福音はあなたを救う神の約束

2023年10月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ書3章15~29節
【新改訳2017】
3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。
3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

<要約>

信仰によって受け取る約束:

ルターは懺悔告白して、自らの罪を洗い流そうと努力しました。しかし、そのことで罪が赦されているという確信が得られませんでした。すべの人は生まれながらに罪人であることに気づいたのです。そして、自分で罪を取り除くことはできない、神がお与えくださる救いに目が向けられました。それは、神の約束、福音です。福音は信じるあなたを神の義で覆い隠します。あるいは、あなたに義という着物を着せます。それを義の衣と言います。それを着せられると、あなたは、どこから見ても正しい、罪がないということになります。罪が義に覆われてしまうからです。そして、あなたには、永遠のいのちが与えられ、神の子とされ、御国の世継とされ永遠の祝福に生きるのです。それが福音の働きです。罪がないとされる、すなわちあなたの罪がすべて赦されていることです。それを自分のものとするためには、思いを変えて、つまり悔い改めて、信じることが必要です。福音はイエス様の十字架と復活に現わされた罪の赦しと永遠のいのちです。あなたがどうであろうと、どんなに罪深い者であっても、悔い改めて、ただ信じて受け取る赦しといのちです。何の功績も働きも要りません。無条件で与えられる救いです。是非、あなたに差し出されたこの救いと祝福をただ信じて受け取っていただきたいと思います。

信仰によって働く神の力:

ヴィテンブルク大学の一室で、聖書に真剣に向き合ったルターは、そこで、福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験するのでした。キリストの十字架の贖いを信じる信仰によりすべての罪は赦され、義の衣を着て神の前に出ることができるのです。行いは要らない無条件で天国に招かれるのです。ただ信仰によるのです。そして、その信仰による罪の赦しを得て、人は、今度は、福音の力によって、神を愛し、人を愛する人生へと向かうのです。そして、律法の中心である十戒は幸せな人生へのガイドラインとなるのです。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人をすくう神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。そこから、救い出されて、赦しと永遠のいのちをいただくことができ、神が準備してくださる決してしぼまない希望の人生、幸いな人生へと導かれますよう祈ります。

勝利の秘訣

2023年10月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記17章8~11、24~27、46~51節
【新改訳2017】
17:8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。
17:9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」
17:10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」
17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。
17:25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」
17:27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。
17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」

17:46 今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
17:47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。
17:50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。
17:51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。

<要約>

立ちはだかる目に見えない敵:

世界には目に見える敵ばかりでなく、それ以上に恐ろしい目に見えない敵があることを知らなければなりません。目に見えない敵は、三つあります。一つは、エペソ書にある、空中の権威を持つ支配者、闇の世の支配者である悪魔、サタンです。悪魔は初めから人殺しで真理に立っていません。神に敵対しているわけですから、信者にも敵対しています。目に見えない敵の二番目は、私たち誰でもが持っている罪の性質です。私たちの内側には、神に喜ばれない罪の思いがあります。してはならないことを欲します。そして、したくないことをしてしまいます。目に見えない敵の三番目は、この世です。この世の本質は不遜です。この世は神を認めていません。目に見えない敵と題してお話ししています。目に見えない敵と言っても、それは目に見える形で表れています。すなわち、目に見える困難、苦難、誘惑の背後に目に見えない敵がいるのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と。

神の戦いと勝利の約束:

サウルとイスラエルは意気消沈してしまいましたが、ダビデは、自分には勝ち得る戦いだと考えました。私たちも知らなければなりません。試練は困難ですが、どの試練も勝ち得る戦いであるということです。どんな試練にも必ず勝つことができるのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。それは、イエス様があなたと共に戦ってくださるからです。人生には戦いがある、しかし、主イエスは世に勝っています。また、神は、「あなたはわたしのもの」と言われて、どんなわざわいもあなたに及ばない、と言われます。イエス様の十字架は一見敗北に見えます。しかし、それが勝利だったのです。悪魔は、主イエスの弟子のユダを用いて主イエスを捕えて、ローマ帝国に渡し、十字架刑につかせたのです。救い主を世から消し去るということでは悪魔は勝ったように見えます。しかし、神は逆転勝利に導いたのです。このことにより、すべての人の罪を取り除くための贖いのわざが成就しました。そして、三日目により、悪魔と、罪と死から、そして、神の怒りからどんな人でも信じる者は救われるのです。勝利の約束は、十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちです。

