ヨセフへの告知

2017年12月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章18節~25節
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

<要約>

主から来る試練と訓練:

ヨセフはマリヤから天使のみ告げについて、説明を受けましたが、ヨセフにはそれをそのまま受け入れるのは難しい事でした。マリヤが妊娠したという事実を認めることができずに、心の中では否定していたのです。マリヤはマリヤで、やがて、妊娠という身体に現れる変化にいずれ周囲の人々は気づきます。「神にとって、不可能なことは一つもありません。」と信じていました。神にすべてをゆだねていたとしても、やはり不安になるものです。マリヤはエリサベツに会って、天使のお告げの通りエリサベツがみごもっていたことを確認しました。また、エリサベツの預言も聞くことができました。マリヤはさらに確信へと導かれました。しかし、ここで皆さんに注目していただきたいことがあります。それは、マリヤは神を信じ切っていたとはいえ、彼女の信仰も励まされ、その都度、確信を新たにさせる必要があったということです。目に見えないことを信じ続けていくためには、励ましと確認が必要であるということです。そのためには、私たち信仰者は、信仰の友の励ましが必要であるし、みことばを常に聞いて強められなければなりません。ですから、私は皆さんに教会に来ることを続けるようにと勧めているわけです。マリヤはナザレに帰る時が来ました。三カ月ぶりでマリヤと再会して、ヨセフはそのマリヤの身体の変化に気付いたことでしょう。今まで、そんなはずはないと自分の心で否定していたことは事実だったのです。彼の心に、マリヤに対する疑いと怒りが生じてきました。ヨセフは彼女の妊娠、それが自分の子でないということはわかっていました。マリヤは、お腹の子は聖霊によるということを説明したでしょう。ヨセフはマリヤに対する不信と怒りに燃えたと思います。きっと、ヨセフは辛かったと思います。眠れない日々が続いたと思います。なぜ、神はもっと早く、ヨセフに現われて、マリヤの聖霊による受胎を説明しなかったのでしょうか?ここで神はヨセフを試練に合わせたのです。それは、彼にとって必要な大切な試練でした。そうです、ヨセフの決断を見て、神は彼に現れたのです。ヨセフは悩みぬいて、御心を求めて祈ったでしょう。そして、この決断を心に決めました。マリヤを内密にさらせようというのは、ヨセフは悩み抜いた末の決断だったでしょう。しかし、主は、そのタイミングで、ヨセフに夢の中でお語りになりました。なぜかというと、神は、ヨセフがその決断に至るのを待っておられたのです。ヨセフは、正しい人でした。すなわち、律法を厳守する人でしたが、同時にあわれみ深い人でした。神は、ヨセフにテストを課したのです。同様に、神はわざと私たちに悩みと苦しみを通らせることがあるということです。それはテストのためです。また、神がこの時まで、ヨセフに黙っておられたことのもう一つは、ヨセフに訓練を課すためでした。それは、ヨセフが今後、救い主とその母を守り、救い主を亡き者にしようとする様々な攻撃の矢面に立つことができるための訓練でした。悩みと苦しみは訓練であったと言えます。神は私たちを、悩みと苦しみ通らせることがあります。それは、試練と言えます。またそれは、訓練でもあるのです。試練は同時に訓練です。それを通った先には、いのちの冠、いのちの実を結ぶものとされるということです。ヨセフはこれを通して、神への信仰とマリヤへの信頼を堅固にさせられたでしょう。また、それにより、ヨセフは神から、救い主イエス・キリストの父親としての使命と資質を与えられたのです。神は悩みと苦しみを通させることにより、私たちに使命を与え、さらに、私たちを信仰と愛に生きるものと変えてくださるのです。

神のくださる身分と使命に生きる:

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いています。そうです。イエス・キリストこそご自身に来るものをその罪から完全にお救いになれるのです。現在、イエス・キリストにより、すべての人は救いと祝福を受けることができます。救いは、罪と死と悪魔からの救いです。すでにここにおられるすべての方々に無償で提供されています。この救いと祝福は、受け取るだけであなたのものになります。また同時に、キリストを受け取るあなたには、身分が与えられます。それは、神の子、御国の世継ぎです。ヨセフはダビデ王の子孫でした。しかし、この当時、ダビデ王の子孫と言っても落ちぶれていて、ヨセフには王家の地位も富みもありませんでした。ダビデの子孫と言っても世的にはとるに足らないものとされていました。ここに、世の与える身分と神のお与えになる身分は、全く違うということが示されています。イエス・キリストを信じた者は「神の子とされる特権を与えられた」とヨハネに書いています。今、あなたが自分自身はこの世では取るに足りない存在と思っておられるかもしれません。しかし、神はあなたを、ダビデの子、神の子、御国の世継ぎとして見ておられるということです。ヨセフはこの後、救い主神の子キリストの父親としての身分に生き、その役目を立派に果たしました。救い主の父親としての身分と使命に生きたのです。また、彼はマリヤと同様に謙遜と献身の生涯を送ったと思います。私たち信者も、神が下さった身分に生きるべきです。卑下することはありません。ヨセフやマリヤのように、私たちにも謙遜と献身の生涯があるのです。神から与えられた身分と使命に生きることです。

イエス様は光としてあなたのうちに住まわれる:

イエス様は30歳になられて、郷里のガリラヤ地方で宣教を始められました。その当時の社会状況について、マタイは「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と書いています。ここに人々の霊的状況があります。これは、現代社会に生きるすべての人の霊的状況であると言えます。なぜなら、いのちの基となる造り主から断絶しているからです。そこに神が光として来てくださったのです。イエス様は光としてこられています。「インマヌエル、神が共におられる」というのは、あなた自身がその光をもって生きることができるということです。それは決して消えない光です。また、その光はあなたのうちに住んであなたを明るくします。このクリスマスに是非、その光をご自分の内にいただいてください。