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アブラハム契約

2017年10月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記17章1~6節、18章1~15節
17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

<要約>

神の約束を受け取るためには:

アブラハムに神が現れて、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」です。それは、アブラハムと子孫を祝福すると言うのです。それに対して、アブラハムの方は神に信仰をもって従っていくのです。そこに契約が成り立ちます。その契約が、イサク、ヤコブへとそして聖書の登場人物へと次々に更新させられていくのです。ついには、イエス・キリストによって契約が完成しました。一方的なアブラハムへの約束はキリストによって完成しました。そして、これまでの一民族への約束が、今度はイエス・キリストによって全世界の人々への約束に広がり、そしてあなたにも及んでいるのです。私たちがアブラハムへの約束を受け取るには、どうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。神の前で全き者となるのです。それは、神との関係を正す生き方と言えます。神を恐れ、愛し、信頼することです。神を恐れているなら、私たちは襟を正して、神の前を歩むのです。神の前で真実を尽くします。同時に隣人に対しても真実を尽くすのです。罪を離れて、悪から遠ざかろうとするでしょう。また、神を愛しているのならば、神の喜ばれることを考えて行動します。愛する人のことを考えるのは喜びであり楽しいことでしょう。私たちは、いつも愛する人を心の中において、愛する人が喜ぶことを考えるものです。同様にあるいはそれ以上に神を愛しているなら、常に神を思い、神を喜ばせることを考え実行します。また、もし神を信頼しているのなら、目の前の出来事に振り回されることなく嘆いたり怪しんだりしないのです。神が万事を益と変えてくださることを信じ信頼するのです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に代えることです。

人を罪の呪いから救うために:

神は不妊の女性であるサラの胎を開かれました。そして90歳にしてイサクを出産したのです。これは、不可能を可能にする神の御技です。神は約束を果たされました。そして、アブラハムも神のご命令通りその子をイサクと名付け8日目に割礼を施しました。イサクは、アブラハム契約の実現の初穂となりました。アブラハムを通してすべての民族が祝福されるという約束が、彼の子孫を通して実現していくのです。イサクは不妊のサラから生まれたことでキリストのひな型です。イエス・キリストは生まれるはずのない処女マリアから生まれたからです。イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。当時の非常な長寿の時代でも90歳の出産は奇跡と言えます。でもこれは、ありうる奇跡です。とにかく、イサクは男と女から生まれた私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったので、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったことです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。なぜ、このようなことが起こらなければならなかったのでしょうか。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきています。生まれながらの罪人です。すべての人の持って生まれた罪の性質により、一人も神の前で、罪なしと判定されることはないというのが聖書の言うところです。ローマ書3章を見ます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このように、人間から生まれたすべての人は罪を持っているのです。それゆえに、そのままでは呪いの下にあり、神からの栄誉は受けられないのです。しかし、神様は罪の呪いの下にある人間をあわれんで救おうとなさいました。罪の呪いの下にある人間を救うためには、罪のない者が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。それが、イエス・キリストが受けた十字架です。生涯一度も罪を犯したことがない人、それが救い主イエス・キリストです。キリストの無罪性はどこから来ているのでしょうか。それは、マリアが聖霊なる神によって身ごもったことから来ています。イエス・キリストは人間としてお生まれになりましたが、同時に罪のない神としてお生まれになったのです。人を罪の呪いから救うために、無実の神が人となって代わりに呪われてくださった。そして、わたしやあなたのために呪いを祝福に、滅びを救いに代えてくださったのです。

救いと祝福を届けるために:

アブラハムの多くの国民の父という身分は、実は、イエス様が創り主である神を天の父と呼んだのと関係あります。イエス様以来、私たちも神を父と呼びます。神は、すべての人の父です。ですから、アブラハムは父なる神の型、タイプと言えます。名前、あるいは呼び名は、その人の働きや使命を表しています。では、クリスチャンの身分と使命は何でしょうか?Ⅰペテロ2章を見てみましょう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ここに私たちクリスチャンの身分と使命が書いています。「選ばれた種族」、「王である祭司」について、祭司は神と人の間に立って人の罪を神にとりなす人です。クリスチャンは、隣人のことを神にとりなす役目を持っています。王は権威と権力の象徴です。ですから、クリスチャンはみことばの権威に立って、隣人のために神にとりなす人々です。そして、その役目は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と書いています。すなわち宣教です。神がキリストによって完成してくださったこの「救いと祝福」をまだ、それを知らずに滅びに向かっている人々に宣べ伝えることが私たちの使命です。あなたの周囲の人々は依然やみの中にいるのです。どんなに世の中で豊かに有意義に楽しく暮らしている人々も依然やみの中にいることを知ってください。なぜなら、彼らは自らの罪によって呪いの下にあり神の栄誉を受けるには程遠い存在だからです。私たちは神の愛をいただかなければいけません。そして、その愛に押し出されて、キリストの救いと祝福を宣べ伝えていくのです。

試練を通して成長する

2017年10月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

試練と成長の正の連鎖:

エジプトで、妻サライを自分の妹と偽ってパロをだましたという失敗をしましたが、悔い改めて主に立ち返ったのです。自分の罪を覚えさせられたと同時に、自分の知恵や力で事を勧めようとする生き方が砕かれたのです。アブラハムは苦しみに会いましたがさらに謙遜を学んだのです。試練や苦しみは、マイナスではありません。それを通して、謙遜にされます。そして、神のあわれみと忍耐そして愛を知るのです。一難去ってまた一難という状況が発生しました。今度は持ち物が多くなって、アブラハムと甥のロトとの間に摩擦が生じたのです。彼らのいる土地は一緒に住むには十分ではなかったのです。アブラハムがロトに言ったことは、信仰に立った懸命な申し出でした。年長者として当然あるはずの選択権をロトに譲って尋ねました。ソドムとゴモラの地は滅ぼされる以前であったので、主の園のように、また、以前、滞在していたエジプトの地のように肥沃で潤っていたのが目に映ったのです。ヨルダン川の水により緑豊かな牧草地が広がっていたと想像します。ロトは、アブラハムの提案を聞いて、見た目によい方を選んで東の方へ移動しました。ロトと別れて後、アブラハムに主のことばがありました。神は、アブラハムにもう一度、子孫を地のチリのように増やし、その土地を永久に子孫に与えるといわれました。神は、祝福の約束を折々にアブラハムに語りました。折々に、神は約束をアブラハムに思い起こさせて、そして、彼は主を礼拝したのです。ここに、クリスチャンライフのヒントがあります。私たちがみことばを聞いて従う、すると神はみ心を示される、そして、神を礼拝する、信仰によって約束を受け止める、ということです。そこに、クリスチャンライフの成長のサイクルがあります。試練が起こるとみこころを求めて祈ります。すなわち礼拝します。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練に会うとこのサイクルを繰り返すのです。アブラハムは、成長の正の連鎖、成長のサイクルにあって信仰の成長を遂げました。アブラハムの最大の試練と勝利は、なんといっても、イサクをモリヤの山で主にささげたことでしょう。ここで、アブラハムは何を得たのでしょうか。アブラハムは、神からイサクをささげるように言われました。それはイサクを殺して全焼のいけにえとすることでした。イサクは死んでしまう。しかし、神はイサクを通して子孫を増やすといわれた、その矛盾に苦しんだと思います。そこで、アブラハムは、イサクが生き返ることを信じたのです。アブラハムが信仰によって、成長して、ついには復活の信仰を得たということです。私たちはみことばにより、復活を信じています。これは、アブラハムに与えられた信仰は御子キリストによって成就しました。そして、今後、すべての信じる者に成就するのです。

不信仰と堕落の負の連鎖:

アブラハムはロトに土地選びの優先権を与えました。それに対して、父なき後、これまで面倒を見てもらったアブラハムに感謝を表すことなく、また、神に祈ることもなく、ロトは躊躇なく目を挙げて、ヨルダンの低地全体を見渡したのです。目に見えないことより目に映る有利な物に心を置いているロトの姿が見られます。彼の心の中心にあったのは、神の栄光ではなく、自分の欲得でした。神を喜ばせることより、自分の利を求めて歩む人でした。ロトは邪悪な都市ソドムにいつの間にか住むようになったのです。邪悪な人々の住むところへとひきつけられていったのです。それは、神から離れた歩みです。ソドムはこの後、火と硫黄によって滅ぼされました。ロトとロトの家族はアブラハムの祈りによって、町が滅ぼされる寸前に救出されたのです。結果的に、ロトはすべての財産を失い、二人の娘だけを連れて山に逃れたのです。そして、ロトは、モアブ人とアモン人の先祖となるのです。双方ともイスラエルの敵となるのです。ロトは不信仰と堕落の負の連鎖に陥ったのです。聖霊に従うことなく自分の古い罪の性質に従う人です。アブラハムの下で神の約束を受けることもできたのに、世に埋没して、しまいには信仰を失ったのです。

天の都、キリストの支配に生きる:

アブラハムは、もう一度、神の約束をいただき、約束の地を縦と横に歩き回り神が与えてくださる相続の地を確認しました。そしてヘブロンに天幕を移して、そこに主のために祭壇を築きました。今後、アブラハムはこのヘブロンを拠点として、活動することになるのです。このヘブロンはやがてダビデがイスラエル王朝を確立した場所になります。すなわち、アブラハムへの約束の成就と言えます。しかし、まだ、カナンの地ではアブラハムは寄留者でした。これは何を意味しているのでしょうか。へブル11:9,10 にヒントがあります。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない」、それは神の民の姿です。そこでは寄留者でありました。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」とイエス様が言われました。クリスチャンは「世にあっては旅人であり寄留者」と書いてある通りです。アブラハムは「かたい基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。その都を設計し建設されたのは神である。」とある通り、彼はやがて来る神の国を意識していたと思われます。クリスチャンは、この世の中に生きていますが、神が設計して、キリストが十字架と復活で打ち立てられたキリストの支配する天の都に属しています。そして、信じる者はやがて時至って、黙示録にあるように天のエルサレムと言われる御国へと招かれているのです。これは何と驚くべきことでしょうか。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、実は、私たち信者の歩みを予め示しているのです。

アブラハムの失敗

2017年10月 8日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章10節~13章2節
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

<要約>

アブラハムを失敗へと招いたこと:

アブラハムは、妻サライが非常に美しいので、エジプト人はサライを自分のものとしようとして、夫のアブラハムを殺害するのではないかと恐れました。そこで、サライには、アブラハムの妹であると言ってくれと頼みました。そうすれば、自分のいのちは守られて、かえって妹のゆえに自分は利益を受けるだろうと考えました。アブラハムはその嘘のためにパロから多くの財をもらうことになったのです。アブラハムが妻サライを妹と嘘をついて、失敗へ招いた原因は、恐れと富みの誘惑です。悪魔は彼を恐れと富の誘惑で失脚させようとしたのです。アブラハムほどの人が、なぜ、失敗したのでしょうか。それは、まず、神に祈らなかった、神に伺わなかったからと言えます。クリスチャンはどんなときにも祈るべきです。そして、み心を求めて聖書を紐解くのです。聖霊は聖書の言葉を用いて、信じる者に語ってくださいます。クリスチャンには三つの敵があります。一つは、サタンと言われる悪魔です。あなたを神から引き離そうと知恵を働かせています。二つ目は、この世です。世は、神への尊敬を持ちません。世の本質は不遜です。三つめは、あなたや私の内側にある罪の性質です。神の利益より自分の利益を大切にします。神に栄光を帰すのではなく、自分に栄光を与えようとします。私たちは常にこの三つの敵を意識しながら信仰の戦いをしていかなければなりません。

人の失敗と神の約束:

サラを召し入れたパロとその家族は主によって、ひどい災害に痛めつけられました。それは別訳では疫病です。その罪を離れて、パロは神の裁きを免れました。神がアブラハムの嘘がもたらした悲惨で恐ろしい結果をあわれみによって免れさせてくださったのです。アブラハムは、このままでは神の祝福を完全に失います。当然、アブラハムとサラの夫婦関係も破壊されるでしょう。そして、アブラハムは自分の妻を娼婦にまで落として、自分の利をむさぼるような人間にまで落とされてしまうのです。聖書は人間をありのままに描いています。神はアブラハムを選び、彼に祝福の約束を与えられました。また、神はアブラハムの名を「多くの国民の父」とまで高めてくださいました。その様な人間がこれほどまでの失敗を犯してしまうのです。アブラハムの失敗にかかわらず、神はご自身の約束を守られました。彼の失敗を逆に用いて、もう一度アブラハムをカナンの地に戻されたのです。神はご自身の計画を着実に推進される方であることがわかります。神は哀れみの神です。それでも、神は正しい方ですから、不正を見逃すことができません。ですから罪のもたらす裁きである呪いと死はあるのです。しかし、神は罪のために滅んでいく人を惜しまれて、罪のない神のひとり子に人の罪を負わせて代わりに御子を十字架で裁き、信じる者の罪を赦し、呪いを祝福に、死を永遠のいのちに代えてくださったのです。アブラハムは信仰によって義とされたとあります。義というのは罪がない状態です。アブラハムは失敗し罪を犯しましたが、義とされた、罪を認めないとされたのです。それは、神を信じる信仰によったのです。私たちも信仰によって、義とされています。失敗や罪があっても悔い改めて赦されるのです。

罪から救い、出エジプト:

旧約聖書の事件や記事の多くは、来るべきイエス・キリストを予表しています。例えば、ヨナ記の記事で、ヨナが大魚の腹の中で三日間いたのは、キリストがよみに三日間おられて復活したことを予表しています。イスラエルの民が航海を渡ったのは水のバプテスマを予表しています。アブラハムがモリヤの山で、イサクは死者の中から取り戻されました。これはキリストが死者の中から復活した型です。このように、旧約聖書はいたるところでやがて来られるキリストを予め示しています。また、旧約聖書の様々な事件や記事がその後のイスラエルの民の辿ろうとしている道を予表しています。今日のこの事件も今後のイスラエルの民が辿ろうとしている道を暗示しています。すなわち、この後、数百年後にイスラエルの民に起こる出エジプト事件です。孫のヤコブの時代に七年に及ぶ大飢饉が起こりました。その時、ヤコブとその家族は男だけで70人の大家族となっていました。ヤコブは彼らを連れてエジプトで寄留生活をすることになったのです。そして、それが民にとっては約400年にわたる奴隷生活の始まりとなったのです。時至って、ついに、モーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出して約束のカナンの地に向かうのでした。この歴史的事件は、出エジプトと呼ばれるものです。そして、この出エジプトは罪と死と悪魔の束縛により奴隷とされている人類、そしてあなたを神が救出することを示しています。そして、あなたを約束と祝福の地、あるいは天のみ国へ導くための神のわざを予め示しているのです。出エジプトは、あなたが神の救いにあずかることを意味しています。アブラハムは失敗し、つまずきましたが、神の哀れみにより、約束の地、カナンへ戻されました。アブラハムには信仰があったからです。これは、あなたの人生へのメッセージでもあります。あなたも様々な人生の失敗やつまずきも経験して今があると思います。そのたびに主はあなたに対する約束を果たされ、罪と死と悪魔からこの救いに戻してくださっているのです。そこで求められているのは信仰です。

アブラハムの旅たち

2017年10月 1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章27~12章9節
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

<要約>

信仰によって歩み出すとは:

「主はアブラムに仰せられた」と書いています。これはアブらハム契約と呼ばれているものです。彼は、不妊の女サライと、甥のロトとハランで得た家畜などの財産をもって、神の示す地へ、出発しました。へブル書には、「どこへ行くのか知らないで、出かけた」と書いています。「生まれ故郷、父の家を出て」と。これは、信仰による旅たちでした。郷里も親類縁者も捨てて、行先もわからないまま出ていくのはどんなにか勇気のいることでしょう。アブラハムの信仰者としての歩みは、この神の仰せに素直に従ったということから始まります。ここに信仰の父と呼ばれる人の歩みが書かれています。まず、彼は神の約束を握って、偶像と偽の神々が支配する世界から出て行きました。これは決別です。御声にしたがったのです。信仰にはこの決別が要求されます。サタンが支配するこの世から決別するのです。罪の世からの決別です。この世の悪い習慣からの決別ということもあります。特別に悪い習慣がなくても、目に見える世の価値、お金、地位、名誉などへの執着から決別して、目に見えない神を信じる、神に従う決心をすることです。聖書が言う神は、天地万物をおつくりになって、全世界を治めておられる一人の神です。人は、太陽や月などの被造物を神としたり人間や動物を神としたりしてしまいます。人間は自らで神を見出すことはできません。神の方でご自身を現わしてくださったのです。神が人となってご自身を現わしてくださったのです。それが、イエス・キリストです。偶像は、いわゆる像ばかりではありません。あなたが、寄りかかっているものです。それがないと生きていけない、倒れてしまうものです。偶像は、世界にあふれています。あなたの心をひきつけて、けっして、真の神に心を向けさせないように働くものです。サタンはこの偶像を足掛かりとしあなたを真の神から引き離そうとするのです。アブラハムへの神の約束は、神から一方的な恵みと祝福であったといえます。その恵みと祝福にアブラハムは「主がお告げになった通りに出かけた」という行動をもって、従ったのです。みことばに対する信仰の応答は、従うということです。信仰によって歩み出すとは、罪の世から決別して神の約束を握ってどこまでも神を信じて従っていくことです。また、信仰によって歩み出すとは、「どこへ行くのか知らないで出ていきました」とある通り、チャレンジの人生です。

アブラハムに学ぶクリスチャンライフ:

アブラハムは家族とともに、ハランを出発して、カナンの地に着きました。そして、最初の場所は、シェケムです。モレの樫の木のところまできました。そこにも、カナン人の偶像礼拝があったようです。そこに、アブラハムは、真の神のために祭壇を築きました。神はアブラハムに具体的な約束を与えました。アブラハムに今のパレスチナ地方を約束の地として子孫に与えるといわれたのです。この時点では、アブラハムには約束のみでした。親類はいない、土地もない、子どももいない、無いないずくめでしたが、アブラハムは信仰によって生きていました。信仰とは、約束を信じ続けることです。彼は、この時、75歳でしたが、神はアブラハムの子孫を海辺の砂、空の星ほどに増やすといわれたのです。しかし、約束の子どもであるイサクが与えられたのは、100歳の時でした。アブラハムは、約束が与えられていながら成就を見ることができずに、時には、へこたれて、神のみ思いをうかがうことなく、当時の習慣や人間の考えで動きました。そして、何度も失敗をしました。信仰の父であるアブラハムでさえ失敗しました。信仰者は天のみ国に入るまで、失敗し倒れることもあります。それが現状です。しかし、失敗し罪を犯して倒れても、また、主を仰ぎ立ち返るなら救われるのです。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるとあります。信仰には忍耐が必要ということです。しかし、それ以上に神は忍耐して神の民を赦してくださっているのです。アブラハムは「祭壇を築き」真の神を礼拝し、そして「天幕を張り」カナン人の中で寄留者の生活を始めました。この世にあって生活を始めたのです。これは、クリスチャンは世にあって世のものではない、この世にあっては寄留者であることを暗示しています。すなわち、この世にあっては旅人であり寄留者である、これが、天国を目指して旅しているのがクリスチャンライフです。カナン人たちは、アブラハムを神の司として認識していました。このことからアブラハムは彼らに宣教していたことがわかります。ここに、アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンの生き方が暗示されています。それは、礼拝、社会生活、宣教です。一つ一つ見て行きましょう。一番目に礼拝について、クリスチャンは礼拝の民と言われています。真の神を毎週礼拝します。それは、自分中心ではなく神中心にした生き方です。次に社会生活について、クリスチャンは神の民として社会生活を営みます。社会は隣人愛の実践の場ともいえます。最善を尽くすのです。三番目は、宣教です。クリスチャンには宣教の使命が与えられています。あなたの生きる姿勢を通して、あなたを透かして、人々は神を見るでしょう。

すべての国民を救う神の計画:

神は、アブラハムを大いなる国民としようと言われました。それはイスラエル国家です。そして、「アブラハムの名は大いなる名前となる」です。歴史を通してこれほど偉大な信仰者と呼ばれている人はいないと思います。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」これは、アブラハムに良いことを願い行動する人を神も良くしてくださる、また、アブラハムに悪をはかり敵対する者に神も敵対するというのです。もちろんこの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル民族に及んでいます。また、この約束は、アブラハムの信仰の子孫でもあるクリスチャンひとりひとりへの約束でもあります。「すべての民族はアブラハムによって祝福される。」アブラハムは全民族の祝福の基となるのです。ここにすべての民族を救うための神のご計画が隠されています。神はアブラハムという一人の人を選び、そこから一つの民族を選び、その民族を通して神の祝福と救いを全民族に広げていこうとされました。このことは不思議なかたちで成就しました。アブラハムの子孫のユダヤ人、すなわちイスラエル民族の中からイエス・キリストはお生まれになりました。そして、イエス・キリストにより全世界のすべての民族に祝福と救いがもたらされたのです。イエス・キリストの救いとは何でしょうか。聖書は、言います。「造り主である神から離れた人は生きていても死んでいる」と。つまり、このままでは滅んでしまい、永遠の死を迎えるからです。それは、神から離れた人は真のいのちを失っているからです。しかし、もしあなたが、イエス・キリストを信じて神に立ち返るのなら、生きるのです。罪と死と悪魔から解放されるのです。あなたにいのちを与え、あなたを造ってくださった神がいるのに、これまでその方を認めることなく過ごしてきたことを悔い改めて、あなたの罪をすべて十字架で赦してくださったキリストをあなたがお迎えするなら、あなたは生きるのです。

祝福倍増の法則

2017年9月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

<要約>

主を信頼し忠実に前に進む:

さて、5タラントいただいた人は、特別に多くの才能、能力、そして、富みと財をいただいてあらゆる領域で富んでいる人です。かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。富が大きいとそこには争いが生まれるのです。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。お金も賜物なのに持っていることで自分が偉くなったように思ってしまうことです。そして、罪の罠に陥るのです。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利したのです。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。次に、2タラントを預けられたしもべです。彼は、5タラントもらった人と比べると自分の分は少ないと感じたかもしれません。でも、自分にふさわしく与えられたのです。5タラントもらった人をねたんだりうらやんだりすることもなく、それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。彼も、5タラント預かった人と全く同じ言葉をもって祝福された人です。つまり、この主人は、お金の額を問題にしてはいませんでした。任されたものをどう扱ったかを通して、彼らの信仰と忠実さ、そしてそれに伴う勇気をご覧になったのです。また、彼らが、感謝して賜物を活用していこうとする前向きの姿勢です。それは主人への信頼と愛と言えるものです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。

恐れから神に心を閉ざす人間:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。彼は、1タラント預かって出ていき、地を掘ってその主人の金を隠したと書いています。なぜ、そうしたかが書かれています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」というのです。この人には、主人に対する信頼がありません。この人の問題点は何でしょうか。まず、主人に対する認識が180度間違えています。この主人は、イエス様、真の神を指していますから、愛と哀れみの方です。この人は、神の前で心を閉ざしていた人です。石の心です。神の愛が注がれているのに、心を開いて受け取ろうとしないので、ますます固くなるのです。彼は、規則に縛られて、そこから逸脱することを恐れて何もしない人です。それは、律法学者、パリサイ人たちを示していたとも考えられます。彼らは、謙遜で低い心から神のみ心を求めていたのではありません。十戒を中心とした律法に、自分たちの都合の良い解釈を与えて、自分はこれもあれも守っているから神の前に正しい人間であると主張しました。そして、人民の優位に立とうとしました。つまり律法を、自己主張するための道具としたのです。この1タラント預かった男は、神がいのちと祝福を用意しているのに、恐れと不満から心を閉ざして神を信じない人の姿です。その人は、役に立たぬしもべとして、外の暗やみに追い出されたのです。そして、神からの審判を受けるのです。

神は失われた人の回復のためにイエスを送られた:

