人の創造

2017年5月14 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章26~2章9節、15~18節
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
<要約>

神のかたちである人:

神のかたちというのは、神は霊ですから、目に見える形はありません。目に見えない形のことを言っています。私たち人間には人格というものがあります。この人格は最初の人アダムの罪によりひびが入ってしまいましたが、人の人格も神のかたちの名残と言えます。人格の要素には、知・情・意があります。人間の堕落により、知性は曇ってしまいましたが、人間の知性はすごいものであると思います。世の中には頭の良い人がいると思います。コンピュータを見ても私にはその仕組みは全くわかりませんが、作った人がいるので感心します。また、私たちは感情があるので、喜び悲しむ存在です。それにより喜怒哀楽にあふれた豊かな人生を送ることができます。また、意志については、創造的な意志によって、人類は文化文明を築いてきました。また、あなたが、志をもって決断するなら自分では不可能と思われることもみ心にかなったことであれば成就します。ここに背後に神の働きがあるからです。また、人間には他の動物にはないものがあります。それは霊です。他の動物も地の土から造られました。しかし、鼻から神のいのちの息を吹き込まれたことはなかったのです。このいのちの息は、霊ということができます。人間は霊的な存在といえます。アダムの堕落以来、完全な神のかたちにひびが入りました。そして、霊のいのちを失ったのです。その子孫である私たちも真のいのちを失い、生まれながらの罪びとです。そして、その罪によって滅ぶべきものとされました。時至って、神はその人間に対しても和解といのちの回復のために救い主イエス・キリストを与えてくださいました。最初の人の堕落のためにいったん失われた神と人との麗しい関係は、イエス・キリストにより回復しました。イエス様を信じる者は新しく生まれ変わるということです。そして、創造された時に持っていた神との麗しい関係に入るのです。こうして神は、人の創造をもって、すべてのみわざを完成されました。それをご覧になって、満足されました。そして、「非常に良かった」と締めくくられました。堕落前の神の創造のみわざは火の打ち所のない完全なものでした。人の創造という最終的なご目的を果たされて、神のご栄光を表されたのです。神のみ思いはその時から変わっていません。現在に生きるあなたにも同じ思いを持ておられます。そして、今日も招いておられるのです。「わたしに来なさい憩わせてあげよう」と。神はこの上もなく、あなたを愛してくださり、あなたがこの地上で幸せに生きることを喜びとして、期待し、交わることを楽しみにしておられます。

神の代理者としての人:

神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させました。すべての被造物の長として支配させました。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、堕落以来、正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。「放蕩息子のたとえ」話があります。父を離れて放蕩の限りを尽くした息子がある日、正気になって、父に帰ります。父はまだ遠くにいた彼を見つけて走りより彼を抱き口づけしました。放蕩息子の父親のように神の人に対する御思いは今も変わりはありません。そして、あなたに対する御思いも変わりません。あなたを愛して、あなたが神と和解して、親しい関係に入るのを喜んでおられます。そして、神はあなたに使命と労働を与えておられます。また、神はあなたをキリストの代理として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。

神は人を愛と信頼と喜びの交わりに招かれている:

神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ここで、神は初めて禁止令を出されました。人には特別な使命が与えられました。それは、世界を神に代わって統治することでした。しかし、自然界を神に代わって統治すると言っても、人には神のご意思の通りを行うだけしかありません。つまりロボットのようでした。どうして、善悪の知識の木からだけは取ってはだめだ、と言う禁止命令を出したのでしょうか。神は人に、範囲を与え、これ以上踏み込んではいけないという境界、ボーダーを定めたのです。それが善悪を知る知識の木です。そのことにより、人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができるのです。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。神は人間との関係で、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。人は神の下にあって幸せに生きることができるのです。人間は地のチリで形づくられました。その通り、どこから見てもこの肉体は脆弱で簡単に命を落とします。そんな人間が、神のいのちの息を吹き込まれて霊的ないのちに生きるものとなったのです。しかし、人間が罪を犯し、神の上に自分を置いて高慢になってしまったのです。アダムの罪以来、人間は、造り主である神を無視し、神に背を向けて生きてきました。それが現状です。でも、あなたはこの壊れた神との関係に和解を得たのです。それは、イエス・キリストがあなたと神の間の仲介者となり、キリストが提供する神との和解をあなたが受け入れたからです。あなたはこれまでキリストに背を向けて、和解を受けなかったのです。しかし、キリストが一方的にあなたの罪を十字架で引き受けて身代わりとなって死んでくださった事を知りました。それを信じて受け止めたので、あなたのすべての罪が赦されたのです。このように、あなたは、神との愛と、信頼と喜びの交わりに今日招かれています。今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じましょう。

天地創造とあなた

2017年5月7 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章1~23節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。

<要約>

神が万物とあなたを創造した目的:

この「神」はヘブル語でエロヒームと言って複数形で書かれています。神は一人ですが、ここでは複数形で書かれています。ヨハネ福音書では、イエス・キリストを指して、「造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない」と書いています。また、コロサイ書1章には、御子キリストによって万物は造られたことが書いています。創造の目的は二つあると考えます。「万物は、み子によって造られ、み子のために造られたのです」とあることから、世界は御子のために、すなわち、キリストのために万造られたのです。イエス・キリストである三位一体の神ご自身のためであるということです。別の言葉で言うならば、神はご自身の栄光のために世界を作られたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。もう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸せにするためにです。これはとりもなおさず、あなたが幸せになるために世界を神は造られたということです。あなたはイエス様の十字架によって罪赦されて神と和解しました。つまり、神との麗しい関係に入っているのです。そこで、神は尽きることのないいのちの祝福をあなたにお与えになっているということです。神は、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神のあなたへの思いは、聖書の中にあります。神のご性質の中心です。それは愛です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と。神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。

聖霊はやみの中であなたを守られる:

「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」茫漠という意味は、混沌としていて形なくということです。そこに神のことばが働いて、創造が始まりました。無から有ができ、バラバラになっていたものが整って形を作っていくのです。神は万物を創造し、そして保っておられます。宇宙は素晴らしい秩序をもって運航しています。一分一秒も狂いなく動いています。だから、遠い宇宙に宇宙船を送ることができるのです。だから、私たちは毎日を時間に合わせて生活できるのです。神のみ手がなかったら今もあっという間に宇宙は崩壊するでしょう。神が生きて働かれて万物を保持しておられるのです。ですから、毎日が保たれ守られています。創造の初めから、大水とやみはありました。それ自体は災いでも悪でもありません。やみは光の届かないところです。3節に、やみを夜と名付けたとある通り、夜は休息のために必要です。大海原も海洋生物など生命のために必要です。しかし、やみも大水も災害になることがあります。最初はすべてよかったのですが、アダムの罪以来、地は呪われてしまったのです。そのために、自然災害も後を絶たないくらい起きているといってもよいのです。「神の霊が水の上を動いていた」と書いています。神の霊、それは聖霊です。ソロモンは「神は暗闇の中に住む」といいました。聖霊は災いと思われるようなところに住んでくださり働いてくださるのです。時に、神は私たちが苦しみに合うことも許されるのです。私たちを愛するがゆえに苦しみに合うのを赦されることがあるのです。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。

みことばはあなたを生かす:

神はみことばにより、世界を創造なさいました。最初に命じられたのは、「光よあれ」です。そして、光をよしとされました。夜と朝があって、第一日目です。次に、6節から、「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間を区別された。」とあります。これは、地球の表面を覆っていた水が、海と上空の水とに分けられたことを意味します。大空は二層の水でサンドイッチにされるということです。海の水は液体ですが、上空の水は、気体、つまり水蒸気として存在したと思います。神はそれをよしとされました。素晴らしい環境でありました。これが第二日目に起こったことです。だから、最初の人間は驚くべき長寿でした。約900年間生きたのです。しかし、そのあと、人間の堕落により洪水が起こりました。ノアの洪水から、神は人の齢を120年にすると宣言されました。ノアの洪水によって地球の環境は激変しました。悪化したのです。上空の水蒸気層が雨となって地に落ちて全地は水で覆われました。温室効果が壊れて、南極と北極は極寒となり氷で覆われました。そのために水が引いて陸が現れたのです。今の地球の環境です。大空と大気の環境ができたのが、第二日です。次に、三日目には地上に陸と海が分かれ、地上には種類に従って植物が作られました。さらに四日目には、神は太陽と月と星をおつくりになりました。そして、五日目には、海に住む魚など海洋生物と空の鳥をおつくりんしなりました。すべて種に従っておつくりになりました。六日目に、陸に生きる動物と最後に人間をおつくりになりました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。

キリストの昇天

2017年4月30 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き1章3~14節
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
<要約>

神が主権をもって定めていること:

イエス様は、十字架と復活を中心とした、福音について、また、これからの宣教活動について、弟子たちに教えたのでしょう。また、旧約聖書に預言されていたご自分の生涯について解き明かされたのです。弟子たちはイエス様の復活の証人として宣教しました。そして弟子が弟子を生みました。その時から二千年の歳月が過ぎていますが、聖書は決して廃棄されることのない書物です。なぜなら今も世界中の人々に神のメッセージを語り続けているからです。みことばは必ず成就します。十字架の言葉は救いを得させる神の力です。とパウロが語った通りその効力は薄くなっていくことはありません。福音によって、今も、多くの人々が死から命に移され、絶望がしぼむことのない希望に、苦しみが感謝に、悲しみが喜びに変えられています。これこそまさに福音の力なのです。「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」と。父の約束とは、聖霊が来られるということです。弟子たちは、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」とイエス様に問いました。弟子たちはまだ、ユダヤ民族の救い主としてのイエス様に期待を抱いていたようです。彼らにはまだ、神の国が理解できなかったのです。それに対してイエス様は、やがて来る神の国は、父なる神の主権の中できめられているので、いつどんな時かは、あなたがたは知らなくてよいのだというのです。十字架も復活も歴史的事実です。そして、神がたてられた人類救済のご計画は、現在進行形で進んでいます。神が主権をもって定めていることは、現在に至り、今、ここであなたに及んでいるということです。皆さんお一人お一人は神の人類救済のご計画のうちに組み込まれています。ですから、私たちは、ますます、神を恐れ、愛し、信頼していきましょう。

聖霊が臨まれた結果:

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

聖霊が臨まれるとき力を受けます。イエス様が去って行った後に、天より聖霊が臨みます。それはペンテコステに起こった神のわざです。聖霊は霊ですから目に見えません。でも、聖霊はその働きとしてみることができます。風は見えないけれども、木の枝が揺れることにより、風があるのがわかるというのです。同様に、聖霊は見えませんが、聖霊によってイエス様を信じて新しく生まれた人を見ると聖霊がおられるのがわかるのです。ですから、聖霊はその働きによって知ることができます。聖霊が与える力とは何でしょうか。「イエス様の証人」となる力です。キリストの十字架による罪の赦しと復活によって与えられたいのちがあります。そして、それは体験したもののみが明かすことができます。聖霊によって生まれたもののみが福音を知らせることができるのです。イエス・キリストの十字架と復活の証人となること。これが福音宣教であり、神の国の到来です。そして、全世界に福音が伝えられています。また、聖霊の力は、敵をも愛する十字架の力です。また、聖霊の力は殉教をも恐れない力です。そのように聖霊が皆さん一人一人に臨まれた結果は、何でしょうか。それは、皆さんがイエス・キリストの十字架と復活の証人として生きることです。具体的には、皆さんがイエス様の心をいただき隣人に対して、小さなキリストとなるのです。

イエス様の昇天と再臨の希望:

弟子たちは天を見つめていました。雲に包まれて見えなくなったイエス様がまた、現れるのではないかと見ていたのでしょう。その時、白い衣をまとった二人の天使が言いました。「天に昇って行かれるのをあなた方が見た時と同じ有様で、また、おいでになります。」と。これは、再臨の約束です。イエス様は今、神の右に座しておられます。これは、天においても地においてもすべての権威を握っておられるということです。昇天された後、イエス様が不在になったのでしょうか。否、マタイ福音書によると、イエス様は昇天の時に、いつまでもあなた方とともにいると約束されました。イエス様は教会におられます。信者が二人三人いるところにおられます。聖餐式のパンとブドウ液とともにおられます。イエス様は、偏在の主です。どこにでもおられます。そして、信者の祈りを聞いてくださいます。父なる神にとりなしをしていてくださいます。再臨の時には、キリストは公平な審判者としてこられます。裁判官は、法に照らし、ある人を無罪、ある人を有罪と定めます。それが審判です。キリストはすべての人の全生涯を律法でさばきます。それは、行いばかりでなく、心のはかりごとまで全てを含みます。どんな罪にも神は怒りを持っておられます。み怒りの日には、だれがそれに耐えられよう、と書いています。でも、ご安心ください。神は、世を愛し、あなたが滅びてしまうのを惜しまれ、罪を取り除くために一人の御子キリストをお与えくださいました。そして、罪のないキリストをあなたの身代わりとして十字架につけ断罪しました。それゆえ、御子の十字架のあがないによりあなたのすべての罪は赦されて、神のいのちが与えられます。神は、イエス様の十字架と復活の証人である私たちを用いて全世界に宣教なさいます。教会はそのために建てられたのです。再臨は、信じる者にはこの上もない祝福と決して奪われることのない喜びなのです。

復活はいのちの約束

2017年4月16 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書20章1~18節
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
<要約>

十字架と復活の意義:

日曜日の早朝、マグダラのマリヤはイエス様のご遺体に香油を塗るためにやってきました。そうしたら、墓の石が転がしてあり、墓の入り口が開いていました。墓の中にイエス様の遺体がないことに気づいたマリヤはすぐに弟子たちのところに走って行きました。それを聞いたペテロとヨハネは走って墓に向かいました。彼らは墓に入り「見て、信じた」と書いています。誰もイエス様のご遺体に触れた形跡がないことから主の体は復活されたことを信じたのでしょう。しかし、彼らは、イエス様の十字架と復活の意味や内容をまだ理解していなかったのです。二人はそのまま、エルサレムの隠れ家に帰っていきました。彼らはイエス様のおっしゃったことがその通りになっているのをその目で見て信じたのです。しかし、イエス様の十字架と復活の意味、そしてそれがもたらすものをまだ、理解していませんでした。彼らを含めてイエス様の弟子たちは、イエス様が民をローマの圧政から解放する政治的な救い主として、ユダヤ人の王として期待していました。だから、イエス様がエルサレムへ上る道々で、ご自分が十字架につけられて死んで三日目に復活するというのを聞いても何のことかわからなかったのです。人間の持つ固定観念、先入観は神の言葉を見えなくさせます。弟子たちもそうでした。イエス様の十字架と復活の意義がまだ、よくわかっていなかったといえます。ペンテコステの時にエルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が下りました。聖霊は、彼らの心を開き真の知識に至らしめます。イエス様が言われた言葉を思い起こし、その意味を悟ったのです。また、旧約聖書の預言の言葉に目が開かれたのです。そこで、イエス・キリストの救いが、罪と死と悪魔からの救いであるという理解に至るのです。イエス様の十字架の死は、あなたや私の罪をあがなうためであり、復活は、あなたや私が朽ちることのないいのちに生きるためなのです。それが福音でありグッドニュースです。

名を呼んで近づいてくださる主:

二人の弟子は帰りましたが、マグダラのマリヤは再び戻ってきました。そして、墓のところにたたずんで泣いていました。そして、泣きながら体をかがめて墓の中を覗き込みました。二人の天使はマリヤに「なぜ、泣いているのですか」と問うています。マリヤは、「誰かが私の主をとっていきました。」と答えました。マリヤは依然、イエス様の復活のことは全く頭になかったようです。その時、背後に人を感じたのでしょう。後ろを振り向きました。そこに立っているイエス様を墓の管理人だと思ったのです。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」それでも気づかずに、自分は主のご遺体を引き取るので、どこに置いたか教えてくださいというのでした。イエス様は「マリヤ」と名前を呼びます。マリヤはイエス様と気づいたのです。ここに、ヨハネは、復活されたイエス様が最初にお会いになったのはマリヤであること。そして、彼女にその名を呼んで近づかれたことを記しています。なぜ、イエス様は最初にマリヤにご自身を表されたのでしょうか。イエス様の誕生の知らせは最も貧しく最も低い羊飼いたちに届けられました。復活の喜びの知らせは、最も卑しい罪深さを自覚している女性でした。これは、神が、最も貧しく、最も卑しめられている、最も見下されている人を大切に思われているからです。また、ヨハネは、羊のために命を捨てる良い羊飼いのようにイエス様はあなたやわたしの名を呼んで近づいてくださる方であることを教えています。

復活がもたらしたこと:

復活のイエス様と面と向かってお会いしたマリヤは、喜びのあまり思わずすがり付きました。マリヤに対して、イエス様は「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」とマリヤを制しました。イエス様はこれから天の父である神のみ元に昇らなければならないと言葉を続けます。それには二つの理由があります。一つは、聖霊が来てくださるためです。イエス様の昇天の後、ペンテコステの時に弟子たちに聖霊が下りました。ペテロはエルサレムで人々に悔い改めて、イエス・キリストを信じるように説教をしました。そこで大勢の人々がイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けました。エルサレムで最初の教会が誕生したのです。聖霊は、私たちの心を照らし、罪を示されます。聖霊は聖書の言葉が理解できるようにし信じる心を与えてくださいます。聖霊は私たちをイエス・キリストのところへ連れて行ってくださいます。聖霊は三位一体の神です。もう一つは、イエス・キリストが父なる神に近づく人々のとりなしをするためです。私たちが日々犯す罪をサタンは神に訴え続けています。しかし、イエス様は信者の罪をご自身の十字架のゆえに赦すように神に働きかけています。それがとりなしです。神はイエス・キリストを仲介者として信者を取り扱われます。神のみ子キリストのとりなしにより、信者には良いことしか及ばないのです。復活によってもたらされたことは何でしょうか。それは、キリストにより復活のいのちはすべて信じる者に無代価で与えられるということです。信じる者は罪赦されて永遠のいのちにあずかることができます。また、信じて洗礼を受ける者には聖霊が与えられます。聖霊はあなたの人生の歩みに光を当て、行くべき道を示してくれます。また、イエス・キリストの十字架と復活の証人としてあなたを立ててくださいます。素直な心で主イエスをあなたの心にお迎えすることです。

