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赦すためです主の十字架

2020年2月23日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書27章27~44節
27:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
27:29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
27:30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

<要約>

私がイエスを十字架につけたのです:

  • 多くの人々は神が近くに居られるのに偏見で見ることができない
  • 神に頼るのは弱い人間と決めつけるのは、自分は神以上だと思っている人
  • 多くの人々が「神がいるなら世界を救え。そうしたら信じてやる」という。
  • 「イエスの十字架が私の罪のため」と分かることが信仰の第一歩

皆さんにお訊ねします。イエス・キリストを十字架につけたのはあなたですか?とんでもない。2000年前の出来事にどうして現代の私に責任があるというのか。もしあなたが、自分とは関係の無いことであると考えているなら、聖書にあるとおり、神の力を体験することはできません。信じて救われてください。

全能の力であなたを愛し赦す神:

  • イエスは人の罪の呪いを身代わりになって十字架で負われた
  • 神の義は人の罪を正しく裁くvs神の愛は人の罪を無代価で赦す
  • 神は御子の十字架で、二つの相矛盾する御思いに筋を通した

「十字架のことばは、救いを受ける私たちには、神の力です。」十字架のことば、それは罪の赦しです。素直に十字架の赦しを受けるならば、神の怒りが取り除かれて、その人は救われて永遠のいのちに生きます。しかし、十字架を無視する人は裁かれて永遠の滅びに向かいます。イエス・キリストの十字架は今日みことばを聞くあなたのためです。そのことを信じて罪赦されて永遠のいのちに生きることができますように祈ります。

ゲッセマネ、イエスの悲しみと勝利

2020年2月16日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈るとき悲しみは半減し喜びは二倍となる:

  • イエスは、苦しみも悲しみも分かち合える友を求めておられる。
  • イエスは、あなたに切なる祈りを要請しておられる。
  • 教会の交わりは、「喜ぶ者と喜び、悲しむ者と悲しむ」のである

私たちが一緒に礼拝し、一緒に祈ることの大きな意義がそこにあります。イエス様と共に歩み、ともに苦しみ、ともに喜ぶことを私たちは続けなければなりません。教会はイエス様を中心とした兄弟姉妹の交わりです。私たちは試練にあっても祈り支え合うのです。さらに、クリスチャンは教会から出て、隣人に対しても、一緒にイエス様に祈ることを広げていくことが大切です。共に喜ぶとき、喜びは倍になり、共に悲しむとき、悲しみは半分になる、それは、万有引力の法則の様に確かな霊的法則です。

イエスはあなたを救うために十字架に向かって立ち上がられた:

  • 生まれながらの人は自らの罪により滅びへと向かっている
  • イエスは滅びへと向かっている人々を惜しまれ、悲しまれている
  • 創り主がおられることは偏見のない目で自然界を見れば明らかである
  • イエスは、死の向こうに復活と永遠のいのちの希望を示された

イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえり、40日間弟子たちに現れて、オリーブ山で弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。そして再び来られると約束しました。イエス様は死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われましょう。

洗足、十字架、極みの愛

2020年2月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネ13章1~14節
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

洗足により極みまで愛してくださる神:

  • 神が無になり仕える者となってあなたに行動を起こしておられる
  • 神は神に敵する者をも極みまで愛される
  • 神に汚れた足を差し出し洗っていただく謙虚さと勇気を神は喜ばれる
  • あなたのいのちが救われるためにイエス様は十字架であなたの身代わりとなった
  • あなたがイエス様に心を開いて罪をきよめていただくときイエス様の弟子となる

皆さんは、イエス様があなたをその極みまで愛しておられるということばを信じていますか。今も生きておられここにおられるイエス様が、「わたしはあなたを完全に、極みまで、この上もなく愛しているのだよ」と宣言しておられます。それは無条件の愛です。イエス様はユダも愛していました。罪人を愛されているということがわかります。しかし、ユダはその愛を受け止めないで、悔い改めることなく裏切り、ついには自殺してしまいました。私たちはユダにならないでイエス様のこの愛を素直に受け止めましょう。

互いに赦し合い互いに仕えあう:

  • イエス様は模範を示し、お互いに赦し合い仕え合いなさいと言われた
  • 無条件の罪の赦しはこの世にはない、神の国の出張所である教会にはある

私たちは兄弟姉妹の罪を赦すのです。それが、互いに足を洗うことの意味です。クリスチャンは日ごとに主に足を洗っていただく者であり、同時に兄弟姉妹の足を洗う者たちです。キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに仕えあうことによってその愛を全うしなさいというのです。

