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神さまのビジョンは私のビジョン

2018年07月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰

<聖書>Ⅱペテロ3章8~13節
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

関係回復への招き

2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>

行いによっては救われない:

ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。

恵みによって救われる:

ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。

備えられた神との関係回復の道:

ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。

みことばは必ず成る

2018年07月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き12章1~17節
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

<要約>

最悪の中に神のご計画がある:

国家の最高権力者によって、初代教会は最も重要な人物が捕えられて、殺されようとしています。エルサレムの教会は窮地に立たされていました。ペテロは牢の中で、決して逃げられない。絶体絶命、教会にとってもなすすべがない状態でした。イエス様の直弟子であり、教会のリーダーの一人ヤコブが殺されました。さらに、イエス様が、「あなたの上に私の教会を建てる」と言われたペテロが明日殺されようとしているのです。最悪の状況の中で、教会は祈りました。そこに神のご計画があらわされました。ペテロが救出されたのは、絶対起こりえないことが起こったということです。ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ていたというのです。翌朝殺されようとする前の晩のことです。すると突然、主の使いが現れ、光が牢屋を照らしました。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から落ちたのです。立ち上がった。そうしたら鎖が落ちたのです。神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出したのです。出口のないトンネルはない、開けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。日本では、ここ毎年のように、豪雨の被害を受けています。今年は西日本で、広範囲にわたり大雨による被害があり、大勢の人々が命を失いました。豪雨の災害は日本中、どこででも起こりうるそうです。災害にあった人、災害に会わなかった人、そこには何の違いもありません。今日の聖書のはなしを見ても、ペテロは救出されたのにヤコブは殺された、ということです。どうしてそのように片一方は救出されもう片一方は救出されることなく死んでしまったのでしょうか。しかし、その答えはありません。この世はそのような疑問で満ちています。しかし、神はすべてを知っておられるということです。人間は神のなさることを完全には理解できません。もし、人間の思考や理性の中に神様をすっぽりと入れることができるならばそれは神ではありません。それは、人間が考え出した神と言うことでしょう。それは真の神ではありません。はっきりしていることは、神は愛の方であるということです。神はご自身の独り子のいのちを与えてもよいと思われるくらい、人間を愛しておられるということです。キリストの十字架を見るとそれがわかります。十字架が語っているのは、私たち一人一人に対する神の愛です。言葉で言い尽くすことのできない愛です。十字架のメッセージは全世界の真の教会で毎週のように語られております。二千年間も語ってきたのに、語り尽くせないのです。私たちは、近視眼で、目先の事しか見えません。しかし、長いスパンで見ると、神の最善がなされています。聖書の預言は必ず成就しています。それは歴史が証明しています。もし、あなたが、今、試練や困難の中にいるのでしたら、あなたにいのちを与えて、あなたを愛しておられる神を信頼して見て下さい。必ず、神の最善が明らかにされる時が来ます。

祈りは状況を変える:

ペテロが捕えられて殺されることになったとき、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けたと書かれています。窮地に陥れられたときすべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。彼らは、徹夜の祈り会をしていました。リーダーのペテロもヤコブを取りされる。これから教会はどうなるのだろうか。不安でいっぱいでした。しかし、最終的には、「みこころがなりますように」と祈ったでしょう。私たちも困難に会ったとき、御心が最善であると信じ「御心がなりますように」と祈りましょう。彼らは、ペテロが救出されるとは思っていなかったことがわかります。予期していない神のみわざに彼らは驚き、さらに神を恐れたのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできるのです。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は救われるはずがない人が救われたということではないでしょうか。祈りは状況を変えます。たとえ、願ったように外的状況は開けなくても、祈るものの内的状況、心の状況は変わります。祈ることによって、神は全能であることを思い起こします。祈ることによって、神は愛の方であることを思い起こします。祈ることによって、神が最善をなしてくださることを確信するからです。ですから、皆さん、いつも祈りましょう。

神のみことば止められない:

ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神の言葉を止める事はできませんでした。悪魔はキリスト教を撲滅させようとしました。歴史を通して働いています。紀元303年ローマ皇帝ディオクリティアヌスは世界中の聖書を集めて焼き払いました。ローマ帝国内に1冊も聖書がないと言う状態までしました。しかし、その約10年後にはキリスト教はローマ帝国の国教となったのです。近世になっても、聖書撲滅を試みた人々がいます。しかし、聖書は消失することはありません。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。その証をします。2014年2月に、クリスチャンの友人夫妻の次男が20歳の若さで突然亡くなりました。大学時代、教会で一緒の兄姉です。なぜ、どうしてそんなに若くして亡くなったのか、答えは出ないのです。4年半もなりますが、現在も、痛みと悲しみがあります。しかし、朝晩、夫婦で神の御前に出て、聖書を読み、祈っていると聞きました。神と交わる時間を持っています。それにより、神と親しい交わりの中に入れられています。今は次男の死の意味がわからない。しかし、いつかあるいは御国で知ることができるのです。みことばは止められることなく、彼らのうちに流れ続けています。永遠の希望に生きているのです。もう一つは、ハレルヤ保育園の園児の教育に係る証です。今から約20年前のことです。順兄が岡山の倉敷市にある川崎医科大学に入学した年のことです。5月の連休に関西方面へ家族旅行をしました。彼は最初のころ、西大寺キリスト教会に通っておりました。私たちは旅行中の主日に、そこで礼拝を守りました。その時教会の隣に大きな建物があり、そこには教会の幼稚園がありましたので、見学させてもらいました。そこで初めて、モンテッソーリ教育に出会ったのです。盛岡に帰って、その教育法について学び、これだと思いました。そして、ハレルヤ保育園にモンテッソーリ教育を導入することをきめたのです。私たちは西大寺キリスト教会の隣に教会の三倍くらい大きな立派な幼稚園を見た時は、なんでこんな大きな立派な建物があるのだろうかと思いました。その後で、耳にした話ですが、その時を遡る数年前に教会は大変な試練にあったのです。窮地に立たされたのです。教会のキャンプで連れて行った中学生が海に溺れて死亡したのです。教会全体が冷え込み、牧師は責任をとって辞任したのです。その後、新しい牧師が使わされてきました。祈りの中で、その牧師に与えられたことは、溺死した子どものことを覚えて、子どもに宣教していくというビジョンでした。そして、その大きな建物が与えられました。そこで、モンテッソーリ教育に取り組んだのです。苦しみを通して与えられた宣教のみ言葉は止まることがありません。そして、宣教のみことばはハレルヤ保育園にも流れています。そしてこのチャペルに流れているのです。最後に、イザヤ書のみことばを読んで終わります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