神の人類救いの計画

2017年4月9 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔宰誠

<聖書>ヨハネの福音書18章28~40節
18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。
18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
18:30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
18:31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
18:32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。

<要約>

  • イエス様は積極的に十字架に向かった。

誰でも間違ったことに対しては、悔しくなり、否定的、敗北的になり、逃げ出したくなりますが、イエス様は自ら積極的十字架に向かいました。私たちもイエス様のように苦難に対して正面突破しましょう!必ず道は開かれます。十字架の出来事は、全人類の救いのため、自ら命を差し出した神様の計画です。不当な十字架の出来事が祝福に変わる瞬間です。

  • 十字架は、イエス様が全人類の王であることの宣言である。

ピラトはイエス様の十字架の罪状書きに「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と記しました。これは「イエス様がユダヤ人の王である」と宣言した歴史的な事件となりました。しかも、これはヘブル、ローマ、ギリシヤ語で記されました。つまり、イエス様が全人類の王である宣言が全世界になされたのです。十字架の出来事は、全人類を救うための神様の計画でありました。

  • すべてを与えるイエス。

イエス様は命だけではなく、下着までもすべてを奪われました。人間の本性は、他人より多く持ちたがり、高い地位に上がろうと望みます。これこそが、人間が追求する幸福と考えます。富だけではなく、知識、地位、人、土地などすべてを所有したがります。しかし、イエス様が自分のすべてを与える自由と喜びを十字架の出来事を通して教えてくださいました。

  • イエス様は十字架の上で、命を落とす最後まで伝道をしていた。

イエス様と一緒に十字架にかけられ悔い改める強盗に救いの約束を与えました。死を救いの伝道の道具として用いたのです。死ぬ瞬間は苦しみと痛み、悲しみなどいろんな感情がこみあげますが、これより、求道者に伝道をしましょう!神様は死さえも救いに変えてくださいます。

イエス・キリストの裁判

2017年4月2 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書18章28~40節

18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。
18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
18:30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
18:31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
18:32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。
<要約>

全世界がキリストを裁く:

実に、ユダヤ人たちは石打の刑ではなく十字架刑を求めていたということです。一民族規模ではなく世界規模の処刑を求めていたのです。なぜ、石打ではだめで十字架でなければならなかったのか。石打はユダヤ国内の刑です。しかし、この場合は、当時の全世界を代表とするローマの刑でなければならなかったからです。これはまた、イエス様の預言の通りでした。すなわち、全世界の代表となるローマによって処刑されることが、神のご計画でした。つまり、全世界がキリストを裁くことになったのです。それは、すべての人を罪の呪いから救うためでした。キリストは、罪から来る呪いをすべての人の代りに受けて十字架で呪われたものとなったということです。イエス様がユダヤ民族という一つの民のためではなく、全世界の国民のためにいのちを捨てたということを表しています。その動機は愛です。「神はこの世界を愛された、実にそのひとり子をお与えになったほどに」と言うみことばの通りです。ユダヤ人指導者たちの陰謀にかかわらず、神の摂理が働いていたのです。結果的に、すべての人の救いのために、イエス様は十字架で贖いの死を遂げることになるのです。ですからそれは、あなたの救いのためなのです。

天の王国と地上の王国:

イエス様は答えられました。「わたしの王国は、この世に属するものではありません」と。すなわち、イエス様の王国は、ローマ帝国、ユダヤの国などこの世界に属するものではないというのです。それは、まったく別の世界、真理の王国とでもいいましょうか。イエス様は、ピラトに「わたしは真理を証するために来た」と言われました。イエス様は、地上の王国ではなく、天の王国の王であることを示されたのです。キリストの王国は、天の御国と言えます。それは、彼岸のかなたにあるのではなく、この地上にあるのです。神が主権を取っておられる国です。また、イエス様を信じる者、イエス様を王として崇める者の中に御国は存在しています。御国の国民である信者は普遍的な教会に属しています。キリストが主、王として治めておられます。時代や地域を超えて存在する目に見えない教会です。そして、この地上の教会は天国の出張所です。教会はキリストの法が治めています。キリストご自身が十字架の愛と赦しによって治めていると言ってもいいでしょう。キリストを王とした御国は拡大し続けています。世界人口の三分に一はキリスト教です。聖書には、すべての国民に福音が述べ伝えられて終わりが来ると書いています。では、地上の国と天の御国の接点は何でしょうか。地上の国と天の御国との接点はキリストの十字架です。十字架を通して出なければ誰も天の御国に属することはできません。ですから、私たちも十字架以外に誇りはないし、十字架以外に天に至る方法はないということです。イエス様を信じて、もう一度、イエス様の十字架は自分のためにあったことを確認しましょう。また、福音である十字架のことばは全世界に述べ伝えられて、すべての人々は天の御国ヘ招かれています。条件はただ一つ、福音を信じることです。人間の努力や行いには関係ありません。すべての人がもれなく招かれています。イエス様が、「真理を証するために来た、真理に属するものはイエス様の声に聞き従う」と聞いて、ピラトは「真理とは何ですか」とイエス様に聞き返します。聖書によるとこの真理は、イエス・キリストを指します。また、真理とは福音を指します。また、真理はみことばを指します。また、真理は聖霊を指します。ですから、聖書にある「真理」とは、父なる神の正義と愛を明らかにしたイエス・キリストだということです。

ピラトの判断の悲劇:

すぐに、ピラトは門で待っていたユダヤ人たちのところに出て行って、「あの人に罪を認めません」と言いました。ピラトには、イエス様にはローマの法律に抵触する罪を認めなかったのです。直感的にイエス様が正義と愛の人であるとわかったのかもしれません。ピラトはこの裁判において、三回キリストの無罪を主張することになります。そして、ピラトは何とかしてイエス様を無罪放免にしようと努力をしました。しかし、どうしても無罪放免にすることができなかったのです。その理由は、まず、ピラトは民衆を恐れていました。そして、騒動が起こることを恐れていました。さらには、ユダヤ人たちが激しく叫んで、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの見方ではない」と言いました。そのときには、ピラトは自分の政治生命に危害が加わることを恐れました。そして、臆病にも、イエス様が罪のない神の人であると知りながらも、十字架に渡してしまうことになったのです。ピラトの正義は、自分にとっての利害の上に立った正義でした。それは神の正義とは大きくかけ離れたものです。ピラトは自分が恐れていた通り、それから三年の後にローマに召喚されて、流刑となりそこで自殺したと言われています。そして、彼は歴史が続く限りいつまでも、無実のイエス・キリストを裁いたものとして、悲しいかな、永遠に語り継がれるものとなったのです。ピラトは悲劇の人生を送った人物です。それはイエス・キリストと面と向かったのに、真理を求めなかったからです。イエス・キリストによって、人類の歴史を紀元前と紀元後に分けられました。キリスト以来、「真理とは何か?」「イエス・キリストは誰か?」という問いが二千年来問われ続けています。ここにおられる方々に対してもそれは例外ではありません。解答は聖書にあります。イエス・キリストこそ真理です。

受難を超えて勝利へ

2017年3月26 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書18章1~13節
18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
18:12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
<要約>

ゲデロン川渡って受難に向かう:

イエス様は、しり込みすることなく受難に向かっていかれました。イエス様を裏切ったユダが、案内をして、一隊の兵士、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちがやってきました。彼らは、ともし火と松明と武器をもってやってきました。イエス様はご自分の身に起ころうとしていることをすべてご存知でした。だから、進んで姿を現して、「誰を探すのか」と言われました。この受難が、父なる神からの差し出された杯であり、自らそれを受けるために来られたことをはっきりと示されたのです。ヨハネは、主イエスが主導権を握って、自らまっすぐに十字架を目指して歩まれた様子を描いています。

神の威信をかけた受難:

「それはわたしです」と言われました。これは、原語では「エゴーエイミー」といいます。神がモーセにかたられ、「わたしはあるというもの」と同じ意味のことばです。これはイエス様の存在の威信を示されたのです。イエス様は、天地万物を造られた創造者である神、すべての存在の基となったお方と同格なお方です。ですから、存在の根源にあるお方です。 そのイエス様の声を聞いて、彼らは後ずさりして地に倒れたと書いています。そこに神の圧倒的な栄光があったと思います。イエス様がこれから受ける苦難が、神の威信をかけたものであることを示しています。イエス様はもう一度、捕えに来た者たちに「誰を捜すのか」と問われました。そして、「目指しているのは自分なので、この者たちは去らせなさい」と弟子たちをかばいました。イエス様は、十字架の苦難は他の誰かとではなく、お一人で受けなければならないことをよくご存知でした。なぜなら、イエス様は人の罪を取り除く神の小羊として来られたからです。このことは、イエス様以外誰も人間にはできない事だからです。イエス様だけが、すべての人の身代わりに十字架で死んで罪を贖うことができたのです。すなわち、あなたの罪の身代わりとなって死んでくださったと言えます。その時、ペテロが剣でマルコスという大祭司のしもべの耳を切り落としました。イエス様はつかさずに、そのしもべの耳を癒され、ペテロに剣を納めなさいと命じられました。剣によっては神の国は来ないのです。イエス様は、武力ではなく、愛の赦しで平和の道を開こうとされました。イエス様は、ご自身を捧げて人類の救いの道をおつくりになりました。私は道であり、真理であり、いのちであると言われました。私を通して出ないとだれ一人神のもとに行くことはできない、と言われました。そして、この地上で、神の国をおつくりになりました。救いの道を完成されたのです。

苦難の向こうに勝利の喜び:

イエス様は武装した一隊の兵士たちに対して、無抵抗でした。それなのに、縛られてアンナスのところへ引いて行かれ、裁判にかけられるのです。イエス様を逮捕したのは、一隊の兵士と千人隊長、それはローマです。当時の異邦人世界の代表と言えます。それにユダヤ人が送った役人たちです。それは同国人の代表です。ですから、イエス様は、同国人からも異邦人からも罪に定められて、十字架につけられたことを意味しています。すなわち、全人類がイエス様を罪に定めたのです。それは、全人類の罪をイエス様に背負わせたともいえます。このように、イエス様の十字架と苦難は人類の救いのために聖書に預言されたことでした。神の子主イエスのこの受難は、一見外側から見れば、敗北であるように見えます。イスラエルの救いのために、そして、そこから全人類の救いへと広げるために主イエスが神から遣わされてきました。しかし、殺されてしまいました。ですから、逮捕された時点では、敗北であったようにも見えます。しかし、イエス様は逮捕される前に、最後の晩餐の後、みなで賛美をして、オリーブ山に向かわれた記事がマタイとマルコにあります。それは勝利の賛美であったと想像します。イエス様は、敗北とみられるような十字架の向こうに復活の勝利を見ていたからです。私たち、クリスチャンも苦しいこと、悲しいこと、望ましくないことを多々経験します。そして、ときに敗北を経験します。そして、そのようなマイナスなことは起こらないように願います。教会でも試みに合わせないでくださいと祈ります。しかし、現実には人生には、病気があり、困難に遭遇し、悩み、そして死があります。それが人生であるということです。しかし、マイナスに見える所に神の恵みがあふれるのです。負けと見える所に勝利の約束があるのです。イエス様が来られた目的は、それらのマイナスがなくなってしまい、いいことばかりになるということではありません。人生にはうまくいくことばかりではなく、失敗や敗北も経験します。そして、病気や失敗や困難を経験したことで、神の恵みを体験した証しを多く耳にします。昨年、徳永規矩の「逆境の恩寵」と言いう本を読みました。明治36年に43歳の短い一生を終えた人です。19歳の時に洗礼を受け、教育と実業に従事し、ようやく実を見る時に、結核を患い、吐血を繰り返し、病床にたおれてしまいました。火の試練を通されたのですが、キリストの恩寵に心から感銘して意気揚々神のみ元に凱旋したのです。クリスチャンライフは平たんではないのです。喜ばしいことも喜ばしくないことも多々起こるのです。しかし、苦難の向こうにイエス様が見ていたように希望を見るのです。信じる者には復活の勝利が約束されています。うまくいかないこと、あるいは敗北と思われるようなことの向こうに勝利の望みをもって生きるのがクリスチャンライフです。イエス様は十字架によって、アダムの罪以来失われていたと神との関係を回復してくださいました。私たち人間と神との関係に、愛と信頼を取り戻してくださったからです。イエス様を信じる者にはやがていただく復活のいのちが約束されています。そして、復活の喜びは今ある様々な困難や苦しみを跡形もなく飲み込んでしまうのです。

