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アブラハムの旅たち

2017年10月 1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章27~12章9節
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

<要約>

信仰によって歩み出すとは:

「主はアブラムに仰せられた」と書いています。これはアブらハム契約と呼ばれているものです。彼は、不妊の女サライと、甥のロトとハランで得た家畜などの財産をもって、神の示す地へ、出発しました。へブル書には、「どこへ行くのか知らないで、出かけた」と書いています。「生まれ故郷、父の家を出て」と。これは、信仰による旅たちでした。郷里も親類縁者も捨てて、行先もわからないまま出ていくのはどんなにか勇気のいることでしょう。アブラハムの信仰者としての歩みは、この神の仰せに素直に従ったということから始まります。ここに信仰の父と呼ばれる人の歩みが書かれています。まず、彼は神の約束を握って、偶像と偽の神々が支配する世界から出て行きました。これは決別です。御声にしたがったのです。信仰にはこの決別が要求されます。サタンが支配するこの世から決別するのです。罪の世からの決別です。この世の悪い習慣からの決別ということもあります。特別に悪い習慣がなくても、目に見える世の価値、お金、地位、名誉などへの執着から決別して、目に見えない神を信じる、神に従う決心をすることです。聖書が言う神は、天地万物をおつくりになって、全世界を治めておられる一人の神です。人は、太陽や月などの被造物を神としたり人間や動物を神としたりしてしまいます。人間は自らで神を見出すことはできません。神の方でご自身を現わしてくださったのです。神が人となってご自身を現わしてくださったのです。それが、イエス・キリストです。偶像は、いわゆる像ばかりではありません。あなたが、寄りかかっているものです。それがないと生きていけない、倒れてしまうものです。偶像は、世界にあふれています。あなたの心をひきつけて、けっして、真の神に心を向けさせないように働くものです。サタンはこの偶像を足掛かりとしあなたを真の神から引き離そうとするのです。アブラハムへの神の約束は、神から一方的な恵みと祝福であったといえます。その恵みと祝福にアブラハムは「主がお告げになった通りに出かけた」という行動をもって、従ったのです。みことばに対する信仰の応答は、従うということです。信仰によって歩み出すとは、罪の世から決別して神の約束を握ってどこまでも神を信じて従っていくことです。また、信仰によって歩み出すとは、「どこへ行くのか知らないで出ていきました」とある通り、チャレンジの人生です。

アブラハムに学ぶクリスチャンライフ:

アブラハムは家族とともに、ハランを出発して、カナンの地に着きました。そして、最初の場所は、シェケムです。モレの樫の木のところまできました。そこにも、カナン人の偶像礼拝があったようです。そこに、アブラハムは、真の神のために祭壇を築きました。神はアブラハムに具体的な約束を与えました。アブラハムに今のパレスチナ地方を約束の地として子孫に与えるといわれたのです。この時点では、アブラハムには約束のみでした。親類はいない、土地もない、子どももいない、無いないずくめでしたが、アブラハムは信仰によって生きていました。信仰とは、約束を信じ続けることです。彼は、この時、75歳でしたが、神はアブラハムの子孫を海辺の砂、空の星ほどに増やすといわれたのです。しかし、約束の子どもであるイサクが与えられたのは、100歳の時でした。アブラハムは、約束が与えられていながら成就を見ることができずに、時には、へこたれて、神のみ思いをうかがうことなく、当時の習慣や人間の考えで動きました。そして、何度も失敗をしました。信仰の父であるアブラハムでさえ失敗しました。信仰者は天のみ国に入るまで、失敗し倒れることもあります。それが現状です。しかし、失敗し罪を犯して倒れても、また、主を仰ぎ立ち返るなら救われるのです。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるとあります。信仰には忍耐が必要ということです。しかし、それ以上に神は忍耐して神の民を赦してくださっているのです。アブラハムは「祭壇を築き」真の神を礼拝し、そして「天幕を張り」カナン人の中で寄留者の生活を始めました。この世にあって生活を始めたのです。これは、クリスチャンは世にあって世のものではない、この世にあっては寄留者であることを暗示しています。すなわち、この世にあっては旅人であり寄留者である、これが、天国を目指して旅しているのがクリスチャンライフです。カナン人たちは、アブラハムを神の司として認識していました。このことからアブラハムは彼らに宣教していたことがわかります。ここに、アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンの生き方が暗示されています。それは、礼拝、社会生活、宣教です。一つ一つ見て行きましょう。一番目に礼拝について、クリスチャンは礼拝の民と言われています。真の神を毎週礼拝します。それは、自分中心ではなく神中心にした生き方です。次に社会生活について、クリスチャンは神の民として社会生活を営みます。社会は隣人愛の実践の場ともいえます。最善を尽くすのです。三番目は、宣教です。クリスチャンには宣教の使命が与えられています。あなたの生きる姿勢を通して、あなたを透かして、人々は神を見るでしょう。

すべての国民を救う神の計画:

神は、アブラハムを大いなる国民としようと言われました。それはイスラエル国家です。そして、「アブラハムの名は大いなる名前となる」です。歴史を通してこれほど偉大な信仰者と呼ばれている人はいないと思います。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」これは、アブラハムに良いことを願い行動する人を神も良くしてくださる、また、アブラハムに悪をはかり敵対する者に神も敵対するというのです。もちろんこの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル民族に及んでいます。また、この約束は、アブラハムの信仰の子孫でもあるクリスチャンひとりひとりへの約束でもあります。「すべての民族はアブラハムによって祝福される。」アブラハムは全民族の祝福の基となるのです。ここにすべての民族を救うための神のご計画が隠されています。神はアブラハムという一人の人を選び、そこから一つの民族を選び、その民族を通して神の祝福と救いを全民族に広げていこうとされました。このことは不思議なかたちで成就しました。アブラハムの子孫のユダヤ人、すなわちイスラエル民族の中からイエス・キリストはお生まれになりました。そして、イエス・キリストにより全世界のすべての民族に祝福と救いがもたらされたのです。イエス・キリストの救いとは何でしょうか。聖書は、言います。「造り主である神から離れた人は生きていても死んでいる」と。つまり、このままでは滅んでしまい、永遠の死を迎えるからです。それは、神から離れた人は真のいのちを失っているからです。しかし、もしあなたが、イエス・キリストを信じて神に立ち返るのなら、生きるのです。罪と死と悪魔から解放されるのです。あなたにいのちを与え、あなたを造ってくださった神がいるのに、これまでその方を認めることなく過ごしてきたことを悔い改めて、あなたの罪をすべて十字架で赦してくださったキリストをあなたがお迎えするなら、あなたは生きるのです。