敬虔な人コルネリオ

2018年07月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き10章1~17,34~43節
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。

10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

<要約>

神を求めて祈る人に主は顕れる:

カイザリヤにいるローマの百人隊長コルネリオは異邦人ですが立派な人物でありました。彼は敬虔な人で、ユダヤ教の教理を受け入れて、宗教的慣習を守っていました。コルネリオは天地万物の創り主である神を信じていました。神の民ユダヤ人に与えられた律法を重んじて、律法に則った生活をしていました。神の望んでおられる生き方を目指していたと言えます。ユダヤ教徒としてするべきわざを心得ていました。一家をあげてユダヤ人社会に溶け込み、会堂(シナゴグ―)に集い、律法や預言書の朗読を聞き、ラビたちの説教を聞いていたことでしょう。ですから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも理解していました。そして、彼自身も救い主を待ち望んでいたことでしょう。今日の記事から、彼は午後3時の祈りの時を持ちました。それは、ユダヤ教徒の夕方の祈りの時として一般的に持たれていたことです。コルネリオはなぜ、全世界の造り主であるユダヤ教の神を信じるに至ったかは何も書いていません。しかし、ローマの百人隊長という職業からも推し量ることができます。百人隊長は短命で死と隣り合わせに生きていた人間でありました。コルネリオは自分が異邦人ではありますが、そのことで卑下することもなく、神を愛し、恐れ、信頼する人でした。打算のない真心を主に捧げていました。そのようなコルネリオに聖霊がお降りになりました。聖霊は、自分を主に明け渡し、従う人におくだりになるのです。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」彼の祈りと奉仕は神への献身の現れでした。それに対して、当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちの祈りは、自分の敬虔さを誇示する祈りであったようです。神は私たちのささげものそのものより、それを差し出す私たちの心をご覧になって喜びます。砕かれた、悔いた心です。謙遜でへりくだり、自分の罪をはっきりと認識している人を求めています。私たちの祈りや奉仕もそこに立ちたいと思います。

祝福と恵みを隣人に届ける:

ある時、み使いがコルネリオの前に現れてペテロを家に招いて話を聞くように促しました。ペテロはペテロで不思議な夢を見ました。天から四角を吊るされた大きな風呂敷が降りてきて中にある様々な四足の動物や這うもの空の鳥などを屠って食べなさいという声を聞いたのです。律法で、食べてはいけないものは食べられないとペテロは断ったものの、三回同じようなことがあり、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と戒めを受けたのです。そのような夢を見ていたちょうどその時に、コルネリオから使わされた人たちが彼の家の門口に立っていたのです。ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法にかなわないことだったのです。異邦人の家に入ることも、共に食事をすることも許されていなかったのです。そのことはコルネリオも十分承知していたことでした。しかし、ペテロもコルネリオもそのような慣習にとらわれず、また人の目を恐れずに、ためらわず聖霊に聞き従ったのです。ここでペテロは神の御心そして、神の救いの御業は異邦人にまで及んでいるということを発見しました。ペテロはコルネリオとあって、神は偏ったことをなさらないということに気付いたのです。イスラエルには、二つの湖があります。それらは神のメッセージを伝えています。ガリラヤ湖と死海です。ガリラヤ湖は豊かな緑に囲まれていて、湖にはたくさんの魚が取れます。しかし、死海は名前の通り死の海です。生物は濃厚な塩分のために住むことができません。また、死海の周囲には緑が全くなく砂漠となっています。死海にはヨルダン川から水が流入しています。しかし、死海から流出している川はありません。一方、ガリラヤ湖では、周囲の山々から多くの川が流入しています。そして、ガリラヤ湖もヨルダン川へ流出しているのです。ここに一つの教訓があります。死海は恵みを受けているが、その恵みを他に流さない人の生き方を示しています。ガリラヤ湖は恵みを受けて、それを他の人々へ流していく人の生き方です。コルネリオもペテロも共通点は、自分に与えられた賜物や才能を隣人のために用いていたということです。私たちクリスチャンも神の恵み、祝福を受けた者たちです。それは一方的な憐れみであったことを覚えます。しかし、それを他の人の祝福のために用いていくのです。

信じれば誰でも罪の赦しを受ける:

「イエス・キリストによって平和がもたらされる」。イエス・キリストが神と私たち人間の間に立ち、神との和解を成し遂げて下さったのです。イエス様は人と神の仲介者です。私たちのためにいつも神にとりなしていてくださるのです。そして「イエス・キリストはすべての人の主です」とあります。聖書が主張していることは、信者、未信者にかかわりなく、イエス・キリストは全人類の主であるということです。私たち一人ひとりは受け継いだ復活の証人なのです。これが神の方法です。神は長い年月をかけて、私たち一人ひとりを用いて福音を拡大させておられます。「その名によって罪の赦しが受けられる」とあります。最後に最も重要なことがのべられています。聖書にこう書かれています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモテ1:15)イエスさまは私たちの罪を赦すために来られた。道徳教育のために来られたのではありません。人間の正しい生き方を教えるためにではありません。私たちに模範の人生を示すためにでもありません。また、自分で悟りを得るために来られたのではありません。自ら私たちの罪を背負って、身代わりとなって死ぬために来られたのです。私たちの罪を取り除くために来られたのです。ただ、十字架にかかり、身代わりとなって私たちの罪を赦すためにです。罪の赦しがそんなに重要なのでしょうか。なぜなら、罪の赦しがなければ、私たちは誰も救われません。罪と死の中に依然閉じ込められているのです。自分の罪のために滅びるばかりなのです。他の宗教はこの罪の問題を正面切って取り扱っていません。人間の最大の問題はこの罪の問題です。人間のどんな力や努力でも取り除くことができない。神がご自身の命を捨てなければならなかった。そうしなければ、罪を人間から取り除くことができないのです。福音の中心は罪の赦しです。キリストの十字架から罪の赦しが流れ出て、今は、全世界に及んでいます。世界中のどんな人もこの罪の赦しを受けることができます。それは、空の両手を上げて、神から受けるだけでいいのです。

