2018年08月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記2章7~25節
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
<要約>
人は神の似姿であり代理者:
神は、いのちの息を吹き込むことによって人をご自身のかたちに似せてつくられました。神のかたちに似せてつくられたということは、神のご性質や人格に似せて人をつくられたということです。それは、神は人を他の被造物と区別されたということです。神がいのちの息を吹き込まれた、それは神の霊です。ですから、人間は霊的な存在といえます。動物は霊がないので、神を求めることもありません。ですから、動物には宗教はありません。霊によって私たちは神のいのちとつながり、永遠に生きるものとされていました。しかし、人間は自分が神のようになれるという誘惑を受けて、自分を神の上に置こうとしました。そして戒めを破り、罪を犯してしまいました。そこで、人間は、堕落して、神から離れて真のいのちを失いました。神は人をおつくりになった後、人に使命をお与えになりました。それは、地を従え、すべての生き物を支配することです。つまり、管理することです。神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせたとあります。神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させたのです。すべての被造物の長として支配させたのです。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理者として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、アダムの堕落以来、人は正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。神の似姿であり代理者であるというのが、人の本来の姿です。今は、私たちはキリストにより神と和解して、親しい関係に入っています。神は再び私たちを神の代理者として立たせてくださっています。そして、神は私たちに使命と労働を与えておられます。また、今度は、神は私たちをキリストの代理者として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。
神のご支配にある自由:
神はすべての被造物を見て、そして、人がそれらを正しく管理している姿を見て、「非常に良かった」と思われました。そして、人は神のご支配のもとで祝福の中にいたということです。地上で考えうるあらゆる最善、幸せ、愛、喜び、感謝、平安を持っていました。神は、エデンの園に人を置き、そこで動物たちを管理させました。そこは理想郷という場所でした。神の清さと義が支配していました。神は人に自由意思を与えておられます。人は、それをもって神に完全に従う幸いを味わっていました。神は人にどのようにして自由を与えられたのでしょうか。それは、園の中央に善悪の知識の木を生えさせることによってです。人に自由を与えるために、善悪の知識の木を植えられたのです。神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ボーダーを与えたのです。これ以上踏み込んではいけないという境界線を与えたのです。禁止命令です。どうして、自由を与えるために禁止命令を出したのでしょうか。境界線があって初めて人は自由になれるからです。幼稚園の園児も柵で囲まれた園庭にいることによって、安全に自由に遊べるのです。柵がなければ、道路から自動車が入ってきて、自由な空間ではなくなってしまいます。規則があって、範囲が決められて、人は初めて自由を味わえるのです。範囲も決まりを与えないのは放縦であって、自由ではありません。神は、善悪の知識の木を植えることにより、人が自らの自由意思をもって神に従うことを良しとしたのです。そこに愛と信頼の関係ができるからです。人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができます。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。善悪の知識の木の実を食べることは、人が神になりあがって、善悪の判断基準を自分のものとすることです。すなわち、神の上に自分を置くことになるのです。神は人間との関係に、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。神のご支配に入るということは、神を信じて、神のルールの中で自由を得ることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、イエス様は招いています。
断絶の架け橋となった十字架:
人には、隣人が必要です。家族、友人、知人が必要です。人は自分のためだけに生きていくことにさみしさや虚しさを感じることが多いのです。人は、家族のために、隣人のために、他の人々のために生きる時にこそ喜びや意欲、生きる力が出てくるのです。ここで、最初の人アダムにとって初めての隣人であるエバが与えられました。そして、家族ができました。神の「生めよ増えよ、地を満たせ」という祝福の約束のように、この後、人類が形成されていきました。神は、人の関係を通して私たち一人ひとりに祝福を届けておられます。人は誰でも、父と母からこの世に生まれます。人にとって最初の隣人は、父母です。子どもとして父母のもとにいる間は親子、兄弟の関係の中で成長します。社会性を身につけます。そして、大人になって、独立します。独り立ちするのです。そして、また、新しい家庭を築くのです。彼らは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとあります。それは、彼らはまだ、罪を犯す前であったからです。彼らには罪がなく、心とことばと行いにおいて不一致がなかったのです。外側と内側に不一致はありません。私たちのように外側は正しく見えても内側には罪のけがれを隠しているというようなことはありません。透明性に富んでいました。悪魔の誘惑に乗って神に反逆して、堕落してしまうまでは恥ずかしさ、不面目、不名誉など罪に起因する感情はなかったのです。しかし、罪を犯した後、彼らは自分が裸であったことを恥ずかしく思うようになりました。そして、木の葉で身体を隠したとあります。そのアダムの罪の性質を受け継いだ私たちすべての人は不面目、羞恥心を持っています。外側は清く正しく見せても、内側は罪と汚れでいっぱいであるということがあります。聖書には、罪は人の内側から出ていると書いています。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書いています。神は心を見られます。人は自分の内側を偽って表面上は正しく美しく見せているのです。また、人は神の上に自分を置いて、神から遠く離れ、神を認めず、自分を優先して生きています。そこに人間の根本的な罪があります。そのような罪を神は悲しんでおられるばかりでなく、人の罪を受け入れることはできません。なぜなら、人の罪は、神の清いご性質、つまり神の正しさとは相いれないものだからです。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできないのです。神は清く正しい神ですから、人のいかなる罪も赦すことができません。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると言えます。それゆえ、神と人は断絶状態にあると言えます。そのような人間を神は惜しんで、「わたしに来なさい」と、招いておられます。そのために、神はイエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストの十字架は、神と人の間の断絶に橋を架けて、あなたのところに来て、あなたを招いておられるのです。