2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>
行いによっては救われない:
ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。
恵みによって救われる:
ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。
備えられた神との関係回復の道:
ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。