聖霊による新しい人生

2018年06月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章37~42節
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

キリストを十字架につけたのは誰?:

ペテロははっきり「神が、主ともキリストともされたこの救い主をあなた方が十字架につけたのだ」と言いました。この「あなたが」と言うのは、異邦人を含めて、世界中の人々に向けて語られています。その時、エルサレムに集っていた人々は、当時の世界であるローマ帝国内のあらゆる国々から来ていた人々です。そのことは、やがてこの福音があらゆる国民、あらゆる民族に届けられるようになることを予表しています。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられています。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いということを。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、私がイエス・キリストを十字架にかけたのだと、言えるのです。あなたがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ、あなたはイエス・キリストと何の関係もないのです。

痛悔は新しい人生の入り口:

ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。そして、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めました。罪を示されて悲しんだのです。人が悔い改めて神に心を向けることは奇跡です。それは聖霊のわざです。人間にはどうすることもできません。人の説得や取引で人の心を変えることはできません。自分の罪がわかり、心刺されて、イエス様の救いを信じることは人間には絶対できない事です。聖霊がみことばを用いて働かれるのです。ここでは、聖霊が使徒ペテロの口を用いて人々の心に働かれたのです。その日三千人が洗礼を受けて救われました。私の兄は去年1月にC型肝炎と肝がんで亡くなりました。わたしは、福音を語りました。彼は、「福音は分かった。でも今はまだ信じられない」と言っていました。2016年12月に入院してからは、盛岡から東京の病院に何度も見舞いに行きました。洗礼の道具をもっていったときもあります。最後まで、彼の口から信仰告白を聞くことはできませんでした。非常に残念でした。彼が救われて天国に招かれたかは不明です。もし私が、「兄は救われて天国に行きました。」と言ったらそれは異端になります。キリスト以外に救いはないからです。人の救いは、神に主権があり、人間にはどうすることもできないことです。しかし、神は人を用いて、救いのみわざをなそうとされています。もし、私が、兄が死にゆく病であることを知っており、やがてその時が近づいているのに、福音を一言も語らなければ、私には平安は来なかったでしょう。後悔するだけです。福音は伝えなければなりません。信徒の皆さんは、自分ではなかなか伝えられないと思っているかもしれません。しかし、教会に連れて来ればいいのです。福音が語られています。伝道会に誘いましょう。諦めていてはいけません。自分だけ救われて、家族知人を見過ごしていていいのでしょうか。聖書には、キリストに聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまると書いています。聖霊がみことばと共に働いくときに奇跡が起きます。人々は心刺されました。悔いて心を痛めることを痛悔と言います。痛悔があると悔い改めに導かれます。弟子たちを酒に酔っていると言ってバカにしていた人々も、弟子たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と謙遜にされて、罪を認めて悔い改めたのです。「悔い改め」、それは心を180度方向転換することです。自分の罪を認めイエス様を主であり救い主であると信じることです。そして、洗礼を受けるのです。その様に痛悔は新しいいのちの人生の入り口であります。聖霊に心を開くとき、聖霊はあなたの中に痛悔を起こし、悔い改めに導きます。素直になって、キリストの救いを受けることです。

聖霊をいただくと何が変わる?:

ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。信じる者に賜物として、聖霊が与えられます。聖霊が与えられると何が変わるのでしょうか。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。この曲がった時代から、この世から救ってくださるのです。世はキリストを否定し拒絶しています。それはサタンが支配している国だからです。ペテロの説教で主を受け入れた人は、世の支配から、神の支配に移ったのです。サタンの支配からキリストの支配へと移されます。これが、「この曲がった時代から救われなさい」と言うことの意味です。トップが代わるとすべてが代わります。それはこの国のトップによって、国民が幸せになったり、不幸になったりするのと同じです。サタンが支配している国にいる人間が幸せであるはずはありません。しかし、キリストの支配に移されたら、確実にあなたは幸せです。天の御国へ招かれています。天にあるあらゆる富と祝福はあなたのものとなるからです。キリストの支配に移されたなら、真の平安と希望が与えられます。なぜなら、あなたの罪はキリストの十字架によって赦されたからです。そして、聖霊はあなたが他の人の罪を赦すことができるようにしてくださいます。静岡県の斎藤諒兄の証です。彼は甲子園を目指すほどの野球少年でしたが、高校2年の時に車にはねられて、首の骨を折って、身体が完全に動かなくなりました。今は、鼻に人工呼吸器をつけて生きている状態です。今から10年前の出来事で、今は27歳です。当初、彼は、絶望し、加害者を憎み、生きる希望を失い、死にたいとも思いました。しかし、自分で死ぬこともできない状況でした。そんな彼を変えたのが、イエス・キリストとの出会いでした。彼が聖書から最初に学んだのは、悪霊の存在と、無条件の赦しでした。被害者になると「絶対に許さない、同じ目に合わせてやる」そんな思いでいっぱいになります。彼も、被害者を憎み、恨み、殺してやりたいと思っていました。しかし、今は、洗礼を受けて、聖霊をいただいたので、赦す力を得たのです。加害者を赦したことで、憎しみは消え、確かな平安が来ました。当初、27歳であった加害者、そしてその両親、さらに84歳になる加害者の祖父までもお見舞いと謝罪に来ました。しかし、彼も彼の家族も、玄関先で追い返したということです。加害者家族も苦しんでいたのです。加害者は心労で髪の毛を亡くしてしまいました。その父親は、加害者が保険に入っていなかったので、自分が死んで保険金を賠償金にしようと真剣に考えていたそうです。しかし、今は、手をとり赦し合うことができました。そして、彼の家族もみなイエス様を信じ、さらに加害者家族も今は、一緒に机を並べて聖書を学んでいるそうです。彼らは、赦すことと赦されることの祝福を受けて、今は、本当に前向きに人生を歩んでいるそうです。信じて洗礼を受けると聖霊が与えられます。悪霊の支配から解放されて、キリストの支配に移されます。赦しと和解の力を受けるのです。それこそ十字架の力です。聖霊は良い果実を実らします。人を変え人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。