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涙の預言者エレミヤ

2021年3月7日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>エレミヤ書24章1~10節
24:1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。
24:2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。
24:3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
24:4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。
24:5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。
24:6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。
24:7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。
24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。
24:9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。
24:10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」

<要約>

みことばに従うとき敗北に見えても勝利がある

バビロンに捕え移された神の民にとって、敵国に支配され、郷里をはなれ、他国に移り住むことは大きな試練であり敗北でありました。神殿中心の信仰生活は絶たれました。新しい土地と環境になかなかなじめず、不安と絶望の中にいました。しかし、主は、捕囚の民に目をかけて、幸せにするとおっしゃいました。そして、この地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、植えて、引き抜かないとおっしゃいました。これは、この時をくだる70年後に、ペルシャの王クロスによって、成就しました。捕囚の民は祖国帰還を果たすのです。彼らは、自分たちには、マイナスと思えること、敗北と思われることでも、神の御言葉に従ったのです。ですから、良いイチジクに例えられたのです。ここには神の主権があります。あわれみと恵があります。私たちは、先のことはわからなくても、神に信頼し、み言葉に従うことです。みことばに従うとき、今、敗北に見えても勝利があるのです。

悔い改めて立ち返るのを待つ神:

それに対して、エレミヤの警告に耳を傾けず、かたくなにその地に残った者たち、そしてユダの王ゼデキヤと、その高官たちに対する審判がありました。そこに教訓があります。私たちは、神を侮ってはいけません。私たちの罪に対して、神の審判はくだるのです。神の御心は、私たちを良いイチジクとみなしたいのです。聖書によると、私たち人間の罪は非常に大きいのです。にもかかわらず、人が自らの罪によって滅ぶことを神は惜しまれ、その独り子イエス・キリストを人の罪を取り除くために、送ってくださいました。「わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてを持ってわたしに立ち返るからである。」ここに、神の民であるイスラエルに、そしてすべての人に対する神の願いが隠されています。悔い改めて立ち返るとは、思いを変えて、心から神を信じることです。神に信頼を置くことです。あなたの人生を神に委ねることです。これからのあなたの人生を神にお任せすることです。神はあなたに最善をなしてくださいます。

ペテロの召命

2021年2月28日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書21章15~22節
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

<要約>
「自分がする」から「イエス様がなさる」人生:

ペテロには、「自分はこう思う、自分はこうする」というような、あくまでも自分が主人となって、イエス様についてきたと言えます。しかし、イエス様を裏切るという失敗をして、復活のイエス様にお会いしました。その後は、イエス様がペテロの主人となり、自分に頼らず内におられるイエス様に頼る人生が始まりました。私の羊を飼いなさい、とのお言葉により、イエス様から召命と任命をいただいて、ペテロはその後、教会のリーダー、初代の牧師あるいは神父、教会の偉大な牧者、として活躍していくのです。復活のイエス様は、今も生きて働かれています。イエス様をあなたの人格の中心にお招きするならば、自分がしなければならないと頑張らなくてもよくなります。なぜなら、イエス様があなたの内で事をなしてくださるからです。「自分がする」から「イエス様がなさる」人生に変えられるのです。

イエス様をこの上もなく大事にする人生:

復活のイエス様にお取り扱われる前は、弟子たちにはライバル意識がありました。この後、ペテロは初代教会の牧者として、使徒の中のリーダーとして活躍するのです。ペテロの説教で一日3千人が救われて、弟子に加えられた、とあります。ヨハネは思索し旧約聖書を紐解きイエス様の御わざと預言の成就を結びつけ、第4福音書とも言われるヨハネの福音書を著わしました。イエス様の福音を後世に伝える大きな役割を果たしました。ペテロもヨハネも、キリスト中心の人生を歩み始めてからは自分の名声や名誉にとらわれることなく、自分を他者と比較して悩んだりすることもなく自分の使命に生きたのです。神はあなたの人生に深く関わってくださいます。神は、それぞれの人にあった、適切な役割をお与えくださいます。それは、他の人と同じではありません。一人ひとりの 賜物や人格にふさわしい役割あるいは使命をお与えくださいます。イエス様を愛する事は、イエス様をこの上もなく大事にする事です。その愛を全うする時に、それらの犠牲以上に栄光の喜びを味わう事ができるのです。

