2019年04月07日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師
聖書:ヨハネの福音書4章3~26節
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
要約:
渇き続ける人間の現状:
このサマリヤの女性は、ほかの女性たちを避けて、だれも来ない真昼に水を汲みに来ました。彼女は、心の癒えない渇きを持っていたのです。イエス様は、そのことをご存知で、「わたしに水を飲ませてください」と語りかけます。イエス様は「この水を飲むものは誰でも、また、渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちのへの水がわき出ます。」と言われ、彼女に本当に必要なものについて話を進めます。彼女は、孤独で、疎外感を感じていました。それが霊的渇きから来ていることがわからないのです。霊的渇きというのは永遠なるものを求める人間の魂と言えます。一時的でない永遠なるもの、絶対的なもの、変わらないもの、それらに対して人間は渇きをもっています。人間は最初に土で作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったのです。しかし、アダムの罪以来、魂の中心から神を追い出してしまった人間は、その空洞を何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。「この水を飲むものはまた渇きます」とイエス様が言われ、この霊的渇きに気づくよう導いたのです。
キリストが与える水を飲むとは:
渇くことのない水をください、という彼女の心を知って、イエス様は「あなたの夫を連れてきなさい」と彼女の罪の問題に切り込みを入れます。彼女の抱えていた問題は人間関係のことです。結婚、家族の問題と言えるでしょう。人間関係の根本にあるのは、神との関係です。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道なのです。どのようにして、イエス様はわたしたちと神様との関係回復の道を開いてくださったのでしょうか。その罪を取り除くために、十字架で罪の贖いをしてくださったのです。神への礼拝は場所が大事なのではなく、神を霊とまことによって礼拝しなければならないというのです。それは、心から神を恐れ、愛し、信頼することです。まこと(真実)をもってというのは、人と神の間の唯一の仲介者キリストを通して、神を礼拝しなさいということです。イエス様が「わたしが与える生ける水を飲みなさい」というのは、イエス様を信じなさいということです。
救いの喜びに満たされる:
「わたしの言うことを信じなさい」とイエス様は、信仰の決断を迫ったのです。そして彼女は、心でイエス様を信じました。決して渇くことのない生ける水を心にいただいたのです。孤独と疎外感でずっと苦しんでいた彼女の心に永遠の命の水が泉となってあふれたのです。彼女に劇的な変化がきました。人目を避けてきたこの女性が街に出かけていって、イエスのことを人々に伝えたのです。真の救い主を受け入れて、心の渇きが癒されると、生きる喜びに満たされます。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエスキリスト心の内にお迎えすることなのです。