病気も死も神の栄光

2020年2月2日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネの福音書11章1~17節
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

<要約>

神のいのちに生きる者は病気も死で終わらない:

  • 私たちは人との交わりの中で、生きる喜びや生きる力が与えられる。
  • 人との交わりの中でいのちは育つ
  • 人は神との交わりの中で永遠に続く喜びと希望に生きる
  • 神のプレゼントは、病気と死に代えて、復活による永遠のいのち

病気と死はもともと、人の罪の結果です。アダムの罪以来、罪はすべての人を支配しています。アダムの罪以来、病が人に入り、人は死ぬものとなりました。しかし、神のプレゼントは、すべての人の罪と死に代えて、永遠のいのちを備えてくださった事です。すなわち、復活の希望です。イエス・キリストが十字架ですべての人の罪を背負い代わりに死んでくださった。そして、3日目に復活されたことによります。その復活にすべての人は与れるのです。自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも永遠のいのちをいただくことができるのです。

聖霊とみことばの光の中を歩く:

  • 人は「聖霊とみことば」の光の中を歩くときつまずく事は無い。

イエス様は「誰も働くことができない夜が来ます」と言っています。また、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と言われています。すなわち、聖霊とみことばが届いているこの地上の生涯の中に、神の命令に耳を傾けなさい、というのです。光を信じなさい、すなわち、イエス様を信じなさいというのです。

神との関係は大丈夫?

2020年1月19日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイ3章1~6,13~17節
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神と正しい関係に入るには:

聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に人は罪を犯すものだと。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄光を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪です。自分の罪が分からない人は、イエス・キリストの救いもわかりません。実にイエス様は私たちの罪を取り除くために来られたからです。悔い改めは、今まで神を無視してきたことを悔いて、神に立ち返り、神との関係を正すことです。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そのイエス様が、ヨハネの下に来てバプテスマを受けようとなさいました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義という字は、「神との関係で正しい」ということを意味しています。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えするという心の姿勢から出てきます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、信じて洗礼を受けることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

神との正しい関係を取り戻してくださるキリスト:

神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられました。すなわち受難を心に決めていました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。このように、キリストは私たち人間と神との関係をご自身の血によって取り戻してくださったのです。ですから、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。私たちのいのちはこの地上だけではありません。永遠を過ごすことになります。あなたには、いつまでも続く希望と喜びがついてくるのです。


神をお父さんと呼ぶ祝福

2020年1月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

神を父と呼べない人の姿:

この神をご自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。それまでは父祖の神と言っていました。神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。信仰によりイエス様の者とされた私たちは、「天の父なる神様」といのります。本来、被造物である私たち人間は創造主なる神に近づくことも向き合うこともできません。その神を私たちが「お父さん」と呼べる近い存在に、イエス様が、縮めてくださったのです。人は神から遠く離れていて、生まれながらのままでは創造主なる神を認めることも、信じることもできません。依然、罪と死と悪魔の支配下にあるのです。それが、神と出会うまでの私たち人間のありのままの姿です。それは、大きな断絶です。その断絶は、人間の努力や力では埋め合わすことのできない溝です。その溝にご自身が横たわり架け橋となってくださったのがキリストです。罪のない神のひとり子が、すべての人の罪をその身に受けて十字架で裁かれ死んでくださいました。御子を信じる者はその罪が赦されて、断絶は取り除かれます。

神を父とする祝福の人生:

イエス様は13歳を前にして、父母の神、父祖の神ではなく、ご自分の父であると宣言したのです。その後、ナザレに帰って両親に仕えられた、と書いています。聖書は、イエス・キリストを模範として生きるように勧めています。しかし、イエス様のようになることはできないでしょう。イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。その友のために命を捨てるほど大きな愛はないと言われました。しかし、友ばかりではなく、敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。また、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じています。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。

和解をもたらすクリスマス

2019年12月15日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>コロサイ人への手紙1章13~23節
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

<要約>

神と敵対する人間:

アダムの子孫である人類は皆サタンの支配下にあると聖書は語っています。私たちがイエス様を信じる前の状態が書かれています。人は神と敵対関係にあり、かつ悪い行いの中にあったというのです。そのままでは私たちは誰一人として天国へいけないのです。そこで、キリストは敵対関係にある者を和解させるために来られたということが書いています。「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させる」と。万物と和解と書いています。人間ばかりでなく、万物です。すべての被造物です。自然界の動植物はどのような状況にあるのでしょうか。創世記には、「大地はあなたのゆえに呪われる」と書いています。アダムの罪により、すべての被造物は罪の呪いの下に置かれ、和解されることを待ち望んでいると言えます。被造物も苦しんでいるのです。

