさまは、そのような人間の本質をご存じです。私たちに向き合って下さるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は重いのです。自分の家族や愛する人のために自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、誰でも敵であり憎んでいる人のために自分のいのちを捨てることはできません。神は、私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架におかけになりました。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。そのような愛を信じたかったのです。しかし、誰も人間にそのような愛を要求することは無理と考えます。その先生が、長谷川与志充を愛するために、自分の子どものいのちを犠牲にするなどということは、起こりえません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。

人の罪深さと神の愛

2022年7月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節
【新改訳2017】
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

<要約>

深刻で悲惨な人の罪の現状:

イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。過信してはいけません。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。ロシアのウクライナ侵攻、安部前首相殺害事件、統一教会の霊感商法の犠牲者、これらの原因は、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。このように、深刻で悲惨な人の罪が世界を覆っています。しかし、神は、その覆いを打ち破り光となって来てくださったのです。

十字架と復活は神の愛の極み:

不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰なものにはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを よみがえらせる」と言われました。後で、弟子たちは、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

喜びと希望の時代

2022年7月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

人の願いと神の最善:

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時、聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。 神のご計画は、私たちの願いと違っても、神のなさることは最善です。

罪の責めから解放され前向きに生きる:

この6つの石瓶は律法の時代を象徴しています。律法を追求しても義と認められない、すなわち、律法は罪から救えない。反って罪の意識が生じるというのです。しかし今や、律法とかかわりなく、イエス・キリストを信じることにより罪から救われます。律法の中心は、十戒と言ってよいでしょう。本来、十戒は、神のみこころですので、良いものです。それを守れば幸せになります。しかし、十戒の一つ一つを守ろうとすると、思いと心において、守ることができない自分に気が付くのです。すなわち、思いにおいて、御心に沿わない自分を知るのです。自らの弱さや罪を認め、神の前でへりくだり、神を仰ぎ見るのです。これが信仰です。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができます。これが福音です。クリスチャンは律法の責め、罪の呪いから解放されています。すなわち、ああしてはいけない、こうしてはいけないという、消極的な思いから解放されて、むしろああすることができる、こうすることもできると、積極的に失敗を恐れず、前向きに進んでいくのです。

ヨセフの生涯からキリストを見る

2022年6月26日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記39:1~8、20~23、41:1~16、25~32

【新改訳2017】
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。


41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を?み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
41:9 そのとき、献酌官長がファラオに告げた。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。
41:10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。
41:11 私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。
41:12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。
41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」
41:14 ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
41:15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
41:16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」

41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。
41:26 七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
41:27 その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
41:28 これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。
41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
41:30 その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、
41:31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
41:32 夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。

<要約>

イエスが共にいてくださる人生:

家の主人ポティファルはヨセフには主がついておられてすべてのことを主が成功させておられるのを見ていました。これはクリスチャンの証といえます。主イエス様の約束は何でしょうか。「見よ。私は世の終わりまでいつも、あなた方と共にいます」です。「主よ。お助け下さい。私とともにいてください」とヨセフは何百回、何千回も祈っていたと思います。その度に、父祖から伝えられた神の約束を思い出していたことでしょう。あるいは夢で神の御声を聞いていたことでしょう。その度に、彼は、信仰を強めたのです。主がともにいてくださるということを信じて疑わない、ことは何と幸いなことでしょうか。ジョン・ウエスレーは臨終のとき、「自分の人生で一番幸いだったことは、神がともにいてくださったことだ」と証を残しています。なぜなら神がともにいてくださることほどすばらしい祝福はないからです。

すべてのことを益と変え救ってくださる神:

ファラオは夢を見ました。それは、七年の豊作のあと七年の飢きんが来るという意味でした。ファラオの夢を解き明かしたヨセフは、そのことにより徴用され、ファラオに次ぐ第二の権威をあたえられました。ヨセフは七年間の豊作の間にできる限りの蓄えをしました。倉を各地にたてました。それぞれの町々に食糧を蓄えさせました。七年間の食糧備蓄という大事業を推進したのです。そのようなヨセフの資質はどこで身についたのでしょうか。それは、ポティファルの家で主人の家財や土地や資産を管理運用し、使用人の労務など扱った経験が生かされたのです。神は信じる者に最善な道を備えて下さるということです。神は苦しみ重荷を一緒に、担って下さっているということです。ヨセフはエジプトを救いました。イスラエル民族を救いました。ここにもキリストのひな型としてのヨセフがあります。ヨセフは不当に扱われ、無実の罪を着せられて、苦難の道を歩かせられました。そして、エジプトを救いに導いたのです。イエスさまは十字架で私たちの罪をになって苦しみ私たちを救い出してくださいました。イエス様の救いは、罪と死と悪魔からの救いです。人間の最後の敵である死からもお救いくださるのです。その救いのもたらすものは永遠のいのちです。

神の祝福を受け継ぐ

2022年6月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記27章1~10、26~31節
【新改訳2017】
27:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。
27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』
27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。【主】が祝福された野の香りのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。
27:31 彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」

<要約>

みことばと祈りを軽視する悲惨:

イサクは年を取り、目がよく見えなくなったときに長男エソウを呼びました。自分が死ぬ前にエソウを祝福し、後継ぎにしようとしました。しかし、それに気づいたリベカはそれを阻止しようとします。リベカとヤコブは共謀して父イサクをだますのです。これは、十戒の4戒「あなたの父母を敬いなさい」と第8戒「うそをついてはいけません」の律法違反ですね。悲しいことに、イサク家の誰も、どうすべきかを神に祈り、知恵を求めることはなかったのです。その結果、父の祝福を横取りされたエソウは、ヤコブに対して殺意を抱くようになりました。イサク家は分裂してしまったのです。ここに家族の人間関係のもろさが見えます。それぞれが、神に窺うこともなく自分の考えをそのまま通すことで、主のみ心を排除してしまったのです。家族の危機はどのような家庭にも起こりうるのです。大切なことは、私たちの家庭に神様をお迎えして常に祈りみ心を求めることです。

神と祈りの格闘をして前進する:

ヤコブは、失敗や苦しみを通して、神に祈り、神と格闘して、神の約束を握り進んでいきました。また、ヤコブにはイスラエルと言う名前が与えられました。イスラエルと言うのは、「神と戦う」と言う意味です。ヤコブは、祝福をもらうまで神の人を離さなかったからです。それは、熱心であきらめない祈りです。また、イスラエルという名前には「神の王子」という意味があります。この「お前を呪うものは呪われ、お前を祝福するものは祝福される。」という言葉の背後にある思いは、丁度、王様がその最愛のこどもである王子を愛する愛と似ています。王は王子に悪さをする者を赦しません。逆に王子に良いことをする者を王は喜び宮廷に招きごちそうします。そして、この言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰による子孫の私たちクリスチャンに与えられています。ヤコブは、執拗な祈りで神と戦ったのです。また、長子の権利をめぐってヤコブは兄エソウと戦って勝利を得ました。ヤコブは目に見えない神との関係を第一に求めました。私たちも、神との関係を第一として歩みたいと思います。受け継いだものは次に渡さなければなりません。私たちは隣人にこの祝福を伝達する役目も与えられているのです。また、ヤコブのように神に執拗な祈りをして、前進したいと願います。