悲しみは喜びに嘆きは感謝に

2018年04月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書24章13~35節
ルカ 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。 24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

<要約

目がさえぎられている人間

クレオパ夫妻は一切の出来事について話し合ったり論じ合ったりしていました。この「いっさいの出来事」は、空の墓や、御使いの話を指していると思います。彼らは、この出来事について、みことばを聞くというより、人間の考えに終始しており、解決を見ない議論をしていました。失望と落胆のただなかにいましたが、神に伺おうとしなかったのです。私たちが困難苦難にある時、神は「わたしを求めなさい」と招いておられます。私たちは、それにもかかわらず、神に祈りたずねることもなく、人間の考えに終始していないでしょうか。私たちの人生の歩みの中では、必ず、様々な困難、試練、そしてその時点で理解できないことが起こります。その時には、必ずすぐに、その問題を主に持っていくことです。具体的には、みことばに求めること、祈りに導かれることです。そこに復活なさったイエス様が近づいて彼らに尋ねられました。「何のことを話しているのですか?」二人は立ち止まって「暗い顔つき」あるいは「悲しい顔」になったとあります。これが彼らの心境です。クレオパ夫妻は、夫婦でイエス様に自分たちのすべてを賭けて付いてきた夫妻であると想像します。非常に大きな期待を持っていたでしょう。ですから、落胆と失望も大きかったと思います。イエス様こそイスラエルを贖ってくださる解放者、救い主であると望みを抱いていました。ローマの圧制から神の民を解放する方として期待を掛けていたのです。ところが、ユダヤの指導者たちが十字架に架けて殺してしまった。それは、他の弟子たちにとっても大きな落胆と失望でありました。イエス様が生前に何回も「人の子は苦しみを受けて祭司長や律法学者たちによって殺されて、やがて復活する」というお話をしていたにもかかわらず、さっぱりそのことが頭に入っていませんでした。望みをかけていたのに死んでしまって、失望していました。失望落胆があまりにも大きくて霊の目がさえぎられていたので私たちは失望落胆により、近くにおられる神が見えなくなっているということが多いのです。前後左右から困難が押し寄せて、もうお手上げだと思ったことはありませんか。私たちは、がっかりして、教会へ行くこともできなくなった、ということがないように、主を見上げて主の下へ行きましょう。イエス・キリストは歴史的人物であるとともに十字架で死に復活したという事実も世界中で認められているのです。しかし、キリストの救いの意味を理解して信仰にいたる人々は少ないのです。これは私たちの持っている深い罪からきます。ルーテル教会が共通に持っている和協信条によると、以下のように書かれています。「地上におけるもっとも有能な教養ある人々ですら、神の子の福音と永遠の救いの約束を読むとか、聞くとかする時に、自分の力でそれを認め理解し、会得し、信じ、真理であると考えることができない。これらの霊的な事柄を理性によって理解するために、より勤勉になり、より熱心になればなるほど、理解し、信じることができなくなる。聖霊によって照らされ、教えられるまでは、これらすべてを単なる愚かな話と考えるのである。」人間は理性や人間の知恵では復活のイエス様を信じることができない。いくら説得しても歴史的事実として説明しても人間のうちには信じる心が無いのです。それは人間の持つ深い罪によるのです。

心の目を開かせてくださる神

このような私たちに復活のイエス様が近づいてくださいます。私たちが希望を失い、落胆しているときにこそ、神は私たちの近くにおられると聖書は教えています。試練や苦しみの中にあるとき、神様が遠くにおられるように感じている時にこそ神はあなたと共にいてあなたを支えておられます。これはイエス様の一方的なあわれみです。暗く沈みこんでいる時にこそ近づいてくださる。聖霊様の働きなのです。神様の一方的な哀れみによって私たちは信じる信仰を与えられるのです。二千年も前にイエス様が私の罪を取り除いてくださった。こんな信じられないことを信じることができたのは御霊のわざなのです。自分で信じたと思っているのは誤りです。イエス様、聖霊様があなたに語り掛け、みことばを与えそして救いを理解する力を与えてくださったのです。あなたが、イエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んで救ってくださったのです。ですから選ばれた私たちはますます謙遜になるのです。試練のときこそ、主が共にいてくださることを覚えたいと思います。試練の時には私たちの心は内側に向いて自分の苦しみの中に埋没しています。そのようなときにこそキリストを見上げたいと思います。彼らの目的の村に近づき、家の手前まで来ましたが、いまだ自分たちと同行している方がどなたであるか、そしてどこへ行かれようとしているのかもわからなかったので、彼らは一緒にお泊りくださいと強く願ったのです。聖書には無理に願った、とあります。きっと、みことばをもっと続けて聞きたかったのだと思います。イエス様を求める気持ち、みことばをもっと聞きたいという気持ちが、復活のイエス様を見出すきっかけとなったのです。イエス様は一緒に泊まるために中に入られました。彼らが食事を用意して、席に着きました。そうしたら、お客であるイエス様がパンをとって、天を見上げて祝福の祈りをして、パンを裂いて彼らに渡されたのです。その素振りからイエス様であることが分かったのです。彼らの目が開かれたのです。その瞬間、イエス様は彼らの目には見えなくなったのです。肉体の目で見なくても、心の目が開かれたので、イエス様が見えたのです。私たちも肉体の目ではイエス様を見ないのですが、心の目、霊の目でしっかりイエス様を見ています。よく、見たら信じるという人がいますが、人は見ても信じないものです。しかし、心の目で見て信じた人は見なくても信じることができるのです。

悲しみや困難を通して恵みが来る:

二人は、メシヤはイスラエルを大国の支配から解放する使命を持ってこられると信じ期待していました。そして、その方が来られたと信じました。それは、神の栄光を受ける救い主でした。しかし、聖書は、メシヤの使命の暗い側面を予言しています。それは、だれもが認めたくない、受難です。栄光はそのあとに続くものでした。それが、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」キリストの受難は、十字架です。受難は預言に記されており、それは必ず受けなければならないものでした。キリストは苦しみを受けなければならなかった。しかしそれは終わりではなかった。キリストは栄光に入るはずであった。神は打ち負かされてはいない。キリストの受難を通して神は勝利された。キリストに続く私たち信者にも、この原則は当てはまります。人生には悲しみ、困難、苦難はつきものです。しかし、私たちの罪を背負って代わりに十字架で死んでくださったキリストにより、悲しみは喜びに、嘆きは感謝に変えられます。そして、最終的には、復活のいのちをいただき、主の栄光にあずかれるのです。苦難や、困難、悲しみに会う時は、そのあとに、神の栄光があらわされるときが「必ず」来ます。何という幸いな人生、喜びと感謝の人生でしょうか。

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