神は、人とすべての被造物のために自然界を秩序あるものに作られました。ですから、宇宙は曲げられない法則に沿って運航しています。自然界も秩序と法則によって動いていますので、人は種をまき収穫を得る時期を見極めています。つまり、自然界の秩序に則って人間は安全に豊かに暮らすことができるのです。それと同様に、神は、神と人、人と人、人と他の被造物との関係についても、ルールを定めました。人と他の被造物との関係については、神は人にすべてを管理させました。最初の人アダムには神の掟が書き記された曇りなき良心がありました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。

この5タラント、2タラントを預かった人に起こったこと。主人のことばに積極的に従った二人にもたらされた倍々の祝福は、天のみ国の法則によることです。しかし、アダムは神の戒めを破って罪を犯したのです。その時以来、神が定めた戒めを破ったため祝福の法則から逸脱して死と呪いに向かうことになったのです。1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。アダムが罪を犯して、恐ろしくなり、神から身を隠したように、この人は神を恐れて、穴に埋めたのです。最初の人アダムは恐れを感じたところから罪をおかしたと思います。それは、ただ、神を信頼して生きること、神に自分が裸のまま心をオープンにして生き続けることへの不安と恐れです。彼は、神に代わってすべてのことに対して自己決定権を所有して他者をコントロールすることに強い誘惑を覚えたのです。かくして、人は神との関係を失ったことにより死と滅びに向かっているのです。神は私たちの幸福を願っておられます。律法である十戒は祝福の道を歩むようにと神が堕落した人間の良心に代わってお与えくださった幸せのルールです。それでも、律法の要求は、罪にたいする裁きと死です。神は、一人の人が滅びることも望まず、一人一人のいのちを惜しまれています。そこで、ひとり子であるイエス様をお与えくださいました。律法の正当な要求を主イエスが十字架の苦しみと死によって満たしてくださったのです。イエス様の十字架の死はあなたのためでもあります。そのことを信じるときあなたのすべての罪は十字架にくぎ付けにされます。そして、罪赦されて呪いの滅びから解放され、永遠のいのちを得るのです。また、あなたは、祝福をお与えくださる神に心を開くことです。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、あなたの人生は再び祝福倍増の路線に戻され、感謝と喜びにあふれる人生に入るのです。

天に宝を積むとは

2017年9月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカ福音書12章13~21節、マタイ福音書6章19~20節
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

<要約>

賜物の管理者としての人生:

イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされました。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、人格に満足を与えることはできません。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富まない人生とは、神を認めない人生であるといえます。ですから、自分にあるものを自分で得たものと思うのです。神に栄光と誉を帰そうとしない人です。神のことより自分を優先する人です。結局、寿命が来て、自分のために蓄えたものを自分のために使うこともできなくなったのです。このたとえの金持ちが愚か者と言われた理由は、神のものを自分のものと思っていたことです。私たちにあるすべてのものは、神のものです。造り主のものです。それを自分のものと思っているところに誤りがあります。次に、私たちは何のためにそれらを所有しているのでしょうか。それは、管理するためです。創世記には、地上のあらゆる生き物を支配させるために人を造られたとあります。また、私たちの与えられた賜物を神の良い管理者として、互いのために用いなさいとあります。いのちは神のものであり、神の主権の中にあります。そして、それが私たち一人一人に与えられているのは、様々に与えられたものを管理するためです。金銭を含めて、家も土地も家族も健康もすべてが神から委託されて管理するためであります。

神の前に富む人生:

それに対して、神の前に富む人は、マタイ25章のたとえにあるように、神から預けられた二タラント、五タラントの財産を用いて、それぞれを倍にしたしもべのようです。賜物を豊かに活用した人です。それは天に財を蓄える人です。そして、主人からこう言われた人です。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』そして、そのような人は、(マタ5:29)『さらに与えられて豊かになる』ひとです。具体的には、自分に与えられたところで最善を尽くす人です。神を信じ、礼拝し、賛美して、祈る人です。神の喜ばれることを優先して、家族友人を大切にして、人に親切にする人です。神のわざに励む人です。その人は、キリストと知らずに隣人をもてなす人です。また、賜物と言われる能力や才能も人それぞれです。マタイの福音書25章のタラントのたとえでは、一タラント、二タラント、五タラントをそれぞれのしもべに主人は与えて旅に出かけたとあります。前にも話しましたが、一タラントは6000万円です。神が私たち一人の信者にお任せになっている賜物は決して小さなものではありません。預かった一タラントを土に埋めて、自分には神に用いていただく賜物はない、といった態度をとったしもべを神は怒られました。

私たちクリスチャンは、それぞれが与えられた賜物を思いと力を尽くして十分に用いていただく必要があります。神は、それを三十倍、六十倍、百倍に祝福してくださる神なのです。そこに「持っているものはますます与えられ、持たないものは持っているものまで取られる」という霊的な原則が働くのです。また、財やいのちは私たちにテストとして与えられています。いのちをどのように使うかが試されています。すなわちこの地上に生きている間にそのいのちを神の栄光のために、永遠の御国のために使うか、あるいは反対に、自分の満足、自分の欲のために使うかを神は見ておられます。今ひとたび、私たちは神から委託されたものを用いて主の栄光のために用いたいと思います。それは、別のことばでいえば、天に宝を積むということです。イエス様は地上の宝とはどんなものであるかを示しています。それは、「虫とさびで傷物となり、また、盗人に盗まれていく」ものであるといわれました。すなわち、どんなに蓄えても人の心を満たすものではなく、価値も変わるし一時的なもので、この世を去るときには全部残していかなければならないものだというのです。ですから、永遠に価値の変わらない、持つ人の心を豊かにして、この世を去るときも持っていけるような宝を積みなさいと言っているのです。

神は永遠のいのちを無償でくださる:

人類は、高慢になって神に届こうとバベルの塔を建てました。そこで、神は人のことばを混乱させて、言葉が通じないようにして、その町から人々は散らされました。人類はその事件以来、自分の力で文明文化を築き上げてきました。以来、人は神から離れて、神を認めず、神を意識せず、神なき世界を築いてきたのです。そして、文化や経済が人を豊かにし、人類を平和にし、個人のたましいに平安を与えると錯覚してきました。しかし、人は依然、罪に縛られて自由を得ることができずにいます。人類は平和共存を願いつつも自らの罪の力により争いから解放されることなく現代に至っています。この愚かな金持ちは、神を認めない人間の姿です。その様な自らを救うことのできない人類、そしてあなたを神は哀れんでおられます。神はあなたを、罪と死と悪魔から救い出すために御子イエス・キリストをくださいました。そして十字架という代価を払って贖いだしてくださったのです。あなたはそれを無償で受け取ればよいのです。いのちの主権は神にあります。神は呪いの神ではなく、祝福の神です。是非、神が無償で提供してくださるこのイエス・キリストという宝を思いを変えて受け取って永遠のいのちを自分のものとしてください。