エルサレム入城

2017年3月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書12章12~26節
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
<要約>

人の思いにあるもの:

過ぎ越しの祭りのために外国からも大勢の人々が集まっておりました。彼らはイエス様のうわさを聞いていました。イエス様が数々の癒しや奇跡をおこなっていたことを聞いていました。生まれつきの盲人の目をあけました。また、極め付けは死んだラザロを生き返らせたことです。そのことを見聞きした人々は、イエス様こそ、民族が待ちに待っていたメシヤ、救い主であると思ったのです。ところが、イエス様は華々しい軍隊を連れてではなく、また、王が乗るにふさわしい立派な馬ではなく、荷物を運ぶロバの子に乗ってエルサレムに入城するのです。熱狂した群衆の多くは、イエス様がイスラエルをローマの圧政から解放してくれる民族の救い主であると期待して、「ホサナ」と叫びました。「ホサナ」は、「今、お救いください」という意味です。神の民が異邦人に支配されて、苦役に伏していたと言えます。それゆえに、解放者の現われに期待していたのです。民族が待望していたのは民族の救い主です。ですから、彼らにとっては、救い主は同国人の政治的リーダーでした。それによって自分たちの生活が良くなり暮らしが楽になることでした。神のみ心をしたい求める思いより自分たちの暮らしを立てることに心が向いていました。ですから、基本的には彼らは救い主を自分に都合の良いようにしか考えていませんでした。私たち現代人も、自分に都合の良いように神を解釈しようとします。神が愛の方であれば、大震災など起こされることはない、とか。国家間、民族間の紛争など放っておくはずがない、とか。神が正義であれば、どうして悪がこんなに栄えるのか、とか。しかし、まず、神はこういう方であると断定する前に、へりくだって、神のみこころは何か、神に聞く、聖書に聞くということが必要です。すべての事に、私たちにはわからない神の深いご計画があるのです。そして、群衆は無責任です。この「主よ、お救いください」と叫んだ同じ群衆が、今度は数日後には、ピラトによるイエス様の裁判で「十字架につけろ」と叫ぶのです。聖書は、人間とはどういうものかを描いています。人間の罪の深さを描いています。同時に聖書は、真実の鏡です。あなたの心を映し出すのです。聖霊が聖書のみことばと共に働いて、あなたに罪を示します。そして、あなたは、このままではいけない、自分には救いが必要であると思うのです。それが聖霊の働きです。もし、あなたが聖霊に心を開くのなら、聖霊のお取り扱いを豊かに受けます。

神のみ思いと行為:

イエス様は、ロバの子を見つけてそれに乗られたと書いています。それは、ご自分は、ロバの子に乗る平和の王であることをお示しになったのです。イエス様はご自分が王であることを認めておられました。また、偉大な預言者であることも知っておられました。しかし、それだけではなく、大祭司としての職務を覚えておられました。永遠の大祭司として、ご自身を神の小羊として、すべての人の罪の代価として犠牲として捧げることでした。すなわち、無実の神の御子キリストが十字架の上で、すべての人の罪を背負い、身代わりとなって裁かれて、死んだのです。そればかりではなく、イエス様は一粒の麦となって、麦の実が死んで豊かな実を結ぶ、という真理をご自分のいのちに当てはめました。十字架で死んで三日目に復活しました。そして、信じる者に新しいいのちである永遠の命をお与えになったのです。イエス様の職務は王であり、預言者であり、さらに大祭司であります。イエス様が大祭司であるということは、ご自身の血によって、すべての人の罪の贖いをすることです。すなわち、イエス様は、すべての人の罪を赦すために、そして滅びからいのちへと至らしめるために来られたのです。この神のご計画の動機は、愛です。十字架は、キリストによって世の人が救われるための神の行為でした。神は、イスラエル民族の救おうとなさいましたが、彼らは神が送られた救い主イエス・キリストを受け入れませんでした。そこで、この救いは異邦人へと届けられるようになったのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてある通りです。かくして、イエス様は永遠の大祭司として今もここにおられます。イエス様に来て悔い改めるすべての者の罪を赦し、父なる神にとりなしてくださっています。あなたが、「イエス様、今日も私の罪を赦し、私をきよめてください。今日も私を神のみ前に立たせてください」と祈るなら、その通りになります。そして、イエス様が受けるべきすべての良いものをあなたは受けるのです。神の子の身分と永遠の命です。なぜなら、イエス様はあなたの代わりに十字架ですべての負い目を代りに受けてくださったからです。あなたはキリストにより神の子とされ、御国の世継ぎとされていることを心に刻むべきです。すなわち、天にあるあらゆる祝福を受け継いだものであると自覚しましょう。あなたが本当に信じて願うなら、それはあなたのものになるのです。

主に明け渡した者の報い:

礼拝に上ってきた人々の中にギリシヤ人がおり、その人たちがイエス様に会いたいと申し出たのです。それを受けて、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。福音は、イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しです。この救いの福音が、ユダヤ人ばかりではなく、ここでは異邦人の代表であるギリシヤ人にも届いていることをイエス様は察知したのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」多くの人が永遠の命に至るためには一人の人が犠牲とならなければならない、ということです。それは、イエス様が十字架で死んでくださったという行為です。それゆえ、父なる神はキリストを高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになったと書いています。それゆえ、今度は、イエス様はご自身に従うようにあなたに命じています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」とあります。それは、もし、あなたが永遠のいのちを願うなら自己中心を捨てて、イエス様についてきなさいというのです。これは、あなたをイエス様に明け渡すということです。イエス様を信じている者は、この世のいのちが終わっても、永遠のいのちに与ります。私たちは、これ以上どのような報いを求めるでしょうか。私たちが欲しいのは、神からのこの一言です。「よくやったね。あなたが自慢だよ。わたしは、あなたを名誉に思うよ。」 神の、この一言でよいのではないでしょうか。この世であった苦労、苦しみ、悲しみはすべて過ぎ去って、神のことばが残るのです。そして、御国の宴に招かれているのです。

最高の奉仕とは

2017年3月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ12章1~11節
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

<要約>

香油は愛が動機:

マリヤは非常に高価で純粋なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り彼女の髪の毛でそれをぬぐったのです。マルコの福音書の記事によると香油の入った石膏の壺を割ってイエス様の頭に注いだと書いています。売れば300デナリ、今でいえば、300万円です。

ヨハネはマリヤが足に注いだと書いて、マリヤの謙虚さを強調したのでしょう。家は香油の香りでいっぱいになったとあります。その行為は全く贅沢な行為でした。しかし、見栄や高慢のかけらもない純粋できよい美しい行為でした。なぜ、彼女は突然のようにそのような行動に出たのでしょう。それは、一番にはイエス様がご自身で語っておられたことによるのです。十字架の苦難が間地かに迫っていること、そして地上でご一緒する時間が限られていることを感じ取っていたのです。彼女はありったけのイエス様に対する愛と感謝、そして、訣別の思いをこのナルドの香油に託したのです。かくして、マリヤは自分の全財産に匹敵する大切な高価な香油をイエス様に捧げたのです。それは、マリヤの献身です。イエス様を愛するということはどういうことなのでしょうか。私たちが本当に人を愛するなら損得勘定は無くなります。逆に、損得のために、何かの見返りを期待して、その人に良い事をしていたとしましょう。そしてそのことがその人に知れたら、それは、そのよいこと以上にその人を傷つけます。愛は見返りを期待しません。愛は一方的です。感謝をされなくても腹をたてません。イエス様を愛するというのも、同じです。イエス様の喜ばれることをします、損得はありません。また、見返りも期待しません。具体的には、イエス様が愛してやまない、あなたの隣人を愛することです。感謝をされなくてもよいのです。なぜなら、あなたの愛の奉仕はイエス様に届いているからです。イエス様はあなたの心の動機を見逃すことなくあなたを喜んでおられるからです。

主にあって無駄はない:

ところが、マリヤのその行為に対してイエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが猛反対します。ヨハネは、彼のことばの中に不誠実とどん欲を読んでいます。ユダは言いました、「300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と。しかし、真相は貧しい人々に心をかけていたのではなく、ユダは不誠実な盗人であって、金入れを預かっていたので、お金を盗んでいたというのです。ですから、ユダが怒ったのは、実は自分が損をしたためなのです。ここに、自己中心なのに大義を盾に、マリヤを激しく非難して、イエス様のお心を傷つけたユダがいます。それに反して、マリヤはイエス様の十字架の死を気遣っていました。マリヤの無駄と思える行為の中にマリヤのイエス様を大切に思うその思いがにじみ出ています。この世界は功利的です。国々は、自国の利益を第一として、隣国と摩擦を起こしています。中国の海洋進出、ロシアのウクライナ進出、アメリカ第一主義もそうかもしれません。自分の利益を追求して飽くことのない、人間の罪の仕業です。また、私たちの社会は、無駄を省いて効率を求めて邁進していると言えます。この社会の歯車に乗って振り回されているので、疲れます。無駄をしない社会、生産性のないものを受け付けない社会、が私たちの社会ではないでしょうか。しかし、わたしたち信者は、そういう功利的な価値観に振り回されてはいけません。何をするにも、マリヤのようにイエス様を愛する愛が動機でなければなりません。「何をするにも主に対してするように」とあります。仕事をするのも、奉仕をするにも、家事をするにも、です。福音宣教もその通りです。イエス様は、宣教を私たち信者に委ねておられます。イエス様は強制しません。マリヤのような自発的な奉仕を喜ばれるのです。また、福音宣教を考える時、伝道は無駄が多いと言われています。パンを水の上に投げるようなものだとも言われます。これは大変無駄ではないかという声もあります。しかし、伝道者の書にあるように、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」神は約束しておられます。蒔かれた種は、やがて植え付けられて芽が出て、実を結ぶ時が来るのだということです。ですから、種まきであきらめてはいけないと、聖書は勧めています。

献身から出る奉仕:

イエス様の応えは何でしょうか。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のためにそれを取って置こうとしたのです。」と。ここで、イエス様は、マリヤが香油を塗ったのは、もうすぐイエス様は十字架で死んで、埋葬されるので、そのためにしたことであると言われました。イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架にかかる時が迫っていたからです。でもこの時点で、イエス様が十字架にかかるとわかっていた人はいなかったようです。マリヤもそこまでは分からなかったのです。しかし、いつもイエス様のそばでイエス様のお話を聞いていたマリヤは直感的に埋葬の備えをしなければと突き動かされていたのかもしれません。イエス様の死は私たちの罪を負っての死であり、その死によって私たちには罪の赦しという祝福が与えられました。イエス様がご自身のいのちを差し出すのであれば、私も自分の最上のものをもってお応えしたい。マリヤの行為の背後にはそういう思いがあったのです。神は何を大切にしておられるか。人はうわべを見るが神は心を見て評価されます。ユダは自分の損得で動いた人間ですが、マリヤは神のために心を注いだ人物でした。イエス様は人間を救うためにご自身を捧げました。マリヤはそのイエス様に自分を捧げました。イエス様は数日後に控えている十字架のみ苦しみを思い、心は騒ぎ緊張の中にあったのです。マリヤはそのことを直感していました。イエス様の気持ちに寄り添って、イエス様を少しでも慰めたい。そのために、マリヤは惜しみなく捧げたのです。香油の香りが部屋中に満ちたのです。イエス様の身体も香油の香りを放っていました。おそらく十字架につけられて死んで墓に入れられる時まで香っていたでしょう。それが、埋葬の備えをした、という意味です。神は心からの献身を喜ばれます。神は心からの愛の奉仕を喜ばれます。人の評価ではありません。神が喜ばれるのは愛と献身です。わたしたちもイエス様への献身の思いを行動で表すことができます。それが奉仕です。また、隣人愛の実践です。そして福音宣教です。周りの人を教会に誘ってきてください。また、教会の伝道会やその他のプログラムに家族友人知人を誘って連れてきてください。

