2018年05月 06日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>マタイの福音書18章1~10節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
<要約>
天のみ国に入る資格:
すべての人は天の御国に招かれています。入ろうと真剣に望むのなら入れない人は誰もいません。世の中で、偉くなくても一番にならなくても、天の御国へは入れます。しかし、入るためには資格が要ります。天の御国へ入れるかどうかは、神との関係にあります。すなわち、神と正しい関係にある人が天の御国には入れるのです。そこにおいては世の中の基準は関係ありません。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とイエス様は言われました。すなわち、罪を離れて神に心を向けなければ天の御国へは入れないというのです。これは、神との関係を正すことを指しています。生まれながらのすべての人と神との関係は、罪によって壊れております。そのために神からの栄誉を受けることができないと言うのです。世の中でいくら懸命に功績を積み上げても、残念ながらそれらは、神の国に入るための条件にはならないのです。条件は「悔い改めて神を仰ぐこと、すなわち思いを変えて神を信じること」です。あなたが、神に喜ばれ、天の御国に招かれ、そこに入ることができるためには、この世の中での功績や努力は要らないのです。ただ、心低くして、素直に、罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるだけでよいのです。キリストのゆえに、神はあなたの罪をすべて赦し、あなたを義としてくださり、天からの栄誉を与えてくださいます。御国へは罪赦されている者のみが入ることができるのです。つまり、イエス・キリストがあなたの身代わりとなってあなたの罪を十字架で贖ったことを認め信じることです。
御国で偉い人は仕える人:
自分を低くするもの、自分を低く見ている謙遜な者が天国では一番偉いと言っています。子どもたちはどのような点で、心低くへりくだっているのでしょうか。子どもは生まれつき自然と謙遜です。自分にできない事を知っています。ですから、親に自分をゆだねています。小さな子供を見ていると、親を信頼して自分の身を任せきっています。親に委ねています。幼き子が親を信頼して身を寄せている姿勢こそ、私たちの父なる神へのあるべき姿勢です。この世では、偉い人は先に立って人に仕えられる人です。天の御国で偉い人は、その逆で、しんがりとなって人々に仕える人です。「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とおっしゃいました。子どもたちにはイエス様の愛が注下れています。子どもは幼いながらもイエス様を信じています。その幼子を受け入れる者はイエス様を受け入れるのです。なぜなら幼子の中にイエス様は宿っておられるからです。幼子を受け入れるということは、幼子のお世話をする、お仕えすることです。すなわち、小さいものを受け入れるというのは、小さいものに仕えるという意味です。イエス様は先に立ちたいと思う人は、皆に仕える者となりなさい、と言われました。天国で神に褒められたい人、すなわち天国で偉い人と言われたい人は、皆に仕えなさいというのです。最も小さいものに仕えることなのです。教会はそのようにして兄弟姉妹を受け入れお互いに仕えあっていくところです。
御国で偉い人は兄弟をつまずかせない人:
「つまずき」は「受け入れる事」と反対の意味です。つまずきは、このような小さなものを迫害することであり、信仰を失わせることです。つまずきを与えるこの世はわざわいだとあります。世は神の子救い主であるキリストを十字架で殺してしましました。それは、世が与えた最大のつまずきと言えます。それ以来、この世は、クリスチャンにとってつまずきとなります。この後、迫害の時代になり、多くの聖徒は拷問や処刑による迫害を受けました。多くの人々は信仰のゆえに苦しみを受けています。しかし、ここで言うつまずきの対象者は、子どもも含めて、信仰の弱い小さな者たちと言えます。つまずきは避けられないとありますが、つまずきをもたらすものはわざわいであるとあります。イエス様は、つまずきとなるようなら、手足を切り捨てよ、目を抉り出せ、と強い言葉で警告しています。この世はサタンの支配下にあります。悪魔は、巧妙に働き、人々を罪に誘います。この小さい者たちは、子どもばかりではなく、信仰の若いもの、信仰の弱いもの、貧しく無力な者、罪を犯した者、失敗したもの、も含まれます。そして、そういう小さいものに一人でも見下げたりしないよう気をつけなさい、と言うのです。その理由として、小さい者たちにも父なる神は天使を遣わし、仕えさせているからです。それは、天の父はいとも小さきものをも大切な存在、高価で貴い存在として仕える天使を送っておられるからです。そして、天使はいつも神を見ていると言います。小さいものを助け支えるために、神から指示を仰いでいるのです。父なる神は小さき者たちに御顔を照らして、彼らを恵んでいてくださるからです。また、祝福してくださっているからです。神はその小さきものを愛しておられるからです。そして、ご自身のいのちをお捨てになったのだから、そして天使を遣わして仕え守られているのだからです。私たちは高慢になって見下したりしないようにしましょうというのです。御国で偉い人は、兄弟をつまずかせない人であると言いました。小さな弱い者たちをつまずかせないというのは、キリストの思いを思いとしている人のことです。人がどう思うかより、キリストがどうお思いになるかを大切にする人です。神のみ思いは「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すことがなく」です。神はあなたを大切に思っておられます。あなたが失敗したり、罪に落ちたりしても、あなたへの愛は変わりません。悔い改めて神に立ち返るなら、放蕩息子の帰りを、両手を広げて走り寄って迎えてくださる父のように、あなたを喜んで迎えてくださるのです。