勝利に帰する戦い

2017年2月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記18章20~40節
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが【主】の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。
18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

<要約>

信仰者の戦い:

カルメル山に大勢の人が集まりました。エリヤはイスラエルの全家に向かって話します。「いつまで、どっちつかずでよろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もし、バアルが神であるならそれに従え」と。「どっちつかずの信仰」。イスラエルの民は、真の神を全く捨ててしまったわけではないが、不徹底な信仰だったのです。私たちクリスチャンも不徹底な信仰ではいけません。時には偶像と対決しなければなりません。一番、試されるのは、冠婚葬祭です。偶像はいっぱいあります。お葬式に出席することは良いと思います。しかし、焼香は礼拝行為ですから、辞退します。神棚に手を合わせることも辞退します。なぜなら、聖書によるとこれは姦淫だからです。神は、このようにどっちつかずのイスラエルの民に対して、「あなた方は姦淫をしている」と言いました。つまりこれは、夫、あるいは妻がいるのに、他の女性や男性と床を共にすることと同じだというのです。現代のクリスチャンにとって、偶像とは、刻んだ像ばかりではないと言いました。神以上に私たちの心を占領しているものです。神をいつも選び取っていくことが戦いであると言えます。信仰者の戦いとは何でしょうか。それは、第一に、自分の罪の性質との戦いです。信仰は目に見えないものを目に見えるがごとく確信していくことです。また、どうしても神中心の生き方より、自分中心の生き方に傾きやすいのです。神の国と神の義を第一として選び取っていくのがクリスチャンライフです。信仰者の戦いの第二は、この世との戦いです。世の本質は不遜です。神がおられるのに神を認めません。この世の君はサタンです。福音は輝きでないように覆われています。信者も教会に足を運ばなくなり、聖書も読まなくなれば、確実にこの世に流されていきます。この世は流れの強い川のようです。しっかり信仰に立っていなければ足をすくわれ流されていくのです。信仰者の戦いの第三は何でしょうか。サタンです。目に見えない霊的存在です。人格を持っています。知恵があります。肉体を持っていませんので、疲れることがありません。聖書にサタンは人殺しであると書いています。殺人犯は人間の肉体のいのちを奪います。しかし、サタンは、肉体の死の後に来る永遠の死に誘うのです。福音の内容は非常に簡単です。「イエス・キリストはあなたの罪を負ってあなたの代わりに十字架で死んでくださった。そして、あなたのいのちのために復活してくださった。」「イエス様を救い主と信じる者は罪赦されて永遠のいのちが与えられるのです」。罪の赦しと永遠の命です。死は怖くないのです。神の一方的な恵みです。しかし、サタンは光の天使を装って、あなたにささやきます。「あなたには罪はない。これまでまじめに頑張ってきた。罪人などと呼ばれることはない。あなたには救いは必要ない。」「死後裁かれる、そんなことはない。今の生活を楽しむことだ」など。また、信者に対しては、「あなたはイエス様を信じたのに、罪赦されたと言いながら、また、同じ罪を犯しているではないか。神の赦しはもう適用されない。あなたは神の前に出る資格はない。」と言って、信者を責めて教会から離れさせます。では、サタンに勝利するためにどうすればよいでしょうか。そのためには、福音を繰り返し聞くことです。毎週説教で同じことを話しています。皆さんが福音を思い起こして、もう一度、救いの恵みを得ていただきたいからです。あなたの罪が赦されていることイエス様があなたの代わりに十字架で死んで復活されたこと、そして、あなたは神の子とされ、永遠の命に与っていることです。

御名による勝利の戦い:

最初はバアルの預言者たちから始めます。牛を祭壇でたきぎの上に切り刻んで載せます。火をつけないで置きます。バアルの預言者たちは祭壇の周りで朝から真昼まで、バアルを呼ばわっていました。が、火はつきませんでした。次に、エリヤは、民全体に声をかけて、「わたしのそばに近寄りなさい」と言って、民を自分の近くに集めました。それから、主の祭壇をイスラエルの十二部族を象徴する十二の石で祭壇を立て直しました。これは、私たちクリスチャンも主の前に出る時は必ず、祭壇を築きなおさなければなりません。エリヤが整えた祭壇とは、現代では何を指すのでしょうか。旧訳の時代は、民は祭壇にいけにえを携え持っていき、罪を贖うためにその動物を殺し血を流し、そして燃やして灰にしました。そのことによって、神に近づくことができたのです。いけにえの動物は、すべて人の罪の贖いとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストの予表です。動物と祭壇は、現在では、十字架のイエス・キリストとその御名です。現代の私たちクリスチャンにとって、祭壇を築きなおすというのは、悔い改めと言えます。打ち砕かれた悔いた心を神はさげすまれません。そのような心で神に向かうのです。エリヤは、民がもう一度、真の神に心の目を向け、思いを変えることを期待していました。イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返ることを願っていたのです。民の前で、エリヤは神に祈りをささげます。エリヤはこの戦いは主の戦いであると知っていました。エリヤは、主が戦いに勝利してくださると確信していました。なぜなら、真の神は全能の神、不可能を可能にしてくださる神で、このお方以外には神はいない、と確信していました。バアル神との戦いで、主が勝利することは当然のことでした。現在でも、イエス・キリストは勝利者です。聖書にある通りを信じましょう。私たちはイエス様にある限り負けないのです。圧倒的な勝利者です。イエス様にしがみついている限り、私たちクリスチャンはどんなことがあっても大丈夫なのです。

心を翻す回復の戦い:

エリヤは、自分の力を見せつけたのではありません。神をも動かす自分の信仰を見せびらかしたのではありません。ただ、神の栄光が表れることを願ったのです。そして、イスラエルがないがしろにしてきた神への恐れと信頼を回復させたかったのです。その時、「主の火が降ってきて、全焼のいけにえを焼き尽くしました。民は皆、これを見て、「主こそ神。主こそ神です。」と叫んだのです。そして、エリヤの命令で、バアルの預言者たちを残らずとらえて、殺したのです。民は、皆、主こそ神であることを目で見て信じました。そして、信仰を回復しました。現代、サタンはキリストのすばらしい福音に覆いをかけて、輝かないようにしています。しかし、エリヤのように、勇気をもって主の勝利を信じて立ち上がるものと一緒に働いてくださいます。福音の輝きを取り戻してくださいます。黙っていては、このエリヤの力を体験できないでしょう。身近な人に福音を伝えましょう。

願いと神の応答

2017年2月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記3章1~15節
3:1 ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来、自分の家と【主】の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わるまで、そこにおらせた。
3:2 当時はまだ、【主】の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。
3:3 ソロモンは【主】を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。
3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。
3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、【主】よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。

<要約>

ソロモン王の献身:

「ソロモンは主を愛し」と書かれています。ソロモンは、ギブオンでは一千頭の全焼のいけにえをささげています。この後、神殿奉献では牛、二万二千頭、羊十二万頭と桁外れの数のいけにえをささげています。ソロモンの惜しみなく捧げる所から、ソロモンが神を愛し第一とする人であったことがわかります。そして、「父ダビデのおきてに歩んでいた」とあります。ソロモンはダビデの信仰を見て育ったのです。ダビデのように神を愛し、ダビデのように神に従い、ダビデのように神を恐れ、ダビデのように神に信頼していたのです。また、ダビデも惜しみなく捧げる人でした。しかし、気になるのは、「父ダビデのおきてに歩んでいた」というのは、父ダビデに倣ったということです。このことから、ソロモンはダビデと同じ失敗をしました。それは、女性の問題です。私たちの信仰は人に倣ってはいけません。キリストに倣って、聖書に生きるのです。ソロモンが神の祭壇があるところで一千頭の全焼のいけにえをささげたその夜、主が夢の中に現れて仰せられました。

ソロモン王の願い:

神は、ソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。神はクリスチャンに、「大胆に神に願いなさい」と奨めておられます。イエス様は主の祈りを教えられました。また、求めなさい、たたきなさい、捜しなさい、と奨めています。イエス様を信じて洗礼を受けた者の身分は何でしょうか。神の子、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民です。クリスチャンは王の王である神の王子、王女なのです。プリンス、プリンセスなのです。だから、父であり王である神に大胆に願っていいのです。さて、ソロモンは、何を願ったのでしょうか。まず、最初にソロモンは過去の神の恵みを感謝しています。父ダビデを選び大いなる恵みを与えられたことです。そして、ダビデは全き心を持って主に仕えました。彼は、誠実と正義と真心をもって、御前を歩んだとあります。そこには、神の選びと、ダビデの子孫に人類の救い主を誕生させるという神のご計画があったのです。次にソロモンは神の継続する恵みに感謝しています。ダビデへの恵みをその子ソロモンに与えてくださった事を感謝しています。神の恵みは、継続する恵みです。自分たち一代に終わるものではありません。信仰が子どもたち、孫たちに継承されていくように祈らなければなりません。ソロモンは、神の民であるイスラエル民族を正しく治めることができるように、善悪を判断して民を治め、正しく裁く知恵を求めたのです。神はイスラエルの先祖アブラハムを選んで、その子孫を祝福し空の星、海辺の砂のようにその数を増やすと約束しました。それがイスラエル民族です。そして、イスラエル民族を通して恵みと祝福を全民族に届けようとなさいました。選ばれた種族、聖なく国民、王なる祭司の身分が与えられました。しかし、彼らは神を愛し恐れることをせず、また、神を信頼することがなく、周辺諸国の神々に心惹かれて神から離れてしまいました。そこで、神はダビデを、民を救う王としてお立てになりました。そして、王国の世継ぎのソロモンはエルサレムに神殿を建て、その神殿を中心とした国家を打ち立てようとしました。しかし、ソロモンの堕落以後、国家は分裂し周辺の大国に支配されるのです。イスラエル民族は心が神から離れてしまい、ついには、救い主である神の子イエス・キリストを十字架で殺してしまいました。この選びの民が、捨てた石が礎となって、恵みと祝福が全民族に及んでいるのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。』見捨てた石、それはイエス・キリストのことです。不思議なことですが、このような形で聖書の預言は成就しました。すなわち、イスラエル民族を通して全人類を祝福するという約束です。アブラハムの子孫にキリストが出て、全人類の救い主となったのです。キリストを通してすべての人は罪赦されて永遠の祝福に与ることができるのです。神の祝福、それはいのちの祝福です。イエス・キリストが十字架であなたの罪の呪いである死を味わってくださいました。それゆえ、信じる者は罪の呪いが取り除かれて、神のいのちにつながるのです。それは永遠の命です。永遠の滅びから永遠の命に移されるのです。ソロモンはキリストのタイプ、ひな型です。預言者ナタンが神のことばをダビデに語りました。「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」「あなたの身から出る世継ぎの子」というのは直接的にはソロモンを指しますが、とこしえの王座というのはキリストを指しています。ソロモンは王国の世継ぎでした、キリストは御国の世継ぎです。ソロモンは神殿を完成させました。この神殿は、キリストの身体のひな型です。かつては、民はエルサレムの神殿に詣でて神を礼拝しましたが、今は、キリストを通して神を礼拝します。それはまた、私たちクリスチャンを恵みの王国の王としてキリストが治めてくださっているということです。

神の応答:

この願い事は主の御心にかなったとあります。ソロモンは、自分のために長寿や富や敵のいのちを求めないで、正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神はソロモンに知恵の心と判断力をお与えになりました。さらに願わなかった富と誉もお与えになったのです。そして、王たちの中でソロモンに並ぶものはないと彼を高く引き上げたのです。ソロモンはエルサレムで神の箱の前で感謝と和解のいけにえをささげました。この和解のいけにえは、キリストが神と人類の間に立って和解のいけにえとなったことをあらかじめ示しているのです。このように、旧約聖書はいたるところでキリストを映しています。今日は読まなかったのですが、ソロモンに与えられた知恵によって解決した事件が紹介されています。二人の遊女が王の所にやってきました。二人にはそれぞれ乳児がいましたが、一人の女は夜の間に自分の子の上に伏したためにその子は亡くなりました。そこで、その女は死んだ自分の子ともう一人の女の子どもと夜の間に取り換えたのです。双方が、これは自分の子だと主張しています。この種の問題は、通常役人や長老たちにより裁かれるが、この場合は、判決が難しく、王の所に持ってきたのだろうと思われます。ソロモンは神から与えられた知恵を早速用いました。二人の話が食い違っているのを聞いて、ソロモンは剣で子どもを二つに切り、二人で分けるように命じます。この命令を聞いて、一人の女性は子どもを哀れに思って胸が熱くなり、「あの女にあげるから、子どもを殺さないで」と言いました。しかし、もう一人の女性は王の命令に賛成したのです。ソロモンは二人のことばを聞いて最初の女性が本当の母であると判断しました。王の下した裁きに対して、人々は驚嘆し王を恐れたのです。今日はソロモンの願いと神の応答について学びました。クリスチャンはイエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされ、御国の世継ぎとされた者たちです。神は世継ぎとされたソロモンに対してと同じようにクリスチャンに声をかけてくださっています。「何をしてあげよう。願え」と。私たちは日々、神に願い求めていますか?み心にかなう願いをするとき、神は、私たちが願った以上のことをしてくださいます。

