水路のそばに植わった木

2017年8月 20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇1篇1~6節
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

<要約>

聖書は幸福と希望を与える書:

1篇は詩篇の序論ともいえます。それは、正しい人とは?幸いな人生とは?何かです。聖書は神が人に当てたラブレターであると前に話したことがあります。神は読者であるあなたに「わたしの目にはあなたは高価で貴い存在である。私はあなたを愛している。」と語っています。また、「幸福な人生を送ってもらいたい、だから、聖書の教えに耳を傾けて生きなさい」と勧めています。私は、聖書を読み込んでいる人で、落胆と失望の人生を歩んでいる人を見たことがありません。聖書を読み親しんでいる人は、外目はどんなに悲惨に見える状況でも希望と感謝をもっているのです。ですから、聖書は幸福と希望を与える書であるといったのです。

正しい人と悪しき人の違い:

幸いな人は、何をしても繁栄する、と断言しています。それは、水路のそばで水と養分を十分に得ている木のようであるからだ、というのです。ここで注目していただきたいのは、聖書の言う正しい人は、神との関係において正しい人間だという意味です。その人は主の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさんでいる人だというのです。主の教え、それは狭義では律法ですが、この場合、聖書のみことばであるといってもよいでしょう。「罪」と「人」と書いて、聖書では「つみびと」と読みます。これを罪人(ざいにん)と呼んだ人がいます。ざいにんは犯罪者で、悪者と一緒で、特別な人たちを指します。しかし、罪人(つみびと)というのは、聖書によるとすべての人を指します。すべての人は罪びとであると聖書は指摘します。悪者、罪人について、これは、神との関係が壊れている人のことで、それは、風が吹き飛ばすもみがらのようだと表現しています。万物の創り主である神は、ご自身の栄光を表すためにすべてのものをおつくりになりました。そして、最後に人を造られたのです。人に自然界を管理させました。すべては完全でよいものでした。人は神の似姿であり、人の良心には神の基準が書きしるされていました。神と人の関係は愛と信頼の交わりで、完全な関係でした。しかし、最初の人アダムが神の戒めを破り、自分を神の上に置いたのです。それ以来人には罪が入り、神との愛と信頼の関係は全く失われました。人の良心は曇ってしまい、曇った鏡のように、正しいこと悪いことを映し判別することができなくなりました。ですから、人は、最初は悪いと思って良心が疼いてもいても、いつの間にか慣れてしまって、なんとも思わなくなってしまうのです。堕落した人間の良心とはそういったものです。

水路に移植され実を結ぶ幸いな人:

それでは、神との関係が失われてしまった人間に、どのような回復の道が与えられたのでしょうか。罪のために曇ってしまった私たちの良心に代わって、神はモーセを通して十戒を与えてくださいました。十戒は律法ですが、それには人はこうあるべきであるという神の基準が書かれています。ですから十戒を守ることができれば、幸せになるのです。「まことにその人は主の教えを喜びとし」とあるように、神との関係が正された人は、十戒を守ることを喜びとするのです。ここで注意していただきたいのは、正しい人が正しい行いをするのであって、正しい行いが正しい人をつくるのではないということです。神との関係が正されること、すなわち、神に立ち返って、神から正しいとされた人は、神の戒めを喜びとするのです。しかし、幸いな正しい人にされるためには、3節にあるように、水路のそばに植えかえられる必要があるのです。この水路というのは灌漑によってできた水路を意味します。それでは、「水路のそばに植えかえられた」というのはどういう霊的な意味があるのでしょうか。水路の水は、神のいのちのへ水です。私たちは神のいのちへの水をいただくために、植え替えられなければなりません。それにより、神のいのちとつながるのです。それは神の与える水、キリストが与える水です。それは聖霊ということができます。イスラエルの砂漠で育つ豊かな樹木のように、いのちの水がある土地に植え替えられることです。具体的には、自分の力により頼んで生きようとすることをやめて、神を信じ、キリストにつながり、聖霊のいのちをいただくのです。かくして、神のいのちとつながり正しい関係に入り、豊かな実りを見ることができるのです。人は自分の力で自分を清くすることはできません。難行苦行は一見良いように見えますが、かえって人を高慢にするのです。良い行いがよい人をつくるのではありません。良い行いをしてもよい人間にはなれません。良い人が良い行いをするのです。そのためには、思いを変えて、あなたを造りあなたを愛しておられる神を仰ぐことです。聖霊があなたのうちに住んでくださいます。あなたは変えられます。「すべては良くなります。あなたは、必ず幸せになります。」