聖なる傷のない者となるために:

キリストが私たちの受けるべき罪の刑罰を十字架の上で身代わりに受けてくださったことにより、キリストを信じる者は罪赦されて、神との和解を得ることができます。サタンの支配からキリストの支配に移されたのです。御子は見えない神のかたち、見えない神の姿であるとあります。キリストは神の本質そのものであるとはっきり語られています。万物はキリストによって創られたということとさらにはキリストによって、今万物は保たれ成り立っている事、最終的にはキリストが万物の存在の目的であるということです。だからこそ、キリストは万物を神と和解させることがお出来になるのです。今日のコロサイ書には、キリストがもたらしてくださった和解の内容が書かれています。「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前にたたせてくださる」と。あなたを聖なる者としてくださるのは聖霊です。聖霊はあなたの内側に働き、あなたにきよい神の思いを知らせてくださいます。わたしたちがこころの王座に聖霊をお迎えして聖霊に聞き従うなら、人生は限りない、無限の祝福を得ます。次に、傷のない者、責められることのない者としてくださるということです。神は、キリストのうち傷によってあなたを癒し、御前で聖なる者として立たせてくださるのです。クリスマスは和解の時です。イエス様を信じて神との和解を受けてください。


布にくるまれた救い主

2019年12月8日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>ルカの福音書2章1~7節 ヨハネの福音書3章16節
ルカ
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<要約>

救い主を拒む人の罪:

イエス様を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、とあります。飼い葉桶は石灰岩を削って作ったものです。神の御子は惨めな場所で惨めな姿でお生まれになりました。それだからこそイエス様はすべての人の救い主となられたのです。最も弱く貧しく小さな者たちの救い主として来て下さったのです。神の力や権利を持って治めることを好まず、へりくだってしもべの姿になり、仕えるものとなって世に来て下さったのです。神はご自身の栄光や御力を見せつけて人々の注目を集めようとはなさりません。また、神は人を力で支配し従えようとなさらない、力や権力で人を振り向かせようとはなさりません。それは私たち人間の思いを尊重しておられるからです。人の自由意思を大切にしてくださっています。あなたを縛りあなたを支配しようとはなさいません。神はそういうお方です。ヘロデも東方の博士たちもユダヤの王としてお生まれになる方は一角の人物と想像したでしょう。東方の博士たちは星に導かれてユダヤに来ました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方は、どこにおられますか」と王の宮殿のあるエルサレムに尋ねて来たのです。貧しい大工のヨセフとマリヤの子どもとしてお生まれになるとは誰も想像だにしなかったのです。イスラエルの民は、救い主の到来を待ち望んでいました。民が期待していたのはかつて周辺諸国を制圧してイスラエル国家を統一したダビデ王の再来です。しかし、イエス様はそのような期待をよそに、「民を罪から救ってくださる方」として世に来られたのです。神は、世の罪、そして人の罪を取り除くために来られたといえます。それが私たち人間を最も苦しめ、滅びに至らせる問題であるからです。人の罪とは何でしょうか。それは、人をお創りになりいのちを与えておられる創造者である神を無視していることです。自分を優先して神を後ろに置いていることです。そこに救い主を拒み続ける人間の罪があります。

闇から光へ移してくださる救い主:

そのような人間を神は黙ってみていられなくて、イエス・キリストをお与えくださいました。神は世の人々を愛しました。神の愛の最大の表れは何だったでしょうか。それは十字架の上でご自身のいのちをお捧げになったことです。私たち人間の罪の代価をご自身のひとり子の命で払ってくださったということです。世にはそれを受ける資格も価値もありませんでした。ただ神が私たちを惜しんでくださっているのです。私たちを救い、命を与え、永遠の御住まいに招いてくださっています。救い主キリストを心にお迎えしてください。そうすれば、決してなくならない、尽きることのないいのちの希望と喜びに生きるこができます。死は肉体の死ばかりではありません。霊と魂の死も含まれます。人には肉体の死の向こうに魂の永遠の滅びが待っています。そして、すべての人は闇である「罪と死と永遠の滅び」の世界に閉じ込められていると言えます。その闇の世界から光の世界に移してくださったのが、キリストです。罪は赦され、死から救われ、永遠の滅びから永遠のいのちに移されるのです。すなわち「罪と死と永遠の滅び」が、「赦しと救いと永遠のいのち」に代えられました。どうすればよいのでしょうか。そうです。イエス・キリストを信じて、あなたの心にお迎えするのです。その時、あなたは闇から光へ移されるのです。

