イエスの御名の力

2018年06月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き3章1~16節
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

<要約>

御名の力は癒す力:

ペテロは彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。生まれつきの障害が癒されました。彼は、神を賛美しつつ二人について、神殿に入っていったのです。彼は信仰をもって神の恵みを受け取ったのです。生まれつき足の萎えた男が、鹿のように飛び跳ねたのです。御名の力は癒す力です。また、それは、復活の力であると言えます。それは、死んでいたものが生き返ったからです。この男は、生命としては生きていたでしょう。しかし、彼は真のいのちを持っていなかったと言えます。彼は、身体の癒しばかりでなく、魂も癒されたのです。聖書には、死んでいる状態について、三つの様態が書かれています。一つは普通の死です。生命活動の停止です。二つ目は、身体は生きていても神のいのちとつながっていない状態です。キリストを信じることなく、救われていない人々の状態です。三つめは、その第二の死の延長にある死です。永遠の死、永遠の滅びです。この男は二つ目の死である真のいのちを失っている状態でした。神のいのちにつながっていないことで失われている状態を指します。スペースシャトルの宇宙遊泳でシャトルといのち綱が切れている状態です。彼は神の目から失われていたのが、身体の癒しとともに、魂も癒されたのです。主イエスによる癒しは、肉体ばかりでなく、全人格的癒しであることです。神から離れている人々を真の神のいのちへつなげる力があるからです。肉体のいのちは朽ちます。しかし、神の癒しは完全で、魂が癒されて永遠のいのちにつなげていただくのです。それは、ひとえにキリストの御名を信じることによります。

御名の力は立ち上がる力:

彼は、歩き出したかと思ったら、今度は飛んだり跳ねたりしたのです。しまいには、神を賛美しながら踊り出したかもしれません。御名の力は、立ち上がる力、さらに前に進む力です。パウロは「わたしは、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と告白しています。主イエスを信じる者は、どんなことがあっても立ち上がり前進することができるというのです。彼の今までの人生は、その日の糧を得るその日暮らしでした。しかし、イエス様を信じて、癒され、立ち上がることができました。それは、人に運ばれる消極的な人生から自ら歩いて前に進む積極的な人生となったのです。また、彼は賛美をしながら、宮に入っていきました。障碍者は神殿に入ることができないという、ダビデの呪いから解放されました。これは、御名の力は、その人に喜びと感謝を与え、そして、あらゆる呪いから解放することを意味します。自分で自分を縛っていた呪縛からの解放です。迷信や愚かなしきたりからの解放です。立上がり前に進む力の原動力は、イエスの御名が与えるしぼむことのない希望です。神さまが私たちに用意されている希望はどのようでしょうか。彼は歩くことができるなど考えたことがなかったので、歩けるようになったのは、彼の思いを超えた希望でした。そのように神は私たちの思いを超えて最善をお与えくださるのです。障がいがあるかないかに係らず、行く先に希望を持つことをできない人生があります。これは、現代の多くの人が抱える問題なのです。この男のように、将来に希望を持てない、あるいは自分は孤独と感じている方々が多くあります。聖書は、大変分厚い書物です。しかし、この中に書いていることの中心は、「神はあなた愛している」と言うことです。そのような神が、あなたを愛し、あなたを失望と孤独から買い戻すために御子イエス・キリストを世にお与えくださいました。キリストはあなたのすべての負債である罪を背負って十字架で死んでくださいました。もし、あなたがその事を信じるなら、神はこの世で希望と喜びをお与えくださるばかりではなく、神は永遠を保障してくださっています。イエスの御名の力は、立ち上がる力です。立ち上がって、前に進む力です。その原動力はしぼむことのない希望です。決して、失望に終わることのない希望ともいえます。神があなたを愛し、あなたを大切に思っておられるからです。あなたは孤独ではありません。神がともにいてくださるからです。

御名の力は変える力:

御名の力は、信仰による力ともいえます。ペテロと対峙した時のこの男の心の動きを推し量ってみます。彼はいつものようにペテロとヨハネを見て、施しを求めました。ペテロとヨハネの足元に顔を伏せて、いつもの決まり文句で物乞いをしていたでしょう。ペテロとヨハネはともにその男を見つめました。「私たちを見なさい」、男は何かもらえると思い二人に目を注いだのです。「金銀は私にはない」「私にあるものをあげよう」と。ペテロから、「私にあるものを上げよう」というペテロのことばを聞いてペテロを注視します。ペテロのまなざしとその言葉からただならぬものを感じていたと想像します。「もし、私のようなものでもいただくことができるなら、いただきたい」と思ったと思います。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」これは、主イエスのみ名が、この男の心に信仰を芽生えさせたのです。これは、信じない者が信じるものへと変えられたことです。そして、信仰は受け止めることです。この男は、ペテロによって投げかけられたイエスの御名による力を信仰によって受け取ったのです。それは、彼が、心を向けて神を仰いだときに起きたことです。御名の力は変える力です。イエスの御名によって、彼の心は変えられました。今までは目に見える金銭や物品にしか興味がなかったのです。しかし、今は、目には見えないがいのちを与え、生きる力を与えてくださる方、真の神であるキリストを心の目で見たのです。人の心を変える力です。そして、私たちはこのイエスの御名の力を信じる者たちです。神様は、失望を希望に、死から命へ移してくださいました。肉体はいつか死を迎えますが、霊は、主キリストにあって永遠の命が与えられています。私たちは受けるに値しないものですが、恵みによってキリストのみ名の力とあらゆることに対する勝利を与えられているのです。