こんなに素晴らしい救い

2021年2月21日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>へブル2:1~10、14、15
2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
2:3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。
2:6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
2:7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
2:9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
2:10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

<要約>

救いの信仰にとどまれば世に押し流されない:

世の流れは、私たちクリスチャンを神から、そして信仰から、引き離そうと強い勢いで臨んでいます。そして、この世の背後で働く悪しき霊のことを聖書は教えています。この世の支配者です。悪い方向に、滅びと死に向かって世の流れを作っているといえます。日本は災害列島です。なぜそれらの災害があるのでしょうか。神が、災害をお与えになるでしょうか?そうではありません。サタンの訴えが聞き入れられ、神はその災害が送られることをお許しになったのです。病気や苦難、災難と思われることは避けられないことかもしれません。試練や困難は、マイナスな事ばかりではありません。神は、試練や困難や苦難を用いてくださいます。マイナスはプラスに変えられるのです。ですから、試練や困難があっても、それに押し流されるのではなく、ますますキリストの福音にしっかりととどまろうではありませんか。

罪と死と滅びから救うキリストの福音:

聖書の死には、霊の死、肉体の死、永遠の滅びである死、があります。神を信じない人は、神のいのちにつながっていないので霊の死の状態です。肉体の死は、誰もが経験する普通の死です。永遠の滅びの死は、肉体の死後、罪に対する報酬である滅びに落とされることです。キリストの十字架の贖いを受け入れないすべての人に臨む死です。キリストは肉体の死を経験なさいました。兵士が槍でわき腹を刺して、死を確認したのでした。しかし、大いなる逆転がありました。キリストは十字架の死にまで従ったが故に、神は彼をよみがえらせて高くあげられたのです。悪魔の持つ死の力をキリストは完全に飲み干したのです。人類の罪の贖いを完遂し復活によって死と悪魔に勝利したのです。つまり、信じる者には、死はその力を失い、復活の命、永遠の命に生きるのです。

イエスを告白するならば

2021年2月14日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰヨハネ4章1~12節
4:1 愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
4:2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
4:3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
4:4 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。
4:5 彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。
4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。
4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

<要約>

イエスを告白するならば世に勝利する:

使徒信条に書かれているイエス・キリストについての信仰告白は、イエス様の生涯に起こった事実とこれから起こる事を述べています。イエス様は処女降誕でした。聖霊によって身ごもったとありますように、神が人となって来られたのです。ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、とありますが、それは、罪のない神の独り子イエス様が罪人である人間のすべての罪を背負って身代わりとなって十字架で苦しみ、死んでくださるためでした。神は無罪のイエス様に罪を着せて十字架で断罪したのです。イエス様は、その理不尽と思われる神の願いを受けてくださり、父である神に完全に従いました。贖いの業が成されたのです。神は、そのようなイエス様を復活させ、彼に、天においても地においても、すべての権威をお与えになりました。天に上られたイエス様は、今度は世を裁くためにもう一度来られます。これは、あなたや私を、罪と死と滅びから救うために、神がご計画し実行なさったことです。私たちは信仰により、キリストの勝利に与るのです。キリストを告白し、世に勝利する人生を、皆さん一緒に歩みましょう。

イエスを告白するならば神を体験する:

ヨハネは、神の本質は愛であると断言します。神は私たちを愛さずにはおられないのです。私たちがどのようであれ、どんなに罪深くても、私たちを愛してくださるのです。そして私たちの罪のために、宥めの捧げものとなり、十字架で身代わりに裁かれてくださったのです。ここに愛があるのです。 それは、無条件の、無償の愛です。「私たちもまた互いに愛し合うべきです」とヨハネは言います。神が私たち一人ひとりを愛しておられると言うことに目を向けず、すなわち神の愛を無視して、自己愛の中に生きているのが、私たち人間の姿であります。私は神から愛されて、神と親しくさせてもらっていることを感謝しています。あなたも、神に愛されていることを素直に認め、イエス・キリストを告白するならば、あなたは神を体験します。神がおられることがわかります。神が愛しておられることがわかります。

厳かな命令

2021年2月7日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱテモテ4章1~8節
4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4:4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

<要約>
クリスチャンの最大の使命とは?

