いのちのパン

2018年03月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書6:22~35
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

<要約>

人は神に何を求めるか?:

彼らは、湖を渡り、カぺナウムにイエス様を探してやってきました。ついに彼らはイエス様を見つけました。「先生、いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。それに対して、イエス様はその質問にはお答えにならないで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。これはどういう意味でしょうか。イエス様の行ったしるしは、イエス様が神の子であること、父が遣わした神であることを証明するものでした。しかし、人々は、イエス様が神の救い主であることより、自分たちの生活を立て直してくださる、政治的な救い主と考えたようです。群衆は、イエス様を自分たちのお腹を満たしてくれる、あるいは生活を立て直してくれる人物、ローマの圧政から民を解放する世的な救い主と考えていました。ですから、彼らは、イエス様が行ったしるしを見て、イエス様が罪と死から救ってくださる真の神であり救い主であるというところまでは理解できませんでした。彼らにはイエス様は目先の救い主でありました。私たちはイエス様に何を求めているのでしょうか。日々の必要を求めて祈ることは大切です。主の祈りにもあります。しかし、イエス様は私たちの根元的な救い主です。罪と死と悪魔から救ってくださいます。このままでは、自らの罪によって裁かれ滅びに落とされるところから救出してくださったのです。そして、永遠のいのちを与えてくださる主であることを覚えましょう。

永遠のいのちに至る食物とは?:

食べればなくなる食物のために働く、というのは、人間の日常の営みです。それは大切なことですが、ただ食べるためにだけに働くのはむなしいことです。動物は生きるために自己存続のために食を得て、子孫を増やし生きています。それだけで彼らは満足しています。しかし、人間は違います。ギリシャ語で人間を、アンスローポスと言います。これは上を向いて歩くものという意味です。すなわち、向上心をもって、よりよく生きたい、そのために、さらに優れた何かを求めて生きています。イエス様は、なくなる食物のためでなく、いつまでも消えない永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと言いました。そしてそれを、人の子であるイエス様があなたに与えると言われます。父なる神がキリストにゆだねられた朽ちない食物です。それは、キリストのいのちと言ってもよいでしょう。彼らは「神のわざを行うために何をなすべきでしょうか」とイエス様に問います。この世の中のほとんど物は、何かをしなければ得られないものばかりでしょう。それに対して、イエス様は神のわざは律法の行為ではなく、神が遣わされたイエス・キリストを信じることだというのです。イエス様は言いました。「このわたしこそいのちのパンです」と。イエス様を信じて、イエス様をいただくものは、飢えることがなく、渇かない、なぜなら、尽きない永遠のいのちが与えられているからです。永遠のいのちに至る食物とは、いのちのパンであるイエス様です。平たく言えば、イエス様を信じ続けることです。また、もう一つは、目に見える形では、いのちのパンであるイエス様をいただくことです。それは聖餐の恵みです。イエス様のからだと血をパンとぶどう酒という形でいただくのです。

永遠のいのちに生きるとは?:

永遠のいのちは、イエス様を信じる者に今与えられています。今、イエス様を信じている者は永遠のいのちを持っています。また、地上のいのちが終わった後に与えられるものでもあります。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」永遠のいのちは今、与えられているばかりでなく、終わりの日には復活によって、完全無欠な状態とされるということです。クリスチャンは、イエス様を信じた時から永遠のいのちに生きています。今信じた人は今から永遠のいのちが始まっています。後期高齢者も前期高齢者もありません。高齢者も老い先短いと言って苦にすることはありません。喜んでできることを楽しみ、今を生きることです。それがクリスチャンライフです。また、年若い人もまだ先が長いと思って、今の時を無駄に過ごしてはいけません。今が人生です。永遠の中の今です。永遠の中では地上のいのちは、ほんの一瞬です。年齢は問題になりません。今が最善、今がベストで生きることです。今を生きるのです。それがクリスチャンライフです。三木清という方は、人生論ノートの孤独の章の冒頭に「この無限の空間の永遠の沈黙は、わたしを戦慄させる」と書いています。宇宙の時間と空間を考えると、永遠、無限という響きがあります。永遠、無限を考えると、自分の存在はあまりにも小さく、無きに等しく、深い孤独に引きずりこまれます。神を失っている人間は永遠のそして無限の孤独にいるのです。だからサルトルは「人間の存在は本質的に無意味である」と言いました。人間はもともと神に造られ、神のいのちとつながって生きる存在でした。神とともに神のいのちにつながって生きるときに生きる目的や使命があるのです。しかし、罪により神から遠く離れてしまいました。その様な人間は、命綱が切れて暗黒の宇宙に漂う飛行士のように全くの孤独な存在です。それは、人の罪がもたらした断絶と言えます。イエス様は神と人の間に立って人の罪を取り除き、和解となってくださったのです。それが、十字架です。イエス様は、信じるすべての者をご自身の所有として、誰一人失うことなくやがて復活させます。お一人お一人にそのことを約束されています。ですから、孤独は全くありません。主がいつも一緒です。やがて、復活を迎えてあなたのいのちは完全無欠となります。救いが完成します。永遠のいのちに生きるとは、今を生きることです。今を喜び、感謝して、捧げて生きることです。決して揺るぐことのない平安と喜びが皆さん一人一人にありますように祈ります。