もう一人の助け主

2018年04月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書14章16~27節
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

<要約>

同居してくださる聖霊:

もう一人の助け主はパラクレイトスと言い、代弁者、弁護人とも訳されます。その助け主は聖霊のことで、真の神、三位一体の第三位格の神です。しかし、このお方はこの世の人々には全く知られることなく、また、この世の人には知られることのない仕方でイエスご自身の務めをしておられます。聖霊は世の人々にはご自身を隠されているともいえます。神は、信仰を通して近づいてくださいます。信仰がなければ神に喜ばれないとある通り信仰がなければ神もわかりませんし、キリストも聖霊もわかりません。人は信仰を通して聖霊を見ることができます。信じなければ聖霊の存在もわからないし、感じることもできません。聖霊は、非常に謙遜な方です。イエス様の影にお隠れになって働かれています。しかし、その働きは甚大です。現在は聖霊の時代ともいえます。聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨のとき以来、信じる人を通して働かれ、教会を生み育てられています。全世界に教会が打ち立てられて、広がり続けています。その聖霊が「あなた方とともに住みあなた方のうちにおられる」とあります。これは、同居してくださるということです。しかも、あなたの家に、お住みになっているにもかかわらず、あなたの家の一番良い部屋を要求したり奉られたりすることを要求しません。代わりにあなたの家の最も隅っこに住んでいてくださいます。あなたがそのお方をあなたの家の一番良い部屋にお招きするか、または、台所の物入れの中に住まわせるかはあなた次第です。もし、あなたがそのお方をあなたの家の中心におらせるならばあなたは無限の祝福にあずかることができます。イエス様の愛は、「あなたが捨ててもあなたを捨てない」「あなたのためにいのちを捨てる」神の愛です。あなたは、これまで、神をないがしろにして、ある意味では神を無視するような生活をしてきたかもしれません。しかし、神はあなたを捨てません。それが神の愛です。ですから私たちは、その神の愛に応えて、ますます神を愛そうではありませんか。世の中の人々はイエス様を肉眼でも霊の目をもっても見なくなりますが、あなた方クリスチャンは霊の目でイエス様を見るというのです。そして、イエス様は生きておられ、信じる者たちもイエス様の復活のいのちが与えられているので生き続けるのです。ここにおられる皆さんも、霊の目でイエス様を見ています。皆さんは聖霊を信じています。聖霊はあなたとともに住みあなたと共に生活してくださっています。そして、聖霊はキリストのいのちをあなたに注ぎ続けておられます。

神と人を愛で結ぶ聖霊:

聖霊が天から来られる時には、「わたしが父におり、あなた方がわたしにおり、わたしがあなた方におる」ようになるというのです。すなわち、神とキリスト、キリストと信者は聖霊によって完全に結ばれるというのです。愛に根差した霊的一致です。私たちは神の中に生きており、そして、私たちの中にキリストが生きているのです。金魚は水槽の中でしか生きることはできないでしょう。私たち信者も実は神の中で生きています。否すべての人は神の中に生きているのです。世の人々はただそれを認めないか気付かないだけです。金魚は水がなければ生きていけないのと同様に、人も神の存在なくして生きることはできないのです。そして、神であるイエス様は私たち信者のうちに入っていてくださるというのです。私たち日本人は漬物を食べます。麹漬けでも糠味噌漬けでも、野菜をつけておくとつけ汁のうまみが野菜にしみこんで大変おいしくなります。同じように、私たち信者も神の中にどっぷりつかって、キリストがしみ込んできて、キリストの香りを放ち、味の良い人に変えられるのです。クリスチャンは神の漬物のように神にも隣人にも味わい深いものとされるのです。神を愛するというのは、神の戒めを守ることです。すなわち、みことばを守ることです。聖霊は、みことばと共に働きます。みことばを神のことばとして信じて守る人には聖霊がそば近くにおられるのがわかります。また、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され」とあるように、イエス様を愛し、みことばを守る人は自分が神に愛されていることが分かるのです。みことばに親しむ人になりましょう。みことばに従うことが神への愛です。神を愛するというのは、隣人を愛することで表われます。裏切って出ていったイスカリオテのユダとは別のユダが、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」と質問します。ユダはなおも、キリストと呼ばれるメシヤは、イスラエルに現われて、不信仰な者たちを裁かれる方であると思い込んでいました。ですから、イエス様が少人数の者たちにしかご自身を表さないことを不思議に思っていたようです。イエス様はユダの質問にそのまま答えることはせずに、神の国は、彼らが思っているようなものではないことを示されました。神の国は、神と神のことばを信じ守るもののところに来ます。そこに、三位一体の神が来られてともに住んでくださるのです。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と書いているとおりです。注意して読んでいただきたいのは、「わたしたちは」と言って、複数形で書いていることです。すなわち、父と子と聖霊があなたと同居しあなたのうちに住まわれるというのです。しかも、それはイエス様だけでなく、父もそして聖霊も神の全存在をかけてあなたを愛し祝福するというのです。これは想像しただけでも身震いが出るほど素晴らしい慰めではないでしょうか。こんな素晴らしい神に愛されているのですから、わたしたちも真剣に神を愛しましょう。

キリストにある平安を与える聖霊:

聖霊はイエス様の地上での行動や言葉を弟子たちに思い起こさせるとあります。今も聖霊はキリストを指し示しておられます。キリストによって神が人類にもたらしてくださったこの救いのみわざは十字架と復活によって完成しました。それは、キリストによりあなたを罪と死と悪魔から救ってくださったことです。もはやあなたの罪は裁かれることなく赦され永遠のいのちが与えられています。死はもはや力を失いました。信じる者には復活のいのちがあります。この福音は全人類に与えられたものです。しかし、イエス様の昇天と聖霊降臨の後、約二十年間は、この救いはユダヤ民族にのみに与えられた福音と彼らは思っていたようです。現に弟子たちも最初はユダヤ人にしか伝道しなかったのです。しかし、ユダヤ人の迫害によりエルサレムを離れていったクリスチャンたちが異邦人にも伝えるようになりました。聖霊は異邦人にも働いて、信仰を得させてお救いになりました。すなわち、聖霊はかたくなな人の目を開いて福音を全人類に及ぼしました。そして、聖書は旧約聖書を通しても、福音はユダヤ民族だけにではなく全人類にあてられたものであることを示しています。そして、現代も聖霊は聖書の言葉を用いて語り続けておられます。時代も環境も違いますが、聖霊はどの時代の人にもどの国の人にも救いを得させる神の力なのです。最後に、イエス様は、弟子たちと決別するのに、別れの形見として、彼らに「平安」を残しました。それは世が与えるのとは違う平安です。この世の平安は、家内安全無病息災というものです。キリストの与える平安はどこが違うのでしょうか。キリストが与える平安は、第一に、神に対する良心の平安です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」キリストにより心には、神の前で恥じることのない心、良心の平和を持っています。つぎに、罪による審判をまぬがれて、永遠の平安を持っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストを信じる信仰により罪赦されて永遠の平和に置かされているのです。つぎに、神とキリストの愛による平安です。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。―――私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」キリストの愛からあなたを引き離せるものは何もないのです。キリストの愛のうちに留まれば、どんなことからも守られて平安を持てるのです。それが神の約束で最も確かなことなのです。