2021年2月21日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>へブル2:1~10、14、15
2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
2:3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。
2:6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
2:7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
2:9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
2:10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
<要約>
救いの信仰にとどまれば世に押し流されない:
世の流れは、私たちクリスチャンを神から、そして信仰から、引き離そうと強い勢いで臨んでいます。そして、この世の背後で働く悪しき霊のことを聖書は教えています。この世の支配者です。悪い方向に、滅びと死に向かって世の流れを作っているといえます。日本は災害列島です。なぜそれらの災害があるのでしょうか。神が、災害をお与えになるでしょうか?そうではありません。サタンの訴えが聞き入れられ、神はその災害が送られることをお許しになったのです。病気や苦難、災難と思われることは避けられないことかもしれません。試練や困難は、マイナスな事ばかりではありません。神は、試練や困難や苦難を用いてくださいます。マイナスはプラスに変えられるのです。ですから、試練や困難があっても、それに押し流されるのではなく、ますますキリストの福音にしっかりととどまろうではありませんか。
罪と死と滅びから救うキリストの福音:
聖書の死には、霊の死、肉体の死、永遠の滅びである死、があります。神を信じない人は、神のいのちにつながっていないので霊の死の状態です。肉体の死は、誰もが経験する普通の死です。永遠の滅びの死は、肉体の死後、罪に対する報酬である滅びに落とされることです。キリストの十字架の贖いを受け入れないすべての人に臨む死です。キリストは肉体の死を経験なさいました。兵士が槍でわき腹を刺して、死を確認したのでした。しかし、大いなる逆転がありました。キリストは十字架の死にまで従ったが故に、神は彼をよみがえらせて高くあげられたのです。悪魔の持つ死の力をキリストは完全に飲み干したのです。人類の罪の贖いを完遂し復活によって死と悪魔に勝利したのです。つまり、信じる者には、死はその力を失い、復活の命、永遠の命に生きるのです。