2018年03月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ルカの福音書23章33~53節
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
23:52 この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
23:53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
<要約>
十字架はあなたへの罪の赦し:
イエス様は、十字架上で「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と言って、人々をおゆるしになりました。このことばは誰に投げかけられているのでしょうか。実際にくぎでイエス様の体を木に打ち付けた兵士に、でしょうか。からかって悪口を言っていた周囲にいた人々に、でしょうか。裁判で十字架刑にした祭司長など宗教指導者たちに、でしょうか。彼らは直接かかわった人々かもしれませんが、彼らだけに投げかけられた言葉ではありません。聖書は、誰に向けて書かれているのでしょうか。そうです。「あなた方に」あるいは「あなたに」です。ですから、聖書を、神があなたにあてた手紙として受け取るなら、無実の神の子キリストを十字架につけたのは「あなた」なのです。同時に、イエス様は「あなたの罪をおゆるしくださいと、父に祈ったのです。今も、キリストの十字架で祈られた祈りは有効です。もし、あなたが、キリストの十字架があなたに関係あることと認めてキリストがあなたのために十字架で刑罰を受けたと信じるならあなたは救われます。キリストの十字架は無条件の赦しです。キリストの十字架上のこの祈りは今も生きています。十字架は全人類の罪を罪のない神のひとり子が身代わりとなってお引き受けになり、極刑のうちに裁きを受けられたことです。キリストの祈りを父がお聞きにならないことはありません。ですから、その時から、すべての人の罪は赦されているのです。もちろんここにおられる皆さんの罪も赦されています。このように十字架の罪の赦しは全人類に及んでいます。すべての人の罪は赦されていると言いましたが、その赦しを自分に物とするかどうかは個人個人にかかっています。あなたは、神が無条件で提供してくださる救いを信じていただくだけでよいのです。
十字架への二通りの反応:
著者ルカは、イエス様の赦しの祈りを聞いた人々の反応を順番に記述しています。前半はネガティブな反応をした人々、後半はポジティブな反応をした人々です。最初の方の人々は、イエス様の罪の赦しの言葉が、耳に入らなかったか、全く関係ないと思ったか、非常にネガティブな応答でした。指導者たちはあざ笑っていった、とあります。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と。兵士たちもあざけりました。また、十字架に一緒につけられた犯罪人の一人も、イエス様をののしって、「お前がメシアなら俺たちも自分も救ってみろ」と言いました。キリストの無条件で驚くべき福音に対する応答は、残念ながらこれらの人々のように自分には関係ない、意味のないものと受け止められました。神の赦しは先行する罪の赦しです。それを受け止めるか、受け止めないか、自分のものとするか、しないかはすべてその人にかかっています。次に、ポジティブに応答した人々のことが書かれています。もう一人の犯罪人は、十字架上でのイエス様のお姿を見て、そして、お言葉を聞いて自分が赦されなければならない罪人であることがわかったのです。彼は神を恐れて、心から悔い改めました。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様に向かって、信仰告白したのです。御国の王としておいでになるときは「わたしを思い出してください」。へりくだった謙遜な言葉ではないでしょうか。自分のこれまで行ってきた悪事を思い出して、自分を天国に迎えてくださいとはとてもいえない、ただ、「思い出していただくだけでうれしいです」ということです。イエス様は彼の信仰をご覧になりました。そして、イエス様は彼に言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は彼の信仰を義としてくださいました。彼の過去は、取り返しのつかないものでした。極悪人として取り扱われています。それは当然の報いということです。しかし、イエス様は彼の過去のことは何も触れずに、その罪を裁くことはなさらずに、ただ、あなたは今日、パラダイスにいます、と宣言しました。これがキリストの驚くべき福音です。福音の神髄が描かれています。無条件の罪の赦しです。誤解していただきたくないのは、「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。神は、人の世界を律法、法律で統治しておられます。そこでは、犯罪者は処罰されます。世の中には、警察があり、為政者がいます。そのことにより秩序立てられています。ですから、蒔いた種は刈り取らなければならないのです。ダビデも豊かに罪赦された人ですが、王権を利用してバテシェバ事件を起こしました。罪の種を蒔いてしまったのです。後になって、自分の子どもから命を狙われる羽目になったのです。それは罪の刈り取りです。神は、あなたが神に対して犯した、天に対して犯した積もり積もった罪を帳消しにしてくださったのです。しかし、その罪の赦しを自分のものとするには、十字架の赦しを信じて受け取らなければなりません。この強盗は、キリストを信じて仰いで罪赦されて天のみ国へと招かれました。行いによるのではありません。ですから死の間際に救いを受け取ったのです。次に、イエス様の十字架とその赦しの言葉を聞いてポジティブに反応したのは百人隊長です。すべてを見ていた百人隊長は、神を褒め称えて、「本当に、この人は正しい方であった」と言いました。もう一人は、アリマタヤのヨセフという議員です。彼は、正しい人で、他の議員たちの計画や行動には同意しなかったのです。このように、イエス様の十字架とイエス様の赦しの祈りを聞いた人々の応答には、二通りありました。それは、それを自分のことと思わないで、耳を背けた人々と、罪の赦しの祈りを聞いて、自らを省みて、悔い改めてイエス・キリストの罪の赦しと救いを自分のものとした人々です。このように、人間は二通りに分かれるともいえます。あなたはどちらでしょうか?
天国へ至る道はキリストの十字架のみ:
正午から全地が暗くなり、午後3時ころまで続いたとあります。これは、全人類の罪に対する神の怒りの裁きが十字架のうえにくだったことを表しています。また、その暗闇は、私は父の神の深い悲しみであったと思います。太陽は光を失い、全地が暗くなりました。そして、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それは何を意味しているのでしょうか。神殿の中心には至聖所という小部屋があります。そこは、垂れ幕によって聖所から隔てられています。神の臨在の中心で天そのものです。至聖所は神が臨在しておられる天のみ国のひな型であると言えます。至聖所には大祭司が年一回、自分自身と民の罪を贖うために動物の血を携えて中に入ることが赦されていました。真っ二つに裂けた垂れ幕はイエス様の裂かれた身体を表し、そのイエス様の十字架により新しい道が開かれたのです。これにより、今まで、大祭司が年一回動物の血を携えて至聖所に入り民の罪の贖いをしていたことが終わりを告げたのです。それは、キリストが神の子羊となって、全人類の贖いの代価としてご自身の血を携えてはいられたからです。神殿は影であって、本体は復活のキリストであります。傷のない動物の犠牲による罪の赦しは、罪のないキリストの十字架によるただ一回の犠牲によって完成しました。真っ二つに裂けた神殿の幕は十字架で裂けたキリストの体を示しています。このように、旧約は来たるべき救い主キリストを語り、時至って、今来られた救い主キリストを告げる新約の時代に入ったのです。聖書は矛盾にない神の人類救済の書です。十字架のことばは、今日もあなたに迫っています。私たちが天国へ至る道はキリストの十字架以外にありません。今日、イエス様は、父にあなたの罪の赦しを懇願し執り成しておられます。私たちはイエス様により大胆に神のみ座に近づくことができます。天国の門は信じる者に開かれています。是非、この救いをご自分のものとしていただきたいと思います。また、家族知人に福音を伝えましょう。