2017年8月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅰコリント15章1~20節
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
<要約>
福音の最も大切な内容:
福音理解において最も大切なことは、最初に、イエス・キリストが聖書に示す通り、私たちの罪のために死なれたことです。すなわち、十字架です。イエス・キリストが私たちの罪の代わりに十字架で死なれたことです。そして、イエス・キリストは確かに墓に葬られたのです。それから復活して、ペテロに表れ、他の十二弟子に表れ、その後40日間地上で500人以上の兄弟たちに表れました。そして、イエス様は、オリーブ山で弟子たちやイエス様の家族の見ている前で、天に昇って行かれたのです。そして、復活の主は最後に教会の迫害者であるパウロに表れてくださったというのです。このことはまだ多くの証人たちが生きているので、動かされることのない事実なのだと念を押しています。イエス様の十字架の死は私の罪のためであったこと、身代わりの死であったこと、そして、復活は罪の赦しと永遠のいのちの確証なのです。これが福音です。そして、多くの人々がこの福音によって、人生が変えられて、迫害をも恐れないで、大胆に喜びと感謝をもって生きている、その様を彼らは見聞きすることができるからです。福音を理解する力は聖霊によってのみ与えられ、福音の理解は人間の知恵によっては深める事はできません。御霊は語りかけ真理に導き、イエス様の栄光を現し証しします。御霊はイエス様の心を受けてそれを知らせるのです。すなわち福音を理解する力を与えるのです。
福音の及ぼす力:
福音の及ぼす力とは何でしょうか。その力が、パウロに見事に表れたのです。かれは、教会とクリスチャンの大迫害者でした。ダマスコ途上で復活のキリストが現れて、彼の上に大逆転が起こりました。ダマスコ途上でイエス・キリストとお会いした時にまばゆい光によって目が見えなくなりました。そして、飲まず食わずの三日間にパウロの心の目が開かれたのです。ここに聖霊の大いなる働きがありました。その後、パウロはアラビアに引きこもって数年旧約聖書の預言を全部調べたのでしょう。パウロはそれまで、パリサイ派の指導者ガマリエルの弟子として、旧約聖書を知り尽くしていました。そして、その後に新約聖書のローマ書をはじめとして、13巻の書物を書いたのです。ここに聖霊がパウロに臨んで、福音を理解する力、殉教を恐れないで大胆に伝道する力を与えられました。パウロがキリスト教の教理を体系づけたといえます。そこで、この福音にある最大の希望は復活にあるといえます。
復活の信仰:
パウロは、キリストの復活とともに私たち信者の復活について述べています。もしキリストの復活がなければクリスチャンも復活する事はないでしょう。そして復活がなければ私たちの信仰はむなしいものとなります。実際、キリストの弟子たちも、キリストが十字架にかかって処刑されたときには、皆がっかりして一時は散り散りになってしまったのです。
最後は死んでしまって終わりか、と言うことです。もしそこまでのキリストであれば私たちのキリスト信仰は、実質がない、みのりがない、むなしいものであり、今なお私たちは罪の中にいることになります。キリストにあって死んだ者たちは滅んでしまったということです。しかし、復活があるならば、信仰には実質がある、確かな体験がある、答えがあるということです。それは罪からの解放であり永遠の命であります。私たちの人生はこの世だけで終わりません。それは、永遠に続く命と祝福に溢れた人生となるのです。そして、クリスチャンはこの世で最も希望のある存在者となるのです。今、日本では、お盆の時節です。そこでは、死者を覚えて、お墓参りやいろいろな行事があります。お盆休みということばも普通に使われています。ここに日本人の死生観をうかがうことができます。人は、死ぬことへの恐れがあると同時に、死は当然のこと自然なことであり、仕方のないことと考えているのです。仏教では、傷病労苦は人生にはつきものなので、どうにもならないことはあきらめることしかない。心身を悩ませる心を煩悩と言います。ですから、煩悩を払いあきらめに生きるのです。仏教の本質は、あきらめです。そして、日本人の多くはこの仏教思想に深く影響されています。しかし、そこには救いはありません。聖書は、人間の現状について、罪と死の問題を指摘しています。そして、罪と死と悪魔からの救いと復活の希望を与えます。仏教的思想に生きる日本人に復活の希望を伝えていかなければなりません。キリストの十字架と復活は、私たち人間のすべての罪を赦し、永遠の命与えるために神がなしてくださった歴史的事実なのです。それが、この「キリストによって全ての人が生かされる」ことの意味です。そして、キリストを信じて、復活のいのちを自分のものとしているものは、最も幸せな人生を送るものとなるのです。