真の隣人になるために

2017年9月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

<要約>

永遠のいのちは行いではなく恵みによって与えられる:

この律法学者はイエス様に質問しました。「何をしたら」永遠のいのちを自分のものとできるのか?です。彼は、行いによって何らかの救いが得られると考えていました。恵みによって救われるという理解はなかったといえます。もし、人が行いによって救われるというのなら、どこまで行いを積み上げたらよいのか?どのくらい行いを積んだら救いに達するのか?その基準はどこにあるのでしょうか。これは、人生の命題ともいえる質問です。他の宗教では、救われるためには、行いが求められます。また、ある宗教では、祝福を得るためには 多額の献金が求められます。お分かりのようにそこは比較の世界です。いつまでたっても平安も確信もありません。不安になるとそれを行いや献金で解消しようとするからです。人間の教えを教えとするならば、そうなります。永遠のいのちは人間の行いによっては得られない、神が与えてくださる恵みです。この律法学者は、周りにいる取税人や遊女など、さらに異邦人、他の一般の人と自分を比較して考えていました。自分はこれらの人々のように罪人ではない、自分は正しく生きていると思っていたようです。自分はたぶん天国に行けると考えていたのです。その心を見抜いたイエス様は、逆に、律法には何と書いていますか?どうよみますか?と彼に質問しました。そうしたら、彼は、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」と答えました。彼が良い答えをしたので、イエス様は、その通りです、と褒めました。次に、これをどう読むかです。これは、実に、律法である十戒を包括する言葉です。これらは、行いを言っているのではなく、心の姿勢を言っています。そして、神に対する心の姿勢が、他のすべてを決定するのです。隣人への姿勢も変わるのです。律法をどう読むか?ということですが、それはまず、神を恐れ、愛し、信頼することをすべての行いに優先させるということです。神を愛するということが具体的に隣人を愛する行為にあらわされるからです。心にあることが行いとなって出てくるのです。隣人を憎んでいて、同時に神を愛しているということはあり得ないと言うのです。この律法の専門家は、守ることで永遠のいのちを得ることができる規則を知りたかったともいえます。しかし、聖書は規則を守ることによっては救いを得ることはできないと言っています。神は、心にある信仰を見ておられるのです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。この律法の専門家は、善行に励み、規則を守る生活をしてきたでしょう。しかし、そのことで他の人より優位に立って高慢になっていました。自分を正しい人間と主張していたのです。永遠のいのちを、行いによって求めたので、行いは自分をアピールするための道具となったのです。真の愛から出たものではなくなったのです。イエス様はそのことを教えたかったのです。永遠のいのち。それは、罪と死と悪魔からの救いともいえます。それは人間の努力や行いによって得ることはできません。神がキリストを通してあなたに受け取ってもらいたいと提供しておられます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。

あなたの隣人となったイエス様:

ところが、かれには、すでに行いにおいて律法を実行していたと自負していたのでしょう。自分の正しさを示そうとして、イエス様に次の質問をしました。「わたしの隣人とはだれのことですか」と。そこで、イエス様は彼の「隣人とはだれですか」という質問には答えないで、「良きサマリヤ人のたとえ」をされたのです。彼に、聖書が言う本当の隣人とは何かということをわからせるためにこのお話をなされたのです。このたとえ話を通して、イエス様は、彼の「隣人とはだれですか」という問いのお応えになったのです。隣人は誰かではなく、憎むべき敵が隣人になった、という話ですから、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。一人のユダヤ人が旅をしていて、強盗に襲われ、半殺しに会いました。強盗に襲われたユダヤ人を最初に見たのは祭司でした、彼は宗教指導者ということもできます。次に見たのはレビびとです。これも同じく、この律法の専門家と同じように宗教とかかわっている人々です。彼らは、苦しんでいる人を見て、反対側の道を通って行ってしまいました。祭司は律法の規定により、死んだ人に触れてはいけないという決まりがあるので、死んでいたと思って近づかなかったかもしれません。また、面倒に巻き込まれたくないと思ったかもしれません。レビ人も同様な態度をとりました。三人目のサマリヤ人は、ユダヤ人とは昔からの宿敵でしたので、最も助けてくれそうにない人でした。しかし、そのサマリヤ人の男が彼を助け、介抱するのです。彼はその場で最善を尽くしました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とイエス様は、その律法の専門家に聞きます。かれは、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。この物語の「あるサマリヤ人」はイエス様であると多くの方々が考え、慰められてきたと思います。イエス様の心を心とすること。心から隣人を愛すること。愛は動詞であるといった人がありますが、行いがなければ愛は見えてきません。それらのことは皆正しいし、この個所から隣人愛の実践が生まれると思います。同時に、「自分と同じように隣人を愛しなさい」ということはどんなに困難なことでしょう。自分を振り返っても、愛の行為をしたつもりでも、感謝をされないと相手を悪く思ったり、避難したりもします。いつも応答を求めています。見返りを期待しないで愛することができない自分を見ます。結局、この律法の専門家と同じように、自分の正しさを周りの人々に誇示しようとしているのです。ましてや、敵と言われるような関係の悪い人に対しては、口もききたくないのが実情です。イエス様は、このサマリヤ人のように、傷ついている人を見て、かわいそうに思っておられます。そして、このサマリヤ人のように無償の愛をもって助けてくださいます。そればかりでなく、ご自身のいのちを捨ててまでもあなたを愛していることをお示しになりました。それが十字架です。私たちはそのイエス様にまごころから感謝をささげたいと思います。また、私たちは真心をおささげしたいと思います。そして、イエス様に献身し、どんなことがあっても従っていきたいと思います。