宣教拡大のきっかけ

2018年07月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き7章45~8書3節
7:45 私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。
7:47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
7:50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

<要約>

宣教の主役は聖霊:

聖霊は目には見えませんが、そのお方は光のように人々に臨み、真理を明らかにするのです。そのお方があなたに臨むとき、あなたの心の罪を明らかに示します。ちょうど、朝、窓のカーテンを引くと朝日が差し込み、部屋の中の埃が目に入るのと似ています。そして、あなたは、部屋の空気が汚いのに気付き息苦しさを覚えて、外の新鮮な空気を入れようとします。そして、窓を開けるとすがすがしい風が入ってきます。同様に、聖霊があなたの心を照らすとき、あなたは自身の罪を見せられて痛みを覚えます。息苦しさを覚えて、心の窓を開いて聖い聖霊を心に迎えるのです。そして、あなたの心の罪を取り除いていただくのです。ですから、聖霊は光のようであると言いましたが、同時に風のようです。また、水のようです。イエス・キリストを信じた者は、教会で洗礼を受けます。その時用いるのが水です。水は汚れを洗い流す力があります。洗礼によりあなたの罪がすべて洗われるのです。清めます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。今の時代は、どういう時代でしょうか。2000年前にイエス・キリストは天に昇られました。その後聖霊が下りました。そして、全世界にキリストの十字架と復活が述べ伝えられてきました。やがて、キリストの再臨の時を迎えます。現代は、その少し前の時代と言えます。なぜなら、聖書に、福音がすべての国民に宣べ伝えられてから、終りが来るとあるからです。福音はほとんどの国民に伝えられており、キリストの再臨は近づいていると言えます。

今日は、イエス・キリストの最初の殉教者であるステパノについての記事です。神は、人類を祝福するために、最初に、アブラハムを選ばれました。そして、アブラハムへの祝福はその子孫であるイスラエル民族に及びました。そして、イスラエル民族を通してすべての国民に祝福を届けようとされました。その祝福の神は救い主でありました。ユダヤ民族だけにとどまらず全人類を罪と死と滅びから救う救い主であったのです。神がユダヤ民族を選びあわれみ愛したのにかかわらず、真の神から心が離れて偶像に心惹かれ偶像礼拝の罪に陥りました。その度に神は預言者を送り、神のみことばを伝えて、民を立ち返らせようとしました。しかし、民は預言者を迫害し殺してしまいました。神は、そのようなイスラエルのために救い主を送るという約束をたびたび送っていました。しかし、ますますかたくなになり、ついには、神のひとり子キリストを十字架につけて殺しまったのです。ステパノはそれを指摘して、民が聖霊に逆らう生き方をしているのだと、糾弾しました。旧約の時代から聖霊は働いています。聖霊は、光のように、風のように、そして水のようにどこにでも偏在し、歴史を導いてこられていると言えます。

キリスト信仰へと導く聖霊:

ステパノの説教は、神殿に話が及びます。神殿はソロモンが神のみ住まいとして建てたものです。神は天地万物の創り主であり、人のつくった建物にはお住みにならないことを告げられました。すなわち、神殿という建物には神の本体はなく神のみ住まいの模型であったのです。しかし、当時、神殿は見える形での神の臨在の場所でした。神殿を通して人は神に近づくことができました。すなわち、神殿はやがて来られる救い主キリストの影であって、本体はキリストであることを示されたのです。神殿では、民の罪を贖うために、傷のない小羊などの動物がいけにえとして捧げられていました。これは、来るべきキリストのひな型でした。キリストは神の犠牲の子羊として世に来られたからです。罪のない神が人となってこられました。罪のない神のひとり子キリストが、あなたや私、いや全人類の罪を背負って、十字架にかかり死んでくださいました。その事により、すべての罪をぬぐい取ってくださったのです。すべての人は、自らの罪のために死んで滅ぶべきものとなっていました。その人間を死と滅びからキリストがご自身の血をもって買い取ってくださったのです。ユダヤ民族には、神殿こそ神の臨在の中心でした。ユダヤ民族にとって神殿を信仰の中心として、民は毎年お参りに来ていました。しかし、そのような信仰の中心である神殿は、実際のところは、イエス様が指摘されたように強盗の巣となっていたのです。そこでは、宗教指導者たちは犠牲の動物を販売して、商売にしていました。彼らは外面を繕い、内実のない見せかけの信仰だったのです。そこで、イエス様は、神殿でユダヤ人たちを前に言いました。(ヨハ 2:19)「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」それは、ご自身の身体の神殿のことを言っておられたのです。イエス様が十字架で殺され、三日目に復活されることを暗示されたのです。そのイエス様の発言が神への冒涜として、裁判で死刑を言い渡されました。イエス様のことば通りに、その後、神殿礼拝は破棄されました。現代は、イエス・キリストが真の神殿となり、礼拝者たちは霊と真をもって、世界中のどこででも礼拝を守ることができるのです。私たちは彼らを反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。神を愛し、恐れ、信頼する生き方をしているでしょうか。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。聖霊に心を開くことが大切です。

迫害と殉教で宣教が拡大:

そのステパノの批判に対して、ユダヤ人たちは、「はらわたが煮えかえる思いで」怒り、ステパノを町の外へ連れ出して、そこで石打の刑にして殺しました。最初の殉教者ステパノ、彼は名もない一人の男でした。しかし、彼は聖霊に満たされて、堂々と自分の信仰の証をしました。イスラエルの歴史を振り返りながら、その歴史が神に対する不信仰と反逆の歴史であったことを説きます。人々は、聞く耳を持たないばかりか、強い怒りに満たされて耳を覆いステパノに対する殺意をあらわにいたします。これを機に激しい迫害の嵐が、エルサレムの教会から当時のローマ帝国、そして、歴史を通して全世界に広がりました。神の摂理と思いますが、迫害によって宣教が拡大しました。日本でも1,600年ころから、安土桃山時代、江戸時代には各地で迫害が起こり、多くの信者が殉教しました。おおよそ250年間の迫害と殉教の歴史があります。キリスト教の歴史、それは迫害と殉教の歴史ということができるかもしれません。迫害はなぜ起こるのでしょうか。それは信仰があるからです。信仰を捨てれば、迫害はやむのです。江戸時代は、何とかクリスチャンに信仰を捨てさせようと拷問や誘惑で巧みに信仰を捨てさせようとしました。ある人びとは信仰を捨て、迫害から解放されました。しかし、多くのクリスチャンは死の向こうにあるもの、永遠の命、天国を待ち望んで、すなわち、信仰によって迫害に耐えていったのです。8章に入ると、激しい迫害によって、多くのクリスチャンがエルサレムを後にローマ世界に散っていきました。道々、イエス・キリストを宣べ伝えたのです。すなわち、福音宣教が拡大したのです。この処刑の場所にパウロという青年が登場しています。彼は、やがて、異邦人伝道に遣わされ、この新約聖書の半分以上も表すものとなったのです。そして、やがては自分が迫害した、キリストのために迫害を受け殉教したのです。ステパノの殉教によってパウロは聖霊に捕らえられました。このあと、パウロが劇的な改心をし、最大の宣教者となったのです。神はキリストの十字架と復活によって、私たち罪と死と滅びから救ってくださいました。そしてこの救いの福音は、このようにして、全世界に及んで、今日私たちのところにも届けられました。聖書の預言はことごとく成就しています。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。

この方以外に救いはない

2018年06月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き4章1~14節
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

<要約>

悔い改めて聖霊に明け渡す:

祭司たちや宮を守る人々やサドカイ人たちにとっては、生まれつきの障害者が完全に癒された事実よりも、自分たちの職業や地位が脅かされることの方が問題だったのです。彼らはイエスの御名が、このしるしを行なわせたということをはっきり認めているにもかかわらず、神に栄光を帰そうともしなかったのです。とにかく、自分の立場を守ることだったのです。私たちも反面教師として、彼らから学ぶことはたくさんあるはずです。私たちはこの自分の立場に執着することがあります。神のことばを聞いていながら、自分の考えや経験に執着して、神のことばを否定してしまうことがあるのです。自分の考えを変えていくこと、思いを変えることそれはメタノイア、悔い改めるということです。大祭司をはじめとする指導者たちは、この悔い改めるということが全くなかったために、このキリストの救いを自分のものとすることができなかったのです。ここには霊的な原則がはっきりあります。悔い改めがなければ悟りにいたることはありません。悔い改めがなければ、神のことばは全くあなたの心に入ってきません。民の宗教指導者たちは、メシヤの表れである素晴らしい神のわざを見ながら、心の目は閉じていました。保身、自己中心、妬みによって、神の真理に全く鈍感となったのです。それに対して、ペテロとヨハネは、聖霊に満たされました。聖霊に満たされると、聖霊がその人を圧倒的な力で覆うことです。聖書は勧めています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。クリスチャンは、それぞれが頂いている聖霊に御頼りして、聖霊によって歩むように、と言うことです。もし、私たちが聖霊によって歩むことをしないのなら、ここに出てくる宗教指導者たちのように、肉の欲望である自己本位、自分中心、御心より自分の思いを優先する生き方を選ぶことになります。聖霊によって歩むということは、具体的には、どのようにするのでしょうか。それは、へりくだった祈りです。それはあなたと神の一対一の祈りです。神の前に心低くしてみことばに、御声に耳を傾けることです。「聖霊様、私の思いではなくあなたのみ思いに従いたいです」。「私に歩むべき道を示してください」と。聖霊に自分自身を明け渡すことが大事です。

確信は十字架と復活の事実:

捕えられたペテロとヨハネは議会の真ん中に立たせられて、尋問されます。彼の弁明は礼儀正しく、ただ実際に起こったことを述べております。そして、癒された男も証拠として同席していたのです。その男の癒しは旧約聖書に預言されていた救い主のなせるわざでありました。そして、この事実は彼らにとっても、認めざるを得ない事でした。もしこの男がキリストの御名によって癒されたとしたら、自分たちが救い主を十字架で殺したということになり、神の敵になってしまっているということでした。それは彼らには受け入れることのできない事でした。さて、使徒たちが前章から人々に宣べ伝えていたことは何でしょうか。ペテロが述べ伝えたことは、イエス・キリストの十字架と復活でした。この十字架と復活は、キリスト信仰の中心であります。また、その出来事は史実として世界で認められていることです。イエス様は「私の罪のために十字架で死んで、私のいのちのために復活された」という単純な事実です。私たちの信仰もこの十字架と復活の単純な事実と今も主は生きて働かれているということに基づいています。私たちの救いの確信も「このイエス・キリストの十字架と復活が私のためであった」ということから来ています。信者の私たちは、その事実を繰り返し、繰り返し、心に刻み、感謝し、喜び、ときには涙するのです。「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」この単純な事実は、感謝と喜びの尽きない泉です。「この方以外に救いはない」とペテロが叫びます。神が救いの道を与えて私たちを救ってくださる以外に方法はないのです。人は自らを救うことができません。救いは神からの恵みのプレゼントであります。それに対して、人間の思想、哲学、人間の経験によって考え出したことには真の救いはありません。世界には様々な教えがあります。釈迦の教えも孔子の教えもあります。マホメットの教えもあるでしょう。論語、コーラン、毛沢東語録、など宗教や思想の書物があります。しかし、教えは人を救いません。すべての人が直面している罪と死とその次に来る滅びから、救うことはできません。イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に来ることはありません」と言われました。使徒たちは、イエス様以外に父なる神の元へ行く道はないとイエス様が言われたことを覚えておりました。また、イエス様は全く罪のないお方であり、旧約の預言通り、十字架で世の罪を取り除く神の子羊となられたことを見ていました。そして、神がキリストを復活されたという事実を目の当たりにしました。そのうえで、「この方以外に誰によっても救いはない」という確信に立つことができたのです。そして、私たちもその確信に立っています。

救いは恵みの賜物:

彼らは大胆で救いの確信に満ちており、自由でありました。そして、このみことばのように、彼らは学問のない普通の人でした。神は、人が自分の知恵によって神を見出すことができないように、この世の愚かな者、弱いものにご自身を現したとあります。人間が学問を積み上げても、神に近づくことはできません。人間は自分の力では救いに到達できません。救いは神の一方的なプレゼントです。人間の努力や才能も神を見出す助けにはなりません。いくら良い行いを積み上げてもそれで救いを得ることはできません。悪い行いをよい行いで帳消しにして、さらに良い行いを積んで天国へのパスポートを得ようという考えは全く根拠のない独りよがりの考えです。なぜなら、良い行いも悪い行いも、人間が点数をつけることはできないからです。人はうわべを見るが、神は心を見られます。神は人にどのような点数をつけるでしょうか。神は行いそのものより、その動機を見られます。行いは良さそうに見えてもその動機は悪いことがあります。最初の人アダムの堕落以来、人は罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。聖書はありのままの人をどのように見ているのでしょうか。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 聖書によると、すべての人は罪を犯しているというのです。その為に、神の目に義、すなわち正しい、とみなされない、と言うのです。 自分は正しいと思えても、それは、自分がそう思うのであって、神の基準からは大きくはずれています。罪は口臭のようです。自分では気づかないのです。聖霊は私たちの心の奥底まで光で照らしその罪を明るみに出させます。そして、その罪をキリストの血によって清めてくださるのです。それはひとえに、聖霊のわざです。聖霊に心を開く者が経験できる神のわざです。自分で罪を取り除くことはできません、自分ではわからないからです。ただ、聖霊があなたに臨むとき聖霊はあなたの罪を暴きます。そして、あなたが心を聖霊に開くとき聖霊はあなたの罪をキリストの十字架の血によって清めるのです。あなたが自らの罪を認めて、悔い改めるならば、あなたのすべての罪は赦されて、そればかりではなく、あなたはキリストの支配に移されて、神の子となる特権に浴するのです。すなわち、神の恵みにより神のいのちにつながり永遠のいのちを得るのです。これが、恵みの福音です。

イエスの御名の力

2018年06月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き3章1~16節
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

<要約>

御名の力は癒す力:

ペテロは彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。生まれつきの障害が癒されました。彼は、神を賛美しつつ二人について、神殿に入っていったのです。彼は信仰をもって神の恵みを受け取ったのです。生まれつき足の萎えた男が、鹿のように飛び跳ねたのです。御名の力は癒す力です。また、それは、復活の力であると言えます。それは、死んでいたものが生き返ったからです。この男は、生命としては生きていたでしょう。しかし、彼は真のいのちを持っていなかったと言えます。彼は、身体の癒しばかりでなく、魂も癒されたのです。聖書には、死んでいる状態について、三つの様態が書かれています。一つは普通の死です。生命活動の停止です。二つ目は、身体は生きていても神のいのちとつながっていない状態です。キリストを信じることなく、救われていない人々の状態です。三つめは、その第二の死の延長にある死です。永遠の死、永遠の滅びです。この男は二つ目の死である真のいのちを失っている状態でした。神のいのちにつながっていないことで失われている状態を指します。スペースシャトルの宇宙遊泳でシャトルといのち綱が切れている状態です。彼は神の目から失われていたのが、身体の癒しとともに、魂も癒されたのです。主イエスによる癒しは、肉体ばかりでなく、全人格的癒しであることです。神から離れている人々を真の神のいのちへつなげる力があるからです。肉体のいのちは朽ちます。しかし、神の癒しは完全で、魂が癒されて永遠のいのちにつなげていただくのです。それは、ひとえにキリストの御名を信じることによります。

御名の力は立ち上がる力:

彼は、歩き出したかと思ったら、今度は飛んだり跳ねたりしたのです。しまいには、神を賛美しながら踊り出したかもしれません。御名の力は、立ち上がる力、さらに前に進む力です。パウロは「わたしは、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と告白しています。主イエスを信じる者は、どんなことがあっても立ち上がり前進することができるというのです。彼の今までの人生は、その日の糧を得るその日暮らしでした。しかし、イエス様を信じて、癒され、立ち上がることができました。それは、人に運ばれる消極的な人生から自ら歩いて前に進む積極的な人生となったのです。また、彼は賛美をしながら、宮に入っていきました。障碍者は神殿に入ることができないという、ダビデの呪いから解放されました。これは、御名の力は、その人に喜びと感謝を与え、そして、あらゆる呪いから解放することを意味します。自分で自分を縛っていた呪縛からの解放です。迷信や愚かなしきたりからの解放です。立上がり前に進む力の原動力は、イエスの御名が与えるしぼむことのない希望です。神さまが私たちに用意されている希望はどのようでしょうか。彼は歩くことができるなど考えたことがなかったので、歩けるようになったのは、彼の思いを超えた希望でした。そのように神は私たちの思いを超えて最善をお与えくださるのです。障がいがあるかないかに係らず、行く先に希望を持つことをできない人生があります。これは、現代の多くの人が抱える問題なのです。この男のように、将来に希望を持てない、あるいは自分は孤独と感じている方々が多くあります。聖書は、大変分厚い書物です。しかし、この中に書いていることの中心は、「神はあなた愛している」と言うことです。そのような神が、あなたを愛し、あなたを失望と孤独から買い戻すために御子イエス・キリストを世にお与えくださいました。キリストはあなたのすべての負債である罪を背負って十字架で死んでくださいました。もし、あなたがその事を信じるなら、神はこの世で希望と喜びをお与えくださるばかりではなく、神は永遠を保障してくださっています。イエスの御名の力は、立ち上がる力です。立ち上がって、前に進む力です。その原動力はしぼむことのない希望です。決して、失望に終わることのない希望ともいえます。神があなたを愛し、あなたを大切に思っておられるからです。あなたは孤独ではありません。神がともにいてくださるからです。

御名の力は変える力:

御名の力は、信仰による力ともいえます。ペテロと対峙した時のこの男の心の動きを推し量ってみます。彼はいつものようにペテロとヨハネを見て、施しを求めました。ペテロとヨハネの足元に顔を伏せて、いつもの決まり文句で物乞いをしていたでしょう。ペテロとヨハネはともにその男を見つめました。「私たちを見なさい」、男は何かもらえると思い二人に目を注いだのです。「金銀は私にはない」「私にあるものをあげよう」と。ペテロから、「私にあるものを上げよう」というペテロのことばを聞いてペテロを注視します。ペテロのまなざしとその言葉からただならぬものを感じていたと想像します。「もし、私のようなものでもいただくことができるなら、いただきたい」と思ったと思います。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」これは、主イエスのみ名が、この男の心に信仰を芽生えさせたのです。これは、信じない者が信じるものへと変えられたことです。そして、信仰は受け止めることです。この男は、ペテロによって投げかけられたイエスの御名による力を信仰によって受け取ったのです。それは、彼が、心を向けて神を仰いだときに起きたことです。御名の力は変える力です。イエスの御名によって、彼の心は変えられました。今までは目に見える金銭や物品にしか興味がなかったのです。しかし、今は、目には見えないがいのちを与え、生きる力を与えてくださる方、真の神であるキリストを心の目で見たのです。人の心を変える力です。そして、私たちはこのイエスの御名の力を信じる者たちです。神様は、失望を希望に、死から命へ移してくださいました。肉体はいつか死を迎えますが、霊は、主キリストにあって永遠の命が与えられています。私たちは受けるに値しないものですが、恵みによってキリストのみ名の力とあらゆることに対する勝利を与えられているのです。

聖霊による新しい人生

2018年06月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章37~42節
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

キリストを十字架につけたのは誰?:

ペテロははっきり「神が、主ともキリストともされたこの救い主をあなた方が十字架につけたのだ」と言いました。この「あなたが」と言うのは、異邦人を含めて、世界中の人々に向けて語られています。その時、エルサレムに集っていた人々は、当時の世界であるローマ帝国内のあらゆる国々から来ていた人々です。そのことは、やがてこの福音があらゆる国民、あらゆる民族に届けられるようになることを予表しています。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられています。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いということを。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、私がイエス・キリストを十字架にかけたのだと、言えるのです。あなたがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ、あなたはイエス・キリストと何の関係もないのです。

痛悔は新しい人生の入り口:

ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。そして、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めました。罪を示されて悲しんだのです。人が悔い改めて神に心を向けることは奇跡です。それは聖霊のわざです。人間にはどうすることもできません。人の説得や取引で人の心を変えることはできません。自分の罪がわかり、心刺されて、イエス様の救いを信じることは人間には絶対できない事です。聖霊がみことばを用いて働かれるのです。ここでは、聖霊が使徒ペテロの口を用いて人々の心に働かれたのです。その日三千人が洗礼を受けて救われました。私の兄は去年1月にC型肝炎と肝がんで亡くなりました。わたしは、福音を語りました。彼は、「福音は分かった。でも今はまだ信じられない」と言っていました。2016年12月に入院してからは、盛岡から東京の病院に何度も見舞いに行きました。洗礼の道具をもっていったときもあります。最後まで、彼の口から信仰告白を聞くことはできませんでした。非常に残念でした。彼が救われて天国に招かれたかは不明です。もし私が、「兄は救われて天国に行きました。」と言ったらそれは異端になります。キリスト以外に救いはないからです。人の救いは、神に主権があり、人間にはどうすることもできないことです。しかし、神は人を用いて、救いのみわざをなそうとされています。もし、私が、兄が死にゆく病であることを知っており、やがてその時が近づいているのに、福音を一言も語らなければ、私には平安は来なかったでしょう。後悔するだけです。福音は伝えなければなりません。信徒の皆さんは、自分ではなかなか伝えられないと思っているかもしれません。しかし、教会に連れて来ればいいのです。福音が語られています。伝道会に誘いましょう。諦めていてはいけません。自分だけ救われて、家族知人を見過ごしていていいのでしょうか。聖書には、キリストに聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまると書いています。聖霊がみことばと共に働いくときに奇跡が起きます。人々は心刺されました。悔いて心を痛めることを痛悔と言います。痛悔があると悔い改めに導かれます。弟子たちを酒に酔っていると言ってバカにしていた人々も、弟子たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と謙遜にされて、罪を認めて悔い改めたのです。「悔い改め」、それは心を180度方向転換することです。自分の罪を認めイエス様を主であり救い主であると信じることです。そして、洗礼を受けるのです。その様に痛悔は新しいいのちの人生の入り口であります。聖霊に心を開くとき、聖霊はあなたの中に痛悔を起こし、悔い改めに導きます。素直になって、キリストの救いを受けることです。

聖霊をいただくと何が変わる?:

ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。信じる者に賜物として、聖霊が与えられます。聖霊が与えられると何が変わるのでしょうか。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。この曲がった時代から、この世から救ってくださるのです。世はキリストを否定し拒絶しています。それはサタンが支配している国だからです。ペテロの説教で主を受け入れた人は、世の支配から、神の支配に移ったのです。サタンの支配からキリストの支配へと移されます。これが、「この曲がった時代から救われなさい」と言うことの意味です。トップが代わるとすべてが代わります。それはこの国のトップによって、国民が幸せになったり、不幸になったりするのと同じです。サタンが支配している国にいる人間が幸せであるはずはありません。しかし、キリストの支配に移されたら、確実にあなたは幸せです。天の御国へ招かれています。天にあるあらゆる富と祝福はあなたのものとなるからです。キリストの支配に移されたなら、真の平安と希望が与えられます。なぜなら、あなたの罪はキリストの十字架によって赦されたからです。そして、聖霊はあなたが他の人の罪を赦すことができるようにしてくださいます。静岡県の斎藤諒兄の証です。彼は甲子園を目指すほどの野球少年でしたが、高校2年の時に車にはねられて、首の骨を折って、身体が完全に動かなくなりました。今は、鼻に人工呼吸器をつけて生きている状態です。今から10年前の出来事で、今は27歳です。当初、彼は、絶望し、加害者を憎み、生きる希望を失い、死にたいとも思いました。しかし、自分で死ぬこともできない状況でした。そんな彼を変えたのが、イエス・キリストとの出会いでした。彼が聖書から最初に学んだのは、悪霊の存在と、無条件の赦しでした。被害者になると「絶対に許さない、同じ目に合わせてやる」そんな思いでいっぱいになります。彼も、被害者を憎み、恨み、殺してやりたいと思っていました。しかし、今は、洗礼を受けて、聖霊をいただいたので、赦す力を得たのです。加害者を赦したことで、憎しみは消え、確かな平安が来ました。当初、27歳であった加害者、そしてその両親、さらに84歳になる加害者の祖父までもお見舞いと謝罪に来ました。しかし、彼も彼の家族も、玄関先で追い返したということです。加害者家族も苦しんでいたのです。加害者は心労で髪の毛を亡くしてしまいました。その父親は、加害者が保険に入っていなかったので、自分が死んで保険金を賠償金にしようと真剣に考えていたそうです。しかし、今は、手をとり赦し合うことができました。そして、彼の家族もみなイエス様を信じ、さらに加害者家族も今は、一緒に机を並べて聖書を学んでいるそうです。彼らは、赦すことと赦されることの祝福を受けて、今は、本当に前向きに人生を歩んでいるそうです。信じて洗礼を受けると聖霊が与えられます。悪霊の支配から解放されて、キリストの支配に移されます。赦しと和解の力を受けるのです。それこそ十字架の力です。聖霊は良い果実を実らします。人を変え人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。

