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天のお父さんとイエス様

2023年1月8日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
【新改訳2017】
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

崇高と栄光の神があなたのお父さんとなる:

ここでイエス様は「自分は必ず自分の父の家にいる」と、お応えになりました。神を父と呼んだのです。神を自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。私たちの先祖の神、私たちの父たちの神と呼びましたが、神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。そして、私たちクリスチャンも「天のお父様」とも親しく呼びかけます。しかし、私たちは、生まれながら罪によって、神に近づくこともみ前に立つこともできないのです。まして、「お父さん」と呼ぶことなど絶対にできません。そのように深い断絶があるにもかかわらず、神は近づこうとしてくださっています。そして、イエス様を通して、私たちは神と父子の関係に入れてくださったのです。どのようにしてでしょうか。神の御子イエスが、神と私たち人間を隔てている罪の仕切りを取り除いてくださったのです。それは、人の罪の裁きを身代わりとなって受けてくださったことによります。そのように、イエス・キリストが十字架であなたの罪を取り除いてくださったと信じるなら、神はあなたのお父さんなのです。

神を父としイエスを模範として歩む:

イエス様が、私たちに望んでおられることは、自分の力を尽くして、神と人を愛しなさいと言うことです。イエス様は、あなたと私のために十字架でご自身のいのちを捨て、私たちの罪の代価を身代わりとなって支払ってくださいました。そのことにより、神を父と呼ぶことができ、逆から言えば、神の子どもとされたのです。そして、天のあらゆる恵みと祝福をお与えくださったのです。こんなに大きな恵みと賜物を頂いたものとして、完全に父なる神にお従いになったイエス様を模範として生きるのです。イエス様の弟子になるということは苦しみを背負うことのように聞こえます。しかし、歴史を通して数えきれない人々が、キリストの弟子となり、信仰の故の苦しみを負ってもイエス様の後を歩き続けたのです。私たちクリスチャンもその弟子のひとりです。神の求めていることは、感謝と喜びの応答です。苦労は多いとしても、こんなに祝福された人生を与えてくださっている、また、どんな時もともにいてくださると約束しておられるインマヌエルの主です。主に感謝して喜んで、奉仕や礼拝出席、献金、隣人愛の実践に励むのです。そのことを主は大変お喜びになるのです。

キリストにある喜び

2023年1月1日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~18節

【新改訳2017】
ピリ
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

<要約>

何物も消すことのできない喜び:

キリストにある喜びは死を超えている、自分の命にも勝る喜びである、と言うことです。 この後、パウロは、ネロの迫害によってローマで 斬首刑にされ命を失いました。死を目前にしても、キリストにある喜びで満たされていたと言えます。イエス様は、全知全能、全世界をお作りになり万物の最初であり終わりであるお方です。それでは、そのようなお方が、なぜへりくだり、ちっぽけな人間としてユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのでしょうか?そして、何も悪いことをせず 罪の一つもない清い神が、当時でも極悪人しか適用されなかった最も残虐な処刑を受けたのでしょうか。イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神に従い通しました。そして、死んで墓に葬られました。イエス様は十字架ですべての人の罪を背負って、罪の裁きを受けてくださいました。あなたの罪に対する神の怒りの杯を飲み干してくださったのです。その動機は、愛です。そのイエス様の功績のゆえに、神はイエス様を復活させられたのです。死と隣り合わせの人生でも、イエス・キリストの十字架と復活の福音は信じる人々に、永遠のいのち、復活のいのち、それによるしぼむことのない希望を与え続けたと言えます。そして、それを思うときに、死によっても奪い去ることのできない喜びを味わうものとされたのです。聖霊はあなたの空っぽの部屋に入りあなたを祝福したいと願っておられます。キリストを信じ、キリストが与える喜びを受けてもらいたいと思います。永続する、色あせない、しぼむことのない喜びがあります。

キリストの喜びで前向きに生きる:

イエス様は神であられるのに最大限にへりくだられました。もっとも貧しい姿で地上に くだられました。そして最も弱い立場の人間として生活なさいました。王であり支配者であるはずなのに、しもべとなりました。自らを低くして死にまでしたがいました。このように徹底的に謙遜になり、へりくだられました。そして最後まで従い通したイエス様を、神は高めて全てに勝る権威をお与えになりました。ここに霊的な法則があります。神はへりくだる者、神に従う者を高めてくださるということです。ですから、もしあなたが、キリストを信じ喜んでいるなら、あなたの前に立ちはだかるいろいろな困難や苦難も、それは喜びに変えられます。ですから、私たちは、キリストを喜び、前向きに生きるのです。