結果オーライの人生

2017年1月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記16章15~31節
16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。
16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。

<要約>

神の意に反した人生:

神から離れていたイスラエルの民はペリシテ人に支配されて苦しんでいました。そのような時に、神が送られたのがサムソンです。彼は、生まれる前から、神のナジル人の請願を立てていました。つまり、神に仕える者として選び分かたれた人物でした。サムソンは本来、主の霊に満たされてとてつもない力を発揮する男でした。選ばれた者の道をまっすぐに歩めば、いのちの祝福をもたらす太陽となれたのです。ところが、ナジル人の請願と、神が共にいてくださるという約束を無視して、サムソンは異国人の女に心惹かれて、不品行、好色に走りました。最後には、デリラという女性に騙されて、自分の力の秘密を漏らすのです。サムソンはデリラの魅力に引き込まれて、とりこになるのです。性愛の奴隷となったのです。ペリシテ人の領主たちが彼女の所に来て、サムソンを口説いてサムソンの秘密の力がどこにあるかを探るように言われました。デリラはサムソンに酒を飲ませて、「どうしたらあなたを縛って苦しめることができるか、私に教えて」と迫りました。最初は、新しい七本の弓の弦で自分を縛れば、自分は並の人と同じになると言って、うそをつきました。まだ、サムソンの力の秘密がばれることはありませんでした。デリラはサムソンの力の秘密を聞き出そうと必死です。「あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした」と毎日、繰り返しせがみ責め立てるので、サムソンは死ぬほどつらかったと書いています。ついにサムソンは、自分の心を皆彼女に明かしてしまったのです。デリラは強い酒を与えて、膝枕の上にサムソンを深い眠りにつかせて、一人の人を呼んで彼の髪の毛七房をそりおとしました。そして、サムソンの力は失せ、主が彼から去られました。サムソンは、縛られ、目をえぐられて失明し、青銅の足かせをかけられて牢の中で、臼を引いていたと書いています。悲惨の中に落とし入れられて、絶望の中にいたのです。彼は、過去を振り返り悔い改めの祈りをしていました。神を忘れ、神の賜物をないがしろにしていた自分を示されていたのでしょう。

サムソンの最後の選択・悔い改め:

「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」彼は自分の欲望を抑えられずに酒と女におぼれて落ちて行ったのです。神を忘れ、自分のうちにある罪の性質に身をゆだねて、罪の奴隷となり、高いところから低いところへ下降していったのです。しかし、彼には虐げられていた民を救う使命が与えられていました。このサムソンから、何を学ぶのでしょうか。反面教師と言いました。また、旧約聖書はキリストを証ししていると言われます。サムソンの人生もキリストを映していると考えます。サムソンは、自らの罪によって、士師という身分、つまり裁き司、救い手の地位から敵の囚人にまで落ちていきました。それに対して、イエス・キリストは、私たち人間の罪のために、神である身分を捨てて、低くなられて、極悪非道の囚人として数えられて、十字架につけられました。サムソンは、自分の罪のために神の高い地位から低いところに下降しました。キリストは罪のないのに私たちに代わって神の高い地位から低いところに下降してくださったのです。キリストは、あなたをその罪の呪いから救うために来てくださりあなたの代わりに十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が誰も滅びないで永遠の命を持つためです。かたや、神を認めず、神から離れた人間は、自らの罪によって死に下ります。最後は裁かれ永遠の滅びに落とされるとみことばは教えます。サムソンは最後に悔い改めて、神に祈ります。彼は神殿を支えている二本の柱によりかかり最後の力を振り絞って両手で柱を引き倒したのです。宮の二階にいた領主たちや集まっていた民全体と書いてあるように大勢のペリシテ人がそれにより死んだのです。そして、イスラエルの民をペリシテ人から救ったのです。サムソンは罪から信仰によって救われる者を映し出すモデルでもあります。自分の心の思うままに生きてきて、ついに死の床で、真の神に出会い、悔い改めて、信仰によって救われる人々がいます。十字架でイエス様と一緒につけられた囚人は極悪の犯罪人だったでしょう。しかし、その一人は、悔い改めて御国に入りました。すなわち、最後のところで悔い改める者は救われるのです。

