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イエスの御名の力

2018年06月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き3章1~16節
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

<要約>

御名の力は癒す力:

ペテロは彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。生まれつきの障害が癒されました。彼は、神を賛美しつつ二人について、神殿に入っていったのです。彼は信仰をもって神の恵みを受け取ったのです。生まれつき足の萎えた男が、鹿のように飛び跳ねたのです。御名の力は癒す力です。また、それは、復活の力であると言えます。それは、死んでいたものが生き返ったからです。この男は、生命としては生きていたでしょう。しかし、彼は真のいのちを持っていなかったと言えます。彼は、身体の癒しばかりでなく、魂も癒されたのです。聖書には、死んでいる状態について、三つの様態が書かれています。一つは普通の死です。生命活動の停止です。二つ目は、身体は生きていても神のいのちとつながっていない状態です。キリストを信じることなく、救われていない人々の状態です。三つめは、その第二の死の延長にある死です。永遠の死、永遠の滅びです。この男は二つ目の死である真のいのちを失っている状態でした。神のいのちにつながっていないことで失われている状態を指します。スペースシャトルの宇宙遊泳でシャトルといのち綱が切れている状態です。彼は神の目から失われていたのが、身体の癒しとともに、魂も癒されたのです。主イエスによる癒しは、肉体ばかりでなく、全人格的癒しであることです。神から離れている人々を真の神のいのちへつなげる力があるからです。肉体のいのちは朽ちます。しかし、神の癒しは完全で、魂が癒されて永遠のいのちにつなげていただくのです。それは、ひとえにキリストの御名を信じることによります。

御名の力は立ち上がる力:

彼は、歩き出したかと思ったら、今度は飛んだり跳ねたりしたのです。しまいには、神を賛美しながら踊り出したかもしれません。御名の力は、立ち上がる力、さらに前に進む力です。パウロは「わたしは、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と告白しています。主イエスを信じる者は、どんなことがあっても立ち上がり前進することができるというのです。彼の今までの人生は、その日の糧を得るその日暮らしでした。しかし、イエス様を信じて、癒され、立ち上がることができました。それは、人に運ばれる消極的な人生から自ら歩いて前に進む積極的な人生となったのです。また、彼は賛美をしながら、宮に入っていきました。障碍者は神殿に入ることができないという、ダビデの呪いから解放されました。これは、御名の力は、その人に喜びと感謝を与え、そして、あらゆる呪いから解放することを意味します。自分で自分を縛っていた呪縛からの解放です。迷信や愚かなしきたりからの解放です。立上がり前に進む力の原動力は、イエスの御名が与えるしぼむことのない希望です。神さまが私たちに用意されている希望はどのようでしょうか。彼は歩くことができるなど考えたことがなかったので、歩けるようになったのは、彼の思いを超えた希望でした。そのように神は私たちの思いを超えて最善をお与えくださるのです。障がいがあるかないかに係らず、行く先に希望を持つことをできない人生があります。これは、現代の多くの人が抱える問題なのです。この男のように、将来に希望を持てない、あるいは自分は孤独と感じている方々が多くあります。聖書は、大変分厚い書物です。しかし、この中に書いていることの中心は、「神はあなた愛している」と言うことです。そのような神が、あなたを愛し、あなたを失望と孤独から買い戻すために御子イエス・キリストを世にお与えくださいました。キリストはあなたのすべての負債である罪を背負って十字架で死んでくださいました。もし、あなたがその事を信じるなら、神はこの世で希望と喜びをお与えくださるばかりではなく、神は永遠を保障してくださっています。イエスの御名の力は、立ち上がる力です。立ち上がって、前に進む力です。その原動力はしぼむことのない希望です。決して、失望に終わることのない希望ともいえます。神があなたを愛し、あなたを大切に思っておられるからです。あなたは孤独ではありません。神がともにいてくださるからです。

御名の力は変える力:

御名の力は、信仰による力ともいえます。ペテロと対峙した時のこの男の心の動きを推し量ってみます。彼はいつものようにペテロとヨハネを見て、施しを求めました。ペテロとヨハネの足元に顔を伏せて、いつもの決まり文句で物乞いをしていたでしょう。ペテロとヨハネはともにその男を見つめました。「私たちを見なさい」、男は何かもらえると思い二人に目を注いだのです。「金銀は私にはない」「私にあるものをあげよう」と。ペテロから、「私にあるものを上げよう」というペテロのことばを聞いてペテロを注視します。ペテロのまなざしとその言葉からただならぬものを感じていたと想像します。「もし、私のようなものでもいただくことができるなら、いただきたい」と思ったと思います。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」これは、主イエスのみ名が、この男の心に信仰を芽生えさせたのです。これは、信じない者が信じるものへと変えられたことです。そして、信仰は受け止めることです。この男は、ペテロによって投げかけられたイエスの御名による力を信仰によって受け取ったのです。それは、彼が、心を向けて神を仰いだときに起きたことです。御名の力は変える力です。イエスの御名によって、彼の心は変えられました。今までは目に見える金銭や物品にしか興味がなかったのです。しかし、今は、目には見えないがいのちを与え、生きる力を与えてくださる方、真の神であるキリストを心の目で見たのです。人の心を変える力です。そして、私たちはこのイエスの御名の力を信じる者たちです。神様は、失望を希望に、死から命へ移してくださいました。肉体はいつか死を迎えますが、霊は、主キリストにあって永遠の命が与えられています。私たちは受けるに値しないものですが、恵みによってキリストのみ名の力とあらゆることに対する勝利を与えられているのです。

聖霊による新しい人生

2018年06月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章37~42節
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

キリストを十字架につけたのは誰?:

ペテロははっきり「神が、主ともキリストともされたこの救い主をあなた方が十字架につけたのだ」と言いました。この「あなたが」と言うのは、異邦人を含めて、世界中の人々に向けて語られています。その時、エルサレムに集っていた人々は、当時の世界であるローマ帝国内のあらゆる国々から来ていた人々です。そのことは、やがてこの福音があらゆる国民、あらゆる民族に届けられるようになることを予表しています。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられています。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いということを。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、私がイエス・キリストを十字架にかけたのだと、言えるのです。あなたがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ、あなたはイエス・キリストと何の関係もないのです。

痛悔は新しい人生の入り口:

ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。そして、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めました。罪を示されて悲しんだのです。人が悔い改めて神に心を向けることは奇跡です。それは聖霊のわざです。人間にはどうすることもできません。人の説得や取引で人の心を変えることはできません。自分の罪がわかり、心刺されて、イエス様の救いを信じることは人間には絶対できない事です。聖霊がみことばを用いて働かれるのです。ここでは、聖霊が使徒ペテロの口を用いて人々の心に働かれたのです。その日三千人が洗礼を受けて救われました。私の兄は去年1月にC型肝炎と肝がんで亡くなりました。わたしは、福音を語りました。彼は、「福音は分かった。でも今はまだ信じられない」と言っていました。2016年12月に入院してからは、盛岡から東京の病院に何度も見舞いに行きました。洗礼の道具をもっていったときもあります。最後まで、彼の口から信仰告白を聞くことはできませんでした。非常に残念でした。彼が救われて天国に招かれたかは不明です。もし私が、「兄は救われて天国に行きました。」と言ったらそれは異端になります。キリスト以外に救いはないからです。人の救いは、神に主権があり、人間にはどうすることもできないことです。しかし、神は人を用いて、救いのみわざをなそうとされています。もし、私が、兄が死にゆく病であることを知っており、やがてその時が近づいているのに、福音を一言も語らなければ、私には平安は来なかったでしょう。後悔するだけです。福音は伝えなければなりません。信徒の皆さんは、自分ではなかなか伝えられないと思っているかもしれません。しかし、教会に連れて来ればいいのです。福音が語られています。伝道会に誘いましょう。諦めていてはいけません。自分だけ救われて、家族知人を見過ごしていていいのでしょうか。聖書には、キリストに聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまると書いています。聖霊がみことばと共に働いくときに奇跡が起きます。人々は心刺されました。悔いて心を痛めることを痛悔と言います。痛悔があると悔い改めに導かれます。弟子たちを酒に酔っていると言ってバカにしていた人々も、弟子たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と謙遜にされて、罪を認めて悔い改めたのです。「悔い改め」、それは心を180度方向転換することです。自分の罪を認めイエス様を主であり救い主であると信じることです。そして、洗礼を受けるのです。その様に痛悔は新しいいのちの人生の入り口であります。聖霊に心を開くとき、聖霊はあなたの中に痛悔を起こし、悔い改めに導きます。素直になって、キリストの救いを受けることです。

聖霊をいただくと何が変わる?:

ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。信じる者に賜物として、聖霊が与えられます。聖霊が与えられると何が変わるのでしょうか。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。この曲がった時代から、この世から救ってくださるのです。世はキリストを否定し拒絶しています。それはサタンが支配している国だからです。ペテロの説教で主を受け入れた人は、世の支配から、神の支配に移ったのです。サタンの支配からキリストの支配へと移されます。これが、「この曲がった時代から救われなさい」と言うことの意味です。トップが代わるとすべてが代わります。それはこの国のトップによって、国民が幸せになったり、不幸になったりするのと同じです。サタンが支配している国にいる人間が幸せであるはずはありません。しかし、キリストの支配に移されたら、確実にあなたは幸せです。天の御国へ招かれています。天にあるあらゆる富と祝福はあなたのものとなるからです。キリストの支配に移されたなら、真の平安と希望が与えられます。なぜなら、あなたの罪はキリストの十字架によって赦されたからです。そして、聖霊はあなたが他の人の罪を赦すことができるようにしてくださいます。静岡県の斎藤諒兄の証です。彼は甲子園を目指すほどの野球少年でしたが、高校2年の時に車にはねられて、首の骨を折って、身体が完全に動かなくなりました。今は、鼻に人工呼吸器をつけて生きている状態です。今から10年前の出来事で、今は27歳です。当初、彼は、絶望し、加害者を憎み、生きる希望を失い、死にたいとも思いました。しかし、自分で死ぬこともできない状況でした。そんな彼を変えたのが、イエス・キリストとの出会いでした。彼が聖書から最初に学んだのは、悪霊の存在と、無条件の赦しでした。被害者になると「絶対に許さない、同じ目に合わせてやる」そんな思いでいっぱいになります。彼も、被害者を憎み、恨み、殺してやりたいと思っていました。しかし、今は、洗礼を受けて、聖霊をいただいたので、赦す力を得たのです。加害者を赦したことで、憎しみは消え、確かな平安が来ました。当初、27歳であった加害者、そしてその両親、さらに84歳になる加害者の祖父までもお見舞いと謝罪に来ました。しかし、彼も彼の家族も、玄関先で追い返したということです。加害者家族も苦しんでいたのです。加害者は心労で髪の毛を亡くしてしまいました。その父親は、加害者が保険に入っていなかったので、自分が死んで保険金を賠償金にしようと真剣に考えていたそうです。しかし、今は、手をとり赦し合うことができました。そして、彼の家族もみなイエス様を信じ、さらに加害者家族も今は、一緒に机を並べて聖書を学んでいるそうです。彼らは、赦すことと赦されることの祝福を受けて、今は、本当に前向きに人生を歩んでいるそうです。信じて洗礼を受けると聖霊が与えられます。悪霊の支配から解放されて、キリストの支配に移されます。赦しと和解の力を受けるのです。それこそ十字架の力です。聖霊は良い果実を実らします。人を変え人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。

イエスの宣教命令とは?

2018年06月 03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書28章16~20節28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

<要約>

すべてにまさる一切の権威:

イエス様が最初に彼らに言われたのは、「わたしは、天においても地においても一切の権威が与えられています」です。イエス様は、最もへりくだられてこの世に来られました。貧しいはしための子となって、ベツレヘムでお生まれになりました。ガリラヤの貧しい村ナザレでお育ちになりました。神が人間となって、しかも最も貧しいものとして、来てくださったのです。神であるのにご自分を無きに等しいものとして仕える姿で来られました。そして、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、膝をかがめて、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白するように神がなされたのです。そのことが、ピリピ2章に書かれています。また、エペソ1章にも、イエス・キリストには人知をはるかに越えた、測り知れない、一切の権威が与えられているということです。そして、そのお方が教会の頭であるというのです。山頂で天地の境を背にして立っておられる栄光の主は、天地一切を牛耳っておられるお方であることを示しています。権威という言葉を広辞苑で調べてみますと、「ある分野において、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること」とありました。イエス・キリストはすべての分野の権威を持っておられます。人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握るので、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。ですから、人が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それは、独裁政治につながるからです。そして、結果的に人々の自由は奪われるのです。すべてにまさる一切の権威を持っておられるイエス様は、愛とあわれみに富んでおられるかたです。その方が私たちの主です。ですから私たちは自由を奪われることはないのです。

あなたの罪を赦すための権威:

イエス様は、ご自身の権威を捨ててむしろ人を愛し救うために父なる神の権威に服する道を選ばれました。そして、苦難の道を歩まれました。十字架の死にまで、従いとおしたのです。そこで、父なる神はキリストを復活させて、一切の権威をお与えになりました。その権威をイエス様はどのようにお用いになっているでしょうか。イエス様は、すべてにまさる権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」マタイ9章では、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言われて、中部の人の罪をゆるし立たせてくださいました。イエス様はその権威をあなたの罪をゆるすために用いられるのです。罪は「死のとげ」。罪の報酬は死ですと書いています。そして、あなたの罪を訴えて、死の判決を引き出しているのがサタン、悪魔です。悪魔は罪を責めてあなたを捉えて、あなたから自由を奪い、自分の支配下にあなたをおきます。キリストはそこからあなたやわたしを救い出してくださいました。キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。赦すための権威は、人を通して聖霊によって、行使されています。その手段がバプテスマです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とある通りです。信じてバプテスマを受けるとすべての罪が赦されて、永遠のいのちが与えられます。もう一つの、キリストの権威の行使はバプテスマによって弟子を生むことです。その弟子は弟子を生んで、教会を建て挙げます。イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、神の子とされる特権を与えられる、とヨハネ1章にある通りです。バプテスマを受け、神の交わりに迎えられ、神の子どもとされる、これは特権でなくなんでしょうか。信仰のみで、その特権が与えられるのです。これほどのプレゼントはこの世界どこを探しもありません。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。それがイエス様の宣教命令です。それは、あらゆる国民がキリストの弟子となって、罪の赦しとともに神のいのちにつながることでもあります。そして、教会は、バプテスマによって神のいのちにつながり、イエス・キリストの教えを守っていく者たちの集まりです。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。

