2018年06月 03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>マタイの福音書28章16~20節28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
<要約>
すべてにまさる一切の権威:
イエス様が最初に彼らに言われたのは、「わたしは、天においても地においても一切の権威が与えられています」です。イエス様は、最もへりくだられてこの世に来られました。貧しいはしための子となって、ベツレヘムでお生まれになりました。ガリラヤの貧しい村ナザレでお育ちになりました。神が人間となって、しかも最も貧しいものとして、来てくださったのです。神であるのにご自分を無きに等しいものとして仕える姿で来られました。そして、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、膝をかがめて、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白するように神がなされたのです。そのことが、ピリピ2章に書かれています。また、エペソ1章にも、イエス・キリストには人知をはるかに越えた、測り知れない、一切の権威が与えられているということです。そして、そのお方が教会の頭であるというのです。山頂で天地の境を背にして立っておられる栄光の主は、天地一切を牛耳っておられるお方であることを示しています。権威という言葉を広辞苑で調べてみますと、「ある分野において、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること」とありました。イエス・キリストはすべての分野の権威を持っておられます。人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握るので、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。ですから、人が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それは、独裁政治につながるからです。そして、結果的に人々の自由は奪われるのです。すべてにまさる一切の権威を持っておられるイエス様は、愛とあわれみに富んでおられるかたです。その方が私たちの主です。ですから私たちは自由を奪われることはないのです。
あなたの罪を赦すための権威:
イエス様は、ご自身の権威を捨ててむしろ人を愛し救うために父なる神の権威に服する道を選ばれました。そして、苦難の道を歩まれました。十字架の死にまで、従いとおしたのです。そこで、父なる神はキリストを復活させて、一切の権威をお与えになりました。その権威をイエス様はどのようにお用いになっているでしょうか。イエス様は、すべてにまさる権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」マタイ9章では、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言われて、中部の人の罪をゆるし立たせてくださいました。イエス様はその権威をあなたの罪をゆるすために用いられるのです。罪は「死のとげ」。罪の報酬は死ですと書いています。そして、あなたの罪を訴えて、死の判決を引き出しているのがサタン、悪魔です。悪魔は罪を責めてあなたを捉えて、あなたから自由を奪い、自分の支配下にあなたをおきます。キリストはそこからあなたやわたしを救い出してくださいました。キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。赦すための権威は、人を通して聖霊によって、行使されています。その手段がバプテスマです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とある通りです。信じてバプテスマを受けるとすべての罪が赦されて、永遠のいのちが与えられます。もう一つの、キリストの権威の行使はバプテスマによって弟子を生むことです。その弟子は弟子を生んで、教会を建て挙げます。イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、神の子とされる特権を与えられる、とヨハネ1章にある通りです。バプテスマを受け、神の交わりに迎えられ、神の子どもとされる、これは特権でなくなんでしょうか。信仰のみで、その特権が与えられるのです。これほどのプレゼントはこの世界どこを探しもありません。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。それがイエス様の宣教命令です。それは、あらゆる国民がキリストの弟子となって、罪の赦しとともに神のいのちにつながることでもあります。そして、教会は、バプテスマによって神のいのちにつながり、イエス・キリストの教えを守っていく者たちの集まりです。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。
解放と自由を与える権威:
罪の赦しと救いの権威を持っておられる方は、イエス様以外にはありません。教会に来ると「罪、罪」と言われて、いやだという人がいます。罪がわからないと救いもわかりません。人は心にあることが出てくるのです。外に現れる悪い行いや犯罪と言われることは、心に源があります。マルコ7章には、人を汚す者は、内側から、すなわち人の心から出てくる、と書いています。それは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ、だと言っています。心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいません。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。すべての人は、死んだ後神の前に立たされます。そして、その罪により燃えるゲヘナに投げ込まれると書いています。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。なぜ、イエス・キリストでなければ人の罪の身代わりになれないのでしょうか。それは、罪のないもの以外にその人の罪の身代わりになることはできないからです。イエス・キリストは罪のない神の御子です。聖霊によって処女マリヤから生まれました。男女間で生まれる人間は、すべて罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。人の罪の身代わりとなることができるのは罪のない人でなければなりません、と言いました。それは、キリストが処女マリヤから生まれることにより、罪のない神が私たちと同じ体と心を持った人間になられました。この方は100%神で同時に100%人間です。イエス・キリストとその十字架の贖いを信じる者はすべて罪が赦されるのです。イエス・キリストの宣教命令とは、キリストの権威である罪の赦しと救いをあなたが隣人に伝えることです。