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全世界に届く聖霊の働き

2024年7月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
人間の思いをはるかに超える神のご計画

私たちがこの道だと思っても主によって閉ざされることがあります。私たち人間が立てる計画と神の思いと違っている事がよくあります。自由に働かれる聖霊が行くべき道を示してくださいます。まず、第一に神は志を与えてくださるというのです。一歩あゆみだすために目の前のことを示されるのです。その際、神はみ心の全貌を前もって示されないことがあります。なぜでしょうか。それは、私たちが神を信頼して歩むようにさせるためです。私たちは信仰のチャレンジを与えられます。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということです。それは、あなたが、信仰によって歩みだすことを願っておられるからです。みこころに従う道は、その時は苦労が多いと感じます。そこに至るまで、私たちは一歩一歩この地上の人生を歩んでいきます。そのときに、みことばが灯台のように、私の道の光として導いてくださいます。その都度、神を信頼して神の約束を握って進んでいくのです。勝利のゴールは約束されています。

福音はあなた、家族、地域社会へと届く:

リディアは、現代に生きる信徒の模範と言えます。まず、彼女は、神の国と神の義を第一としていました。祈り場にいつも出ていたのです。主日礼拝を第一としていたのです。また、神の賜物であるビジネスを神の栄光のために、宣教のために用いました。リディアは金持ちでしたが、お金がなくても私たちは与えられた賜物を主のために用いることができます。また、リディアは他の信徒と協力して教会を建てあげました。神は、パウロを用いて、ピリピの人々に福音を届けました。そして、その福音は信者を通して、家族や職場の人々へ、さらに地域社会へと広がっていったのです。神は、人を用いてこの素晴らしい福音を届けておられます。ですから、使徒の働きは28章で終わりではなく、今も続いているのです。神は、キリストの十字架と復活通して、死と滅びの人生から、新しいいのち、決して滅びない永遠のいのちの人生へとすべての人を招いています。リディアとその家族がバプテスマを受けたと書いています。リディアが最初に信じて、家族に伝えたからです。そこから、神は、あなたの家族を救うためにまず、あなたを選んだといえます。あなたが救われ、家族が救われ、地域社会が救われていく、そして、全世界に救いが届けられていくのが神の方法と言えます。

<聖書>使徒の働き16章6~15節

【新改訳2017】
16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

隠された神の知恵

2024年7月7日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

人間の知恵に頼る生き方:

人間の知恵に頼る生き方は、死ねば終わりと言う生き方です。この世にいる間だけがいのちであると考えます。死んで自分の存在が無くなれば、すなわち自分が意識できない世界は否定します。他の動植物の死を見て、死ねば無に帰すと想像しています。しかし、それで納得できないのが、人間です。人間には実存の悩みがあります。難しい言葉ですが、簡単に言えば、なぜ、自分は生きているのだろうか?自分がこの世に生きている意味は何だろうか?人間は意味を問う動物です。他の動物は本能、あるいは、決められたプログラムの中でしか生きません。霊がありません。しかし、人間は鼻から神の霊を吹き込まれて生まれました。神に似せて創られました。ですから、永遠を意識します。正義を愛し、不正を憎みます。文明文化をつくりだします。そして、無数の宗教が生まれました。真の神を求めているからです。そこに人間は霊的存在者であることが分かります。人生は死んで終わりではありません。死後すべての人は罪の裁きを受けなければなりません。罪の報酬は死とあるように、神の怒りは罪に対して燃え上がり、罪人は永遠の滅び、容赦のない裁きに会うのです。人間の知恵は人生に希望を与えない。

神の知恵に生きる希望の人生:

神の知恵は、聖書の中に掲示されています。神の知恵はイエス・キリストによる十字架と復活と言う神の行為によって明らかにしてくださいました。神の知恵は、御霊によってしかわきまえることはできません。私たち信者は、信じてバプテスマを受け聖霊をいただきました。聖霊がすべてのことを明らかにしてくださるのです。聖霊は、イエス様の十字架と復活により私たちを新しいいのちに生かしてくださいます。神は、イエス様の十字架により、あなたの過去、現在、未来までの全ての罪を既に赦してくださいました。それは、古い自分がイエス様と一緒に十字架で既に死んだ、ということです。そして、イエス様は復活しました。イエス様と一緒に十字架で死んだ私たちは、新しいいのちに生きる者となったのです。それは、神を愛し、人を愛する生き方です。失敗を恐れず、前向きに、喜んで神のみこころを選んでいく人生です。感謝と喜びと希望の人生です。永遠のいのちに生きる言葉で言いつくせない素晴らしい人生です。それがクリスチャンライフです。

<聖書>Ⅰコリント2章1~12節
【新改訳2017】
2:1 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
2:3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
2:5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
2:6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
2:10 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
2:11 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
2:12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。

みことばは止められない

2026年6月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

最悪の中に神のご計画がある:

ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神のみ言葉を止める事はできませんでした。歴史を通して、聖書は消失することはありませんでした。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。この時から二千年たって、今、福音のみことばが私たちのところに届きました。このことは歴史が証明しています。福音宣教が全世界に拡大していることは誰も覆すことのできない事実です。最悪の中に神のご計画があるのです。私たちの人生を振り返った時に、最悪と思われるようなこともあったでしょう。最悪とまでいかなくてもマイナスであったと思われることもあったでしょう。しかし、その時、神のご計画があるということを知ることが大切です。私たちの姿勢は、神を愛し、神を恐れ、神に信頼することです。神は困難の内に働くからです。

信仰によりみことばを受けとる:

聖書の中心メッセージは、神はキリストを通してあなたを救うということです。それが福音です。あなたを罪と死と悪魔からお救いになるということです。ペテロもヤコブも他の聖徒たちも、ともに神から祝福された人生を歩みました。私たちも、信仰によって等しく神から祝福された神の子ども、天の国民、御国の世継ぎなのです。神がしてくださることへの応答は何でしょうか。それは、神が無代価で差し出してくださる、救い、恵み、ビジョンを何も持たない空の手で受け取ることです。みことばをいただき、信仰をもって一歩歩みだすならば、信仰の通り主は導いてくださいます。聖書のみ言葉に従って生きるなら、神の祝福はあなたのものです。あなた個人ばかりではありません。あなたの家族、そしてあなたの周りに神の祝福は届いていきます。私たちは人生で苦しいこと困難なことに出合います。そんな時にも、祈りを忘れず、神に信頼し、み言葉を握っていきましょう。具体的には、毎日聖書を読みましょう。毎日祈りましょう。祈りによって一日を始めるのです。みことばによって示されたなら、信じて従いましょう。神は祈りを聞いてくださいます。神は祈った以上の事を成してくださいます。

<聖書>使徒の働き12章1~17節
新改訳2017
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祭りの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。
12:6 ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
12:8 御使いは彼に言った。「帯を締めて、履き物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」
12:9 そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。
12:13 彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。
12:14 そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。
12:15 人々は彼女に「あなたは気が変になっている」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。
12:16 だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。
12:17 ペテロは静かにするように手で彼らを制してから、主がどのようにして自分を牢から救い出してくださったかを彼らに説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言った。そして、そこを出て、ほかの場所へ行った。

パウロの回心

2024年6月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

神に敵対する人生:

パウロは、神を愛するということを自らの行いで追求しました。神の御心である律法(十戒)を守り行う事で、神の前で自らの義を立てようとしました。すなわち、行いで自身が正しい人間であることを立証しようしました。善行に励むことは良いのですが、それを自分の手柄にしていたのです。自己満足、自慢のための律法(十戒)となったのです。そして、ついにはキリストを迫害することを良しとするまでになりました。それは神に敵対する人生でした。神は、打ち砕かれた悔いた心を尊ばれます。私たちは謙遜にへりくだり律法(十戒)に向かわなければなりません。私たちは愛と信仰によって神を求めなければなりません。律法(十戒)は鏡のようにあなたに罪を示します。私たちは、打ち砕かれ、へりくだり、罪を認めるのです。そこで初めて、キリストの十字架による罪の赦しが分かるのです。赦された者は律法(十戒)の責めを負うことはなくなりました。赦された者には、律法(十戒)は慕わしい神の命令となり、感謝のささげものとなるのです。

神を愛する喜びの人生:

パウロと同じように、クリスチャンは、神から特別に選ばれた者たちです。そして、神から使命が与えられています。それが、イエス様を運ぶ器であるということです。大きな器も小さな器もあるでしょう。しかし、すべての信者は器なのです。土の器だけれども、イエス様を運んでいるのです。すなわちイエス様を届ける使命があるということです。イエス様の救いをまだ信じていない人々に伝えるということです。家族、知人に伝えるということです。イエス様の素晴らしい救いです。神のいのちです。他のどのような宝も比べ物にならない祝福です。パウロの苦しみは、宣教に伴う苦しみと言えます。私たちはパウロほどの苦しみに会うことは少ないと思いますが、反対されたりけなされたりすることはよくあります。それでも恐れることはないのです。パウロは苦しみましたが、また、喜んだ人でした。ピリピ人への手紙を読むと獄中から、喜びの手紙と言われるくらい喜びという言葉がたくさん出てきます。本当にパウロは喜びにあふれた人であったのでこれはイエス様を信じる者たちに与えられる特権です。苦しいこともあるがそれ以上に喜びに満ちた人生であるということです。是非、この喜びの人生を自分のものとしていただきたいと思います。

<聖書>使徒の働き9章1~20節
【新改訳2017】
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
9:2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
9:5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9:9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。
9:10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
9:11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
9:12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
9:15 しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
9:17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
9:19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
9:20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

神のご計画と最善の人生

2024年6月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

信仰や人生に疑念を持つとき

ヨハネは、イスラエルがイエス様をお迎えするための道備えをした人物です。荒野で叫ぶ者の声として登場し、ヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを授けていました。ヨハネはイエス・キリストに会って、そのとき確信を持って言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と。しかし、ヨハネほどの人物が、イエス様のことを「おいでになるはずのお方はあなたですか。」と言って確信を失ったのです。「誰も私につまずかないものは幸いです」とイエス様はおっしゃいました。信仰や人生に疑念を持つとき、と題してお話ししています。ヨハネほどの人物も周囲の状況が開けず、自分が思い描いた通り進んでいかないのを見て、自分の信仰を疑ったり、確信が揺らいだりしました。また、自分がこれまで信じて歩んできた人生に疑問を抱きました。私たちも同じように、迷いやすい人間です。しかし、そのようなときに、イエス様から離れるのではなく、イエス様のところへ行き自分の悩みや疑問を申し上げるのが大切です。具体的には、聖書を調べ、牧師に疑問点を聞くことです。決して教会から離れないようにしましょう。

人間の考えに勝る神の最善:

ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けました。悔い改めて、神に立ち返りなさいというものでした。ですからヨハネは罪を鋭く指摘しました。ところが、イエス様は罪に苦しむ者に赦しを与え、罪からくるとされていた様々な障害や死からも解放を与えました。ヨハネは正義の執行、悪に対する裁きを期待していましたが、イエス様がなさっていたことは、まず、病からの癒し、障害からの解放、最後の敵である死からの解放でした。私たち信者は周りで起こる様々な事象について、明白な回答を得ることは難しいと言えるでしょう。すべてのことは、神の主権の下で起こっています。天変地異も災害も神のみ許しの下で起こっています。しかし、神の私たちにお示しになった神の愛は、 歴史の中ではっきりと示されました。それは十字架です。神は、あなたをご自身の命にかけて、あるいはご自身の命を捨てても惜しくないほどにあなたを愛しておられます。そのような神の愛を信じる時に、神に対する絶対的な信頼が生まれてきます。神はあなたを最善の人生に導かれます。あなたに最善の人生を用意してくださるのです。 それは永遠の神のご計画の中に仕組まれた確かな事です。