祝福倍増の法則

2017年9月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

<要約>

主を信頼し忠実に前に進む:

さて、5タラントいただいた人は、特別に多くの才能、能力、そして、富みと財をいただいてあらゆる領域で富んでいる人です。かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。富が大きいとそこには争いが生まれるのです。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。お金も賜物なのに持っていることで自分が偉くなったように思ってしまうことです。そして、罪の罠に陥るのです。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利したのです。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。次に、2タラントを預けられたしもべです。彼は、5タラントもらった人と比べると自分の分は少ないと感じたかもしれません。でも、自分にふさわしく与えられたのです。5タラントもらった人をねたんだりうらやんだりすることもなく、それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。彼も、5タラント預かった人と全く同じ言葉をもって祝福された人です。つまり、この主人は、お金の額を問題にしてはいませんでした。任されたものをどう扱ったかを通して、彼らの信仰と忠実さ、そしてそれに伴う勇気をご覧になったのです。また、彼らが、感謝して賜物を活用していこうとする前向きの姿勢です。それは主人への信頼と愛と言えるものです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。

恐れから神に心を閉ざす人間:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。彼は、1タラント預かって出ていき、地を掘ってその主人の金を隠したと書いています。なぜ、そうしたかが書かれています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」というのです。この人には、主人に対する信頼がありません。この人の問題点は何でしょうか。まず、主人に対する認識が180度間違えています。この主人は、イエス様、真の神を指していますから、愛と哀れみの方です。この人は、神の前で心を閉ざしていた人です。石の心です。神の愛が注がれているのに、心を開いて受け取ろうとしないので、ますます固くなるのです。彼は、規則に縛られて、そこから逸脱することを恐れて何もしない人です。それは、律法学者、パリサイ人たちを示していたとも考えられます。彼らは、謙遜で低い心から神のみ心を求めていたのではありません。十戒を中心とした律法に、自分たちの都合の良い解釈を与えて、自分はこれもあれも守っているから神の前に正しい人間であると主張しました。そして、人民の優位に立とうとしました。つまり律法を、自己主張するための道具としたのです。この1タラント預かった男は、神がいのちと祝福を用意しているのに、恐れと不満から心を閉ざして神を信じない人の姿です。その人は、役に立たぬしもべとして、外の暗やみに追い出されたのです。そして、神からの審判を受けるのです。

神は失われた人の回復のためにイエスを送られた:

神は、人とすべての被造物のために自然界を秩序あるものに作られました。ですから、宇宙は曲げられない法則に沿って運航しています。自然界も秩序と法則によって動いていますので、人は種をまき収穫を得る時期を見極めています。つまり、自然界の秩序に則って人間は安全に豊かに暮らすことができるのです。それと同様に、神は、神と人、人と人、人と他の被造物との関係についても、ルールを定めました。人と他の被造物との関係については、神は人にすべてを管理させました。最初の人アダムには神の掟が書き記された曇りなき良心がありました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。

この5タラント、2タラントを預かった人に起こったこと。主人のことばに積極的に従った二人にもたらされた倍々の祝福は、天のみ国の法則によることです。しかし、アダムは神の戒めを破って罪を犯したのです。その時以来、神が定めた戒めを破ったため祝福の法則から逸脱して死と呪いに向かうことになったのです。1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。アダムが罪を犯して、恐ろしくなり、神から身を隠したように、この人は神を恐れて、穴に埋めたのです。最初の人アダムは恐れを感じたところから罪をおかしたと思います。それは、ただ、神を信頼して生きること、神に自分が裸のまま心をオープンにして生き続けることへの不安と恐れです。彼は、神に代わってすべてのことに対して自己決定権を所有して他者をコントロールすることに強い誘惑を覚えたのです。かくして、人は神との関係を失ったことにより死と滅びに向かっているのです。神は私たちの幸福を願っておられます。律法である十戒は祝福の道を歩むようにと神が堕落した人間の良心に代わってお与えくださった幸せのルールです。それでも、律法の要求は、罪にたいする裁きと死です。神は、一人の人が滅びることも望まず、一人一人のいのちを惜しまれています。そこで、ひとり子であるイエス様をお与えくださいました。律法の正当な要求を主イエスが十字架の苦しみと死によって満たしてくださったのです。イエス様の十字架の死はあなたのためでもあります。そのことを信じるときあなたのすべての罪は十字架にくぎ付けにされます。そして、罪赦されて呪いの滅びから解放され、永遠のいのちを得るのです。また、あなたは、祝福をお与えくださる神に心を開くことです。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、あなたの人生は再び祝福倍増の路線に戻され、感謝と喜びにあふれる人生に入るのです。

天に宝を積むとは

2017年9月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカ福音書12章13~21節、マタイ福音書6章19~20節
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

<要約>

賜物の管理者としての人生:

イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされました。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、人格に満足を与えることはできません。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富まない人生とは、神を認めない人生であるといえます。ですから、自分にあるものを自分で得たものと思うのです。神に栄光と誉を帰そうとしない人です。神のことより自分を優先する人です。結局、寿命が来て、自分のために蓄えたものを自分のために使うこともできなくなったのです。このたとえの金持ちが愚か者と言われた理由は、神のものを自分のものと思っていたことです。私たちにあるすべてのものは、神のものです。造り主のものです。それを自分のものと思っているところに誤りがあります。次に、私たちは何のためにそれらを所有しているのでしょうか。それは、管理するためです。創世記には、地上のあらゆる生き物を支配させるために人を造られたとあります。また、私たちの与えられた賜物を神の良い管理者として、互いのために用いなさいとあります。いのちは神のものであり、神の主権の中にあります。そして、それが私たち一人一人に与えられているのは、様々に与えられたものを管理するためです。金銭を含めて、家も土地も家族も健康もすべてが神から委託されて管理するためであります。

神の前に富む人生:

それに対して、神の前に富む人は、マタイ25章のたとえにあるように、神から預けられた二タラント、五タラントの財産を用いて、それぞれを倍にしたしもべのようです。賜物を豊かに活用した人です。それは天に財を蓄える人です。そして、主人からこう言われた人です。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』そして、そのような人は、(マタ5:29)『さらに与えられて豊かになる』ひとです。具体的には、自分に与えられたところで最善を尽くす人です。神を信じ、礼拝し、賛美して、祈る人です。神の喜ばれることを優先して、家族友人を大切にして、人に親切にする人です。神のわざに励む人です。その人は、キリストと知らずに隣人をもてなす人です。また、賜物と言われる能力や才能も人それぞれです。マタイの福音書25章のタラントのたとえでは、一タラント、二タラント、五タラントをそれぞれのしもべに主人は与えて旅に出かけたとあります。前にも話しましたが、一タラントは6000万円です。神が私たち一人の信者にお任せになっている賜物は決して小さなものではありません。預かった一タラントを土に埋めて、自分には神に用いていただく賜物はない、といった態度をとったしもべを神は怒られました。

私たちクリスチャンは、それぞれが与えられた賜物を思いと力を尽くして十分に用いていただく必要があります。神は、それを三十倍、六十倍、百倍に祝福してくださる神なのです。そこに「持っているものはますます与えられ、持たないものは持っているものまで取られる」という霊的な原則が働くのです。また、財やいのちは私たちにテストとして与えられています。いのちをどのように使うかが試されています。すなわちこの地上に生きている間にそのいのちを神の栄光のために、永遠の御国のために使うか、あるいは反対に、自分の満足、自分の欲のために使うかを神は見ておられます。今ひとたび、私たちは神から委託されたものを用いて主の栄光のために用いたいと思います。それは、別のことばでいえば、天に宝を積むということです。イエス様は地上の宝とはどんなものであるかを示しています。それは、「虫とさびで傷物となり、また、盗人に盗まれていく」ものであるといわれました。すなわち、どんなに蓄えても人の心を満たすものではなく、価値も変わるし一時的なもので、この世を去るときには全部残していかなければならないものだというのです。ですから、永遠に価値の変わらない、持つ人の心を豊かにして、この世を去るときも持っていけるような宝を積みなさいと言っているのです。

神は永遠のいのちを無償でくださる:

人類は、高慢になって神に届こうとバベルの塔を建てました。そこで、神は人のことばを混乱させて、言葉が通じないようにして、その町から人々は散らされました。人類はその事件以来、自分の力で文明文化を築き上げてきました。以来、人は神から離れて、神を認めず、神を意識せず、神なき世界を築いてきたのです。そして、文化や経済が人を豊かにし、人類を平和にし、個人のたましいに平安を与えると錯覚してきました。しかし、人は依然、罪に縛られて自由を得ることができずにいます。人類は平和共存を願いつつも自らの罪の力により争いから解放されることなく現代に至っています。この愚かな金持ちは、神を認めない人間の姿です。その様な自らを救うことのできない人類、そしてあなたを神は哀れんでおられます。神はあなたを、罪と死と悪魔から救い出すために御子イエス・キリストをくださいました。そして十字架という代価を払って贖いだしてくださったのです。あなたはそれを無償で受け取ればよいのです。いのちの主権は神にあります。神は呪いの神ではなく、祝福の神です。是非、神が無償で提供してくださるこのイエス・キリストという宝を思いを変えて受け取って永遠のいのちを自分のものとしてください。

真の隣人になるために

2017年9月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

<要約>

永遠のいのちは行いではなく恵みによって与えられる:

この律法学者はイエス様に質問しました。「何をしたら」永遠のいのちを自分のものとできるのか?です。彼は、行いによって何らかの救いが得られると考えていました。恵みによって救われるという理解はなかったといえます。もし、人が行いによって救われるというのなら、どこまで行いを積み上げたらよいのか?どのくらい行いを積んだら救いに達するのか?その基準はどこにあるのでしょうか。これは、人生の命題ともいえる質問です。他の宗教では、救われるためには、行いが求められます。また、ある宗教では、祝福を得るためには 多額の献金が求められます。お分かりのようにそこは比較の世界です。いつまでたっても平安も確信もありません。不安になるとそれを行いや献金で解消しようとするからです。人間の教えを教えとするならば、そうなります。永遠のいのちは人間の行いによっては得られない、神が与えてくださる恵みです。この律法学者は、周りにいる取税人や遊女など、さらに異邦人、他の一般の人と自分を比較して考えていました。自分はこれらの人々のように罪人ではない、自分は正しく生きていると思っていたようです。自分はたぶん天国に行けると考えていたのです。その心を見抜いたイエス様は、逆に、律法には何と書いていますか?どうよみますか?と彼に質問しました。そうしたら、彼は、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」と答えました。彼が良い答えをしたので、イエス様は、その通りです、と褒めました。次に、これをどう読むかです。これは、実に、律法である十戒を包括する言葉です。これらは、行いを言っているのではなく、心の姿勢を言っています。そして、神に対する心の姿勢が、他のすべてを決定するのです。隣人への姿勢も変わるのです。律法をどう読むか?ということですが、それはまず、神を恐れ、愛し、信頼することをすべての行いに優先させるということです。神を愛するということが具体的に隣人を愛する行為にあらわされるからです。心にあることが行いとなって出てくるのです。隣人を憎んでいて、同時に神を愛しているということはあり得ないと言うのです。この律法の専門家は、守ることで永遠のいのちを得ることができる規則を知りたかったともいえます。しかし、聖書は規則を守ることによっては救いを得ることはできないと言っています。神は、心にある信仰を見ておられるのです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。この律法の専門家は、善行に励み、規則を守る生活をしてきたでしょう。しかし、そのことで他の人より優位に立って高慢になっていました。自分を正しい人間と主張していたのです。永遠のいのちを、行いによって求めたので、行いは自分をアピールするための道具となったのです。真の愛から出たものではなくなったのです。イエス様はそのことを教えたかったのです。永遠のいのち。それは、罪と死と悪魔からの救いともいえます。それは人間の努力や行いによって得ることはできません。神がキリストを通してあなたに受け取ってもらいたいと提供しておられます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。

あなたの隣人となったイエス様:

ところが、かれには、すでに行いにおいて律法を実行していたと自負していたのでしょう。自分の正しさを示そうとして、イエス様に次の質問をしました。「わたしの隣人とはだれのことですか」と。そこで、イエス様は彼の「隣人とはだれですか」という質問には答えないで、「良きサマリヤ人のたとえ」をされたのです。彼に、聖書が言う本当の隣人とは何かということをわからせるためにこのお話をなされたのです。このたとえ話を通して、イエス様は、彼の「隣人とはだれですか」という問いのお応えになったのです。隣人は誰かではなく、憎むべき敵が隣人になった、という話ですから、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。一人のユダヤ人が旅をしていて、強盗に襲われ、半殺しに会いました。強盗に襲われたユダヤ人を最初に見たのは祭司でした、彼は宗教指導者ということもできます。次に見たのはレビびとです。これも同じく、この律法の専門家と同じように宗教とかかわっている人々です。彼らは、苦しんでいる人を見て、反対側の道を通って行ってしまいました。祭司は律法の規定により、死んだ人に触れてはいけないという決まりがあるので、死んでいたと思って近づかなかったかもしれません。また、面倒に巻き込まれたくないと思ったかもしれません。レビ人も同様な態度をとりました。三人目のサマリヤ人は、ユダヤ人とは昔からの宿敵でしたので、最も助けてくれそうにない人でした。しかし、そのサマリヤ人の男が彼を助け、介抱するのです。彼はその場で最善を尽くしました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とイエス様は、その律法の専門家に聞きます。かれは、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。この物語の「あるサマリヤ人」はイエス様であると多くの方々が考え、慰められてきたと思います。イエス様の心を心とすること。心から隣人を愛すること。愛は動詞であるといった人がありますが、行いがなければ愛は見えてきません。それらのことは皆正しいし、この個所から隣人愛の実践が生まれると思います。同時に、「自分と同じように隣人を愛しなさい」ということはどんなに困難なことでしょう。自分を振り返っても、愛の行為をしたつもりでも、感謝をされないと相手を悪く思ったり、避難したりもします。いつも応答を求めています。見返りを期待しないで愛することができない自分を見ます。結局、この律法の専門家と同じように、自分の正しさを周りの人々に誇示しようとしているのです。ましてや、敵と言われるような関係の悪い人に対しては、口もききたくないのが実情です。イエス様は、このサマリヤ人のように、傷ついている人を見て、かわいそうに思っておられます。そして、このサマリヤ人のように無償の愛をもって助けてくださいます。そればかりでなく、ご自身のいのちを捨ててまでもあなたを愛していることをお示しになりました。それが十字架です。私たちはそのイエス様にまごころから感謝をささげたいと思います。また、私たちは真心をおささげしたいと思います。そして、イエス様に献身し、どんなことがあっても従っていきたいと思います。

赦し=人類の最大のテーマ

2017年9月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

罪人をあわれみ救う神:

王はしもべと清算したいと思われました。一万タラントの借金がある男が呼ばれました。一万タラントという額は今の金額では、六千億円ということになります。彼は返済できなかったので、王は彼に、自分も妻子もすべての持ち物を全部売り払って返済するように命じました。「自分も妻子も売り払って」というのは厳しいことです。返せなければいのちをもって償うこと、それがルールです。罪の負債にはいのちを要求するのです。しかし、驚くべき大逆転が起こっています。その男がひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言ったので、王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。父なる神のみ思いは、尽きない憐れみと言えます。罪に苦しむ人間に対する神の御思いは、かわいそうに思うこと、哀れみです。そして、罪の束縛から解放するために神は、イエス・キリストをお送りになったということです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とある通りです。神は地上の人々の罪を清算しなければなりません。しかし、誰一人自分の力では償いきれないのです。清算できないのです。そこで、代わりにキリストが償ってくださったのです。父なる神はキリストの贖いのゆえに罪びとを赦すことができるのです。つまり、キリストが罪びとの身代わりとなってご自身のいのちで負債を払ってくださったのです。それが十字架です。

大きすぎて負いきれない罪:

なぜ、イエス様は、一万タラントという金額を例話に使われたのでしょうか。読者に何を、イエス様は分からせようとしているのでしょうか。それは、私たち人間は、自分の罪の大きさがわかっていないということです。そして、この男は、自分は六千億円を免除されたのに、仲間に貸した百万円は赦さなかったというのです。これは、「自分の罪がどんなに赦されているかがわからないので人の罪を赦すことができない」人間の罪深さを示しています。また、イエス様が一人の男の負債を一万タラントで表した理由は、人間一人一人がおっている罪の負債は、その人が自分の力で償うことはとてもできないことを示しています。創世記で、弟アベルを殺したカインが言った言葉があります。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と。それは同様に、わしたちすべての人間の告白です。ですから、誰でもが、神の恵みが必要であります。神の恵みは、キリスト・イエスによる救いです。救いは、自分の内側には全くないのです。救いは外にあるのです。神が与えてくださるのです。それは受けるに値しない者への神の愛です。私たちは信じて、ただそれをいただくのみなのです。

赦すことによって赦される:

自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。自分はそんなに罪があるとは思えない、みんなと大体仲良くやっている、うそをついたりごまかしたりしていない、税金も納めている、約束したことは守っている、テレビのニュースに出たあの人殺しの様な罪人ではない、今日一日罪らしい罪は何もなかった、と思うでしょうか。これは、イエス様から見て喜ばれる態度ではありません。ルカの福音書にある、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った取税人の祈りを神は喜ばれました。私たちの祈りはいつもこうあるべきです。私たちは、熱心に悔い改めることです。王から「悪い奴だ」と言われたその男は、しもべ仲間を牢獄に入れた結果、自分も牢獄に入れられたのです。赦さないならば、相手も自分も牢獄につながれます。自由を失うのです。赦すなら、相手も自分も解放されます。1945年フィリピンのキリノ大統領は、十万人の国民を虐殺した日本軍の戦犯137人(うち78人は死刑判決)全員に対して、国民感情を押し切って大統領権限で特赦を出しました。「赦さなければ、我々が前に進めない」「赦さなければ平和はない」と説いたのです。赦さなければ、いつまでも過去に縛られたままになります。謝罪されなくても赦す人は、自由になるのです。赦すことは自由を得ることです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言しました。赦しは宣言です。イエス様は、十字架の上で、自分を十字架につけののしる人々のために祈りました。「父よ。どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているかわからないからです。」赦すことは勝利です。そして、赦すことは愛することです。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることの気づき神に感謝するのです。

種が蒔かれた四つの地とは

2017年8月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

<要約>

みことばは素直に心を開く人に届く:

イエス様は群衆にたとえで神の国の奥義を語られました。種まきのたとえです。イエス様は、耳のあるものは聞きなさいと進めています。すると弟子たちは、イエス様に尋ねます。「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか?」と。御国の奥義を聞きたいという求道心をもって真剣に聞く人には、いよいよ知識が豊かにされます。ところが、敵対している人あるいは無関心な人は聞いても悟らず、ますます、真理から遠ざけられるのです。もし、あなたが、求める気持ちと素直な心で聞くならば、もうすでに良い地なのです。自分の心は、道端、岩地、いばらの土地ではないように願うからです。みことばの種はすでにまかれています。また、常に届けられているのです。しかし、求める気持ちのない人、素直な心になれない人には何の意味もないのです。

今、届けられている救い:

「あなた方の目は見ているから幸いです。あなた方の耳は聞いているから幸いです」と。イエス様の言わんとすることは以下のようです。「旧約聖書に語り継がれてきた救い主を今、目の前で、あなた方は見て、その声を聞いているから幸いです。それはわたしだからです。」今、復活のイエス様は目には見えませんが、ここにおられます。そして、あなたを招いています。「わたしはイエス・キリストです。あなたが見ようとすれば見えます。聞こうとすれば聞こえます。感じようとすれば感じるのです」と。福音は届けられています。イエス・キリストの救いはすべての人に提供されています。しかし、それをあなたが、信じるという信仰によって受け止めなければ、イエス・キリストを知ることにはなりません。イエス・キリストによる救いは、神がすべて用意してくださったことです。私たちはただ、それを受け取ればよいのです。受け取るためには両方の手を開いて差し出さなければなりません。心を向けてキリストをお迎えするのです。キリストに耳を傾けなければなりません。

実を豊かに実らせる秘訣:

この四種類の土地は、だれにでもある心の在り方です。それに伴う生き方を示しています。求める気持ちのある人は、良い地でありたいと思うのです。そして、他の三つの生き方をするまいと思うのです。ですから、これは、読者であるあなたの生き方に対する問いと言えます。また、このたとえは、あくまでも心の在り方についての話であって、行いについての話ではありません。何をするかのドゥーイングではなく、どうあるべきかのビーイングです。イエス様は良い心の在り方の前に他の三つの心の在り方について警告を発しています。それは、人の心に蒔かれた福音の種が定着し実らせることを妨げる三つの障害、あるいは三つの敵であるということです。第一のものは、「その人の心に蒔かれたものを奪い取っていく悪い者です。」つまり、悪魔、サタンです。第二の敵は、岩地です。これは人の内側にある敵です。岩地は私たち人間が生まれながら持っている悪に傾く性質と言えます。

第三の敵は、いばらの土地です。これはこの世です。この世の誘惑です。この世の価値に引っ張られて、世のことに心を使い、神の国と神の義を第一とすることができずに、世に妥協してしまいます。聖書は運命論ではありません。読者に、この四番目の土地であることを勧めています。私たちが、素直に読めば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らす人になりたいと思うのは当然でないでしょうか。福音の種は蒔かれています。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちの救いが、あなたの心に届けられています。この種まきのたとえを通して、イエス様は何を読者に求めておられるのでしょうか。あなたが良い農夫となり、あなたの心の土地を管理しなさいと言われているようです。種がまかれて、芽が出て実を実らせるのに必要なのは、水と太陽です。それらは神が与えてくださることです。良い農夫がすることは、土地をよい土地に保つことです。鳥を追い払わなければなりません。石ころを取り除かなければなりません。いばらや雑草を取り除くことです。それは継続的に続けなければなりません。そうすれば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らすことができると約束しているのです。神が実らせてくださるというのです。イエス様は、今日も、あなたの人生に百倍、六十倍、三十倍の実を実らせてあげよう、と皆さんをここに招いてくださいました。どうか良い地となって、みことばの福音をいただいてください。素直な心受け入れる心、何の努力も功績もいりません。主は、あなたに豊かな実を実らせ、永遠のいのちを与えてくださいます。

水路のそばに植わった木

2017年8月 20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇1篇1~6節
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

<要約>

聖書は幸福と希望を与える書:

1篇は詩篇の序論ともいえます。それは、正しい人とは?幸いな人生とは?何かです。聖書は神が人に当てたラブレターであると前に話したことがあります。神は読者であるあなたに「わたしの目にはあなたは高価で貴い存在である。私はあなたを愛している。」と語っています。また、「幸福な人生を送ってもらいたい、だから、聖書の教えに耳を傾けて生きなさい」と勧めています。私は、聖書を読み込んでいる人で、落胆と失望の人生を歩んでいる人を見たことがありません。聖書を読み親しんでいる人は、外目はどんなに悲惨に見える状況でも希望と感謝をもっているのです。ですから、聖書は幸福と希望を与える書であるといったのです。

正しい人と悪しき人の違い:

幸いな人は、何をしても繁栄する、と断言しています。それは、水路のそばで水と養分を十分に得ている木のようであるからだ、というのです。ここで注目していただきたいのは、聖書の言う正しい人は、神との関係において正しい人間だという意味です。その人は主の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさんでいる人だというのです。主の教え、それは狭義では律法ですが、この場合、聖書のみことばであるといってもよいでしょう。「罪」と「人」と書いて、聖書では「つみびと」と読みます。これを罪人(ざいにん)と呼んだ人がいます。ざいにんは犯罪者で、悪者と一緒で、特別な人たちを指します。しかし、罪人(つみびと)というのは、聖書によるとすべての人を指します。すべての人は罪びとであると聖書は指摘します。悪者、罪人について、これは、神との関係が壊れている人のことで、それは、風が吹き飛ばすもみがらのようだと表現しています。万物の創り主である神は、ご自身の栄光を表すためにすべてのものをおつくりになりました。そして、最後に人を造られたのです。人に自然界を管理させました。すべては完全でよいものでした。人は神の似姿であり、人の良心には神の基準が書きしるされていました。神と人の関係は愛と信頼の交わりで、完全な関係でした。しかし、最初の人アダムが神の戒めを破り、自分を神の上に置いたのです。それ以来人には罪が入り、神との愛と信頼の関係は全く失われました。人の良心は曇ってしまい、曇った鏡のように、正しいこと悪いことを映し判別することができなくなりました。ですから、人は、最初は悪いと思って良心が疼いてもいても、いつの間にか慣れてしまって、なんとも思わなくなってしまうのです。堕落した人間の良心とはそういったものです。

水路に移植され実を結ぶ幸いな人:

それでは、神との関係が失われてしまった人間に、どのような回復の道が与えられたのでしょうか。罪のために曇ってしまった私たちの良心に代わって、神はモーセを通して十戒を与えてくださいました。十戒は律法ですが、それには人はこうあるべきであるという神の基準が書かれています。ですから十戒を守ることができれば、幸せになるのです。「まことにその人は主の教えを喜びとし」とあるように、神との関係が正された人は、十戒を守ることを喜びとするのです。ここで注意していただきたいのは、正しい人が正しい行いをするのであって、正しい行いが正しい人をつくるのではないということです。神との関係が正されること、すなわち、神に立ち返って、神から正しいとされた人は、神の戒めを喜びとするのです。しかし、幸いな正しい人にされるためには、3節にあるように、水路のそばに植えかえられる必要があるのです。この水路というのは灌漑によってできた水路を意味します。それでは、「水路のそばに植えかえられた」というのはどういう霊的な意味があるのでしょうか。水路の水は、神のいのちのへ水です。私たちは神のいのちへの水をいただくために、植え替えられなければなりません。それにより、神のいのちとつながるのです。それは神の与える水、キリストが与える水です。それは聖霊ということができます。イスラエルの砂漠で育つ豊かな樹木のように、いのちの水がある土地に植え替えられることです。具体的には、自分の力により頼んで生きようとすることをやめて、神を信じ、キリストにつながり、聖霊のいのちをいただくのです。かくして、神のいのちとつながり正しい関係に入り、豊かな実りを見ることができるのです。人は自分の力で自分を清くすることはできません。難行苦行は一見良いように見えますが、かえって人を高慢にするのです。良い行いがよい人をつくるのではありません。良い行いをしてもよい人間にはなれません。良い人が良い行いをするのです。そのためには、思いを変えて、あなたを造りあなたを愛しておられる神を仰ぐことです。聖霊があなたのうちに住んでくださいます。あなたは変えられます。「すべては良くなります。あなたは、必ず幸せになります。」

復活は最も確かな希望

2017年8月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰコリント15章1~20節
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

<要約>

福音の最も大切な内容:

福音理解において最も大切なことは、最初に、イエス・キリストが聖書に示す通り、私たちの罪のために死なれたことです。すなわち、十字架です。イエス・キリストが私たちの罪の代わりに十字架で死なれたことです。そして、イエス・キリストは確かに墓に葬られたのです。それから復活して、ペテロに表れ、他の十二弟子に表れ、その後40日間地上で500人以上の兄弟たちに表れました。そして、イエス様は、オリーブ山で弟子たちやイエス様の家族の見ている前で、天に昇って行かれたのです。そして、復活の主は最後に教会の迫害者であるパウロに表れてくださったというのです。このことはまだ多くの証人たちが生きているので、動かされることのない事実なのだと念を押しています。イエス様の十字架の死は私の罪のためであったこと、身代わりの死であったこと、そして、復活は罪の赦しと永遠のいのちの確証なのです。これが福音です。そして、多くの人々がこの福音によって、人生が変えられて、迫害をも恐れないで、大胆に喜びと感謝をもって生きている、その様を彼らは見聞きすることができるからです。福音を理解する力は聖霊によってのみ与えられ、福音の理解は人間の知恵によっては深める事はできません。御霊は語りかけ真理に導き、イエス様の栄光を現し証しします。御霊はイエス様の心を受けてそれを知らせるのです。すなわち福音を理解する力を与えるのです。

福音の及ぼす力:

福音の及ぼす力とは何でしょうか。その力が、パウロに見事に表れたのです。かれは、教会とクリスチャンの大迫害者でした。ダマスコ途上で復活のキリストが現れて、彼の上に大逆転が起こりました。ダマスコ途上でイエス・キリストとお会いした時にまばゆい光によって目が見えなくなりました。そして、飲まず食わずの三日間にパウロの心の目が開かれたのです。ここに聖霊の大いなる働きがありました。その後、パウロはアラビアに引きこもって数年旧約聖書の預言を全部調べたのでしょう。パウロはそれまで、パリサイ派の指導者ガマリエルの弟子として、旧約聖書を知り尽くしていました。そして、その後に新約聖書のローマ書をはじめとして、13巻の書物を書いたのです。ここに聖霊がパウロに臨んで、福音を理解する力、殉教を恐れないで大胆に伝道する力を与えられました。パウロがキリスト教の教理を体系づけたといえます。そこで、この福音にある最大の希望は復活にあるといえます。

復活の信仰:

パウロは、キリストの復活とともに私たち信者の復活について述べています。もしキリストの復活がなければクリスチャンも復活する事はないでしょう。そして復活がなければ私たちの信仰はむなしいものとなります。実際、キリストの弟子たちも、キリストが十字架にかかって処刑されたときには、皆がっかりして一時は散り散りになってしまったのです。

最後は死んでしまって終わりか、と言うことです。もしそこまでのキリストであれば私たちのキリスト信仰は、実質がない、みのりがない、むなしいものであり、今なお私たちは罪の中にいることになります。キリストにあって死んだ者たちは滅んでしまったということです。しかし、復活があるならば、信仰には実質がある、確かな体験がある、答えがあるということです。それは罪からの解放であり永遠の命であります。私たちの人生はこの世だけで終わりません。それは、永遠に続く命と祝福に溢れた人生となるのです。そして、クリスチャンはこの世で最も希望のある存在者となるのです。今、日本では、お盆の時節です。そこでは、死者を覚えて、お墓参りやいろいろな行事があります。お盆休みということばも普通に使われています。ここに日本人の死生観をうかがうことができます。人は、死ぬことへの恐れがあると同時に、死は当然のこと自然なことであり、仕方のないことと考えているのです。仏教では、傷病労苦は人生にはつきものなので、どうにもならないことはあきらめることしかない。心身を悩ませる心を煩悩と言います。ですから、煩悩を払いあきらめに生きるのです。仏教の本質は、あきらめです。そして、日本人の多くはこの仏教思想に深く影響されています。しかし、そこには救いはありません。聖書は、人間の現状について、罪と死の問題を指摘しています。そして、罪と死と悪魔からの救いと復活の希望を与えます。仏教的思想に生きる日本人に復活の希望を伝えていかなければなりません。キリストの十字架と復活は、私たち人間のすべての罪を赦し、永遠の命与えるために神がなしてくださった歴史的事実なのです。それが、この「キリストによって全ての人が生かされる」ことの意味です。そして、キリストを信じて、復活のいのちを自分のものとしているものは、最も幸せな人生を送るものとなるのです。

