みことばは必ず成る

2018年07月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き12章1~17節
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

<要約>

最悪の中に神のご計画がある:

国家の最高権力者によって、初代教会は最も重要な人物が捕えられて、殺されようとしています。エルサレムの教会は窮地に立たされていました。ペテロは牢の中で、決して逃げられない。絶体絶命、教会にとってもなすすべがない状態でした。イエス様の直弟子であり、教会のリーダーの一人ヤコブが殺されました。さらに、イエス様が、「あなたの上に私の教会を建てる」と言われたペテロが明日殺されようとしているのです。最悪の状況の中で、教会は祈りました。そこに神のご計画があらわされました。ペテロが救出されたのは、絶対起こりえないことが起こったということです。ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ていたというのです。翌朝殺されようとする前の晩のことです。すると突然、主の使いが現れ、光が牢屋を照らしました。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から落ちたのです。立ち上がった。そうしたら鎖が落ちたのです。神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出したのです。出口のないトンネルはない、開けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。日本では、ここ毎年のように、豪雨の被害を受けています。今年は西日本で、広範囲にわたり大雨による被害があり、大勢の人々が命を失いました。豪雨の災害は日本中、どこででも起こりうるそうです。災害にあった人、災害に会わなかった人、そこには何の違いもありません。今日の聖書のはなしを見ても、ペテロは救出されたのにヤコブは殺された、ということです。どうしてそのように片一方は救出されもう片一方は救出されることなく死んでしまったのでしょうか。しかし、その答えはありません。この世はそのような疑問で満ちています。しかし、神はすべてを知っておられるということです。人間は神のなさることを完全には理解できません。もし、人間の思考や理性の中に神様をすっぽりと入れることができるならばそれは神ではありません。それは、人間が考え出した神と言うことでしょう。それは真の神ではありません。はっきりしていることは、神は愛の方であるということです。神はご自身の独り子のいのちを与えてもよいと思われるくらい、人間を愛しておられるということです。キリストの十字架を見るとそれがわかります。十字架が語っているのは、私たち一人一人に対する神の愛です。言葉で言い尽くすことのできない愛です。十字架のメッセージは全世界の真の教会で毎週のように語られております。二千年間も語ってきたのに、語り尽くせないのです。私たちは、近視眼で、目先の事しか見えません。しかし、長いスパンで見ると、神の最善がなされています。聖書の預言は必ず成就しています。それは歴史が証明しています。もし、あなたが、今、試練や困難の中にいるのでしたら、あなたにいのちを与えて、あなたを愛しておられる神を信頼して見て下さい。必ず、神の最善が明らかにされる時が来ます。

祈りは状況を変える:

ペテロが捕えられて殺されることになったとき、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けたと書かれています。窮地に陥れられたときすべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。彼らは、徹夜の祈り会をしていました。リーダーのペテロもヤコブを取りされる。これから教会はどうなるのだろうか。不安でいっぱいでした。しかし、最終的には、「みこころがなりますように」と祈ったでしょう。私たちも困難に会ったとき、御心が最善であると信じ「御心がなりますように」と祈りましょう。彼らは、ペテロが救出されるとは思っていなかったことがわかります。予期していない神のみわざに彼らは驚き、さらに神を恐れたのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできるのです。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は救われるはずがない人が救われたということではないでしょうか。祈りは状況を変えます。たとえ、願ったように外的状況は開けなくても、祈るものの内的状況、心の状況は変わります。祈ることによって、神は全能であることを思い起こします。祈ることによって、神は愛の方であることを思い起こします。祈ることによって、神が最善をなしてくださることを確信するからです。ですから、皆さん、いつも祈りましょう。

神のみことば止められない:

ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神の言葉を止める事はできませんでした。悪魔はキリスト教を撲滅させようとしました。歴史を通して働いています。紀元303年ローマ皇帝ディオクリティアヌスは世界中の聖書を集めて焼き払いました。ローマ帝国内に1冊も聖書がないと言う状態までしました。しかし、その約10年後にはキリスト教はローマ帝国の国教となったのです。近世になっても、聖書撲滅を試みた人々がいます。しかし、聖書は消失することはありません。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。その証をします。2014年2月に、クリスチャンの友人夫妻の次男が20歳の若さで突然亡くなりました。大学時代、教会で一緒の兄姉です。なぜ、どうしてそんなに若くして亡くなったのか、答えは出ないのです。4年半もなりますが、現在も、痛みと悲しみがあります。しかし、朝晩、夫婦で神の御前に出て、聖書を読み、祈っていると聞きました。神と交わる時間を持っています。それにより、神と親しい交わりの中に入れられています。今は次男の死の意味がわからない。しかし、いつかあるいは御国で知ることができるのです。みことばは止められることなく、彼らのうちに流れ続けています。永遠の希望に生きているのです。もう一つは、ハレルヤ保育園の園児の教育に係る証です。今から約20年前のことです。順兄が岡山の倉敷市にある川崎医科大学に入学した年のことです。5月の連休に関西方面へ家族旅行をしました。彼は最初のころ、西大寺キリスト教会に通っておりました。私たちは旅行中の主日に、そこで礼拝を守りました。その時教会の隣に大きな建物があり、そこには教会の幼稚園がありましたので、見学させてもらいました。そこで初めて、モンテッソーリ教育に出会ったのです。盛岡に帰って、その教育法について学び、これだと思いました。そして、ハレルヤ保育園にモンテッソーリ教育を導入することをきめたのです。私たちは西大寺キリスト教会の隣に教会の三倍くらい大きな立派な幼稚園を見た時は、なんでこんな大きな立派な建物があるのだろうかと思いました。その後で、耳にした話ですが、その時を遡る数年前に教会は大変な試練にあったのです。窮地に立たされたのです。教会のキャンプで連れて行った中学生が海に溺れて死亡したのです。教会全体が冷え込み、牧師は責任をとって辞任したのです。その後、新しい牧師が使わされてきました。祈りの中で、その牧師に与えられたことは、溺死した子どものことを覚えて、子どもに宣教していくというビジョンでした。そして、その大きな建物が与えられました。そこで、モンテッソーリ教育に取り組んだのです。苦しみを通して与えられた宣教のみ言葉は止まることがありません。そして、宣教のみことばはハレルヤ保育園にも流れています。そしてこのチャペルに流れているのです。最後に、イザヤ書のみことばを読んで終わります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」