<聖書>マタイの福音書11章2~11節
11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。

クリスチャン生活の霊的秘訣

2024年6月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

闇の者から光の子へ:

キリスト再臨の日には、闇の者は裁かれます。しかし、同時に、光の子ども、昼の子どもには救いが起こるということです。キリストを知らず、認めず、神から遠く離れている者にとっては突如として襲う滅びであります。しかしキリストにある者にとっては、それは、救いであり希望です。ですから、まだ、イエス様を信じておらず闇の中にいる方々に対して聖書は勧めております。そのようなあなたの心の闇に神は光を与えて、罪を赦し、暗闇を取り除いてくださいます。そして、夜の子から昼の子にしてくださいます。信仰、希望、愛に生きることは、特別なことではありません。今までの様に、礼拝を守り、信者は交わりを保ち、互いに励まし、愛し合い、得を高め合い、信仰と希望と愛に生きなさいということです。教会から足を遠のけてはいけません。受けるだけではいけません。たがいに仕え合うのです。それが、信仰と希望と愛に生きることです。そしてそれは、表題の「闇の者から光の子へ」と言うことの結論ということができます。

悪にとどまらずいつも善を行う者へ:

「悪にとどまらずいつも善を行う者へ」と題してお話ししています。それは、「すべての人に対していつも善を行うよう努めなさい」と言うみことばから来ています。その秘訣は、「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」です。この三つに生きることは、神が私たちに望んでおられることです。そして、クリスチャンライフのモットーと言えます。「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」です。私たちは決して揺るがされることのない喜びをいただいています。ですからどんなことにも感謝できるのです。その喜びと感謝の土台は、イエス・キリストです。十字架の贖いによる罪の赦しです。罪が赦されて神と和解できたのです。罪によってさえぎられていた神の恵みが降り注がれるのです。今、どんな状況にあっても揺るがされることのない喜びを自分のものにしていただきたいと思います。

<聖書>Ⅰテサロニケ5章1~22節
【新改訳2017】
5:1 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
5:2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。
5:6 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。
5:11 ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。
5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
5:13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 御霊を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
5:22 あらゆる形の悪から離れなさい。

信仰と愛の実践

2024年5月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

人に苦難を与える敵:

クリスチャンばかりでなく、最初の人アダムの堕落以来、すべての人はサタン、誘惑する者に苦しめられているのです。サタンは、神の敵であり、人間の敵です。人間にはサタンも含めて三つの敵があります。クリスチャンの皆さんはこの三つの敵を良く知っておかなければなりません。テサロニケ教会の信者と同様に、クリスチャンは多かれ少なかれ必ず苦難に合います。苦難を与える敵は三つあります。第一の敵はサタンです。真の信仰から私たちを引き離そうと働いています。第二の敵は、この世です。世の誘惑は、人が、その隣人のためにではなく、まず、自分自身の利益のために生きるように仕向けます。聖書は、神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさいと命じています。世は神に対する畏敬がありません。人間中心主義です。三つ目の敵は、誰もが持っている罪の性質です。自分の欲望を果たそうとする性質です。多くの人々はこの三つの敵を知りませんし、認めません。ですから、サタンにとって世の人々は敵ではありません。しかし、人々が福音に生きようとするとサタンは敵とみなして妨害するのです。そこに霊的法則があります。信仰と愛に生きようとすればするほど苦難が押し寄せてくるのです。

福音が与える感謝と喜び:

福音が与える感謝と喜びと題してお話ししています。キリストは、その十字架と復活により、私たちをサタンの支配からキリストの支配へと移してくださいました。もはや悪魔に支配されることはありません。この世の流れに翻弄されることもありません。自分の内にある罪に責められることもありません。内に住んでくださる聖霊に導かれて歩むのです。神を愛し、人を愛する生き方を選んでいきます。そこにこそ平安と喜びがついてくるのです。キリストを信じて歩みだすと、必ず、誘惑する者がやってきます。テサロニケのクリスチャンたちはそれらの激しい攻撃に関わらず、キリストを信じる信仰に生きて、クリスチャン同士互いに愛し合いました。そしてそれが、未信者に対する愛の行いへと広がっていったのです。そして、アジア中で評判となったのです。それは、苦難の中にあっても、キリストにより、神の御前で、聖め、責められるところのないものとしてくださる聖霊の働きです。現代社会に生きる私たちも同様にキリストを求める信仰と愛の実践に生きるものとされたいと思います。

<聖書>Ⅰテサロニケ人への手紙3章1~10節

【新改訳2017】
Ⅰテサ
3:1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、
3:3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。
3:5 そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。
3:6 ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。
3:7 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。
3:9 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。

ペンテコステとペテロの説教

2024年5月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

十字架に心を刺される罪人:

ペテロの説教を通して、聖霊は、すべての聴衆を指して言っています。「あなたがキリストを十字架につけたのです」と。この言葉は、読者も含めすべての人に向けられている言葉です。2000年後の私がどうしてイエス・キリストを十字架につけたというのだろうかと疑問に思う方々もいると思います。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。十字架に心を刺される罪人、と題してお話ししています。「聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」と言うことはできません、と書いています。聖霊によらなければ、誰も自分の罪が分かりません。人は自分が罪人であると分かっても、外面上の罪しか気づいていません。聖霊はあなたの心を探り、心の罪に気づかせます。神は外側でなく内側、つまり心を見ておられます。そのすべての罪のためにキリストは十字架であなたの罪を贖われたのです。無実の神の子が十字架にかからなければならないほどに私たちの罪は重いということです。

聖霊の果実を実らせる人生:

自分たちの罪の深さに気付いた人々は口々に「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか」と問いました。この時の彼らは自分たちの現状知りこのままでいけないと思ったのです。ペテロはそれに答えて、言いました。「悔い改めてそれぞれの罪を赦していただくためにバプテスマ、洗礼を受けなさい。」と。聖霊がペテロを通して語ったことは、キリストは生きておられる、すべての人は罪を持っていて罪によって滅んでいく、罪を赦していただくためにイエス・キリストを信じなさい、ということです。救いは一方的に神が提供してくださる恵みです。ここに私たちの条件は何も書いていません。ただ罪を悔い改めて神を信じることです。信じた者たちには、父なる神からの約束の聖霊を受けて、良い果実を実らします。人を変え、人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。まだ、信仰をお持ちでない人は、悔い改めて洗礼を受けて、聖霊をいただきませんか。必ず天来の祝福があります。クリスチャンの方々も聖霊に導かれる人生を送りましょう。そのためには、日々のみことばと祈りの時、聖霊が招いてくださる毎週の礼拝、聖餐式を大切に守りましょう。

<聖書>使徒の働き2章32~42節
【新改訳2017】
2:32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
2:34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

最高の人生

2024年5月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

自分の思いを優先する人生:

自分の思いを優先する人生は、神のみこころより、自分の決断に頼る人生です。イエス様は「自分を捨てて」と言われました。それは、自分の思いや自分の判断をまずおいて、神のみ思いを探ることです。ペテロも他の弟子たちも、イエス様こそダビデの再来としてイスラエル民族を救ってくださると期待をかけていました。しかし、無抵抗にも捉えられて、裁判にかけられ、処刑されようとしている。本当にこの方がイスラエルの救い主だったのか?ペテロは、イエス様が捕らえられた時、自分も捕まえられることを恐れ、すぐに、逃げました。しかし、かれはカヤパの官邸の庭で、夜の暗がりに隠れて、イエス様の裁判を見ていました。イエス様を裏切ったのです。そのことで、彼は砕かれ、意気消沈してしまいました。その後、主は十字架につけられて、葬られました。しかし、イエス様は、予告の通り墓に葬られて3日目に復活しました。復活の主と出会って彼は変えられました。ペテロは自分の思いを優先する生き方から、主のみ思いを大切にして、それに従う人生へと転換したのです。