解放と自由を与える権威:

罪の赦しと救いの権威を持っておられる方は、イエス様以外にはありません。教会に来ると「罪、罪」と言われて、いやだという人がいます。罪がわからないと救いもわかりません。人は心にあることが出てくるのです。外に現れる悪い行いや犯罪と言われることは、心に源があります。マルコ7章には、人を汚す者は、内側から、すなわち人の心から出てくる、と書いています。それは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ、だと言っています。心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいません。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。すべての人は、死んだ後神の前に立たされます。そして、その罪により燃えるゲヘナに投げ込まれると書いています。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。なぜ、イエス・キリストでなければ人の罪の身代わりになれないのでしょうか。それは、罪のないもの以外にその人の罪の身代わりになることはできないからです。イエス・キリストは罪のない神の御子です。聖霊によって処女マリヤから生まれました。男女間で生まれる人間は、すべて罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。人の罪の身代わりとなることができるのは罪のない人でなければなりません、と言いました。それは、キリストが処女マリヤから生まれることにより、罪のない神が私たちと同じ体と心を持った人間になられました。この方は100%神で同時に100%人間です。イエス・キリストとその十字架の贖いを信じる者はすべて罪が赦されるのです。イエス・キリストの宣教命令とは、キリストの権威である罪の赦しと救いをあなたが隣人に伝えることです。

人生のガイドライン

2018年05月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇119篇105~112節
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
119:107 私はひどく悩んでいます。【主】よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

<要約>

みことばは人生のガイド:

「聖書のことばは、私の足元にある懐中電灯で、それは私がどこへ進んでいったらよいか、その道を照らし明らかにしてくれる。」と言うのです。人間が定めた法律は時代で変わります。しかし、聖書のみことばは変わることはありません。神が古今東西、全人類にお与えくださったものだからです。小教理に、聖書を正しく理解するための鍵は、律法と福音を区別することです、と書いています。聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神の要求にそぐわないあなたでも神はご自身の命を捨てるほどに愛しておられることです。聖書のことばに則って生きれば必ず、幸せになれます。素晴らしい祝福の人生を送ることができるのです。つまり聖書のことばは幸せな人生のガイドラインです。聖書を読むと聖書の中には、神の二つのお姿が表れます。一つは、「神は焼き尽くす火」と言われるように、厳しい怒りのお姿です。人の罪を決してゆるさない、罪に対しては必ず報酬を与える厳しい裁判官のようです。もう一つは、やさしい、やさしいお姿です。あなたをそして私を大切に思うお姿です。神の目にはあなたは高価で貴い、どんな罪もお赦しになる、やさしいお姿です。それはイエス様にみられるお姿です。あなたのために十字架にお掛りになることも厭わないお姿です。それは神の愛です。子どもを幸せに育てるためには、人間の親もやさしいばかりではいけません。子どものほしいものは何でも与えるような親であれば、子どもは不幸に育つでしょう。逆に厳しさばかりでは、子どもは委縮してしまうでしょう。人の親にも優しさと厳しさが必要です。神もそれと似ていますが、人間の親と神とを比べることはできません。神は義の神です。正義の神です。少しの罪も見逃すことはできません。必ず裁くと言います。また、同時に愛の神です。いざという時に、自分の子どもを見捨てるような人間の愛ではありません。神の愛は一点の曇りもない完全な愛です。私たちはそのことを正しく認識しなければなりません。聖書のみことばに生きれば必ず幸せになると言いましたが、何も戦いも試練もない平穏な人生があるとは言っていません。闇の世は依然として私たちを取り囲んでいるのです。この詩編の記者は実際には、悩み、苦しみ、そして、周りからの策略や攻撃があったようです。しかし、わなから守られて、迷わずに生きることができると告白しています。これは信じる者に対する神の守りと言えます。この記者は自分は、戒めから迷い出なかったと言っています。実際は、聖霊がみことばを用いて悪しき者からあなたを守ってくださるのです。それはキリストを信じる者に対する神の約束です。ヨハネ福音書には、「神は決してあなたを捨てて孤児にしません」と書いています。詩篇には、「あなたを狩人のわなから疫病から救い出してくださる」と書いています。神の国の民、すなわち信者は聖霊とみことばによって守られていると言えます。また、神は人を救おうと神の国を拡大なさっています。ご自身の国の民であるあなたを用いて救いを全世界に届けようとしておられます。あなたにはその使命があることを認識しましょう。

みことばは永遠のプレゼント:

記者は、「あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました」と言います。永遠のゆずりと言うのは、神からの永遠のプレゼントと言えます。神の無償のプレゼントは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠のいのちです。神のあわれみにより与えられた永遠のいのち、それは永遠の祝福に生きる人生です。私たちはこの世のいのちばかり意識しているかもしれませんが、神から与えられたいのちは永遠です。この世のいのちであれば80年でしょう。この世のいのちしかないと思っている人は、80年90年を視野に人生設計をします。でも、永遠のいのちを持っているクリスチャンは、永遠をベースとして人生設計をします。そして、永遠を視野において今を生きるのです。ユダヤ人哲学者のマルチンブーバーは言いました。「人は新しいことに挑戦している限り老いることはない。」すなわち、挑戦する人の霊は年を取ることはない、と言うことです。また、もし信仰のチャレンジを続けるなら、信仰は年齢とともに強まることはあっても老いることはありません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と聖書にある通りです。私たちの身体は日々衰えてきます。しかし、霊はますます成長していくのです。私は、2010年に牧師の召しはなかったのですが、聖書を学びたいと思いました。それは60歳からの挑戦でした。2010年3月、JTJ宣教神学校の神学部牧師志願科に入学できました。JTJには、牧師としての召命がなくても、その願いがあれば学ぶことができる牧師志願科というコースがあります。学びを続けているうちにいろいろなチャレンジを受けましたが、みことばが与えられました。献身者の召しをいただきました。2015年5月に牧師按手を受けました。昨年、百歳を超えて活躍し天に召された聖路加病院の日野原先生は「生涯現役」という言葉を残されました。私も、このことば「生涯現役」で行こうと思っています。神がストップをおかけになるまで信仰のチャレンジをしていくつもりです。クリスチャンライフは結果オーライの人生、と言えます。この世の歩においては、依然やみが覆っていても、その道は神の栄光を拝する道です。ゴールが定まっています。あなたがこの恵みにとどまり続けるなら、栄光のゴールが待っています。それは、勝利のゴールです。イエス・キリストがあらかじめ勝利してくださったからです。永遠の祝福に与れることが約束されています。そうであれば、永遠を視野に人生設計をしましょう。

