2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

<要約>

罪の本質:

サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。

罪がもたらすもの:

その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。

原始福音:

そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。