キリストは真の神であり救い主

2022年12月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>コロサイ人への手紙1章13~23節

【新改訳2017】
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

<要約>
神の敵として歩む人と和解の福音:

聖書は、依然として全世界の人々は暗闇の力、サタン、悪魔といわれる霊的存在の支配下にあると述べています。全人類がサタンの支配下に入った起源は、最初の人アダムです。アダムが神の仰せを無視して、サタンに従ったことです。プーチン大統領、金正恩や他のテロリストがサタンではありません。サタンが彼らを背後で操っているのです。サタンは身体を持たない霊的な存在です。残念ながら人類は争うことから解放されることがありません。国家レベルでも民族レベルでも家族レベル、個人レベルでも然りです。使徒であり聖徒であるパウロも、自分のしたいことが行えないで反って憎んでいる事を行ってしまうと告白しています。私たちはみな同じです。ここに、罪の力に縛られ悪魔の支配下にある人間の姿があります。毎週、「試みに合わせないで、悪よりお救いください」と祈る主の祈りで、信者は守られています。サタンは神と敵対関係にあるように人も神と敵対関係にあります。現に人は罪を犯しているので、裁きを受けることになっています。そこで、キリストは敵対関係にある者を和解させるために来られました。イエス様がすべての人の罪を背負って十字架の上で苦しんで、死んでくださいました。その死によって、私たちを神と和解させてくださいました。

聖なる傷のない者としてくださるキリスト:

キリストが私たちのすべての罪を背負って、十字架で死んでくださった事により、罪が取り除かれました。それにより神との和解がなされ、サタンの支配からキリストの支配下に移されたのです。キリストは神の本質そのものであるとはっきり語られています。万物はキリストによって創られて、キリストによって、今万物は保たれ成り立っており、最終的にはキリストが万物の存在の目的であるということです。だからこそ、キリストは万物を神と和解させることがお出来になるのです。現在一般の人々はキリストをなんといているでしょうか。聖書では、キリスト自身がわたしは、真理であり道でありいのちであるとおっしゃっております。キリストは自身を神であると語っています。私たちのいのちの起源であり、さらに万物の根源であると言っています。私たちにとってキリストはすべてのすべてであるといえるのです。そのお方が、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として信じる者を御前に立たせてくださるのです。

メシヤ来臨の預言

2022年12月4日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ミカ書5章1~9節
【新改訳2017】
5:1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。包囲網が私たちに対して設けられた。彼らは、イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ。
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
5:3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。
5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼う。そして彼らは安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。
5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。
5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。
5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。
5:9 あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。

<要約>

混迷と闇に光となって来られた救い主:

当時の状況を見ると、大国アッシリヤが目前に迫り、イスラエルの民にとって脅威が最高潮に達していた時であります。とても勝ち目がなく絶望と思われている時代に救い主の登場が預言されています。イエス様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマの圧政のもとに非情な困難の中にありました。このように、救い主は、混迷とやみが覆う時代に来られました。個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも、困難や試練で絶望することはあるかもしれません。しかし、その中でこそ、私たち人間は救い主をお迎えするにふさわしく整えられるのです。アッシリヤは、目の前に立ち尽くす困難、光の見えない闇と言うことができるかもしれません。また、病気や困難や死を象徴しているかもしれません。あるいは、不破や仲たがい、分裂、分派であるかもしれません。あるいは、自分の内側にある利己的な思い、支配欲なども敵と言えるでしょう。私たちはそれに立ち向かおうと戦います。しかし、その時にこそ、救い主があなたに近づいていることに気付くことです。救い主キリストはそれらから信じる者を救ってくださるのです。そして、真の平安をお与えくださいます。

勝利と祝福の伝達者;