共に戦ってくださる神:

サムソンのことについては、士師記のこの箇所以外には、新約聖書のへブル人への手紙11章に書いています。旧約聖書の聖徒たちの信仰がたたえられています。サムソンもその一人です。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」と書かれている通りです。クリスチャンライフは、結果オーライの歩みです。私たちは失敗と苦しみの人生であったと思えても、主はそこから栄光をおとりになるのです。サムソンは失敗の人生でした。悲惨な最期とも言えます。しかし、そのような中で信仰の火を燃やし尽くしたのです。これは主が共に戦っておられたことの証です。あなたが、悔い改めて、十字架を仰ぐなら、神はあなたのどんな過去の罪も拭い去り、まったく新しくしてくださいます。そして、サムソンと同じように、天では信仰者の一人として数え上げられるのです。

無力の中に働く神の力

2017年1月22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記7章1~15節
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、【主】はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで【主】はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
7:9 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。
7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。【主】はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」

<要約>

人間の力を無に帰する神:

イスラエル人は真の神である主を忘れ、他民族の偶像を神として不道徳に走りました。主は、彼らをミデヤン人に渡しました。ミデヤン人はイスラエル人の土地に侵入して、産物を荒らし、イスラエル人を襲いました。民は主に助けを叫び求めました。そこで、主は、民にお語りになりました。それは、彼らが、神の声に聞き従わず、不信仰になって、神から離れてしまったことです。そのために非常に弱くなり、周辺民族ここではミデヤン人から多大な圧迫を受けるようになったのです。主は、民をあわれみ、ギデオンを立てて彼らに遣わしました。いよいよ、ミデヤン人の陣営にギデオンが率いるイスラエル軍が戦闘を開始する時が来ました。ミデヤン人の軍隊は十三万五千人でありました。しかし、イスラエル軍は、三万二千人でした。圧倒的な劣勢です。しかし、主は「あなたと一緒にいる民は多すぎるからミデヤン人を渡さないと言われました。」それは、イスラエルが「自分の手で自分を救った」と言って神に向かって高慢にならないためでした。これは、人間の罪の性質を神はよく知っているからです。私たちは少しの手柄を誇り、自分の力に頼りやすいのです。そして、神はいらないと不信仰になるのです。さらに主は、主が選ぶ者だけが戦闘に加われるようギデオンに話します。そこでギデオンは泉の所へ民を連れて行き、精鋭三百人を残します。神は徹底的に、人間の力を打ち崩し、人間は誇ることはできない状況にギデオンを追い込まれました。私たちは自分の弱さ、無力さを知り、反対に神の力を知ることを学ばなければなりません。修道院ではラテン語で「メメントモリ」という言葉を挨拶に交わしていると聞いたことがあります。それは、「私たちは死ぬべきものであることを心に銘記せよ」という意味です。私たちのこの世のいのちはかないものです。明日もわかりません。どうせ死ぬのだからあきらめなさい、というのではなく、死があるからこそ永遠を与える神を恐れ信頼しなさい、というのが、「メメントモリ」です。私たちにいのちを与え、今、支えてくださっているのは造り主の神なのです。罪によって死が入ったと書いているように、私たちが死ぬべきものになったのは神を無視し、神から遠く離れた人間の罪のためです。あなたは、自分で生きているように錯覚しています。そして、神は必要ないと言います。神から心が遠く離れていることです。それは、神のいのちから断絶されている状況です。その罪を取り除き、人が神と和解し、本来のいのちである永遠のいのちを与えるために神のイエス・キリストが人となって来てくださったのです。

