2017年2月26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅱ列王記19章1~19節
19:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」
19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。【主】はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。
19:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」
19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。
19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」ということを聞いたとき、再び使者たちをヒゼキヤに送って言った。
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
19:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。
19:12 私の先祖たちはゴザン、ハラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したのか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、【主】の宮に上って行って、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」
<要約>
呪いは祝福に変えられる:
「神にすがり離れず聞き従うものには祝福があり、逆に、神から離れて聞き従わない者には呪いが来る」という考え方を、申命記史観と言います。列王記の著者も、申命記史観に立って、記述しています。イスラエル民族の歴史を振り返ると、この祝福と呪いの原理がはっきり見えます。モーセの律法の中心である十戒もその通りです。守るものは祝福され、守らない者には呪いが来るのです。世の法律、決まりを見ても、守ればよし、守らなければ罰則があります。神の掟もその通りです。十戒は努力目標ではありません。守らなければならないものです。それは、神は侮られることのできない方だからです。ですから、神を第一として、また、主日を守ることを優先しましょう。この祝福と呪いの原理は、現代も真理です。神を無視する者に対しての呪いは弁解の余地はないと、ロマ書に書いています。神がおられるということは、世界を見ればわかるでしょう。それでも無視するならば、神のことは知らなかったなどと、弁解はできませんよ、というのです。でも神はあわれみと忍耐の神です。待っておられます。思いを変えて、あなたが、神に立ち返るのを待っておられるのです。いつまででしょうか。それは、あなたがこの地上のいのちを終える時までです。呪いにあるあなたを救うためにキリストは十字架であなたを贖ってくださったのです。罪と死と呪いの代価を支払ってくださったのです。だから、聖書のメッセージは、「キリストを信じて罪と死から救われなさい」というのです。「神を無視する生き方から、神を恐れ、愛し、信頼する生き方に変更しなさい。」かくして、キリストを信じる信仰により、呪いは祝福に変えられるのです。
ヒゼキヤの祈り:
ラブ・シャケはエルサレムの人々に向けて言います。「ヒゼキヤにごまかされるな。」ヒゼキヤが、「主は必ず我々を救い出してくださる。この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。」というのを聞いてはいけない。アッシリヤ王にかなう神はいない。このままでは、自分の糞を食べ、尿を飲むようになるぞ。降参すれば、別の国へ連れて行ってそこで飢えることはないようにしてやる、というのでした。ヒゼキヤは国家の危機にあって、心を注ぎ出して祈るために、主の宮に入っていったのです。また、イザヤに使いを出して、祈りを要請しました。ヒゼキヤは何を怒ったのでしょうか。それは、アッシリヤの王が生ける神をそしったからです。極度の危機状態で、主のことばが、イザヤにありました。神は、アッシリヤ王があるうわさを聞いて自分の国に引き上げるようにさせます。そこで剣に倒れる、という預言を与えたのです。ラブ・シャケは一旦退いて、リブナでアッシリヤ王と合流します。その後、再び、アッシリヤ王は、使者をヒゼキヤに送ったのです。今度は、ヒゼキヤに対して語りました。「お前の神にごまかされるな」と言っています。ヒゼキヤ王は、その手紙を読んですぐに、主の宮に行き、主の前にその手紙を広げて、祈りました。アッシリヤの王は、諸外国の神々はみなアッシリヤ王に勝つことはできなかった、だから、イスラエルの神も同じだというのです。信仰の対象を否定されたのです。世の人々はどの宗教も信仰は皆同じだと言います。みなそれぞれが、信じているではないか。どうして、キリスト教の神だけが神なのか、とよく言われます。それに対して、皆さんは何と答えますか。確かに、人間には真理を求め、理想を求める心があります。また、人間を超えた霊的な存在を神として崇めるのです。それが宗教心と言えます。宗教心は神へのあこがれです。しかし、その神が誰だかわからないのです。そこで、人間は自分勝手に太陽や山を神と決めたり、木や石で作ったりしているのです。これらは私たち人間が信じる対象にはならないものたちです。なぜならそれらは真の神によって造られたもの、被造物だからです。私たちが信じ、祈る神は、人間が考え出した、あるいは人間の都合で作った神とは違います。私たち人間を造り、全宇宙万物をおつくりになり、治めておられる恐るべき神です。ヒゼキヤは祈ります。神が自分たちを救ってくださいと、そうすれば、あなたこそ真の神であることがすべての王国は知るでしょうと。この後、預言者イザヤは、ヒゼキヤの祈りが聞かれたことを告げます。アッシリヤの王セナケリブは高慢のゆえに、自分の子どもの謀反により剣に倒れるのです。そして、主の使いにより、アッシリヤの兵隊18万5千人が一夜のうちに殺されたのです。日本人は、信仰する心、信仰心を大切にするようです。しかし、何を信じるかが大切です。頼りにならない者を信じても何もなりません。人間が作ったものに命をかけることはできません。それらはあなたを救うことはできません。 聖書があらわす神は、生きて働かれています。祈りを聞かれる神です。人類の歴史の中心におられて歴史を導いてこられた神です。
信仰告白の祈り:
ヒゼキヤの祈りは、信仰告白の祈りです。主よ、あなただけがすべての王国の神、と言っています。王の王、主の主、世界には多くの国々がありますが、そのすべてを治めておられる神であるというのです。人類の歴史においてその通りです。そして、ただ一人の神であり、天と地の創造者であると告白します。ヒゼキヤは、自分が信じている神がどのような方であるか、ことばで言い表しています。神は信者の祈りを聞かれます。信者には信仰告白があります。聖書に表わされている神はどういうお方か、イエス様はどういうお方か、そして自分が信じている神はどういうお方かを思い描きながら祈ることです。そのことを神に告白するのです。ヒゼキヤの祈りは大きな力となり、南ユダ王国を救ったのです。今週も、私たちは毎日祈ることです。祈らなければ、何も起こらないし、神について何もわからないでしょう。家族の救いのために、友人、知人の救いのために祈らなければなりません。