ヤコブの残りの者は、最後まで真の神を信じる信仰に生きる人々を指します。最後まで忠実な信仰者は二つのものを持っています。一つは、周囲の人々を潤し、神の祝福を届ける働きです。その人たちは、多くの国民の中でも主から降りるつゆ、青草に注ぐ夕立の様です。潤いと生気を与える神の力です。それは、神の祝福の器であると言えます。周りの人々に祝福を届ける働きです。アブラハムの約束を受け継いだクリスチャンは祝福の伝達者と言えます。簡単に言えば、あなたによってあなたの周りの人々や家族も祝福されるということです。あなたの内におられる聖霊が働いてくださいます。もう一つは、圧倒的な勝利者です。ヤコブの残りの者は、信仰者は森の獣の中の獅子、百獣の王ライオンです。教会の勝利と言えます。なぜなら、御子を信じる者は、十字架のゆえにすべての罪が赦されています。そして代わりに死んで三日目に復活したキリストの勝利と祝福を受け継いでいるからです。与えられた賜物を豊かに用いて、神と人に仕えるのです。

神のみことばは永遠に立つ

11月27日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>イザヤ書40章1~11節

【新改訳2017】
40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」
40:6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
40:7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
40:10 見よ。【神】である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

<要約>

信じれば二倍の慰めと祝福がある;

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」まさしく、イエス・キリストのお姿です。神はイスラエルのために優しく語り掛けておられます。それは民の嘆きが大きかったからです。同様に、キリストを信じて苦難の中に置かされている人々も確実に慰められるのです。あるいは、キリストを信じてこれまで歩んできた人々、様々な悲しみを通って来られた人々を神は確実に慰め、平安と喜びで満たしてくださるのです。クリスチャンは、キリストの贖いより罪の報いである死と滅びが取り去られてゼロになっています。さらにクリスチャンは神の子とされています。つまり天国の相続者とされています。罪が赦され、死と滅びがなくなり、永遠の命が与えられるばかりでなく、天国の全ての富を与えられているのです。信じる者には罪に代えて二倍の慰めと祝福があります。神は、罪により炭より黒い私たちを真っ白にしてくださるばかりでなく、光り輝く黄金の栄光を与えてくださるということです。信仰によってあなたはそうなるのです。そうなっているのです。

王の王、主の主であり私の羊飼いイエス様

世の終わりの時に、世の終わりのラッパが鳴り渡るときに、皆さんは復活のからだでよみがえります。そして、真に救いが完成するのです。ですから、私たち信者は救いの完成を先取して生きています。やがて救われるのではなく、今救われています。そして、信仰により、そう確信しています。聖書は人間にとってなくてはならない重要なことが書かれています。その中でも、人はそのままでは、自らの罪のために滅んでしまうこと、神は人を愛し一人も滅びることを惜しまれて、救い主キリストを送ってくださった事、そして、すべての人の罪をキリストが背負って十字架で罪を贖ってくださった事、キリストを信じる者は誰一人として滅びることなく永遠のいのちをもつことです。私の羊飼いであり、すべての権威をお持ちの力ある神が私と共にいてくださることをもっと実感して、与えられた人生を喜びと感謝をもって、前向きに歩んでいきたいと思います。


祈りについての主の教え

2022年11月20日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書11章1~13節

【新改訳2017】
ルカ
11:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』
11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』
11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。
11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

<要約>

クリスチャンはなぜ祈るのか?

主の祈りを通して、わたしたちは人生で必要なことは何かが分かります。私たちは祈るたびに、私の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。そして、神に求めることで、神への信頼を新たにさせられ、平安を得ます。そのようにして、私たち信者は祈りを通して神と親しくなり、アブラハムが神の友と呼ばれたように、私たちも神の友となるのです。つまり、主は、私たちが祈ることにより幸いになることを望んでいるからです。そして、イエス様は、祈りは聞かれると約束しています。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。祈りの言葉はエコーのように帰ってきて、「そうだその通りだ。主は確かに私の祈りを聞いてくださる」と信仰が生まれます。祈りによって、クリスチャンは明日を信じ、永遠を信じ、確かな希望を持つことができるのです。