御力を現す神:

人間の力を無に帰した神は、そこで御力を現わされるのです。徹底的に力をそがれたギデオンは、人間の力が及ばないことを覚えました。ギデオンは、心の奥は不安と恐れで満ちていたと思います。恐れがあってもよいのです。神に申しあげればよいのです。神は、ギデオンが臆病なのをよくご存じで配慮なさったのです。私たちも恐れ不安の時は主に申しあげることです。主は恐れ不安を確信に変えてくださいます。ギデオンが、陣営に下って行って、そこで、耳にしたのが、敵の陣営で二人の歩哨たちの会話です。これによって、ギデオンは勝利を確信しました。そして、主を礼拝しました。また、具体的な作戦を立てることができました。それは、角笛とからの壺、そして松明です。その三つを用いて、300人が三つに分かれて周囲から攻め入る方法です。そして「主のためだ。ギデオンのためだ」と宣言するのです。真夜中の夜番が始まるころ、三体に分かれた男たちはまず、角笛を吹き鳴らしました。そして、手に持っていた壺を打ち壊しました。そして、「主のためだ。ギデオンのためだ。」と叫ぶのです。番兵が交代したばかりで、体制が緩んだ時でした、騒音で、びっくりした兵士は敵がすでに陣営に侵入したと思い、恐怖で包まれます。壺の割れる音や大きな叫び声で多くのラクダが暴走し始めたと思います。そして、三百の松明がうねるように山の上から降りてくる情景を見て大群の襲来と思い、恐怖に包まれて、パニックになりました。「陣営のものは走り出し、おお声を上げて逃げた」のです。混乱した兵士は、闇の中に浮かぶ影が味方なのか敵なのか判断できずに、同士討ちが始まります。ギデオンは大勝利をおさめて民を救ったのです。この戦いは徹底的に神の御力のあらわれでした。

勝利の秘訣:

ギデオンの勝利は、新約の民であるクリスチャンに勝利の秘訣を教えます。クリスチャンには三つの敵があると言いました。サタン、この世、私の不信仰な罪の性質。旧約の神の民は、不信仰のために世と妥協し世の誘惑に負けて失敗しました。サタンと世の力、人間の不信仰は強いのです。私たちは徹底的に無力を知って、神の力に頼るのです。私たちクリスチャンは、「世にあって世のものではない者たち」とイエス様が言いました。世と分離した存在です。しかし、同時に世の中で生きています。そして、世の光、世の塩として世に遣わされていると言えます。世の本質は不遜です。世は神に敵対しています。また、サタンは人々を神から引き離そうと一生懸命です。そして、私たちには神に頼りたくない不信仰があります。しかし、私たちは自分の力に頼らず神の力に頼るとき勝利するのです。なぜなら、キリストがすでにそれらに勝利してくださっているからです。死は勝利の飲まれたと聖書は宣言しています。キリストの十字架の贖いにより、信じる者は死からいのちに移されています。この肉体は死を迎えても神のいのちにつながっていますので、信じる者は永遠に生きるものとされました。それが福音です。この世にあっては艱難がある。しかし、勇敢でありなさい。わたしは世に勝ったのです。と言われた主イエスを心にお迎えして神により頼む人生こそ勝利です。

へりくだる者を高くする神

2017年1月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書18章9~14節
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

<要約>

パリサイ人の祈り:

「自分は義人だと自任している」というのは、自己義認と言います。自己義認の典型が当時のパリサイ人や律法学者と言われる人たちです。彼らの祈りは、自らを誇り心の中で、他の人を見下げて、差別する祈りです。そして、自分は正しいものであると宣言しています。さらに、彼らは週に二回の断食と、十分の一をささげていると主張します。モーセの律法には、断食は年に一度、贖罪の日に行うことになっていました。彼らは、自分たちは、律法の要求以上のことをしていると誇っているのです。パリサイ人はおこないで神の前に自分の義を立てる人たちでした。外面的には、決まりを守り、正しい生活をしていたと言えるでしょう。しかし、神はその祈りを少しも聞かれませんでした。彼は、神に感謝しているようですが、その実、自分の功績を誇っています。彼は自分はこれでいいと思っているので、神に何も求めていません。彼は自分の罪に気付いていないので、悲しむことがありません。彼はプライドがあるので、神に助けを求めません。彼は神を愛していませんので、神より自分の事を考えています。彼は神を信頼していないので、神に心を開きません。イエス様は他のところでも、パリサイ人の真似をしてはいけないと注意しています。しかし、パリサイ人は特殊な人々ではありません。私たち自身の中にもパリサイ人はいるのです。どうしたら、パリサイ人になることから守られるでしょうか。それは、イエス様の十字架から目を離さないことです。「わたしのためにイエス様は十字架におかかりになった。私が無実のイエス様を十字架につけたのだ」と繰り返し心に銘記することです。

取税人の祈り:

それに対して、この取税人はどうだったでしょうか。彼は強い罪の自覚にありました。ユダヤ人は祈るとき、目を天に向けることが普通です。しかし、彼は、下を向いていました。自分が全く神の前に出るに値しないと思っていたからです。砕かれたへりくだった心です。また、胸をたたく、たたき続けたと訳すのが良いでしょう。それは、深い悲しみの表現です。そして、彼には取税人という仕事についての悩みや苦しみもあったでしょう。それらの内容は分かりません。しかし、彼は神のあわれみにすがるという一点でした。注解書によると、「神様。こんな罪人をあわれんでください。」の「あわれんでください」は原語では、「罪を贖う」「和解する」という意味です。ですから、ここは、「神様、わたしの罪を赦し、私への怒りを和解に変えてください。」と訳せます。彼は、深く自分の罪を覚えて、悲しみ、同時に罪の裁きを恐れています。彼は神の赦しを求めつつ、それに値しない自分を感じていました。ですから、彼の祈りは単純でした。彼の求めたものは、ただ、神のあわれみ、神の下さる賜物、キリストの贖いによる罪の赦しです。この取税人は、罪に悲しんでいました。そして、ひたすら罪を贖い赦すことのできる神に心を向けていました。それは、神ご自身が最も求めておられる「砕かれた、悔いた心」「全焼のいけにえに勝る砕かれた霊」です。

最もへりくだられた主イエス:

神はこの取税人を神の前で正しいものと宣言しました。この人には何の償いも功績もありません。しかし、罪赦され平安をいただいたと思います。行いではなく、信仰によって罪赦されて義と認められたのです。神の前に低くされ、心を注ぎ出した取税人は罪赦され同時に御国に受け入れられました。へりくだりの模範を示されたのはイエス様です。万物を支配し治めている神が、人となって、さらに最も貧しいものとなって家畜小屋でお生まれになりました。そして、無実なのに極悪人の一人として数えられて、十字架刑に処せられて、殺されました。これ以上のヘリくだりはどこにもありません。イエス様は子として父なる神の前で極みまでへりくだられたのです。それゆえ父なる神は、彼を復活させて、天に昇らせ、神の右に着座させられました。神がキリストを高く引き上げてくださったのです。キリストは私たちの罪のために十字架で死んで、私たちのいのちのために復活してくださいました。それにより、私たち信じる者は決して滅びることなく、キリストと同じ復活のいのちに与り、永遠に生きるのです。このような祝福を受けた私たちは、今後キリストを模範として歩むのです。キリストの御足の後に従うのです。具体的には、私たちは神を恐れ、愛し、信頼しなければなりません。神は侮れないお方です。罪に対しては容赦のない裁きを下されます。ですから、罪から離れなければなりません。また、神を愛するというのは、神のみことばを守ることです。キリストに従うということです。そして、神に信頼しなければなりません。どんな状況の中でも神に信頼して歩むとき、つぶやきはありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じているからです。このようにへりくだり、キリストに従い、神を恐れ、愛し、信頼するものを、神は高く引き上げて、主の御用のために用いてくださいます。今年も、キリストに倣い、キリストに従っていきたいと思います。

主の祈りとは

2017年1月1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書6章5~15節
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
<要約>

なぜ、クリスチャンは祈るのか:

第一にそれは主の命令だからです。十戒の第二戒は教えます。「みだりに主のみ名を唱えてはいけない。」これは、神の名前で他の人を呪ったり、神の名の権威で自分を正当化したりしてはいけない、正しく神のお名前を用いなさいという命令です。正しい用い方とは、あらゆる苦難の時に「助けてください」と神を呼び求めることです。また、必要を願うことです。また、感謝することです。そして、神をほめたたえることです。これが正しい用い方です。クリスチャンが祈る理由の第二は、祈りは聞かれるという約束だからです。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。クリスチャンが祈る理由の第三は、主の祈りが与えられたからです。主の祈りが与えられたこと自体が、祈る理由です。私たちは主の祈りを唱えるたびに、自分の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。

神に関する祈り:

最初に、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。イエス様が最初に天の神を父と呼びました。そして、私たちにも父と呼びなさいと言われます。万物を造られた全能者が遠い関係でなく身近な父となったのです。次に「御名があがめられますように」です。クリスチャンがみことばに従って聖い生活を送る時、御名が崇められます。すなわち、「御名があがめられますように」は、わたしを神の栄光を表すものと変えてくださいという祈りです。次に「御国が来ますように」です。天の御国とは「キリストによる支配」です。キリストが私の人生の主となり、私の一切を統治してくださることです。私たちは、神の御国が、すべての人々に来るよう願います。それは、宣教を通して、人々がキリストを信じて救われ御国の一員となることを意味します。すなわち、「御国が来ますように」は宣教の祈りです。次に、「御心が天で行われるよう地でもおこなわれますように」です。御心が私たちの人間社会でも行われるようにと願って祈ります。そうすると、霊的な戦いが起こります。敵であるサタン、この世、人間の罪の性質は地上で御心が行われることに抵抗します。その時、それは戦いの祈りとなります。私たちは、神がサタンとこの世と人間の罪の性質を打ち壊し無に帰してくださいと祈ります。

人間に関する祈り:

最初に、「私たちの日ごとの糧を、今日も与えてください。」です。この祈りで、日ごとの糧は神からの贈り物であることに気づくのです。また私たちが感謝をもってこれを受け取るようになるのです。日ごとの糧とは、私たちの肉体的な必要を満たすための全てを意味します。例えば、食べ物や衣服、住居、家庭、お金や財産、敬虔な両親や子供たち、信頼できる会社の同僚、誠実な上司、良い政府、季節に合った天候、平和と健康、秩序と名誉、真の友、良き隣人などです。神が私たちの日々の必要についてどんなに心を配ってくださっているかを知るのです。私たちは神が哀れみ深く神なくしては生きていけないことを知るのです。次に、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」です。私たちが毎日罪を犯し、その罰を受けるしかない人間です。しかし、神がその恵みによって罪を赦してくださるように祈ります。そして、私たちも、私たちに対して罪を犯す人々を喜んで赦し、心から良いことをするようにします。神は私たちの幸福を願っておられます。幸福を考えるときに決して避けて通れないのが赦しです。ただ大事なのは、個々の罪について私たちがそれを自覚し、その個々の罪が神に赦されたということを確認することなのです。次に、「私たちをこころみにあわせないで」です。神は誰をも罪へ誘うことがありません。しかし、私たちはこの祈りで、悪魔やこの世や私たち自身の罪の性質によっても、私たちが誘惑されないように願います。サタンは私たちが神を信じないように誘惑します。聖書を読まないように、礼拝に行かないように、祈らないように誘惑します。私たちクリスチャンの内側にも罪の性質が残っています。この罪の性質は、神を神とせず自分を神とし、自分の欲望を果たそうとする傾向です。最後が、「悪からお救いください。」です。まとめとしてこの願いで、たとえサタンが、からだや魂、または財産や名誉を侵すとしても、天の父なる神が私たちをサタンから救出してくださるように祈ります。そして、ついには死の時に神が、祝福された終わりを与えてくださいます。そして、悲しみのこの世から、天国のご自身のもとへ、私たちを引き上げてくださるように祈ります。国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。私たちの祈りが決して無駄に終わらないことを信じます。終わりに、あなたはアーメンといって、決して疑ってはなりません。神は確かに恵みをもってあなたに耳を傾けています。祈ることをやめてはいけません。毎日の生活は神に対する祈りで始まり、祈りで終わるべきです。