メルキゼデクとイエス様

2019年06月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>へブル6章13~20節、7章1~4節
6:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
6:14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
6:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
6:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
6:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

7:1 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
7:4 さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。

<要約>

神の約束と誓いの確かさ:

神は、アブラハムに「あなたを祝福し大いなる国民とする。あなたを通してあらゆる国民を祝福する」と約束しました。しかし、そればかりでなく、さらに神であるご自身にかけて誓われました。これは、今でいえば、口で約束してさらに誓約書にサインして実印を押したということです。間違いない、約束を破ったら弁償しますというようなものです。つまりこれ以上確実なことはないというのです。誓約書に実印が押されていたら、後で、言ったの言わないということで論争になることはありません。神が誓って約束してくださったことは疑いのない事実として歴史に成就しました。聖書の預言がことごとく成就しています。現在、すさまじい勢いで福音が届けられています。それらの歴史を見る時に、私たちは聖書に照らして時代を読むことができます。神は約束し、誓いをもって保証されます。それは私たちが前に置かれている望み、希望を捉えるために前進することを奨励しているからです。

メルキゼデクの祝福の及ぶところ: 平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムに神の祝福の言葉を携えて来ました。「キリストはメルキゼデクの位に等しい祭司」と唱えられたとあります。祭司は、律法によりレビの子孫でなければなりません。イスラエルでの最初の大祭司はアロンでした。ところが、アロンよりずっと前の人物のメルキゼデクには系図もありませんでした。これは、イエス・キリストがレビの系図になく律法では祭司としては認められていないユダ族から発している事とも類似しています。モーセの律法を与えられた民は、律法を守ることによって神に近づこうとしました。しかし、決まりを守ることによっては、彼らの良心を満たすことはできませんでした。行いを積むことが返って、彼らの高ぶりとなりました。律法の本来の使命は、罪を示されて、心砕かれ、へりくだって、神を見上げ信仰へ進むことです。そして、赦されていることに感謝するのです。罪赦された人は前向きに歩み出します。そのことで、今度は隣人のために自分の賜物を使うようになります。自分の人生が他の人のために用いられている時にこそ人は真に生きるからです。メルキゼデクの祝福は、イエス様を通してすべてのクリスチャンに及んでいます。