みことばは永遠の心の喜び:

「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」と言っています。みことばに生きる人生、すなわち、聖書を指針として、人生を設計して、生きる人生には、いつまでも続く心の喜びがあるというのです。決してしぼまない心の喜びです。それは魂の根底にある喜びと言えます。喜びあるいは喜ぶという言葉は、全聖書の中で655か所にあります。喜びはクリスチャンの特徴と言えます。Ⅰテサロニケ5:16~18には、次のことばがあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」これは、クリスチャンは喜びの源泉を持っているから、いつも喜ぶことができるからです。決して奪い去られることのない、決して揺るがない喜びの源は何でしょうか。それは、神からの永遠のプレゼントである永遠のいのちがあるということ、そして罪赦されて心の傷が癒されている状態であることです。私は、いつも喜んでいられるのは心に傷のない状態であると思います。心の痛みがあっては喜ぶことはできません。かつて、小学生の娘さんがいじめによって自殺してしまった、その母親がその子の手記に「心も血を流すの」と書いてあったと言いました。身体の傷と同じように心の傷からも血が流れるというのです。ある人のことばで、心に傷を受けて、それが癒されるのに数年間かかった、と言っていました。傷が癒されて、心の喜びがわいてくるのです。心の傷はどうしたら癒されるのでしょうか。イザヤ書には、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書いています。それは言うまでもなく、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で血を流されました。その傷によって、あなたの傷が癒された、と宣言しているのです。神はあなたを傷のない非難されることのないものとしてくださいます。キリストは真の癒し主です。もし、あなたに心の傷があるならばキリストに行きましょう。そして、喜びで満ちる人生を歩んでいただきたいと願います。

キリスト中心の人生

2018年05月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱテモテ1章1~14節
1:1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

<要約>

死を滅ぼすキリストの福音:

パウロは自分の死期が近いことを知っていたのです。しかし、肉体のいのちが失われても永遠のいのちが与えられるのがキリストの福音です。それを「キリスト・イエスのいのちの約束」という短い言葉で言い表しています。神がキリストの十字架と復活を通してお与えくださったいのちの約束です。人間ではどうすることもできないもの、それが死からの滅びです。すべの人は罪のために死が定められています。死んだあと、魂は裁かれて永遠の滅びに向かうのです。ですから、人が死を恐れるのはそのためです。死後に何があるかわからないので漠然とした不安があります。人はそのままでは自らの罪のために、死と滅びに向かっています。すなわち人は救われなければならない存在です。人は自分で自分を救うことはできません。なぜなら自分自身が罪びとだからです。ではなぜ、人には罪があるのでしょうか。宇宙万物をおつくりになった神は、私たち人間を特別におつくりになりました。人は神に似せてつくられ、神のいのちを吹き込まれて、生きる者となったのです。人は神のいのちによって永遠に生きる者でした。しかし、最初の人が、神の上に自分をおこうとして高慢になり、神の戒めを破ってしまいました。つまり、罪を犯し神から離れてしまいました。そして、いのちを失ったのです。それ以来すべての人は生まれながらの罪びとです。現に心に罪を犯したことのない人は誰もいないのです。それゆえ真のいのちを失い、滅ぶべきものとなっているのです。パウロは「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」と書いています。それは、キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んであなたの罪を贖いました。それゆえ、罪の報酬である死を滅ぼしたということです。そして、あなたに滅びの代わりに永遠のいのちをお与えになったということです。すなわち、誰でもイエス・キリストが私のために十字架で死んで私の罪を取り除いてくださった事を信じるなら、その人の罪は赦されています。死と滅びの代わりに、永遠のいのちと永遠の祝福に生きることができるのです。キリストの福音は、罪と死と滅びからの救いです。キリスト中心の人生は、キリストの福音に生きる人生です。それは、永遠に続く祝福の人生です。

受け継ぐ純粋な信仰:

パウロはここに、「先祖以来きよい良心をもって仕えている神」と述べています。この先祖はパウロを生んだ両親や祖父母を指しています。パウロは自分がこのように先祖から受け継いだ信仰できよい良心をもって神に仕えてきたことを思い起こしています。皆さんは、親が、あるいは先祖がクリスチャンであった人もいるかもしれません。自分の代からクリスチャンと言う方がほとんどかもしれません。しかし、皆さんは聖書をはじめから自分で読んで信仰に入ったという人は少ないと思います。ほとんどの人は、人を通して導かれました。その様に神はイエス・キリストの福音を、人を通して伝える手段をおとりになりました。神は周りの人々を通して、あなたを選び、分かち、救い出してくださいました。このきよい信仰をあなたに与えてくださったのです。つぶやかず、疑わず信じ続けましょう。テモテも祖母ロイス、母ユニケから「純粋な信仰」を受け継ぎました。テモテは幼い時から聖書に親しんできたと書かれています。パウロの書き方から、信仰にも質があることがわかります。パウロの先祖は「きよい心の信仰」といえます。パウロは、信仰の質を問うています。純粋できよい、偽りのない信仰をパウロは勧めています。打算のない真実な信仰ともいえます。それはどのようにして身に着けることができるのでしょうか。若い人はテモテのように幼い時から聖書に親しむことです。年取った人も同じです。聖書に親しむことです。そして、パウロの信仰、諸先輩の信仰を見習うことでしょう。その純真で偽りのない信仰は、イエス様の父なる神への信仰であったと言えます。イエス様は、すべての人のためにまた、あなたの救いのために父のみこころである十字架と言う杯を飲み干しました。その後の復活と栄光に入れられることを信じて苦しみに従いとおしたのです。そこには、取引や打算はありませんでした。疑わないで信じることです。パウロも苦難や困難にあっても祈るたびに自分が仕えてきた神に感謝していました。それは、祈るたびに、父なる神に触れ、また、イエス・キリストの真実に触れて、それを思い起こして感謝が出てくるのです。これが純粋な信仰です。純粋な信仰と言うのは、神を信じて疑わないことです。予期しない、自分にとって不都合と思われるようなことが起こっても神の愛を疑わないことです。そして、純粋な信仰とは、聖霊によって、勇気と力、そして愛と慎みに生きる信仰です。勇気は前向きに進む力です。失敗を恐れないで前に進むことです。また、迫害をも恐れずに前に向かう意志です。力は勝利する力です。世に勝ってみこころを行う力です。サタンと戦って勝利する力です。そして、愛は、人を愛し、敵をも愛する愛です。慎みは、高ぶらず高慢にならない事です。キリスト中心の人生は、純粋なキリスト信仰に生きる人生です。信仰は、勇気と力と愛と慎みです。

賜物(能力)を豊かに用いる人:

テモテは、パウロから按手を受けて、聖霊の賜物をいただきました。それは、テモテの牧会者としての賜物です。パウロから宣教や牧会に必要な賜物がテモテに伝達されました。パウロは、テモテに与えられた賜物を豊かに用いるよう命じています。神は、同様に福音の拡大と神の国の成就のために、人々にそれぞれの賜物を与え、キリストの身体を築きあげようとなさっています。パウロは、宣教者、使徒、教師としての賜物を与えられ、その任につかされました。賜物、それは平たく言えば才能、能力と言えます。神は、なぜ、それぞれ人に能力や才能をお与えになっているのでしょうか。それは、キリストの身体を建て挙げるためです。すなわち、教会が有機的な共同体として成長して、福音宣教に用いられるためです。また、そこにつらなる信者が信仰と知識において成長して大人になることです。神は小さな教会にも、信者それぞれに賜物を与えて、キリストの身体を建ててくださいます。そこにはキリストが満ち満ちているのです。テモテは監督として、長老としての賜物が与えられていました。神は、すべての人に様々な能力や才能をお与えになっています。そして、それぞれに与えられた才能を用いて、世界を統治していると言えます。神は、国や地方にも、住民にルールを与え、警察をおいて地域の安全を守ってくださっています。また、行政を配備して、人々の暮らしを守り、人々が日常の生活を送れるようにしております。人が気付くと気付かないとにかかわらず、クリスチャンであってもなくても、神は人間社会を秩序建てて治めておられます。それぞれに神は役割となる才能や技能を与えておられるのです。アフリカの黄熱病は蚊が媒介する病気で致死率80%です。いったんかかると80%の人が死に至ります。その研究でワクチンを開発し、病気を克服したのが日本人の野口英世博士です。彼は、福島県会津に生まれました。幼い時に左手にやけどを負い、小さいとき「てんぼう、てんぼう」と言われました。その不自由や貧しさを笑った世間を見返すために勉学に励み、ついに学問で成功を修めました。しかし、アメリカ留学中のことです。25歳の英世は、これまで見返すために必死に勉学をして成功を修めたのですが、その為だけに生きてきたことで、虚しくなったのです。与えられた能力を人のために用いる事こそ人生をかけるべきことなのだということに目覚めたのです。人のため、隣人のための学問研究でなければならないと思ったのです。その後アフリカに渡り、死亡率80%という恐ろしい黄熱病から人々を救うために自分が持てる才能能力を出し切ってワクチンを開発しました。最後は、彼自身が黄熱病で亡くなったと聞いています。神は、それぞれに賜物をお与えになっておられます。神のみこころは、それぞれの賜物を隣人のために用いることです。パウロは使徒として、宣教者、教師の召しと賜物を豊かに用いました。テモテは、教会の長老として牧会者として賜物を豊かに用いた人です。私たちも教会においてはキリストの身体に一部としてともに仕えあってキリストの身体を建てあげます。しかし、世にあっては、神の召しを受けて、職場や家庭や学校に遣わされています。賜物と使命はそれぞれに違います。しかし、神の命令は同じです。「思いを尽くし力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神を愛しなさい。そして、自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」です。それが、キリスト中心の人生なのです。

真に偉大な人とは

2018年05月 06日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書18章1~10節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

<要約>

天のみ国に入る資格:

すべての人は天の御国に招かれています。入ろうと真剣に望むのなら入れない人は誰もいません。世の中で、偉くなくても一番にならなくても、天の御国へは入れます。しかし、入るためには資格が要ります。天の御国へ入れるかどうかは、神との関係にあります。すなわち、神と正しい関係にある人が天の御国には入れるのです。そこにおいては世の中の基準は関係ありません。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とイエス様は言われました。すなわち、罪を離れて神に心を向けなければ天の御国へは入れないというのです。これは、神との関係を正すことを指しています。生まれながらのすべての人と神との関係は、罪によって壊れております。そのために神からの栄誉を受けることができないと言うのです。世の中でいくら懸命に功績を積み上げても、残念ながらそれらは、神の国に入るための条件にはならないのです。条件は「悔い改めて神を仰ぐこと、すなわち思いを変えて神を信じること」です。あなたが、神に喜ばれ、天の御国に招かれ、そこに入ることができるためには、この世の中での功績や努力は要らないのです。ただ、心低くして、素直に、罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるだけでよいのです。キリストのゆえに、神はあなたの罪をすべて赦し、あなたを義としてくださり、天からの栄誉を与えてくださいます。御国へは罪赦されている者のみが入ることができるのです。つまり、イエス・キリストがあなたの身代わりとなってあなたの罪を十字架で贖ったことを認め信じることです。

御国で偉い人は仕える人:

自分を低くするもの、自分を低く見ている謙遜な者が天国では一番偉いと言っています。子どもたちはどのような点で、心低くへりくだっているのでしょうか。子どもは生まれつき自然と謙遜です。自分にできない事を知っています。ですから、親に自分をゆだねています。小さな子供を見ていると、親を信頼して自分の身を任せきっています。親に委ねています。幼き子が親を信頼して身を寄せている姿勢こそ、私たちの父なる神へのあるべき姿勢です。この世では、偉い人は先に立って人に仕えられる人です。天の御国で偉い人は、その逆で、しんがりとなって人々に仕える人です。「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とおっしゃいました。子どもたちにはイエス様の愛が注下れています。子どもは幼いながらもイエス様を信じています。その幼子を受け入れる者はイエス様を受け入れるのです。なぜなら幼子の中にイエス様は宿っておられるからです。幼子を受け入れるということは、幼子のお世話をする、お仕えすることです。すなわち、小さいものを受け入れるというのは、小さいものに仕えるという意味です。イエス様は先に立ちたいと思う人は、皆に仕える者となりなさい、と言われました。天国で神に褒められたい人、すなわち天国で偉い人と言われたい人は、皆に仕えなさいというのです。最も小さいものに仕えることなのです。教会はそのようにして兄弟姉妹を受け入れお互いに仕えあっていくところです。

御国で偉い人は兄弟をつまずかせない人:

「つまずき」は「受け入れる事」と反対の意味です。つまずきは、このような小さなものを迫害することであり、信仰を失わせることです。つまずきを与えるこの世はわざわいだとあります。世は神の子救い主であるキリストを十字架で殺してしましました。それは、世が与えた最大のつまずきと言えます。それ以来、この世は、クリスチャンにとってつまずきとなります。この後、迫害の時代になり、多くの聖徒は拷問や処刑による迫害を受けました。多くの人々は信仰のゆえに苦しみを受けています。しかし、ここで言うつまずきの対象者は、子どもも含めて、信仰の弱い小さな者たちと言えます。つまずきは避けられないとありますが、つまずきをもたらすものはわざわいであるとあります。イエス様は、つまずきとなるようなら、手足を切り捨てよ、目を抉り出せ、と強い言葉で警告しています。この世はサタンの支配下にあります。悪魔は、巧妙に働き、人々を罪に誘います。この小さい者たちは、子どもばかりではなく、信仰の若いもの、信仰の弱いもの、貧しく無力な者、罪を犯した者、失敗したもの、も含まれます。そして、そういう小さいものに一人でも見下げたりしないよう気をつけなさい、と言うのです。その理由として、小さい者たちにも父なる神は天使を遣わし、仕えさせているからです。それは、天の父はいとも小さきものをも大切な存在、高価で貴い存在として仕える天使を送っておられるからです。そして、天使はいつも神を見ていると言います。小さいものを助け支えるために、神から指示を仰いでいるのです。父なる神は小さき者たちに御顔を照らして、彼らを恵んでいてくださるからです。また、祝福してくださっているからです。神はその小さきものを愛しておられるからです。そして、ご自身のいのちをお捨てになったのだから、そして天使を遣わして仕え守られているのだからです。私たちは高慢になって見下したりしないようにしましょうというのです。御国で偉い人は、兄弟をつまずかせない人であると言いました。小さな弱い者たちをつまずかせないというのは、キリストの思いを思いとしている人のことです。人がどう思うかより、キリストがどうお思いになるかを大切にする人です。神のみ思いは「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すことがなく」です。神はあなたを大切に思っておられます。あなたが失敗したり、罪に落ちたりしても、あなたへの愛は変わりません。悔い改めて神に立ち返るなら、放蕩息子の帰りを、両手を広げて走り寄って迎えてくださる父のように、あなたを喜んで迎えてくださるのです。

炎のような分かれた舌

2018年04月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章1~13節
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

<要約>

聖霊は舌としてみことばを用いる:

五旬節に、天からの激しい風が吹いてくるような響き、ゴーという暴風が迫ってくるような音だったのでしょう。家全体が振動したのです。また、「炎のような分かれた舌」がひとりひとりの上に留まったというのです。この舌という言葉は「言語」を表しています。また、舌はことばを発する器官です。舌はことばを司っているともいえます。ですから、ここの「炎のような分かれた舌」は、聖霊の激しい言葉を表しています。彼らは聖霊に満たされて、聖霊が話させてくださる通りに、それぞれが他国語で語り出したというのです。現代も聖霊は、ことばを用いて、ひとり一人にお語りになってくださいます。聖書のみことばを用いて、語ってくださいます。毎日語ってくださっています。先日のことです。わたしは病院を移転しました。それにつけ、お金の問題が出てきます。当然のことです。銀行からも借金をしました。そうしたら、銀行がある事業の話を持ち掛けてきたのです。今の私にとってできない事業ではなかったのです。そこで、私は神の御心を求めました。そうしたら、聖書通読の時にⅠコリ7:31「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」というみことばを示されました。お金を用いすぎてはいけない、とはっきり示されました。そして、すぐにその話はお断りしました。その様に、聖霊は日々、あなたの求めに応えてくださいます。すぐにみことばが与えられなくても、聖霊に聞き思いめぐらし、祈りつつ決断する時に、神は私たちの思いを通して答えを用意してくださるのです。

聖霊は火として人を清め新たにする:

また、聖霊は「火のような分かれた舌」というように火として表されています。聖霊は悪を滅ぼしつくされます。聖霊は聖いがゆえに、私たち人間の一点の不正も罪も赦すことができないのです。その罪の裁きを免れさせるために「十字架を見なさい、あなたの罪は赦された」と人の心を十字架に向けさせておられるのです。素直な心で聖霊の導きにゆだねるとき、人はキリストの十字架に向かうのです。そして、人の心に火をともします。その火は心の虚栄を焼き尽くし、人を清め新たにします。人にはプライドがあります。自分を尊ぶ気持ち、自尊心は大切ですが、プライドが強すぎると虚栄になります。それは、アダム以来の罪の問題です。世の中は本来すべてつくり主である神が中心であるべきなのに、そこに人間は、自分を中心に持ってきました。それは、個人的にも民族的にも国家的にもその通りです。聖霊は、人のプライド、虚栄、自分中心の思いを火で焼き尽くし、神中心の思い、キリストの思いを思いとしていく生き方に転換してくださるのです。創造当初の世界は神中心でした。人の罪により人間中心の世界になったのです。ある姉妹の証しです。彼女の中学生の次男が教会のキャンプでイエス様を信じて洗礼を受けました。その時以来、聖霊が彼のうちにお住まいになりました。洗礼を受けてしばらくした時のことです。次男が夕方、息をハアハアさせながら帰ってきて、「今、小学校の近くで殴られてお金をとられた。」「自転車を置いて逃げてきた。」というのです。もう少し詳しく話させると、「小学校の近くの本屋に行ったら別の中学校の生徒に外に出ろと言われ、外に出ると何人かに取り囲まれ代わる代わる殴られた。」「お腹は腕組みをして守った。」「お金をとられたが、隙を見て逃げてきた。」と言うのです。車で現場に行ってみましたが自転車がありませんでした。警察に届けを出しに行きました。事情聴取に時間がかかって夜の10時過ぎになってしまいました。帰りの車の中、「お母さん、ぼく洗礼を受けていてよかったよ。聖霊様が助けてくれたよ。信じるって楽だね。憎らしいとか、悔しいという思いが出なくて。殴られているときずっと「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているか分らずにいるのです。」と言う言葉がずっと心に沸いていたよ」と言うのです。びっくりしました。なぜ洗礼受けたのに神様守ってくださらなかったの、と言ってもおかしくないのに。恐ろしくも痛くもあったでしょうに。神様がこの子の心を守ってくださったことを本当に感謝いたしました。この少年は、洗礼を受けて神様からのプレゼントである聖霊をいただきました。聖霊はこのように幼い少年にもキリストの心をお与えになるのです。そこには、これまで自分がしっかりしなければならない、自分がやらなければならないという考えから、神が導いてくださる神がなさせてくださるというスタンスに移されたのです。自分中心の生き方から神中心の生き方に変えられたのです。

聖霊は分かれ分かれを一つにする:

もう一つの聖霊の働きは、バラバラになった人の思いと心を回復して、一致を与えてくださることです。ノアの洪水の後、ノアの子孫は一つの国民、一つの言葉を語っていました。しかし、彼らが、一致して高慢になり、神の位に自分の名を挙げようとたくらんで、天に届く塔を建て始めました。神は一致して高慢になり、自らの思いを悪に傾けていく人間社会をご覧になりました。悪に急速に走っていく人間を押しとどめようと、彼らの言葉を混乱させました。それ以来、神を離れた人間の思いと意思は不統一、不一致、混乱へと進みます。世界には多くの国々がありますが、一つになることができません。人の言葉は幾多もありますが、福音の言葉は一つであることを示しています。すべての国語、国民に通じる神の大いなるみわざを語る方は一つです。また、すべての人を救いに導くに神のみわざは、キリストによる以外にないと明言しています。当時、このエルサレムには世界の国民を代表する人々が集められていました。一つの神のことばをめいめいが自分の国の言葉で聞いたのです。これは福音の世界宣教の序章と言えます。それは、キリストによる救いの福音です。聖霊が分裂して分かれ分かれになった人々の魂を一つにするのです。すべての人にとって必要な救いの御手が神から届いたのです。それは、罪と死と悪魔からの救いです。現在、この神の救いの福音は全世界に届けられようとしています。イエス様が復活して、天に昇っていく前に、この福音はあらゆる国民、国語の民に届けられてそのあとに終わりが来ます、と言いました。現在、何度もお話ししましたが、全世界に届けられつつあります。キリストの再臨が誓いと言えます。かつて、バベルの塔を建て天に届こうと高慢になった人間の力や知恵を滅ぼして、神の主権と神のご意志によって、神は一つの民、一つの国民として全世界を集めようとなさっています。それは、神を中心に据える人々を用いてこの救いをその家族知人と周りの人々に届けようとなさっておられるのです。