天の父の最高のプレゼント聖霊: 私たちはさまざまのことを願うのですが、天の父は、それらにまさる最高のものをくださるというのです。それが、聖霊です。聖霊はわたしたちの人生を導き照らす光であります。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはない、とあります。すなわち、聖霊はあなたがキリストを信じて救われるように導きます。聖霊は三位一体の神ですから、信じる者に内住して罪を示し悔い改めに導きます。そして、わたしたちに語りかけ、諭し、主の道に立たせてくださいます。わたしたちがこころの王座に聖霊をお迎えして聖霊に聞き従うなら、人生は限りない、無限の祝福を、天の窓を開いて神はあふれるばかりの祝福を注いでくださいます。神はあなたのすべての求めや願いにこたえてくださいます。あなたのすべての必要を満たしてくださいます。聖霊はあなたが願った通りでなくてもあなたに最善のものを用意してくださるのです。聖霊を助け主として私たちに託してくださったこと最大の使命は福音を伝えるということです。しかし、これは重荷とはなりません。聖霊があなたを通して働かれるからです。

福音の再発見

10月30日宗教改革記念礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章1~7,16,17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

神の義というプレゼント:

当時、神の義、神の正しさは一点の罪も赦さない恐ろしいものと解釈されていました。人の罪に対して、容赦のない神の裁きがあります。これが神の持っている義です。ルターは詩篇71篇2節の「あなたの義によって私を救い、助け出してください。」を読んで、繰り返しこのみことばを黙想しているとき、彼の心に光が差し込んだのです。神の義、この「の」と言う助詞に別の働きを見たのです。「義の神」と言われる、神の属性を表す義ではなく、「神の下さる義」と読み替えることができたのです。それが、福音の再発見につながりました。神の義は神のプレゼント、賜物であることが分かったのです。神はどうしようもない罪人を値なしに義と認めてくださるのです。それは素晴らしい神のプレゼントで、福音の中心です。神が与える義は、キリストの十字架に表される神の愛と言えます。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターの95箇条の論題は、当時のカソリック教会へ、一修道士が起こした大批判とみなされました。ルターの意見に賛同する人々も多くいたようです。そのことによって、ルターは時の人となり、最終的に教皇から破門されました。さらに95か条の事件の4年後には、ドイツのヴォルムスで行われた国会にルターは呼ばれて、尋問されることになりました。ルターは答えた。「閣下と陛下の皆さん。私はありのままに答えましょう。私の良心は神のことばに捕えられています。私は聖書に反して何も言うことはできません。私は、法王と教会会議の権威を認めません。なぜなら、彼らは互いに矛盾しているからです。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら良心に背くことは正しくないし安全でもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン 私はここに立つ。私はこうするより他にない。」福音は、全ての人に救いをもたらす神の力です。ここでパウロが強調したいのは「信じる」という行為です。信じる全ての人には福音は神の力となるのです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。

最高の宝を手に入れる

10月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書13章44~52節

【新改訳2017】
13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。
13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

<要約>

天国への招きと神のさばき:

天国へ入ることができるというのは、何ものにも代えがたい価値あります。聖書では、イエス様は繰り返し、天国に入る道は、イエス様を信じることだと言っています。三つ目の例え話を見てみましょう。それを理解して初めて、イエス様の御心がわかるのです。ここは、世の終わりの時の最後の審判が書かれています。天の御国は、最後のときであり、審判のときだからです。天国へ行く人と地獄へ行く人と分けられるというのです。神は、アダムから始まり、罪のゆえに滅んでしまう全ての人の為に、神の独り子 にその全ての罪を着せて十字架で裁きました。身代わりの死を遂げさせました。そのようにして 罪と死と滅びから全ての人を救う道を備えてくださったのです。それはどんなに大きな神の犠牲だったのでしょうか。三品一セットのたとえ話から、神は一人の人が滅びる事も望みません。イエス・キリストの十字架で表された神の愛を知り、信じて救われるように願っておられるのです。

神を愛し恐れ信頼する:

弟子たちは、天の御国とはどういうものであるか。天の御国の意味が分かってきました。 私たちも、クリスチャンになってからは、御国についての知識を持つものとされました。「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」とあります。それは、私たちが聖書から、福音と律法を区別して取り出すことができることを意味します。それが、成長したクリスチャン、天の御国の弟子となった学者であると言えるでしょう。福音と律法は、神の二つのお姿であると言えます。福音に示される神のお姿は、愛と赦しの神です。そして、律法に示される神のお姿は、怒りの神、裁きの神です。正義の神であるがゆえにどんなに小さな罪をも赦すことができず、焼き尽くす火のように、罪を裁くのです。二つの相反する神のお心をどのようにしたら調和させることができるでしょうか?そこにキリストの十字架があるのです。聖書全体を読んでいると、このように、愛の神と怒りの神に出会うのです。どちらも真実な神のお姿です。ですから、私たちは、その通り、受け止めなければなりません。つまり、神を恐れ、愛し、信頼して行くのです。