罪ののろいからの解放

2023年10月15日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記2:22~26、3:8~14
新改訳2017
2:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。
2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。
2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。
2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、【主】に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。
2:26 一方、少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。

3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
3:11 【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

<要約>

神はみことばを通して語られる:

聖書が完成する前の時代は、神のことばは、預言者を通して、与えられました。そして、それらが記録されて、聖書としてまとめられたのです。聖書は66の書物としてまとめられています。時代も立場も違う約30人の人々によって書かれたものです。聖霊が人々に神のことばを授けて語らしめたのです。ですから、真の著者は聖霊です。よって、聖書は神のことばと言えます。サムエルは神の箱が安置されている主の宮で寝ていました。早朝でまだ薄暗い時に、サムエルに主が直接お語りになったのです。聖書が完成している現代では、神は聖書のみことばを用いてお語りになります。聖書を読んで、思いめぐらすときに神はお語りくださいます。神との対話は、話しては聞く、聞いては話す、というものです。ですから、祈りは対話です。毎日のことですが、神は豊かに語ってくださるのです。それは小さな声かもしれませんが、祈りの中で、示してくださいます。そして、状況を開いてくださいます。私たちは信じて一歩前に進んでいくのです。共にいて声をかけてくださるイエス様と歩む幸いを覚えたいと思います。

罪ののろいと救い主キリスト:

あなたへの神の切なる思いは、あなたを呪うことではなく祝福することです。その根拠は十字架です。神はその独りの御子のいのちをも惜しまず、あなたを救いあなたを祝福しようとしておられます。律法は、神の民としてあるべき姿への要求です。しかし、一方、そのような律法の要求に到達しようとしてもできない人間の姿があります。そこで、人間は律法の要求に対峙した時に、どのような心の態度になるかを神は見ておられます。エリの息子たちのように神のことばを無視して、高慢にも自分たちの欲望を果たそうとするのか、あるいは、心打ち砕かれて、心低くして、神の前でへりくだり、悔い改めるか、それを神は見ておられるのです。神は、砕かれた心をもって主の前でへりくだっている人の罪を豊かに赦し、そのような人を喜ばれます。旧約時代の人間の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されていたのです。イエス様は私たちすべての人の罪ののろいをご自身が代わりとなって受けてくださいました。そのことにより、信じる者には、罪ののろいは過ぎ去って、神の愛と祝福のみが注がれています。クリスチャンライフは、神との生きた交わりと約束された祝福の人生を歩むことです。


福音は神の力

2023年10月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章8~17節
【新改訳2017】
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

信じる者に働く神の力:

神の力の力は、ドミナス、ダイナマイトと同じ語源で、その力は敵の要塞をも爆破する力です。最強の力と言えます。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。パウロは行いによって、神の前で正しい者とされようと一生懸命に神の命令である十戒を守ろうと頑張りました。しかし、それは、無駄であることがわかったのです。反って、自分の足りなさや罪深さを示されたのです。そしてついに、神が与えてくださる義は、神ご自身が無償でくださるものであることに気づいたのです。神の義は信仰によって受け取るものであることがわかったのです。「福音は信じる者に働く神の力」であると言いました。福音は、罪と死と滅びからの救いです。さらに、誰でも、それに代えて、永遠のいのちと決して消えない希望が与えられるのです。ですから、福音はすべての人に提供された救いで、何にも勝る神の力なのです。それを自分のものとするためには、信仰が必要です。すなわち、神の力、福音を私のものと信じることです。

福音の力を体験して生きる:

もともと 人は神に似せて作られました。それは神と交わり、神に従うことによって、神の栄光を現す幸せな生活を送るためでした。ところが、人間は神に背を向け、良心の命令に従う能力を失ってしまいました。しかし、神は人を 罪の生活、罪の奴隷から救い出すためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。罪なき神が人のすべての罪の重荷を負い十字架で身代わりの死を遂げたのです。あなたが、神が提供する福音を空の両手を広げて、ただ信じ受け入れるだけで良いのです。福音の力を体験して生きるとき、今の試練や困難、苦難は後の栄光につながることが分かります。クリスチャンライフには困難や苦難はつきものです。しかし、そのことを通して、私たちは、神に近づきます。神の祝福は苦難と言うラップに包まれてやって来ることがあります。苦難の覆いの下に祝福が待っています。そしてそれは、決してしぼまない希望、復活のいのち、永遠のいのちの祝福につながっているからです。私たちも、イエス様の福音の力を日々体験してクリスチャンライフを感謝と喜びをもって生きていくのです。