もう一人の助け主

2018年04月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書14章16~27節
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

<要約>

同居してくださる聖霊:

もう一人の助け主はパラクレイトスと言い、代弁者、弁護人とも訳されます。その助け主は聖霊のことで、真の神、三位一体の第三位格の神です。しかし、このお方はこの世の人々には全く知られることなく、また、この世の人には知られることのない仕方でイエスご自身の務めをしておられます。聖霊は世の人々にはご自身を隠されているともいえます。神は、信仰を通して近づいてくださいます。信仰がなければ神に喜ばれないとある通り信仰がなければ神もわかりませんし、キリストも聖霊もわかりません。人は信仰を通して聖霊を見ることができます。信じなければ聖霊の存在もわからないし、感じることもできません。聖霊は、非常に謙遜な方です。イエス様の影にお隠れになって働かれています。しかし、その働きは甚大です。現在は聖霊の時代ともいえます。聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨のとき以来、信じる人を通して働かれ、教会を生み育てられています。全世界に教会が打ち立てられて、広がり続けています。その聖霊が「あなた方とともに住みあなた方のうちにおられる」とあります。これは、同居してくださるということです。しかも、あなたの家に、お住みになっているにもかかわらず、あなたの家の一番良い部屋を要求したり奉られたりすることを要求しません。代わりにあなたの家の最も隅っこに住んでいてくださいます。あなたがそのお方をあなたの家の一番良い部屋にお招きするか、または、台所の物入れの中に住まわせるかはあなた次第です。もし、あなたがそのお方をあなたの家の中心におらせるならばあなたは無限の祝福にあずかることができます。イエス様の愛は、「あなたが捨ててもあなたを捨てない」「あなたのためにいのちを捨てる」神の愛です。あなたは、これまで、神をないがしろにして、ある意味では神を無視するような生活をしてきたかもしれません。しかし、神はあなたを捨てません。それが神の愛です。ですから私たちは、その神の愛に応えて、ますます神を愛そうではありませんか。世の中の人々はイエス様を肉眼でも霊の目をもっても見なくなりますが、あなた方クリスチャンは霊の目でイエス様を見るというのです。そして、イエス様は生きておられ、信じる者たちもイエス様の復活のいのちが与えられているので生き続けるのです。ここにおられる皆さんも、霊の目でイエス様を見ています。皆さんは聖霊を信じています。聖霊はあなたとともに住みあなたと共に生活してくださっています。そして、聖霊はキリストのいのちをあなたに注ぎ続けておられます。

神と人を愛で結ぶ聖霊:

聖霊が天から来られる時には、「わたしが父におり、あなた方がわたしにおり、わたしがあなた方におる」ようになるというのです。すなわち、神とキリスト、キリストと信者は聖霊によって完全に結ばれるというのです。愛に根差した霊的一致です。私たちは神の中に生きており、そして、私たちの中にキリストが生きているのです。金魚は水槽の中でしか生きることはできないでしょう。私たち信者も実は神の中で生きています。否すべての人は神の中に生きているのです。世の人々はただそれを認めないか気付かないだけです。金魚は水がなければ生きていけないのと同様に、人も神の存在なくして生きることはできないのです。そして、神であるイエス様は私たち信者のうちに入っていてくださるというのです。私たち日本人は漬物を食べます。麹漬けでも糠味噌漬けでも、野菜をつけておくとつけ汁のうまみが野菜にしみこんで大変おいしくなります。同じように、私たち信者も神の中にどっぷりつかって、キリストがしみ込んできて、キリストの香りを放ち、味の良い人に変えられるのです。クリスチャンは神の漬物のように神にも隣人にも味わい深いものとされるのです。神を愛するというのは、神の戒めを守ることです。すなわち、みことばを守ることです。聖霊は、みことばと共に働きます。みことばを神のことばとして信じて守る人には聖霊がそば近くにおられるのがわかります。また、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され」とあるように、イエス様を愛し、みことばを守る人は自分が神に愛されていることが分かるのです。みことばに親しむ人になりましょう。みことばに従うことが神への愛です。神を愛するというのは、隣人を愛することで表われます。裏切って出ていったイスカリオテのユダとは別のユダが、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」と質問します。ユダはなおも、キリストと呼ばれるメシヤは、イスラエルに現われて、不信仰な者たちを裁かれる方であると思い込んでいました。ですから、イエス様が少人数の者たちにしかご自身を表さないことを不思議に思っていたようです。イエス様はユダの質問にそのまま答えることはせずに、神の国は、彼らが思っているようなものではないことを示されました。神の国は、神と神のことばを信じ守るもののところに来ます。そこに、三位一体の神が来られてともに住んでくださるのです。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と書いているとおりです。注意して読んでいただきたいのは、「わたしたちは」と言って、複数形で書いていることです。すなわち、父と子と聖霊があなたと同居しあなたのうちに住まわれるというのです。しかも、それはイエス様だけでなく、父もそして聖霊も神の全存在をかけてあなたを愛し祝福するというのです。これは想像しただけでも身震いが出るほど素晴らしい慰めではないでしょうか。こんな素晴らしい神に愛されているのですから、わたしたちも真剣に神を愛しましょう。

キリストにある平安を与える聖霊:

聖霊はイエス様の地上での行動や言葉を弟子たちに思い起こさせるとあります。今も聖霊はキリストを指し示しておられます。キリストによって神が人類にもたらしてくださったこの救いのみわざは十字架と復活によって完成しました。それは、キリストによりあなたを罪と死と悪魔から救ってくださったことです。もはやあなたの罪は裁かれることなく赦され永遠のいのちが与えられています。死はもはや力を失いました。信じる者には復活のいのちがあります。この福音は全人類に与えられたものです。しかし、イエス様の昇天と聖霊降臨の後、約二十年間は、この救いはユダヤ民族にのみに与えられた福音と彼らは思っていたようです。現に弟子たちも最初はユダヤ人にしか伝道しなかったのです。しかし、ユダヤ人の迫害によりエルサレムを離れていったクリスチャンたちが異邦人にも伝えるようになりました。聖霊は異邦人にも働いて、信仰を得させてお救いになりました。すなわち、聖霊はかたくなな人の目を開いて福音を全人類に及ぼしました。そして、聖書は旧約聖書を通しても、福音はユダヤ民族だけにではなく全人類にあてられたものであることを示しています。そして、現代も聖霊は聖書の言葉を用いて語り続けておられます。時代も環境も違いますが、聖霊はどの時代の人にもどの国の人にも救いを得させる神の力なのです。最後に、イエス様は、弟子たちと決別するのに、別れの形見として、彼らに「平安」を残しました。それは世が与えるのとは違う平安です。この世の平安は、家内安全無病息災というものです。キリストの与える平安はどこが違うのでしょうか。キリストが与える平安は、第一に、神に対する良心の平安です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」キリストにより心には、神の前で恥じることのない心、良心の平和を持っています。つぎに、罪による審判をまぬがれて、永遠の平安を持っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストを信じる信仰により罪赦されて永遠の平和に置かされているのです。つぎに、神とキリストの愛による平安です。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。―――私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」キリストの愛からあなたを引き離せるものは何もないのです。キリストの愛のうちに留まれば、どんなことからも守られて平安を持てるのです。それが神の約束で最も確かなことなのです。

神の国の建設と完成

2018年04月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き1章1〜11節
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、 1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

<要約

神の国の土台:

イエス様は40日間弟子たちに現われて、神の国のことを語られたとあります。ですから復活のイエス様の教えは神の国です。神の国は何かというと、イエス・キリストを王として信者を国民とする国です。この世の国の王は人々を支配して権力をふるいます。すなわち、力によって国を治めます。つまり強い方がよいでしょう。強いアメリカ、アメリカファーストという言葉は力を国の土台に据えているところからきます。アメリカや中国やロシアなどの大国は軍事力、経済力を求めています。それは、力を土台としているからです。しかし、キリストの王国は、キリスト自らの苦しみから発しています。イエス様が苦しみを受けた、その苦しみは十字架を指します。神は、キリストの苦難の十字架を土台として、国を建てられました。神が苦難を受けた動機は、人への愛です。神はそのひとり子キリストをあなたにお与えになったほどにあなたを愛された、とある通りです。また、キリストの十字架は何のためでしょうか。そうです、赦すための十字架です。目的は人の、あなたの罪を赦すためです。ですから、神の国は、愛と赦しを土台として築かれているということです。神の国の土台は、愛と赦しであり、その表れが、十字架と復活です。それは信仰の土台でもあります。そして、神の国の推進力となるのは、一致した熱心な祈りです。これは教会の祈りともいえます。クリスチャンの皆さんは、イエス様の十字架を信じています。そして、復活を信じています。十字架は神の愛と赦しです。復活は永遠のいのち、永遠の祝福です。ですから、クリスチャンになるということは、神の愛と赦しを受け取って、神のいのちにつながり、永遠の祝福に生きることです。これはしぼむことのない希望です。神の国の王は復活のイエス・キリストです。その国民は、クリスチャンです。どの国でもそのトップによって国民は大分違います。トップが良いと国民は幸せです。トップが悪いと国民は悲惨です。キリストを王とする神の国の国民、すなわちクリスチャンは世界で最も幸福な国民と言えます。

神の国の拡大:

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」弟子たちはイエス様の復活の証人として宣教しました。そして弟子が弟子を生みました。その時から二千年の歳月が過ぎています。イエス様を信じバプテスマを受け、聖霊を受けたクリスチャンは全世界に広がり続けています。なぜなら今も世界中の人々に神のメッセージを語り継がれているからです。みことばは必ず成就します。福音によって、今も、多くの人々が死から命に移され、絶望がしぼむことのない希望に、苦しみが感謝に、悲しみが喜びに変えられています。これこそまさに福音の力なのです。聖霊は聖書のみことばを通してお語りになります。十字架も復活も歴史的事実です。そして、神がたてられた人類救済のご計画は、現在進行形で進んでいます。それは歴史を支配し、天と地のすべての権威を握っておられる方、イエス・キリストが導いておられます。聖霊が臨まれるとき力を受けます。イエス様が去って行った後に、天より聖霊が臨みます。それはペンテコステに起こった神の技です。聖霊は霊ですから目に見えません。でも、聖霊はその働きとしてみることができます。風は見えないけれども、木の枝が揺れることにより、風があるのがわかるというのです。同様に、聖霊は見えませんが、聖霊によってイエス様を信じて新しく生まれた人を見ると聖霊がいるのがわかるのです。ですから、聖霊はその働きによって知ることができます。まず、聖霊は力を与えるというのです。その力とは何でしょうか。「イエス様の証人」となる力です。それは福音を理解する力、そしてキリストの心を知る力です。聖霊の力は理解力ともいえます。神のみ心を知る力、聖書のみことばを理解する力、福音がなんであるかを知る力です。また、迫害に耐える力、困難に耐えて希望を持ち続ける力です。また、聖霊の力は、敵をも愛する十字架の力です。イエス様は十字架の上で敵を赦しました。さらに、聖霊の力は殉教をも恐れない力です。そのように聖霊が皆さん一人一人に臨まれた結果は、何でしょうか。それは、皆さんがイエス・キリストの十字架と復活の証人として生きることです。具体的には、皆さんがイエス様の心をいただき隣人に対して、小さなキリストとなるのです。

神の国の完成:

イエス様は弟子たちのみている前で上に挙げられました。雲に包まれて見えなくなりました。その時、白い衣をまとった二人の天使が彼らのそばに立っているのに気づき、視線を天から地上に落としました。天使たちは、言いました。「天に昇って行かれるのをあなた方が見た時と同じ有様で、また、おいでになります。」と。これは、再臨の約束です。イエス様は今、神の右に座しておられます。これは、天においても地においてもすべての権威を握っておられるということです。世界は一つの方向に向かって進んでいます。この世界の歴史の方向には、はっきりした、神のご意志と計画があります。その実現と完成がこの地上で明らかにされるのが、再臨の時です。聖霊によって教会が生まれ、教会は全世界に及んでいます。教会には、真のいのちを持つ人々が集まっています。教会の歩みのゴールはキリストの再臨です。再臨の時には、キリストは世を裁くために来られるといいましたが、キリストは公平な審判者としてこられます。キリストはすべての人の全生涯をさばきます。それは、行いばかりでなく、心のはかりごとまで全てを含みます。どんな罪にも神は怒りを持ってお応えになります。でも、ご安心ください。神は、世を愛し、あなたが滅びてしまうのを惜しまれ、罪を取り除くために一人の御子キリストをお与えくださいました。そして、罪のないキリストをあなたの身代わりとして十字架につけ断罪しました。それゆえ、もしあなたが信じるなら、御子の十字架のあがないによりあなたのすべての罪は赦されて、神のいのちが与えられます。神は、キリストにより、救いの道を完成されました。そして、その救いを全世界のすべての人々に伝えるために聖霊をお送りになりました。イエスの十字架と復活の証人である私たちを用いて全世界に宣教なさいます。教会はそのために建てられたのです。再臨は、信じる者にはこの上もない祝福と喜びなのです。