心の中心にイエス様をお迎えする人生:

私たちは心の中心に自分を据えるのではなくてイエス様をお迎えする事が大切です。イエス様をあなたの人格の中心にお招きするならば、自分がしなければならないと頑張らなくてもよくなります。なぜなら、イエス様があなたの内で事をなしてくださるからです。「自分がする」から「イエス様がなさる」人生に変えられるのです。ペテロは、復活のイエス様にお会いしてからは、イエス様が自分の主であり、自分の人生をイエス様にささげ、イエス様のために生きることに心が定まりました。私の羊を飼いなさい、とのお言葉により、イエス様から召命と任命をいただいて、ペテロはその後、教会のリーダー、初代の牧師あるいは神父、教会の偉大な牧者、として活躍していくのです。私たちも復活したイエス様をいつも見ています。イエス様は皆さんそれぞれに、もっともふさわしいご計画を持っておられます。ですから自分の思いを優先するのではなく御心を求めていきましょう。あなたに最もふさわしい人生が開かれています。それこそが最高の人生だからです。

<聖書>ヨハネによる福音書21章15~22節

【新改訳2017】
ヨハ
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

悲しみと嘆きは喜びと感謝に

2024年4月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>

目がさえぎられている人間

私たち人間は、アダムの罪を引き継いでいます。原罪を受け継いでいます。それは、神より自分を優先する、神がほめたたえられるより自分の栄誉を求める、他人を自分の思い通りに動かしたい、支配欲、権威欲、自分中心です。神を下において自分を上に置きます。そのために、神を利用しようとまでします。ロシア正教会は、ロシアの領土拡大、ウクライナ戦争を肯定しています。プーチンとその一部の人々の独善的な考えを正当化しています。彼らは自分たちの利益のために、民族優位を裏付けるために、宗教を利用していると言えます。すなわち神を利用しているのです。それは、ある国の人々がそうであると言うのではなく、私たち個人に至るまで、生まれながらの罪の性質により、福音を理解できません。罪と死と滅びからの救いを理解できません。和教信条にある通り、「神の子の福音と永遠の救いを読んだり、聞いたりするが、自分の力でそれを理解し、真理であると信じることができない。」のです。聖霊によるしか、私たちは神を信じ、福音を理解することはできません。しかし、恵み豊かな神は、神を求める者の目を開いて下さいます。

心の目を開かせてくださる神

試練や苦しみの中で神が遠くにおられるように感じているときにこそ神はあなたと共にいてあなたを支えておられます。イエス様の一方的なあわれみです。暗く沈みこんでいる時にこそ近づいてくださる。聖霊様の働きなのです。神の一方的な哀れみによって私たちに信仰が与えられるのです。二千年も前にイエス様が私の罪を取り除いてくださった。こんな信じられないことを信じることができたのは御霊のわざです。自分で信じたと思っているのは誤りです。イエス様、聖霊様があなたに語り掛け、みことばを与えそして救いを理解する力を与えてくださいました。何という幸いな人生、喜びと感謝の人生でしょうか。かくして、クレオパ夫妻のふさがれた目が開かれてイエス・キリストをはっきりと見ることができました。非常な喜びで満たされました。イエス様があなたや私に近づいてくださり、あなたや私の目を開いてくださったのです。今、私たちは心の目でイエス様を見ています。イエス様から日々みことばをいただき心が燃える経験をし続けていきましょう。

<聖書>
【新改訳2017】
24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
24:22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
24:23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
24:35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。