十字架と復活の道

2017年3月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

<要約>

怒られるイエス様:

イエス様は弟子たちを連れて、神殿にはいられました。エルサレム神殿では、巡礼者に便利なように、捧げものを売るところがありました。礼拝者は必ず、捧げものをもって神の前に出なければならなかったようです。また、その動物は傷や欠陥があってはいけないところから、商売人はレビ人や祭司などの宗教指導者と結託して、捧げものになる動物に厳しい基準を作って、高値を付けて、金もうけをしていました。また、外国の通貨は神殿に納めるためにはユダヤの貨幣に両替しなければなりませんでした。それらのゆえに、神殿は莫大な収入を得ていたようです。神が当時の宗教指導者やユダヤ人にお求めになっていることから大きく離れていました。祈りの家と呼ばれる神殿が、強盗の巣となっていたのです。神は「いけにえを捧げる前に心を捧げて従っていくことを求めておられます。すなわち砕かれた悔いた心」を求めておられます。私たちは毎週の礼拝で、この砕かれた悔いた心をもって見前に出ているでしょうか。もう一度、心を探っていただきましょう。イエス様は、細縄で鞭を作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちを追い出した、と書いています。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの偽善に対しては、その反発をものともせずにはっきりとその悪を指摘しました。「わざわいだ、律法学者、パリサイ人」と何度も言われました。結果的にそのイエス様の言動への反発のために、十字架につけられたのです。当時のユダヤ人は律法の表面的なことを守って、自分の義を立て高慢になっていました。イエス様は、隣人を自分と同様に愛しなさいと言われました。彼らにとって隣人とは、仲間のユダヤ人たちを指しました。しかし、イエス様は隣人とは、彼らが口を利くこともはばかっていた敵のサマリヤ人であると教えました。人を殺してはならない、と言われるが、殺人は心から発していると教えられました。すなわち、もし、私たちが正しく律法と向き合うならば、律法によっては自らを誇ることにはなりません。むしろ律法を全うできない自分に気付くことです。そして、罪を認めてへりくだって神を見上げ、信仰によって赦しを求め、神に近づくのです。イエス様は当時のパリサイ人や律法学者の律法解釈を批判しました。ですから、彼らから反発されたのです。イエス様は律法と人間の関係を正しました。律法は人々を神から離れさせるためのものではありません。律法により私たちは神を見上げ、信仰によって神に近づくのです。パウロはガラテヤ書で律法は養育係であると言いました。すなわち、律法は私たちをキリストに連れて行くのです。イエス様は、堕落したユダヤ人の宗教指導者たちに怒りをぶつけました。彼らが、神のみ心に反した律法の行使により民を苦しめて、自分たちの権力の座にあぐらをかいていたからです。

十字架と復活の予告:

「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と、しるしを求めます。ユダヤ人指導者は、神殿を粛清するイエス様の態度を見て、怒りました。そして、何の権威によってこのようなことをするのか示せ、ということです。また、その権威があるならば、そのしるしを見せろ、と問いただしました。不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰な者にはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と言われました。この時は聞いていた者たちは誰も、その意味を解せなかったのです。が、弟子たちは、後で、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。それまでは、人々は神殿に来て、神と会見できました。傷のない動物を携えてきた人は、祭司がその動物の血を流し、神にとりなすことによりその人は神と会見できたのです。今は、イエス・キリストを通してどこにいても神とお会いすることができます。イエス・キリストが永遠の大祭司となり、神に来る者をご自身の血をもって神にとりなしてくださるのです。「神殿をこわしてみなさい、わたしは三日でそれを建てよう。」の「建てよう」は、原語では「よみがえる、復活」と同じ言葉です。すなわち、これは、「わたしを殺してみなさい、私は三日目によみがえるでしょう」ということを予言したのです。すなわち、十字架と復活のことを暗示されたのです。イエス様は宣教の始めから、ご自身がこの世に来られた目的をよく知っておられました。ユダヤ人たちの反発により十字架で殺されました。しかし、神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

人を知って人のために:

このエルサレムで多くの人々が癒され、悪霊から解放されて、奇跡を見て、イエス様を信じたとあります。しかし、イエス様はご自分を彼らにお任せにならなかったのです。これは、イエス様は全能の神ですから、すべての人の心にあるものを知っておられたということです。主は十字架と復活の道筋を心に決めておられました。イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。人を知って、人のためにご自身を人の罪の贖いの代価として提供なさったのです。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。他人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。当時のユダヤ人指導者ばかりでなく、人の心は悪に傾きやすいのです。さらに、千五百年降って、中性の暗黒時代、教会は免罪符など発行して、金で罪の赦しを売ることをしました。それで莫大な富を得たようです。聖ペテロ寺院など歴史に残る大聖堂はその収益でできたと聞いています。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。森友学園の事件、毒物を使った殺人事件、高校生の殺人事件、これらの原因は人間の内側にある罪の性質から発しています。それは、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。神は人の深い闇、そして悪に傾く腐敗した心、それを救いきよめるために来られたのです。何の見返りも期待せずに、イエス様は、私たちの罪を担い代わりに裁かれ、反対に私たちは天にある神の子の特権をいただきました。これを喜びの交換と言います。神が私たちに備えてくださったものがいかに素晴らしいことであるかを覚えたいと思います。