2017年3月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節
2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
<要約>
怒られるイエス様:
イエス様は弟子たちを連れて、神殿にはいられました。エルサレム神殿では、巡礼者に便利なように、捧げものを売るところがありました。礼拝者は必ず、捧げものをもって神の前に出なければならなかったようです。また、その動物は傷や欠陥があってはいけないところから、商売人はレビ人や祭司などの宗教指導者と結託して、捧げものになる動物に厳しい基準を作って、高値を付けて、金もうけをしていました。また、外国の通貨は神殿に納めるためにはユダヤの貨幣に両替しなければなりませんでした。それらのゆえに、神殿は莫大な収入を得ていたようです。神が当時の宗教指導者やユダヤ人にお求めになっていることから大きく離れていました。祈りの家と呼ばれる神殿が、強盗の巣となっていたのです。神は「いけにえを捧げる前に心を捧げて従っていくことを求めておられます。すなわち砕かれた悔いた心」を求めておられます。私たちは毎週の礼拝で、この砕かれた悔いた心をもって見前に出ているでしょうか。もう一度、心を探っていただきましょう。イエス様は、細縄で鞭を作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちを追い出した、と書いています。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの偽善に対しては、その反発をものともせずにはっきりとその悪を指摘しました。「わざわいだ、律法学者、パリサイ人」と何度も言われました。結果的にそのイエス様の言動への反発のために、十字架につけられたのです。当時のユダヤ人は律法の表面的なことを守って、自分の義を立て高慢になっていました。イエス様は、隣人を自分と同様に愛しなさいと言われました。彼らにとって隣人とは、仲間のユダヤ人たちを指しました。しかし、イエス様は隣人とは、彼らが口を利くこともはばかっていた敵のサマリヤ人であると教えました。人を殺してはならない、と言われるが、殺人は心から発していると教えられました。すなわち、もし、私たちが正しく律法と向き合うならば、律法によっては自らを誇ることにはなりません。むしろ律法を全うできない自分に気付くことです。そして、罪を認めてへりくだって神を見上げ、信仰によって赦しを求め、神に近づくのです。イエス様は当時のパリサイ人や律法学者の律法解釈を批判しました。ですから、彼らから反発されたのです。イエス様は律法と人間の関係を正しました。律法は人々を神から離れさせるためのものではありません。律法により私たちは神を見上げ、信仰によって神に近づくのです。パウロはガラテヤ書で律法は養育係であると言いました。すなわち、律法は私たちをキリストに連れて行くのです。イエス様は、堕落したユダヤ人の宗教指導者たちに怒りをぶつけました。彼らが、神のみ心に反した律法の行使により民を苦しめて、自分たちの権力の座にあぐらをかいていたからです。
十字架と復活の予告:
「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と、しるしを求めます。ユダヤ人指導者は、神殿を粛清するイエス様の態度を見て、怒りました。そして、何の権威によってこのようなことをするのか示せ、ということです。また、その権威があるならば、そのしるしを見せろ、と問いただしました。不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰な者にはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と言われました。この時は聞いていた者たちは誰も、その意味を解せなかったのです。が、弟子たちは、後で、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。それまでは、人々は神殿に来て、神と会見できました。傷のない動物を携えてきた人は、祭司がその動物の血を流し、神にとりなすことによりその人は神と会見できたのです。今は、イエス・キリストを通してどこにいても神とお会いすることができます。イエス・キリストが永遠の大祭司となり、神に来る者をご自身の血をもって神にとりなしてくださるのです。「神殿をこわしてみなさい、わたしは三日でそれを建てよう。」の「建てよう」は、原語では「よみがえる、復活」と同じ言葉です。すなわち、これは、「わたしを殺してみなさい、私は三日目によみがえるでしょう」ということを予言したのです。すなわち、十字架と復活のことを暗示されたのです。イエス様は宣教の始めから、ご自身がこの世に来られた目的をよく知っておられました。ユダヤ人たちの反発により十字架で殺されました。しかし、神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。
人を知って人のために:
このエルサレムで多くの人々が癒され、悪霊から解放されて、奇跡を見て、イエス様を信じたとあります。しかし、イエス様はご自分を彼らにお任せにならなかったのです。これは、イエス様は全能の神ですから、すべての人の心にあるものを知っておられたということです。主は十字架と復活の道筋を心に決めておられました。イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。人を知って、人のためにご自身を人の罪の贖いの代価として提供なさったのです。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。他人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。当時のユダヤ人指導者ばかりでなく、人の心は悪に傾きやすいのです。さらに、千五百年降って、中性の暗黒時代、教会は免罪符など発行して、金で罪の赦しを売ることをしました。それで莫大な富を得たようです。聖ペテロ寺院など歴史に残る大聖堂はその収益でできたと聞いています。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。森友学園の事件、毒物を使った殺人事件、高校生の殺人事件、これらの原因は人間の内側にある罪の性質から発しています。それは、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。神は人の深い闇、そして悪に傾く腐敗した心、それを救いきよめるために来られたのです。何の見返りも期待せずに、イエス様は、私たちの罪を担い代わりに裁かれ、反対に私たちは天にある神の子の特権をいただきました。これを喜びの交換と言います。神が私たちに備えてくださったものがいかに素晴らしいことであるかを覚えたいと思います。