パウロが福音宣教を厳かに命じる理由はなんでしょうか。厳かという字を辞書で調べると、「重々しくいかめしい様」とあります。すべての人は、死を迎えます。死はそれぞれにとって重大な事件と言えます。なぜなら、死んですべてが無になるのではないからです。人には霊があるからです。ある人は、自らの罪のために永遠の滅びに落ちます。神の愛から完全に断絶された暗黒の世界で孤独に永遠を過ごすのです。また、別の人は、罪赦されて永遠のいのちをいただき、永遠の安息、永遠の祝福に入るのです。福音宣教は、人々に永遠のいのちに至らせるキリストの救いを伝えることです。これは、決して軽々しく扱うことのできない重大な働きであることをパウロは心に刻み込もうとしているのです。福音宣教を最優先課題として、どんな困難や抵抗があっても遂行しなさいと言っているのです。

死と滅びからあなたを救う福音:

他人事でない、自分の死と言うものを直視したときに、誰でもが持っているこの痛みを「霊的な痛み」といっております。「自分はどこから来てどこへ行くのか分からない。」という実存の悩みです。しかし、信者はキリストこそが唯一の救いへの希望である事を知っています。罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。あなたが認めようと認めまいと世界には罪と死とのろいの原理があります。聖書は語っています。罪を犯したことのない人は誰もいない。すべての人が迷い出て無益なものになった、と。悔い改めで神に帰らない限りそのままでは人は罪により死と呪いに定められています。その人を救うためにキリストは来てくださったのです。もしあなたが、まだ、あなたの死に対する準備ができていないならば、今すぐに、悔い改めて、イエスキリストをあなたの罪の贖い主、救い主として信じましょう。

ナアマンにくだった救いの恵

2021年1月31日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記5章1~17節
5:1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、【主】が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。
5:3 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」
5:4 そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
5:11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
5:15 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
5:16 神の人は言った。「私が仕えている【主】は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。
5:17 そこでナアマンは言った。「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、【主】以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。

<要約>

悩みは神と出会いのチャンス:

悩みは、人の心を暗くして、憂鬱にします。しかし、悩んでいる時、神はその人の近くにおられます。そして、その人を招いておられます。悩んで、祈りに導かれることは幸いです。詩編50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」私たちも、自分の病、そして、家族の病を通して神は私たちに悩みを与え、「わたしに来なさい」と招いておられます。人は、悩んで祈り、神を求めるとき、神を体験し、神を崇めるようになります。そのように、悩みは、神と出会うチャンスであると言えます。そして、神と出会った私たちは神の愛を体験し信仰に導かれるのです。

無代価の救い、無償の愛:

エリシャは、ツァラトが癒されたナアマンに神の恵みはどういうものかを教えようとしました。神の救いの恵みは、金銭で買えないものであること、すなわち無代価な恵みです。なぜ、無代価なのでしょうか。それは、人のいのちが高価で貴く、いのちに値をつけることはできないのと同様に、この無代価の救いは、神のひとり子キリストのいのちを、あなたの罪の代価としてくださった神の無償の愛によるからです。ゆえに、どんな金銭でも得られるものではありません。神のことばは単純です。「あなたの罪のために、神のひとり子イエス・キリストがあなたに代わって十字架で死んでくださった。だから、イエス・キリストを信じる者は罪赦されて永遠の命に与るのです。」今日、是非、このイエス・キリストの救いを受け取っていただきたいと思います。何の条件もいりません。ただ、あなたの両手をあげて、心を天の神に向けて、罪の赦しと永遠のいのちを受け取ればよいのです。


ソロモンの願いと神の応答

2021年1月24日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記3章1~14節
3:1 ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れて来て、自分の家と【主】の家、およびエルサレムの周りの城壁を築き終えるまで、そこにとどまらせた。
3:2 当時はまだ、【主】の御名のために家が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえを献げていた。
3:3 ソロモンは【主】を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。
3:4 王はいけにえを献げようとギブオンへ行った。そこが最も重要な高き所だったからである。ソロモンはそこの祭壇の上で千匹の全焼のささげ物を献げた。
3:5 ギブオンで【主】は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、【主】よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
3:12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
3:13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」

<要約>
神を動かす祈りと願い:

神は、ソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。神はソロモンの神への愛と献身に動かされたのです。神を動かす祈りと願いは何でしょうか。ソロモンの願いは富や敵の首ではなく、人民を正しく導くことでした。ソロモンは王として人民を治め、正しくさばくことが王の使命であると自覚していました。その使命を果たしていけるように願い祈ったのです。イエス様は、人にとって最も大切な戒めを何かを教えてくださいました。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』と。私たちはそれぞれ違った賜物が与えられ、使命が与えられています。その使命が向かう先は、神を愛することと、隣人を愛することです。それが、神の十戒を包括する教えです。ソロモンの祈りと願いは、御心に適うものでした。そして、それは、神を動かすものでした。私たちの祈りと願いもそのようでありたいと思います。

願った以上の神の応答:

神は、神を愛する者の願いを聞き上げ、それ以上の祝福で満たしてくださるのです。神は、王たちの中でソロモンに並ぶものはないと言われるくらい彼を高く引き上げました。神は、私たちがみ心にかなう祈りをするときに、願った以上のことをしてくださることを知っています。クリスチャンはイエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされ、御国の世継ぎとされた者たちです。神は世継ぎとされたソロモンに対してと同じように、クリスチャンに声をかけてくださっています。「何をしてあげよう。願え」と。私たちは日々、神に願い求めていますか?神はソロモンが願った民を正しく裁くため、知恵、理解力、判断力をお与えになりました。さらにそればかりでなく、それに添えて、富も力も戦力も与えてくださいました。それがクリスチャンの祈りと願いに対する神の応答です。

敗北が勝利に変わる人生

2021年1月17日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記16章15~31節
16:15 彼女はサムソンに言った。「あなたの心が私にはないのに、どうして『おまえを愛している』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのか教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。
16:17 ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をすべて明かしたことが分かったので、こう言って、人を遣わし、ペリシテ人の領主たちを呼び寄せた。「今度こそ上って来てください。サムソンは心をすべて私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来たとき、その手に銀を持って来た。
16:19 彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。
16:20 彼女が「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言ったとき、彼は眠りから覚めて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は、【主】が自分から離れられたことを知らなかった。
16:21 ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえを献げて楽しもうと集まり、そして言った。「われわれの神は、敵サムソンをわれわれの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「われわれの神は、われわれの敵を、われわれの手に渡してくださった。この国を荒らして、われわれ大勢を殺した者を。」
16:25 彼らは上機嫌になったとき、「サムソンを呼んで来い。見せ物にしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で笑いものになった。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を固く握っている若者に言った。「私の手を放して、この神殿を支えている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 神殿は男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。
16:28 サムソンは【主】を呼び求めて言った。「【神】、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 サムソンは、神殿を支えている二本の中柱を探り当て、一本に右手を、もう一本に左手を当てて、それで自らを支えた。
16:30 サムソンは、「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。こうして、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 彼の身内の者や父の家の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び上げて葬った。サムソンは二十年間イスラエルをさばいた。

<要約>
欲望のままに生きる悲惨な人生

サムソンは本来、選ばれた者の道をまっすぐに歩めば、いのちの祝福をもたらす太陽となれたのです。ところが、ナジル人の請願を無視して、サムソンは異国人の女に心惹かれて、不品行、好色に走りました。最後には、デリラという女性に騙されて、自分の力の秘密を漏らすのです。クリスチャンが主のために自分の才能、賜物を用いないで、自分の欲望のために用いて、サタンの誘惑に負けてそれらを失うのなら、大変残念なことです。サムソンからは反面教師的な学びができるでしょう。「サムソンは眠りからさめて、今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう、と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」この節は、ティンデル聖書注解書には「これ以上に悲しい節は、旧約聖書に存在しないだろう」と書いていました。そして、力を失ったサムソンは難なく、ペリシテ人の手に落ちたのです。

信仰者には信仰による勝利がある

サムソンは最後に悔い改めて、神に祈ります。彼は神殿を支えている二本の柱によりかかり最後の力を振り絞って両手で柱を引き倒したのです。宮の二階にいた領主たちや集まっていた民全体と書いてあるように大勢のペリシテ人がそれにより死んだのです。これは、サムソンが生きている間に殺したものより多かった、と記載されています。そして、イスラエルをペリシテ人から救ったのです。サムソンは欲望に振り回された敗北の人生でした。悲惨な最期とも言えます。しかし、サムソンは、最後のところで悔い改めその信仰により救われました。私たちの人生においても、状況は困難を極め、敗北と思われることも多々あるかもしれません。でも、私たちは思いを変える必要があります。すなわち悔い改めです。自分の内側を見つめるのではなく神を仰ぐのです。あなたが、十字架を仰ぐなら、キリストにより、神はあなたのどんな過去の罪も拭い去り、まったく新しくしてくださいます。そして、サムソンと同じように、天では信仰者の一人として数え上げられるのです。