にもかかわらずの神の愛

10月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エズラ記9章1~9、15節

【新改訳2017】
エズ
9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、
9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。
9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、【主】に向かって手を伸べ広げて、
9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。
9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。
9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、【主】はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。
9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。
<中略>
9:15 イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

<要約>

神のことばを恐れない人間;

イスラエルの罪と堕落に対して、イスラエルの神のみことばを恐れかしこむ者たちがエズラのところにやって来ました。当時のイスラエルの民は神のことばから遠く離れていました。みことばから離れると、神のみことばを恐れなくなります。心に神に対する恐れを持っているでしょうか。そして、もし、恐れがあれば、私たちは神のことばを守ろうとします。私たちは神の言葉を否定しないまでも、日常のことに追われて、みことばから離れてしまい聖書を読まない生活に陥っていないでしょうか。つまり、神のことば、聖書に重きを置かない生活になってしまっていないでしょうか。私たちは、黙っていれば神のことばを失ってしまいます。絶えず、心に刻み込まなければなりません。イスラエルの民は、神に対する恐れを失い、神のことばを守らなかったのです。そのために、当然の結果として、罪の結実を刈り取らなければなりませんでした。この世は、神のことばを知りません。十字架のことばを愚かなこととします。しかし、イエス・キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。私たちを罪と死と滅びから救ってくださるのです。

にもかかわらず御前に立たせてくださる神:

そのように繰り返し犯した不信の罪を犯したイスラエルの民に、神は、エズラを通してメシヤ預言を語られました。そして、神はペルシア王を通して民に恵みを施し、民を生かしてくださいました。私たち、すべての人は、そのままでは、自らの罪のために御前に立つことも許されない者たちです。にもかかわらず、キリストの十字架によって立たせてくださいます。歴史を支配しておられる神は、現代も、哀れみによりイスラエルの民を祖国に立たせていてくださっています。また、私たちをも忍耐をもって、今、立たせてくださるのです。キリストは、私の罪の一切を取り除いてくださいました。(エペソ5:27)「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」罪のない神のひとり子が私たちの代わりになって罪を飲んで十字架で刑罰を受けてくださったからです。


喜びの交換

2022年10月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルツ記2章1~13節
【新改訳2017】
2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。
2:5 ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」
2:6 刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。
2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
2:13 彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

<要約>

イエス様を愛する人は人を愛する:

ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」これは、ルツのナオミへの献身の表明です。ちょうど、私たち信者が、イエス様に献身を表明する言葉のようです。すなわち、信仰によって生まれてくる言葉です。ルツを私、お母さまをイエス様に置き換えて、告白してみましょう。「私は、イエス様を捨て、イエス様から離れません。イエス様のいかれるところへ私も行き、イエス様がおられるところに私もいます。イエス様、あなたは私の神です。死を通しても私はあなたから離れることはありません。永遠にあなたは私の神です。」私たち信者がイエス様を愛していなければ隣人を愛するということはできません。イエス様を愛する愛が隣人を愛するという行為に表われるのです。イエス様の思いをもって、私たちも私たちの周りの人々にイエス様の愛を伝えていきましょう。

悲しみと失意は喜びと希望に:

私たちはナオミやルツのように失意や苦しみに会うことがあります。私たちが希望を失い、喜びを失っているときほど、約束されているキリストの恵み、十字架による贖い、罪の赦し、永遠の命、天国の相続者としてのあらゆる祝福を受けているということをもう一度確認し、慰めと希望に生きたいと思います。ボアズとルツは結婚して夫婦になりました。ルツが夫を亡くした悲しみや苦しみは、ボアズによってすっかり拭い去られて、逆に喜びに変えられたのです。私たちもキリストにより私たちの持っているマイナスはすべてプラスに変えられます。一体となったキリストと私の間には喜びの交換がなされます。すなわち、キリストにある勝利、義、いのちなどが私のものになるのです。逆に、私の罪や死などはキリストのものとなっているからです。みなさん、自分の弱さや罪を覚えることができるのはむしろ幸いなのです。そのような時にこそ、神はあなたを多いに祝福しようとなさっているのです。