イエスの宣教命令とは?

2018年06月 03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書28章16~20節28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

<要約>

すべてにまさる一切の権威:

イエス様が最初に彼らに言われたのは、「わたしは、天においても地においても一切の権威が与えられています」です。イエス様は、最もへりくだられてこの世に来られました。貧しいはしための子となって、ベツレヘムでお生まれになりました。ガリラヤの貧しい村ナザレでお育ちになりました。神が人間となって、しかも最も貧しいものとして、来てくださったのです。神であるのにご自分を無きに等しいものとして仕える姿で来られました。そして、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、膝をかがめて、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白するように神がなされたのです。そのことが、ピリピ2章に書かれています。また、エペソ1章にも、イエス・キリストには人知をはるかに越えた、測り知れない、一切の権威が与えられているということです。そして、そのお方が教会の頭であるというのです。山頂で天地の境を背にして立っておられる栄光の主は、天地一切を牛耳っておられるお方であることを示しています。権威という言葉を広辞苑で調べてみますと、「ある分野において、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること」とありました。イエス・キリストはすべての分野の権威を持っておられます。人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握るので、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。ですから、人が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それは、独裁政治につながるからです。そして、結果的に人々の自由は奪われるのです。すべてにまさる一切の権威を持っておられるイエス様は、愛とあわれみに富んでおられるかたです。その方が私たちの主です。ですから私たちは自由を奪われることはないのです。

あなたの罪を赦すための権威:

イエス様は、ご自身の権威を捨ててむしろ人を愛し救うために父なる神の権威に服する道を選ばれました。そして、苦難の道を歩まれました。十字架の死にまで、従いとおしたのです。そこで、父なる神はキリストを復活させて、一切の権威をお与えになりました。その権威をイエス様はどのようにお用いになっているでしょうか。イエス様は、すべてにまさる権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」マタイ9章では、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言われて、中部の人の罪をゆるし立たせてくださいました。イエス様はその権威をあなたの罪をゆるすために用いられるのです。罪は「死のとげ」。罪の報酬は死ですと書いています。そして、あなたの罪を訴えて、死の判決を引き出しているのがサタン、悪魔です。悪魔は罪を責めてあなたを捉えて、あなたから自由を奪い、自分の支配下にあなたをおきます。キリストはそこからあなたやわたしを救い出してくださいました。キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。赦すための権威は、人を通して聖霊によって、行使されています。その手段がバプテスマです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とある通りです。信じてバプテスマを受けるとすべての罪が赦されて、永遠のいのちが与えられます。もう一つの、キリストの権威の行使はバプテスマによって弟子を生むことです。その弟子は弟子を生んで、教会を建て挙げます。イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、神の子とされる特権を与えられる、とヨハネ1章にある通りです。バプテスマを受け、神の交わりに迎えられ、神の子どもとされる、これは特権でなくなんでしょうか。信仰のみで、その特権が与えられるのです。これほどのプレゼントはこの世界どこを探しもありません。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。それがイエス様の宣教命令です。それは、あらゆる国民がキリストの弟子となって、罪の赦しとともに神のいのちにつながることでもあります。そして、教会は、バプテスマによって神のいのちにつながり、イエス・キリストの教えを守っていく者たちの集まりです。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。

解放と自由を与える権威:

罪の赦しと救いの権威を持っておられる方は、イエス様以外にはありません。教会に来ると「罪、罪」と言われて、いやだという人がいます。罪がわからないと救いもわかりません。人は心にあることが出てくるのです。外に現れる悪い行いや犯罪と言われることは、心に源があります。マルコ7章には、人を汚す者は、内側から、すなわち人の心から出てくる、と書いています。それは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ、だと言っています。心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいません。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。すべての人は、死んだ後神の前に立たされます。そして、その罪により燃えるゲヘナに投げ込まれると書いています。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。なぜ、イエス・キリストでなければ人の罪の身代わりになれないのでしょうか。それは、罪のないもの以外にその人の罪の身代わりになることはできないからです。イエス・キリストは罪のない神の御子です。聖霊によって処女マリヤから生まれました。男女間で生まれる人間は、すべて罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。人の罪の身代わりとなることができるのは罪のない人でなければなりません、と言いました。それは、キリストが処女マリヤから生まれることにより、罪のない神が私たちと同じ体と心を持った人間になられました。この方は100%神で同時に100%人間です。イエス・キリストとその十字架の贖いを信じる者はすべて罪が赦されるのです。イエス・キリストの宣教命令とは、キリストの権威である罪の赦しと救いをあなたが隣人に伝えることです。

人生のガイドライン

2018年05月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇119篇105~112節
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
119:107 私はひどく悩んでいます。【主】よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

<要約>

みことばは人生のガイド:

「聖書のことばは、私の足元にある懐中電灯で、それは私がどこへ進んでいったらよいか、その道を照らし明らかにしてくれる。」と言うのです。人間が定めた法律は時代で変わります。しかし、聖書のみことばは変わることはありません。神が古今東西、全人類にお与えくださったものだからです。小教理に、聖書を正しく理解するための鍵は、律法と福音を区別することです、と書いています。聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神の要求にそぐわないあなたでも神はご自身の命を捨てるほどに愛しておられることです。聖書のことばに則って生きれば必ず、幸せになれます。素晴らしい祝福の人生を送ることができるのです。つまり聖書のことばは幸せな人生のガイドラインです。聖書を読むと聖書の中には、神の二つのお姿が表れます。一つは、「神は焼き尽くす火」と言われるように、厳しい怒りのお姿です。人の罪を決してゆるさない、罪に対しては必ず報酬を与える厳しい裁判官のようです。もう一つは、やさしい、やさしいお姿です。あなたをそして私を大切に思うお姿です。神の目にはあなたは高価で貴い、どんな罪もお赦しになる、やさしいお姿です。それはイエス様にみられるお姿です。あなたのために十字架にお掛りになることも厭わないお姿です。それは神の愛です。子どもを幸せに育てるためには、人間の親もやさしいばかりではいけません。子どものほしいものは何でも与えるような親であれば、子どもは不幸に育つでしょう。逆に厳しさばかりでは、子どもは委縮してしまうでしょう。人の親にも優しさと厳しさが必要です。神もそれと似ていますが、人間の親と神とを比べることはできません。神は義の神です。正義の神です。少しの罪も見逃すことはできません。必ず裁くと言います。また、同時に愛の神です。いざという時に、自分の子どもを見捨てるような人間の愛ではありません。神の愛は一点の曇りもない完全な愛です。私たちはそのことを正しく認識しなければなりません。聖書のみことばに生きれば必ず幸せになると言いましたが、何も戦いも試練もない平穏な人生があるとは言っていません。闇の世は依然として私たちを取り囲んでいるのです。この詩編の記者は実際には、悩み、苦しみ、そして、周りからの策略や攻撃があったようです。しかし、わなから守られて、迷わずに生きることができると告白しています。これは信じる者に対する神の守りと言えます。この記者は自分は、戒めから迷い出なかったと言っています。実際は、聖霊がみことばを用いて悪しき者からあなたを守ってくださるのです。それはキリストを信じる者に対する神の約束です。ヨハネ福音書には、「神は決してあなたを捨てて孤児にしません」と書いています。詩篇には、「あなたを狩人のわなから疫病から救い出してくださる」と書いています。神の国の民、すなわち信者は聖霊とみことばによって守られていると言えます。また、神は人を救おうと神の国を拡大なさっています。ご自身の国の民であるあなたを用いて救いを全世界に届けようとしておられます。あなたにはその使命があることを認識しましょう。

みことばは永遠のプレゼント:

記者は、「あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました」と言います。永遠のゆずりと言うのは、神からの永遠のプレゼントと言えます。神の無償のプレゼントは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠のいのちです。神のあわれみにより与えられた永遠のいのち、それは永遠の祝福に生きる人生です。私たちはこの世のいのちばかり意識しているかもしれませんが、神から与えられたいのちは永遠です。この世のいのちであれば80年でしょう。この世のいのちしかないと思っている人は、80年90年を視野に人生設計をします。でも、永遠のいのちを持っているクリスチャンは、永遠をベースとして人生設計をします。そして、永遠を視野において今を生きるのです。ユダヤ人哲学者のマルチンブーバーは言いました。「人は新しいことに挑戦している限り老いることはない。」すなわち、挑戦する人の霊は年を取ることはない、と言うことです。また、もし信仰のチャレンジを続けるなら、信仰は年齢とともに強まることはあっても老いることはありません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と聖書にある通りです。私たちの身体は日々衰えてきます。しかし、霊はますます成長していくのです。私は、2010年に牧師の召しはなかったのですが、聖書を学びたいと思いました。それは60歳からの挑戦でした。2010年3月、JTJ宣教神学校の神学部牧師志願科に入学できました。JTJには、牧師としての召命がなくても、その願いがあれば学ぶことができる牧師志願科というコースがあります。学びを続けているうちにいろいろなチャレンジを受けましたが、みことばが与えられました。献身者の召しをいただきました。2015年5月に牧師按手を受けました。昨年、百歳を超えて活躍し天に召された聖路加病院の日野原先生は「生涯現役」という言葉を残されました。私も、このことば「生涯現役」で行こうと思っています。神がストップをおかけになるまで信仰のチャレンジをしていくつもりです。クリスチャンライフは結果オーライの人生、と言えます。この世の歩においては、依然やみが覆っていても、その道は神の栄光を拝する道です。ゴールが定まっています。あなたがこの恵みにとどまり続けるなら、栄光のゴールが待っています。それは、勝利のゴールです。イエス・キリストがあらかじめ勝利してくださったからです。永遠の祝福に与れることが約束されています。そうであれば、永遠を視野に人生設計をしましょう。

みことばは永遠の心の喜び:

「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」と言っています。みことばに生きる人生、すなわち、聖書を指針として、人生を設計して、生きる人生には、いつまでも続く心の喜びがあるというのです。決してしぼまない心の喜びです。それは魂の根底にある喜びと言えます。喜びあるいは喜ぶという言葉は、全聖書の中で655か所にあります。喜びはクリスチャンの特徴と言えます。Ⅰテサロニケ5:16~18には、次のことばがあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」これは、クリスチャンは喜びの源泉を持っているから、いつも喜ぶことができるからです。決して奪い去られることのない、決して揺るがない喜びの源は何でしょうか。それは、神からの永遠のプレゼントである永遠のいのちがあるということ、そして罪赦されて心の傷が癒されている状態であることです。私は、いつも喜んでいられるのは心に傷のない状態であると思います。心の痛みがあっては喜ぶことはできません。かつて、小学生の娘さんがいじめによって自殺してしまった、その母親がその子の手記に「心も血を流すの」と書いてあったと言いました。身体の傷と同じように心の傷からも血が流れるというのです。ある人のことばで、心に傷を受けて、それが癒されるのに数年間かかった、と言っていました。傷が癒されて、心の喜びがわいてくるのです。心の傷はどうしたら癒されるのでしょうか。イザヤ書には、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書いています。それは言うまでもなく、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で血を流されました。その傷によって、あなたの傷が癒された、と宣言しているのです。神はあなたを傷のない非難されることのないものとしてくださいます。キリストは真の癒し主です。もし、あなたに心の傷があるならばキリストに行きましょう。そして、喜びで満ちる人生を歩んでいただきたいと願います。