赦し=人類の最大のテーマ

2017年9月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

罪人をあわれみ救う神:

王はしもべと清算したいと思われました。一万タラントの借金がある男が呼ばれました。一万タラントという額は今の金額では、六千億円ということになります。彼は返済できなかったので、王は彼に、自分も妻子もすべての持ち物を全部売り払って返済するように命じました。「自分も妻子も売り払って」というのは厳しいことです。返せなければいのちをもって償うこと、それがルールです。罪の負債にはいのちを要求するのです。しかし、驚くべき大逆転が起こっています。その男がひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言ったので、王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。父なる神のみ思いは、尽きない憐れみと言えます。罪に苦しむ人間に対する神の御思いは、かわいそうに思うこと、哀れみです。そして、罪の束縛から解放するために神は、イエス・キリストをお送りになったということです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とある通りです。神は地上の人々の罪を清算しなければなりません。しかし、誰一人自分の力では償いきれないのです。清算できないのです。そこで、代わりにキリストが償ってくださったのです。父なる神はキリストの贖いのゆえに罪びとを赦すことができるのです。つまり、キリストが罪びとの身代わりとなってご自身のいのちで負債を払ってくださったのです。それが十字架です。

大きすぎて負いきれない罪:

なぜ、イエス様は、一万タラントという金額を例話に使われたのでしょうか。読者に何を、イエス様は分からせようとしているのでしょうか。それは、私たち人間は、自分の罪の大きさがわかっていないということです。そして、この男は、自分は六千億円を免除されたのに、仲間に貸した百万円は赦さなかったというのです。これは、「自分の罪がどんなに赦されているかがわからないので人の罪を赦すことができない」人間の罪深さを示しています。また、イエス様が一人の男の負債を一万タラントで表した理由は、人間一人一人がおっている罪の負債は、その人が自分の力で償うことはとてもできないことを示しています。創世記で、弟アベルを殺したカインが言った言葉があります。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と。それは同様に、わしたちすべての人間の告白です。ですから、誰でもが、神の恵みが必要であります。神の恵みは、キリスト・イエスによる救いです。救いは、自分の内側には全くないのです。救いは外にあるのです。神が与えてくださるのです。それは受けるに値しない者への神の愛です。私たちは信じて、ただそれをいただくのみなのです。

赦すことによって赦される:

自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。自分はそんなに罪があるとは思えない、みんなと大体仲良くやっている、うそをついたりごまかしたりしていない、税金も納めている、約束したことは守っている、テレビのニュースに出たあの人殺しの様な罪人ではない、今日一日罪らしい罪は何もなかった、と思うでしょうか。これは、イエス様から見て喜ばれる態度ではありません。ルカの福音書にある、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った取税人の祈りを神は喜ばれました。私たちの祈りはいつもこうあるべきです。私たちは、熱心に悔い改めることです。王から「悪い奴だ」と言われたその男は、しもべ仲間を牢獄に入れた結果、自分も牢獄に入れられたのです。赦さないならば、相手も自分も牢獄につながれます。自由を失うのです。赦すなら、相手も自分も解放されます。1945年フィリピンのキリノ大統領は、十万人の国民を虐殺した日本軍の戦犯137人(うち78人は死刑判決)全員に対して、国民感情を押し切って大統領権限で特赦を出しました。「赦さなければ、我々が前に進めない」「赦さなければ平和はない」と説いたのです。赦さなければ、いつまでも過去に縛られたままになります。謝罪されなくても赦す人は、自由になるのです。赦すことは自由を得ることです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言しました。赦しは宣言です。イエス様は、十字架の上で、自分を十字架につけののしる人々のために祈りました。「父よ。どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているかわからないからです。」赦すことは勝利です。そして、赦すことは愛することです。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることの気づき神に感謝するのです。

種が蒔かれた四つの地とは

2017年8月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

<要約>

みことばは素直に心を開く人に届く:

イエス様は群衆にたとえで神の国の奥義を語られました。種まきのたとえです。イエス様は、耳のあるものは聞きなさいと進めています。すると弟子たちは、イエス様に尋ねます。「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか?」と。御国の奥義を聞きたいという求道心をもって真剣に聞く人には、いよいよ知識が豊かにされます。ところが、敵対している人あるいは無関心な人は聞いても悟らず、ますます、真理から遠ざけられるのです。もし、あなたが、求める気持ちと素直な心で聞くならば、もうすでに良い地なのです。自分の心は、道端、岩地、いばらの土地ではないように願うからです。みことばの種はすでにまかれています。また、常に届けられているのです。しかし、求める気持ちのない人、素直な心になれない人には何の意味もないのです。

今、届けられている救い:

「あなた方の目は見ているから幸いです。あなた方の耳は聞いているから幸いです」と。イエス様の言わんとすることは以下のようです。「旧約聖書に語り継がれてきた救い主を今、目の前で、あなた方は見て、その声を聞いているから幸いです。それはわたしだからです。」今、復活のイエス様は目には見えませんが、ここにおられます。そして、あなたを招いています。「わたしはイエス・キリストです。あなたが見ようとすれば見えます。聞こうとすれば聞こえます。感じようとすれば感じるのです」と。福音は届けられています。イエス・キリストの救いはすべての人に提供されています。しかし、それをあなたが、信じるという信仰によって受け止めなければ、イエス・キリストを知ることにはなりません。イエス・キリストによる救いは、神がすべて用意してくださったことです。私たちはただ、それを受け取ればよいのです。受け取るためには両方の手を開いて差し出さなければなりません。心を向けてキリストをお迎えするのです。キリストに耳を傾けなければなりません。

実を豊かに実らせる秘訣:

この四種類の土地は、だれにでもある心の在り方です。それに伴う生き方を示しています。求める気持ちのある人は、良い地でありたいと思うのです。そして、他の三つの生き方をするまいと思うのです。ですから、これは、読者であるあなたの生き方に対する問いと言えます。また、このたとえは、あくまでも心の在り方についての話であって、行いについての話ではありません。何をするかのドゥーイングではなく、どうあるべきかのビーイングです。イエス様は良い心の在り方の前に他の三つの心の在り方について警告を発しています。それは、人の心に蒔かれた福音の種が定着し実らせることを妨げる三つの障害、あるいは三つの敵であるということです。第一のものは、「その人の心に蒔かれたものを奪い取っていく悪い者です。」つまり、悪魔、サタンです。第二の敵は、岩地です。これは人の内側にある敵です。岩地は私たち人間が生まれながら持っている悪に傾く性質と言えます。