平安と希望の約束

2017年8月 6日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>エレミヤ書36章1~8,21~28節
36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。
36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。
36:6 だから、あなたが行って、【主】の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした【主】のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
36:7 そうすれば、彼らは【主】の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」
36:8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの巻き物を読んだ。

36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。
36:25 エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れなかった。
36:26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じたが、【主】はふたりを隠された。
36:27 王が、あの巻き物、バルクがエレミヤの口述で書きしるしたことばを焼いて後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
36:28 「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

<要約>

神のことばである聖書は不変不滅:

時代や背景が違う多くの人々によって書かれているにもかかわらず、聖書のテーマは一つに貫かれています。それは、「人類にもたらされた救い」です。旧約聖書の舞台は、神の造られた世界と人類です。そこで、人類に罪がはいりました。神は人類を救うためにユダヤ民族を選ばれました。ユダヤ民族を通して神の救いと祝福を全人類に届けようとしました。しかし、彼らはそのような神が与える使命に目覚めることなく、神を無視して、神から離れ思い思いの道を歩んでいきました。その間、神は幾たびも預言者を遣わして、神のことばを伝えました。エレミヤもその一人です。神の民への裁きの警告、そして、神の哀れみ、救いの計画など、様々な人々を通して語られたのです。そこに、聖書にははっきりした神のご意志とご計画が明示されています。聖書には一人の著者である神がおられることの証明です。新約聖書はユダヤ民族の中から全人類の救い主がお生まれになり、すべての民に救いと祝福を届ける準備ができたことを告げています。そして、この良き知らせが人々によって全世界に語り続けられるようになったのです。聖書は神の歴史、ヒズストーリー、神の人にかかわる歴史をつづったものであるといえます。神のご計画と人を救うために行われた神の行為が書き綴られています。聖霊がそれぞれの著者を動かして、彼らの個性や知性そして状況を用いて書かしめたので、人のことばでありますが、それ以上に神のことばです。これまでの歴史を通して、幾度となく聖書は消滅を免れてきました。危機にありましたが、神の御手が働いて守られたのです。歴史において、聖書を撲滅させようと幾多の試みがなされてきましたが、それとは反対に、現在では、聖書は世界で一番普及している書物になっています。このことを見ても、聖書は単に人間が作り出した書物ではありません。その真実性、確実性は歴史を通して貫かれています。神がご自身のいのちをかけて、人類を罪から救うという壮大なご計画とその成就を記した書物です。「天地は滅びます、しかし、私のことばは決して滅びません。」とイエス様が言われたように、聖書が消滅することは絶対にないのです。

神のことばを軽視する社会:

エレミヤは、最も暗い悲劇的な時代に生きた預言者です。その時代は、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされバビロンに捕え移されました。国家全体にわたり、人々はバアルなど土着の宗教に心を奪われていました。それに伴う性的な罪も深いものでした。不義や不法もはびこっていました。宗教家も不正の実をむさぼり、その場しのぎの偽りの預言をしました。そして、エレミヤは指摘します。「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている」と。エレミヤは、民を導く、王や指導者の罪ばかりでなく、特にも宗教指導者たちの罪を指摘します。現代においても同じです。国家の為政者、指導者は大きな責任を負わせられています。また、それ以上に、牧師の責任も大きいと思います。なぜなら、牧師はこの地上のことばかりでなく、あなたの人生の永遠についても神のことばを託されているからです。人々は耳に聞こえの良いことを求めます。しかし、牧師は聖書から神のメッセージを語らなければなりません。ですから、牧師は皆さんにとって耳の痛いことも語らなければなりません。「あなたは罪びとです」というのは勇気がいります。しかし、みことばを割り引いて語ってはなりません。心を見られる神は、すべての人の心のはかりごとを知っています。そして、人の思いはすべてにおいて悪に傾いていると指摘しています。最大の罪は、あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神を認めないことです。その実態は、神より自分を上位に置いているのです。神を恐れないということです。ですから、わたしは毎週同じことを語っています。それは、覚醒と回心のすすめです。目を覚ましなさい、ということと回心、悔い改めてイエス様を救い主として信じなさいということです。神の民への怒りと憤りの預言は、神殿でエレミヤの預言を筆記したバルクによって読み上げられました。民や一部の首長たちはその内容を聞いて恐れたとあります。そして、彼らはそれを王に聞かせなければならないと考え、行動しました。それに対して、王や首長たち、王の家来たちはどうでしょうか。彼らは神の真意を理解することなく、反逆したのです。みことばの巻物をナイフで切って暖炉にくべたのです。エホヤキム王をはじめ首長たちや家来たちは、高慢になっていました。エレミヤを通して語られた神のことばを悔い改めて受け入れることがなかったのです。

悔い改めて立ち返るのを待つ神:

神は何を期待したのでしょうか。それは、回心です。あなたが神に立ち返ることです。神は、私たちの罪を指摘するのは、私たちを責め苦しめるためではありません。神の真意は、当時のイスラエルの民に対しても、現代の私たちに対しても同じです。聖書は私たちの罪を指摘します。それは、私たちが悔い改めて立ち返るためなのです。ひいては、神が私たちに喜びと希望を与えるためなのです。悔い改めて、イエス・キリストをあなたの救い主として信じることです。神は第一に、そのことをあなたに期待しているのです。あなたの罪に対する責めの一切をイエス様は身代わりとなって十字架で処理してくださいました。ですから、信じるだけでいいのです。何の功績もいりません。神は、絶望と思われる状況の中で、神の民に計画を立てておられたのです。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と。この預言のことばは成就しました。ユダ王国はバビロニアに捕囚されて滅ぼされましたが、70年後バビロニアに代わって起きたペルシャによって、祖国帰還が許されるのです。神殿も再建されて、彼らは夢を見ているもののように喜びに満たされるのです。みことばは歴史において必ず成就します。また、このみことばは、信じて受け止める者たちにも成就します。信じる者に、神は揺るがされることのない平安と、決して失望に終わることのない希望を与えてくださるのです。

たいせつなあなた

2017年7月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書19章1~10節
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
<要約>

すべての人にある孤独の実態:

3節の「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」という一文からザアカイの状況、日常が見えてきます。ザアカイは町の有力者でしたから、「ザアカイさん、前の方へどうぞ」と周りの人たちも声をかけてくれたと思います。しかし、誰もが彼を無視していたのです。そればかりではなく彼は、嫌われものでした。なぜかというと、不正な利をむさぼっていたからです。周りの人々からの彼への非難や悪口を耳にしていたでしょう。だから、周りの人々の敵意から身を守るためにますます人を遠ざけていたのかもしれません。そこに、彼の寂しさ、孤独が見えてきます。孤独は広辞苑では、「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと」です。ことばと心の交流がない状況です。一人ぽっちでさみしい人格、満たされない心の空洞ともいえます。ザアカイは取税人の頭となり、大金持ち、何でも手に入る状況にありました。しかし、彼には、常に孤独、寂しさがありました。真に魂の平安と充足を与えるもの、ザアカイの人格の深いところで、求めていたことは明らかです。それは彼の「イエス様を何としても見たい」と言う思いからわかります。彼の心の求めが木に登るという行動に駆り立てたからです。ザアカイが求めていたものは、彼を孤独から解放するものです。それは彼の一人ぽっちでさみしい人格を満たすものです。心の空洞を満たすものです。先日、高校生が病院に来ました。朝、起きると体調が悪くなり、吐き気と頭痛で学校へ行けなくなってきているということです。診察して身体はどこも悪くなかったので、心に問題があるのです。彼女はいつも学校では大勢の友達と明るくふるまっているようですが、非常に孤独であることがわかりました。ネットで四六時中やり取りしていますが、それでは満たされないのです。逆に自己防衛のために、仲間外れにされないためにネットがつながるようにしているのです。いつもグループで行動していて、トイレに行くにもみんなで一緒に行くそうです。「なぜ」と聞いたら、トイレに行こうとして自分がひとり抜けると、残った友達たちがみんなで自分の悪口を言うからです。これは非常に孤独といえます。広く付き合うけれども本当の友達ができないのです。心の悩みや喜びを分かち合う親友がいないのです。今の高校生の孤独です。彼らには、心の居場所となって話を聞いてくれる人が必要なのです。心の居場所がない孤独です。何一つ不自由のない家族の中にいても孤独な若者もいます。家族の皆は高学歴で社会的な地位も高い職業についていますが、彼だけは、日雇労働していて収入が低いのです。年末年始に彼は家族の元へ帰ってくるのですが、居づらくて、すぐに自分のところへ帰ると言うのです。結婚したい相手がいるのですが、収入が低いので父親が反対しいています。彼は、孤独なのです。それは、自分がありのままに受け入れられていない孤独です。また、外目からは何の問題もないような夫婦にも孤独があります。同じ屋根の下に生活していますが、食事は別、部屋も別、一日口を利かないこともまれではないのです。これははっきりした孤独です。しかし、長年連れ添っていてお互いに分かりあっていると思っていても、ふとしたことから、夫婦もお互いに分かり合えないで孤独を感じているのです。これは人間としての限界だと思います。お互いが分かりあえない孤独です。最近は、家族のきずなも薄れて、独居老人が知らぬ間に亡くなっています。それを孤独死と言います。お互いの人間関係が疎になっています。周囲の無関心からくる孤独です。すべての人には、気づかないでいても孤独の実態があります。聖書は、すべての生まれながらの人は、失われているというのです。もともと、人は造り主である神によっていのちを与えられ、神のために生きる存在として造られました。ですから、人は造り主に出会うまでは心の空洞を満たすことができないのです。

あなたを見つけ出し孤独を満たしてくださる神:

ザアカイは先回りして、道端に植わっているイチジクぐわの木によじ登って、イエス様がお通りになるのを待っていました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、イエス様を一目見たかった、自分が心の奥底で探していたものを持っておられるかもしれない。自分がずっと求めていた救いを与えてくださるかもしれない。その時です。イエス様の方で下から見上げて、名指しで呼んでくださった事です。イエス様は、ご自身のご計画の中にザアカイ訪問を組み込んでおられたのです。偶然の出来事ではありません。同様に、イエス様はここに招かれて集って来た方々に、声をかけておられます。イエス様が「あなたの家に泊まる」という意味は、「あなたを見つけ出し祝福する」ということです。今日、皆さんは偶然にここにきていると思っているかもしれません。それは違います。今朝、イエス様があなたを見つけ出し祝福しておられるのです。マックス・ルケードという人が書いた「たいせつなきみ」という絵本があります。ある町には、一人の彫刻家によって造られた様々な人形が暮らしていました。かれらは、金色のお星さまのいいねシールと茶色のだめシールを持っていて、それぞれが町で出会う他の人形にいいところがあるとお星さまシール、失敗やダメなところがあるとだめシールを張ります。その中で、パンチネロという人形はいつも失敗ばかりで、外見も美しくなく、彼に会う人形たちは彼にだめシールを張ります。ある時、だめシールだらけになって落ち込んでいると、シールが一つも張られていないルシアという人形と出会うのです。彼女には誰かがシールを張ろうとしてもシールはすぐ落ちて張り付かないのです。パンチネロは彼女に聞きます。どうして君にはシールがくっつかないの。彼女は、山の上の家にいる彫刻家のエリを紹介してくれました。ネロは勇気を出してエリに会いに行くのです。エリはネロを待っていたとばかり歓迎してくれました。そして、ネロのことは何でも知っていました。そして言いました。「わたしがお前を造ったのだよ。私の作ったものには失敗はないのだよ。お前は私のもの。わたしはお前を大切に思っている」と。「皆がお前をどう思うかより、私がお前をどう思っているかが大切なのだよ」と言いました。そして、「いつでも来なさい、待っているよ」と言われました。ネロは喜んで帰途につきました。だめシールは一つ一つが剥がれ始めたのです。主人公のパンチネロは、自分の作り主に会いました。それと同じように、もうすでに、あなたも、あなたを造りあなたに命を与えられている創造主なる神に出会ったのです。また、もし、あなたが心を開くなら、聖霊なる神があなたの魂の空洞を満たしてくださいます。あなたをおつくりになった神は、あなたを高価で貴いものとみておられるからです。

神があなたのうちに住んでくださるとき:

聖霊なる神によって、あなたの魂の空洞が満たされたとき、あなたは、真のいのちの充足を得ます。それはあなたのうちで尽きない泉となってあふれ出るのです。イエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。イエス・キリストを自分の救い主と信じて心にお迎えしたザアカイは、もうお金に縛られる人生から解放されました。罪から自由になったのです。イエス・キリストを心に迎えると、罪と死と悪魔から自由になります。死からさえも自由になります。その人の内側から永遠のいのちの水が湧き出ているからです。