あふれる喜びを得るために

2019年11月24日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書1章5~23節
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。

<要約>

神はあなたを特別に選び愛しておられる:

ゼカリヤ夫妻は、高齢になっており、エリザベツは不妊の女性でした。神はゼカリヤ夫妻の願いをかなえ彼らを祝福する時を待っておられたと言えます。神の人類救済のご計画を発動するこの時のために。神はゼカリヤ夫妻を前もって選んでおられました。そして、彼らを愛しておられました。彼らを祝福しようと待っておられたのです。同様に、キリストを愛しキリストに来るものを必ず祝福してくださいます。それが、私たち信者の確信です。神は愛であるといわれているとおりです。皆さん、一人ひとりを愛してくださっています。どのくらいかというと、あなたのためならご自身のいのちを捨てても惜しくないほどにです。その愛は、選びの愛であります。選びの愛、それは独占的な愛です。神はその他大勢の一人としてあなたを愛しているのではありません。神は信じるものに最善を用意していてくださいます。今は分からなくても忍耐を持って神を信じていきましょう。

神の確かな約束を待ち望む喜び:

ザカリヤ夫妻に、一生に一度しか与えられない光栄がやってきました。主の神殿の聖所に入って朝夕に香をたくという任務です。すると、予期しないことが起こりました。香壇の右に誰かが立っていたのです。天使ガブリエルは祝福のことばをかけました。「あなたの願いが聞き入れられたのです。エリサベツは男の子を生みます。」しかし、ザカリヤはガブリエルの告知を素直に受け入れる事ができなかったようです。子どもが与えられる、それも将来エリヤの霊と力を帯びてイスラエルの民に悔い改めを起こす偉大な人物。その親となる祝福です。信仰によって受け止めることができずに、神の大いなる恵と哀れみと祝福に気付かないのです。信仰が硬直化していたのです。人生の変化を求めず、つつがなく過ごすことに執着していた彼に、予期しなかったことが起こったのです。話せなくなったのは、呪いではなく祝福でした。ザカリヤは、その後数カ月間黙想の時を過ごすのです。神の約束を待ち望むとき、彼にとって忍耐をもって待ち望む幸いな時であったと思います。私たちも、マイナスと思える状況にあるとき、それは忍耐の訓練の時です。神の約束は変わりません。神の確かな約束を待ち望むとき、それは幸いな時なのです。そして、その約束は、あふれるばかりの喜びとなるのです。

悔い改めてイエスを信じる

2019年11月17日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マルコの福音書1章1~11節
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

<要約>

罪を悔いてへりくだる:

多くのイスラエルの民がヨルダン川に来て、ヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは、人々に罪を呼び起こして、それに気づかせます。そして、罪を悔いて、心に救い主を受け入れる準備をするのです。ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言いました。「まむしの末たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」と。ヨハネが叫んでいたのは律法による罪の指摘でした。素直にヨハネのことばを聞いた人々は、自らの罪に気づき、神の怒りに気づき、神を恐れ、このままではいけないと思うのです。もう少し、心が清くなってから信仰しようというのは間違いです。人は自分で努力しても清くなれません。身体の中にできた癌を自分で取り除けないのと同じです。外科医によって、取り除いてもらうのです。人の罪も、自分で取り除くことできません。医者であるキリストがあなたの罪をすっかり取り除いてくださるのです。

キリストを仰いで罪赦される;

もし、あなたが、神の前に自らの罪を認めて、へりくだるなら、あなたがこれまでの人生で積み重ねてきたすべての罪はイエス・キリストによって赦されます。なぜなら、神は罪のない御子キリストに人のすべての罪を背負わせて、十字架で断罪しました。それは、あなたが罪の刑罰を受ける代わりにキリストが刑罰を受けてくださったことです。あなたは、思いを変えて、神を見上げるのです。そうすれば、イエス様は罪の赦しをあなたにお与えになります。ヨハネはこう宣べ伝えました。「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方キリストは聖霊によってバプテスマをお授けになります。」人が、洗礼を受ける時に聖霊を受けるのです。聖霊は生ける神です。生ける神が私たち一人ひとりの中に入り住んでくださるというのです。その時、古い人は死んで新しい人に生きるのです。私たちは生まれ変わるのです。今日、バプテスマのヨハネは皆さん一人ひとりの心に当時のように呼び掛けています。「悔い改めなさい」そして、「キリストを信じなさい」と。