いつも喜んでいるために

2021年1月3日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙4章1~7節
4:1 ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。
4:2 ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。
4:3 そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

<要約>

喜びを奪うものへの対処法:

教会も罪赦された罪人の集まりですので、仲たがいが起こります。愛し合いなさい。赦しあいなさい。和解しなさい。そして、一致しなさい。あなた方は、いのちの書に名前が記されているからです、と言われても、不一致を解くのは簡単な事ではありません。パウロは、教会の知恵を駆使して、真の一致を得るよう努力することを進めています。心にわだかまりが生じたときは、なるべく早く、話し合うことが必要です。お互いの誤解を解くことです。どちらも一方的であっては良くありません。また、お互いに話し合うことにも抵抗があるようであれば、第3者を立てて、双方の意見交換をする必要があります。不一致という喜べない問題を解決して、心は喜ぶのです。いのちの書に名が記されていることを心から喜ぶのです。

喜びを取り戻す祈り:

多くの日本人は悩みがあると神仏、偶像に祈ります。真の神を知らないので、みんなが神として拝んでいるものに祈ります。しかし、私たち信者は誰に祈ったらいいか、ちゃんと知っています。それは、天地万物を造られた全能の神です。神に不可能なことはありません。そして、神は愛の神です。御子イエスをくださったほどに世を愛された、というように、私たち一人ひとりをかけがえのない者として愛し、また心配しておられます。ですから、私たちは真の神に祈るのです。感謝できない状況の中にあっても、感謝できることを探します。そして、神に感謝します。そして、あなたの願い事を神に知っていただく、心にある思い煩いをすべて神に申し上げるのです。そこからは、神がしてくださることです。神はあなたに平安を与えてくださいます。それは、全て人の思いを超えた、理解を超えた神の平安です。

勝利の秘訣

2020年12月27日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記6章1~14節
6:1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行った。そこで、【主】は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。
6:2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。
6:3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。
6:4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。
6:5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。
6:6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは【主】に叫び求めた。
6:7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに【主】に叫び求めたとき、
6:8 【主】は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、
6:9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。
6:10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが【主】、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、【主】があなたとともにおられる。」
6:13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、【主】は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」
6:14 すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

<要約>

神から離れ敗北する人間(敗北のサイクル)

イスラエルの民は世に妥協したために、彼らは敗北のサイクルに入っていきました。それは、現代の私たちに当てはめると、神にすべてをあけ渡すことなく、この世の流れに流されている人の姿を表しています。この世と妥協して、この世の生活に合わせるならばその人は敗北します。パウロは「あなた方は、この世と調子を合わせてはいけません」と言いました。むしろ神は、「彼らの中から出て行って、彼らと分離せよ」と言っておられます。イスラエルの民のように敗北のサイクルに入ってはいけません。敗北のサイクルは、神のみことばを無視すること、そして、神に信頼を置かないことから始まるのです。それは罪であり行き着くところは死であり滅びです。

神は叫び求める者を世に遣わす(勝利のサイクル)

主の臨在と栄光を仰ぐ時、救い主、解放者であるイエス・キリストは私たちと共にいてくださいます。キリストは私たちの罪をご自身に負われて十字架の上で死んで罪を取り除いてくださいました。キリストは私たちを罪の呪いから救い解放してくださったのです。私たちはキリストにより勝利のサイクルに入れられるのです。勝利は私たちが得るのではなく、すでにキリストが世と悪魔と死に勝利されていますので、私たちはただその勝利にあやかるだけです。私たちに必要なのは信仰です。勝利の結果、嘆きは賛美と感謝と献身の思いに変えられるのです。勝利のサイクルにとどまる秘訣は、旧約の神の民のようにリーダーを見失うのではなく、私たちのリーダーであり贖い主であるキリストから目を離さないことです。キリストを信じ続けることです。