第三の敵は、いばらの土地です。これはこの世です。この世の誘惑です。この世の価値に引っ張られて、世のことに心を使い、神の国と神の義を第一とすることができずに、世に妥協してしまいます。聖書は運命論ではありません。読者に、この四番目の土地であることを勧めています。私たちが、素直に読めば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らす人になりたいと思うのは当然でないでしょうか。福音の種は蒔かれています。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちの救いが、あなたの心に届けられています。この種まきのたとえを通して、イエス様は何を読者に求めておられるのでしょうか。あなたが良い農夫となり、あなたの心の土地を管理しなさいと言われているようです。種がまかれて、芽が出て実を実らせるのに必要なのは、水と太陽です。それらは神が与えてくださることです。良い農夫がすることは、土地をよい土地に保つことです。鳥を追い払わなければなりません。石ころを取り除かなければなりません。いばらや雑草を取り除くことです。それは継続的に続けなければなりません。そうすれば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らすことができると約束しているのです。神が実らせてくださるというのです。イエス様は、今日も、あなたの人生に百倍、六十倍、三十倍の実を実らせてあげよう、と皆さんをここに招いてくださいました。どうか良い地となって、みことばの福音をいただいてください。素直な心受け入れる心、何の努力も功績もいりません。主は、あなたに豊かな実を実らせ、永遠のいのちを与えてくださいます。

水路のそばに植わった木

2017年8月 20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇1篇1~6節
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

<要約>

聖書は幸福と希望を与える書:

1篇は詩篇の序論ともいえます。それは、正しい人とは?幸いな人生とは?何かです。聖書は神が人に当てたラブレターであると前に話したことがあります。神は読者であるあなたに「わたしの目にはあなたは高価で貴い存在である。私はあなたを愛している。」と語っています。また、「幸福な人生を送ってもらいたい、だから、聖書の教えに耳を傾けて生きなさい」と勧めています。私は、聖書を読み込んでいる人で、落胆と失望の人生を歩んでいる人を見たことがありません。聖書を読み親しんでいる人は、外目はどんなに悲惨に見える状況でも希望と感謝をもっているのです。ですから、聖書は幸福と希望を与える書であるといったのです。

正しい人と悪しき人の違い:

幸いな人は、何をしても繁栄する、と断言しています。それは、水路のそばで水と養分を十分に得ている木のようであるからだ、というのです。ここで注目していただきたいのは、聖書の言う正しい人は、神との関係において正しい人間だという意味です。その人は主の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさんでいる人だというのです。主の教え、それは狭義では律法ですが、この場合、聖書のみことばであるといってもよいでしょう。「罪」と「人」と書いて、聖書では「つみびと」と読みます。これを罪人(ざいにん)と呼んだ人がいます。ざいにんは犯罪者で、悪者と一緒で、特別な人たちを指します。しかし、罪人(つみびと)というのは、聖書によるとすべての人を指します。すべての人は罪びとであると聖書は指摘します。悪者、罪人について、これは、神との関係が壊れている人のことで、それは、風が吹き飛ばすもみがらのようだと表現しています。万物の創り主である神は、ご自身の栄光を表すためにすべてのものをおつくりになりました。そして、最後に人を造られたのです。人に自然界を管理させました。すべては完全でよいものでした。人は神の似姿であり、人の良心には神の基準が書きしるされていました。神と人の関係は愛と信頼の交わりで、完全な関係でした。しかし、最初の人アダムが神の戒めを破り、自分を神の上に置いたのです。それ以来人には罪が入り、神との愛と信頼の関係は全く失われました。人の良心は曇ってしまい、曇った鏡のように、正しいこと悪いことを映し判別することができなくなりました。ですから、人は、最初は悪いと思って良心が疼いてもいても、いつの間にか慣れてしまって、なんとも思わなくなってしまうのです。堕落した人間の良心とはそういったものです。

水路に移植され実を結ぶ幸いな人:

それでは、神との関係が失われてしまった人間に、どのような回復の道が与えられたのでしょうか。罪のために曇ってしまった私たちの良心に代わって、神はモーセを通して十戒を与えてくださいました。十戒は律法ですが、それには人はこうあるべきであるという神の基準が書かれています。ですから十戒を守ることができれば、幸せになるのです。「まことにその人は主の教えを喜びとし」とあるように、神との関係が正された人は、十戒を守ることを喜びとするのです。ここで注意していただきたいのは、正しい人が正しい行いをするのであって、正しい行いが正しい人をつくるのではないということです。神との関係が正されること、すなわち、神に立ち返って、神から正しいとされた人は、神の戒めを喜びとするのです。しかし、幸いな正しい人にされるためには、3節にあるように、水路のそばに植えかえられる必要があるのです。この水路というのは灌漑によってできた水路を意味します。それでは、「水路のそばに植えかえられた」というのはどういう霊的な意味があるのでしょうか。水路の水は、神のいのちのへ水です。私たちは神のいのちへの水をいただくために、植え替えられなければなりません。それにより、神のいのちとつながるのです。それは神の与える水、キリストが与える水です。それは聖霊ということができます。イスラエルの砂漠で育つ豊かな樹木のように、いのちの水がある土地に植え替えられることです。具体的には、自分の力により頼んで生きようとすることをやめて、神を信じ、キリストにつながり、聖霊のいのちをいただくのです。かくして、神のいのちとつながり正しい関係に入り、豊かな実りを見ることができるのです。人は自分の力で自分を清くすることはできません。難行苦行は一見良いように見えますが、かえって人を高慢にするのです。良い行いがよい人をつくるのではありません。良い行いをしてもよい人間にはなれません。良い人が良い行いをするのです。そのためには、思いを変えて、あなたを造りあなたを愛しておられる神を仰ぐことです。聖霊があなたのうちに住んでくださいます。あなたは変えられます。「すべては良くなります。あなたは、必ず幸せになります。」